高3に進級する直前の日曜日、珍しく野球部の練習が休みになった土井垣は両親に付き合わされてデパートへ来ていた。いつも野球の事で頭が一杯で家族の団欒など頭にない彼の姿勢を寂しがった両親が『せめて今日くらいは』と引っ張り出してきたのだ。両親の気持ちも分からないでもないし、買い物もそれなりに楽しいとは思うものの何となく落ち着かない。やはり家で素振りでもしていた方が良かったかと思いつつ楽しそうに服などを勧める両親に適当に合わせていると、どこからか子供の泣き声が聞こえて来た。見回すと迷子だろうか、少し離れた所で男の子が泣いていた。放って置くのも何となく後味が悪いと思った彼は両親に『ちょっと待っていて下さい』と言い残し、男の子の方へ歩いて行く。身体が大きいため人波をすり抜けるのに苦労していると、彼より一足先に男の子の傍へ中学生位の少女が近付き、周囲を見渡してから男の子へ何やら話し掛け始めた。やっとの事で土井垣が二人の傍へ行くと、気付いた少女が一旦彼を見上げ、男の子に視線を戻し優しく話し掛ける。
「ほらボク、お兄ちゃんが来てくれたよ。もう大丈夫…」
少女の言葉に、男の子は泣きながら反論する。
「ちがうもん!ボクおにいちゃんなんていないもん!」
「そうなの?それじゃあ…」
少女が困惑した様にもう一度土井垣を見詰める。その眼差しに彼はふと不思議な感覚を覚えたが、その感覚よりも今の状況を何とかしないといけないという気持ちが先行し、苦笑いしながら少女に話し掛ける。
「いや、俺もその子に気付いて声をかけようとして来たんだが君に先を越されてしまって…」
土井垣の言葉に少女も納得した様に頷いたが、すぐに困った表情を見せる。
「そうなんですか。…でもそうするとどうしよう、あたしも勢いで話し掛けちゃったけど、このデパートに来るの初めてなんですよね…迷子センターどこなんだろ」
心底困った表情を見せる少女が微笑ましく思えて土井垣は思わず笑みが漏れる。それを見た少女は少し怒った様に口を開いた。
「何がおかしいんですか」
「いや、初めて来た場所で迷子に声を掛けられるなんて君は勇気があるなと思ってな」
「すいませんね、後先考えなくって…ああ、ごめんねボク。すぐお母さんに会えるからね」
少女は少しの間怒った様子を見せていたが、すぐに男の子に意識を戻し泣き止ませる様にゆっくり抱き締めて背中を叩く。先程まで困り果てていた、しかも中学生くらいにしか見えない少女の歳に見合わない大人びた行動に土井垣は笑うのを止めて感心すると、一つの提案をする。
「そうだ、とりあえず店員さんに事情を話して迷子センターまで連れて行ってもらえばいいんじゃないか」
土井垣の言葉に少女はぱっと顔を輝かせる。
「そうですよね、すぐ言いに行きます。ボク、お母さんの所へ連れて行ってあげるよ」
少女は男の子の手を引いて店員の所へ行こうとしたが、男の子は泣いたまま動こうとしない。てこでも動きそうにない男の子に少女がまた困り果てる。その様子を見ていた土井垣はふっと思い立ち、男の子を抱き上げると肩車をした。いきなり視界が高くなった男の子は一瞬びっくりして泣きやむと、やがて楽しそうに笑い始める。驚く少女に土井垣はウィンクをして笑いかけると口を開いた。
「乗りかかった船だ。俺も付き合うよ」
土井垣の言葉に、絶句していた少女はにっこりと笑った。
「ありがとうございます。お願いしていいですか?」
「ああ、じゃあ行こうか」
男の子を肩車した土井垣と少女は近くにいた店員に事情を話して男の子を迷子センターへ連れて行ってもらおうとしたが、店員に引き渡そうとすると男の子が泣き出してしまうので、二人とも男の子の相手をしながら迷子センターまで付き合う事にした。迷子センターの店員が男の子に名前などを聞いてアナウンスを掛けると、しばらくして慌てた様子の両親らしき若い男女が迷子センターにやって来て、男の子を抱き締める。
「まーくん!何ではぐれちゃったの?パパもママも心配したんだからね!」
「ママ、ごめんなさい~」
母親に叱られて男の子はまた泣き出したが、それでも先刻の一人でいる事に対する不安な泣き方ではなく、両親に会えた安心感で嬉しいんだという様子が伝わって来た。その様子を土井垣と少女が嬉しそうに見詰めていると、母親らしき女性が男の子と一緒に二人に近付いて来てお礼の言葉を述べた。
「うちの子がご迷惑を掛けたそうで…本当にすいませんでした」
「いえ、迷惑だなんて…ボク、まーくんて言うんだ。お母さんに会えてよかったね」
「ちゃんと会えて良かったです。ボク、もうはぐれちゃ駄目だぞ」
「うん!ありがと~、ばいば~い!おにいちゃん、おねえちゃん」
満面の笑顔で手を振って去って行く男の子に微笑みながら手を振り返すと、少女は土井垣に向き直り頭を下げる。
「ごめんなさい、最後までお付き合いさせちゃって」
「いや、さっきも言ったが乗りかかった船だったから…」
「でもやっぱりごめんなさい…でも助かりました。あたし一人だったら今頃途方に暮れてたと思いますから…本当にありがとうございます」
そう言って笑顔を見せる少女に土井垣は先程感じた不思議な感覚をまた覚える。その感覚が何かは分からないが、彼女ともう少し話していたいという気持ちが何故か出てきて、それとなく話が続く様に言葉を重ねた。
「いや…でもそういえば君、男の子に声を掛ける前に周りを見ていたが、あれはどうしてだ?」
「あ、あれは迷子かどうか確認するためです。時々叱るためにわざと子供から離れる親もいますから…っと、すいません。ここまで付き合わせておいて何ですけど、あたし一緒に来た人置いてきちゃって…」
そこまで少女が口を開いた時、二人の背後から「はづき!」という咎める様な厳しい声が聞こえて来た。少女はその声に振り返ると、背後に立っていた女性に手を合わせて首をすくめる。
「お姉ちゃん、ごめ~ん!」
「もう!あんたトイレに行ったっきり戻ってこないからアナウンスかけてもらおうとしたのよ!ここに来て正解だわ」
怒る女性にひたすら謝る少女を見ていた土井垣は、思わず二人に割って入る。
「彼女、迷子の男の子に今までずっと付いていたんですよ。怒らないでやって下さい」
「はづき~またあんたの悪い癖が出たわね。お母さんと違ってあんたはまだお子様なんだから、余計なおせっかいはしないの…って、この男の子誰」
突然割って入った土井垣を見た女性は不思議そうに少女に問い掛ける。
「誰って…あたしと一緒に迷子の男の子に付いててくれた人」
あっさりした口調で答える少女に女性はどうしようもないという風情で額を抑えて大きな溜息をついた。
「ほんっと、あんたって子は…警戒心なさ過ぎ!ほら、とにかく行くわよ!メインの買い物終わってないんだから」
そう言うと女性は土井垣を放置し少女の腕を引っ張って歩き出す。一生懸命口の形で「ありがとう」と伝えながら女性に連れ去られて行く少女を呆然と見送りながらも、土井垣の心の中には何か温かいものが残っていた。
「…なあ、葉月」
「何?将兄さん」
「お前、中学や高校の頃に横浜に来た事はないか?」
土井垣の言葉に葉月は少し考え込むと口を開く。
「えっと…そういえば高校入るちょっと前、通学用のバッグ買いに、お姉ちゃんが連れて行ってくれたっけ…」
「もしかして、その時迷子になったりしてないか?」
「ん~…ごめんなさい、よく覚えてないです。その辺りの記憶何でだかあやふやなの」
「そうか…」
申し訳なさそうに答える葉月に土井垣は少し残念そうな口調で呟く。その口調に気付いた葉月は不思議そうに問い掛ける。
「どうしたんですか?」
「いや…別に」
出会った時から心の片隅に棲み付いた少女。それが彼の初恋だったと気付いたのはずっと後の事だった。そしてその日から長い月日が過ぎて行き、人並みに女性とも付き合ったりしていく内にその少女の面影は薄れていった。しかし面影を完全に失う前に彼は再びその少女に出会ったのだ。外見は成長し変わっていたが、時折見せる表情にあの時の面影が残る。何より内面の一番奥の部分は変わっていない彼女に彼は再び恋をした。いや、この恋はずっと奥にしまい込まれていただけだったのかもしれない。しかし、今こうして隣にいる彼女が恋をしたのは今の自分。過去に一度出会った自分の事は覚えていないのが寂しかった。
「あ、そういえば…」
「何だ」
「そのデパートに行った時、誰か隣に男の人がいた様な気もするけど…思い違いよね。一緒に行ったのお姉ちゃんだけだったし。…でも何だかあったかい気持ちになってきた。思い出せないのが何だか悔しいな」
「そうか」
彼女の言葉に土井垣の表情が和らぐ。自分だという事を覚えていなくてもいい、彼女があやふやな記憶の片隅に自分を置いてくれていただけで今は十分だと思った。いつか思い出してくれれば最高ではあるが、そこまで今は望まない様にしよう。この暖かい気持ちがずっと続く様に――
「ほらボク、お兄ちゃんが来てくれたよ。もう大丈夫…」
少女の言葉に、男の子は泣きながら反論する。
「ちがうもん!ボクおにいちゃんなんていないもん!」
「そうなの?それじゃあ…」
少女が困惑した様にもう一度土井垣を見詰める。その眼差しに彼はふと不思議な感覚を覚えたが、その感覚よりも今の状況を何とかしないといけないという気持ちが先行し、苦笑いしながら少女に話し掛ける。
「いや、俺もその子に気付いて声をかけようとして来たんだが君に先を越されてしまって…」
土井垣の言葉に少女も納得した様に頷いたが、すぐに困った表情を見せる。
「そうなんですか。…でもそうするとどうしよう、あたしも勢いで話し掛けちゃったけど、このデパートに来るの初めてなんですよね…迷子センターどこなんだろ」
心底困った表情を見せる少女が微笑ましく思えて土井垣は思わず笑みが漏れる。それを見た少女は少し怒った様に口を開いた。
「何がおかしいんですか」
「いや、初めて来た場所で迷子に声を掛けられるなんて君は勇気があるなと思ってな」
「すいませんね、後先考えなくって…ああ、ごめんねボク。すぐお母さんに会えるからね」
少女は少しの間怒った様子を見せていたが、すぐに男の子に意識を戻し泣き止ませる様にゆっくり抱き締めて背中を叩く。先程まで困り果てていた、しかも中学生くらいにしか見えない少女の歳に見合わない大人びた行動に土井垣は笑うのを止めて感心すると、一つの提案をする。
「そうだ、とりあえず店員さんに事情を話して迷子センターまで連れて行ってもらえばいいんじゃないか」
土井垣の言葉に少女はぱっと顔を輝かせる。
「そうですよね、すぐ言いに行きます。ボク、お母さんの所へ連れて行ってあげるよ」
少女は男の子の手を引いて店員の所へ行こうとしたが、男の子は泣いたまま動こうとしない。てこでも動きそうにない男の子に少女がまた困り果てる。その様子を見ていた土井垣はふっと思い立ち、男の子を抱き上げると肩車をした。いきなり視界が高くなった男の子は一瞬びっくりして泣きやむと、やがて楽しそうに笑い始める。驚く少女に土井垣はウィンクをして笑いかけると口を開いた。
「乗りかかった船だ。俺も付き合うよ」
土井垣の言葉に、絶句していた少女はにっこりと笑った。
「ありがとうございます。お願いしていいですか?」
「ああ、じゃあ行こうか」
男の子を肩車した土井垣と少女は近くにいた店員に事情を話して男の子を迷子センターへ連れて行ってもらおうとしたが、店員に引き渡そうとすると男の子が泣き出してしまうので、二人とも男の子の相手をしながら迷子センターまで付き合う事にした。迷子センターの店員が男の子に名前などを聞いてアナウンスを掛けると、しばらくして慌てた様子の両親らしき若い男女が迷子センターにやって来て、男の子を抱き締める。
「まーくん!何ではぐれちゃったの?パパもママも心配したんだからね!」
「ママ、ごめんなさい~」
母親に叱られて男の子はまた泣き出したが、それでも先刻の一人でいる事に対する不安な泣き方ではなく、両親に会えた安心感で嬉しいんだという様子が伝わって来た。その様子を土井垣と少女が嬉しそうに見詰めていると、母親らしき女性が男の子と一緒に二人に近付いて来てお礼の言葉を述べた。
「うちの子がご迷惑を掛けたそうで…本当にすいませんでした」
「いえ、迷惑だなんて…ボク、まーくんて言うんだ。お母さんに会えてよかったね」
「ちゃんと会えて良かったです。ボク、もうはぐれちゃ駄目だぞ」
「うん!ありがと~、ばいば~い!おにいちゃん、おねえちゃん」
満面の笑顔で手を振って去って行く男の子に微笑みながら手を振り返すと、少女は土井垣に向き直り頭を下げる。
「ごめんなさい、最後までお付き合いさせちゃって」
「いや、さっきも言ったが乗りかかった船だったから…」
「でもやっぱりごめんなさい…でも助かりました。あたし一人だったら今頃途方に暮れてたと思いますから…本当にありがとうございます」
そう言って笑顔を見せる少女に土井垣は先程感じた不思議な感覚をまた覚える。その感覚が何かは分からないが、彼女ともう少し話していたいという気持ちが何故か出てきて、それとなく話が続く様に言葉を重ねた。
「いや…でもそういえば君、男の子に声を掛ける前に周りを見ていたが、あれはどうしてだ?」
「あ、あれは迷子かどうか確認するためです。時々叱るためにわざと子供から離れる親もいますから…っと、すいません。ここまで付き合わせておいて何ですけど、あたし一緒に来た人置いてきちゃって…」
そこまで少女が口を開いた時、二人の背後から「はづき!」という咎める様な厳しい声が聞こえて来た。少女はその声に振り返ると、背後に立っていた女性に手を合わせて首をすくめる。
「お姉ちゃん、ごめ~ん!」
「もう!あんたトイレに行ったっきり戻ってこないからアナウンスかけてもらおうとしたのよ!ここに来て正解だわ」
怒る女性にひたすら謝る少女を見ていた土井垣は、思わず二人に割って入る。
「彼女、迷子の男の子に今までずっと付いていたんですよ。怒らないでやって下さい」
「はづき~またあんたの悪い癖が出たわね。お母さんと違ってあんたはまだお子様なんだから、余計なおせっかいはしないの…って、この男の子誰」
突然割って入った土井垣を見た女性は不思議そうに少女に問い掛ける。
「誰って…あたしと一緒に迷子の男の子に付いててくれた人」
あっさりした口調で答える少女に女性はどうしようもないという風情で額を抑えて大きな溜息をついた。
「ほんっと、あんたって子は…警戒心なさ過ぎ!ほら、とにかく行くわよ!メインの買い物終わってないんだから」
そう言うと女性は土井垣を放置し少女の腕を引っ張って歩き出す。一生懸命口の形で「ありがとう」と伝えながら女性に連れ去られて行く少女を呆然と見送りながらも、土井垣の心の中には何か温かいものが残っていた。
「…なあ、葉月」
「何?将兄さん」
「お前、中学や高校の頃に横浜に来た事はないか?」
土井垣の言葉に葉月は少し考え込むと口を開く。
「えっと…そういえば高校入るちょっと前、通学用のバッグ買いに、お姉ちゃんが連れて行ってくれたっけ…」
「もしかして、その時迷子になったりしてないか?」
「ん~…ごめんなさい、よく覚えてないです。その辺りの記憶何でだかあやふやなの」
「そうか…」
申し訳なさそうに答える葉月に土井垣は少し残念そうな口調で呟く。その口調に気付いた葉月は不思議そうに問い掛ける。
「どうしたんですか?」
「いや…別に」
出会った時から心の片隅に棲み付いた少女。それが彼の初恋だったと気付いたのはずっと後の事だった。そしてその日から長い月日が過ぎて行き、人並みに女性とも付き合ったりしていく内にその少女の面影は薄れていった。しかし面影を完全に失う前に彼は再びその少女に出会ったのだ。外見は成長し変わっていたが、時折見せる表情にあの時の面影が残る。何より内面の一番奥の部分は変わっていない彼女に彼は再び恋をした。いや、この恋はずっと奥にしまい込まれていただけだったのかもしれない。しかし、今こうして隣にいる彼女が恋をしたのは今の自分。過去に一度出会った自分の事は覚えていないのが寂しかった。
「あ、そういえば…」
「何だ」
「そのデパートに行った時、誰か隣に男の人がいた様な気もするけど…思い違いよね。一緒に行ったのお姉ちゃんだけだったし。…でも何だかあったかい気持ちになってきた。思い出せないのが何だか悔しいな」
「そうか」
彼女の言葉に土井垣の表情が和らぐ。自分だという事を覚えていなくてもいい、彼女があやふやな記憶の片隅に自分を置いてくれていただけで今は十分だと思った。いつか思い出してくれれば最高ではあるが、そこまで今は望まない様にしよう。この暖かい気持ちがずっと続く様に――