都内のとあるマンションの一室。夕食が終わった後土井垣はビデオをセットしてソファにゆったりと座って見始めた。と、食後のお茶を持ってきた彼の恋人がお茶を勧めつつ声を掛ける。
「あれ?将兄さん、ビデオ見るんですね。相変わらず他チームの戦力分析ですか?」
 彼女の問いに、土井垣は悪戯っぽく笑って答える。
「いや、この間の演奏会のビデオができたからって高槻さんが送ってきてくれたんだ。今回俺は観に行けなかったから、できたら送って下さいって頼んでおいたんでな」
「えええっ!?観ないで下さいよ、恥ずかしいです!」
「駄目だ。しっかり鑑賞させてもらうぞ」
 土井垣の答えに、彼女は慌ててリモコンを取り上げようとする。彼はそれをさらりとかわしてリモコンをしっかり持ってしまった。彼女は諦めた様に溜息をつくと彼の隣にちょこんと座り、一緒に見始める。場所はどこか小規模の地区ホールの様で、歌っているメンバーの技術は今一歩かもしれないが、歌に込められた思いの表現やメンバーの結束力、何より歌に対する情熱はプロにも負けず劣らず、という雰囲気がビデオからも伝わってくる。そんな中、途中に彼女のソロパートがあったのだが、彼女に関しては技術も表現力もプロに負けない程のものを持っていた。何より歌っている時の表情が心底楽しそうで、彼は鑑賞していて何故か幸せな気分になってくる。そうした気持ちで彼女の方を見ると、彼女は恥ずかしそうに顔を赤くして俯いている。そうしてビデオを見終わると、彼は彼女に声を掛けた。
「皆もすごいが…お前はさすがだな。趣味になったとはいえ全然衰えていないんじゃないか?」
 土井垣の言葉に、彼女は少し考えた後ゆっくりと答える。
「そうですね…レッスン時間は確実に減ってますけど…でも」
「でも?」
「ここに入って皆と歌うのはすごく楽しいですから、何らかの上乗せがあるのかもしれませんね」
「…そうか」
「はい」
 彼女の言葉に土井垣は複雑な気持ちになる。当時は野球一筋で知らなかったのだが、彼女は中学、高校と声楽で天才的な実力を持った少女と、殿馬に負けず劣らずかなり有名だったらしい。ソプラノからアルトまで歌いこなす、歌えない歌は無いと言われた程の広い音域、少女らしい細やかな感性と豊かな表現力――『奇跡の歌声』とまで賞賛され、外国留学も夢ではないとまで言われた彼女だったが、高校二年で突然歌うことを止め、今では一部である種の伝説にまでなっている様だ。歌を止めた理由は、当時そのまま歌っていたら身体がもたないと医者に止められたからだったと彼女本人から聞いたが、同時にそう告げられてほっとしていたとも聞いて、彼はずっとその言葉の真意を測りかねていた。彼は不意にその真意を聞きたくなり、彼女に問いかける。
「…なあ」
「はい?」
「お前、前に『高校の時歌うことを止められてほっとした』と言っていたな」
「あ…ええ…」
「今はこんなに歌う事が楽しそうなのに…その時はどうしてそう思ったんだ?」
 土井垣の問いに彼女は少し迷う素振りを見せていたが、やがて寂しそうな表情を見せて答える。
「…あの頃のあたしは、とにかく歌う事で周りの期待に応えなくちゃって必死だったんです。期待に応えられなくなっちゃったらおしまいだって。…だから、一杯無理もしました。そうしなくちゃいけないって、そう思ってましたから…」
「葉月…」
「…だから、歌うことを止められてほっとしたんです。もう誰の期待も背負わなくていいんだって思えたから。…周りは色々言っていたみたいですけど、家族は歌うあたしも歌わないあたしも変わらず愛してくれたのが救いに思えましたし、歌の道を進むっていう夢を諦めて新しい道を見つける事も思った程辛くなかった。…今から思うと、その頃のあたしにはそれ位歌う事が負担になってたんですね、きっと」
「…」
 そう言って寂しそうに虚空を見詰める彼女を土井垣は痛々しげに見詰める。彼女の経歴を知って多少当時の新聞を調べたり、彼女の姉からコンクールの入賞時の写真等を見せてもらったりしたが、確かに当時の彼女は表情だけは笑顔を作っていても、どこか無理がある様に彼は感じていた。彼女は周りを楽しませるために生命を削って歌い続けたカナリヤだったのだろうか――彼はその心のままに彼女を抱き寄せた。
「…辛かったんだな」
「…」
 土井垣の言葉に、彼女は彼の胸の中で涙を零す。そうして彼女はしばらく涙を零していたが、やがて涙を拭うと身体を離して口を開いた。
「…でもね、沼さんと上野さんに皆の所へ連れて行かれて、皆の勢いに圧されてまた歌い始めて、あたしは変われたんです。あそこの皆は本当に歌う事が大好きで、それぞれはマイペースだし、冗談でレッスンが時々進まなくなったりするけど、歌うって一点はものすごく一生懸命。それに、昔のあたしの事が分かっても全然変わらない態度で接してくれた。…その中に入って、やっとあたしは自分を取り戻せたんです」
「どういう事だ?」
「あたしは歌う事が本当に大好きなんだって…思い出せたんです」
「…そうなのか」
「うん」
 そう言って微笑む彼女に土井垣は今度はある種の暖かさを感じた。彼女の言葉には嘘がない。彼女の心を暖め、彼女が苦しんで欠けさせてしまったものをもう一度取り戻させてくれた彼ら。その彼らに彼はある種の感謝すら感じた。彼女はにっこり微笑んだまま続ける。
「だから、皆には本当のあたしを取り戻させてくれてありがとうっていつも言いたくなるの…それにね」
「それに?」
 土井垣が問い返すと、彼女は赤くなって俯きしばらく沈黙した後、小さな声で答える。
「…皆が将さんと知り合いで、将さんにこうやって出会わせてくれてありがとう…って思うの」
「…」
 彼女の言葉に土井垣も赤面して沈黙する。しばらく居心地の悪い沈黙が続いた後、彼はもう一度彼女を抱き寄せるとその耳元に囁く。
「そうだな…だったら俺も皆に、お前に出会わせてくれてありがとうと思わなければな」
「そう思ってくれる?」
「ああ」
「…良かった」
 彼女は土井垣に向かってにっこりと微笑む。彼は彼女にキスをすると、もう一度囁く。
「俺に出会って…惚れてくれてありがとう」
「あたしも…好きになってくれてありがとう」
「どういたしまして」
「こちらこそ」
 二人はお互いの言葉ににっこり笑い合うと、もう一度キスをした。