「…土井垣さん、何かあったんですか」
「いや別に…どうしてだ?」
「どうしてって…いえ、何でもないです」
不知火は小さく溜息を付いた。ここはロッカールーム。いつもは寡黙でリードと怒る時以外はあまり感情を表に出さない土井垣が、鼻歌でも歌い出しそうな位浮かれた様子で着替えている姿が不知火は不気味に思えたのだ。更に言えば、不知火はその様子にすっかり引いている。他のチームメイト達に至っては『あいつ…脳にカビでも生えたか?』と囁きあっていた。土井垣がおかしい理由。それは、この後一ヶ月振りに恋人と会い食事をしようという約束があるためだった。今日の試合は不知火の完封勝利に加えて、自らもタイムリーヒットやホームランを打つ事ができた勝利で、その事を話した時に見せるだろう彼女の笑顔を思うと、感情を抑えようと思っても自然と頬が緩んできてしまうのだ。待ち合わせは多忙な彼女の仕事が終わった後なので時間はまだあるが、彼女の笑顔が早く見たくて待ちきれない。そんな事を思いながら着替えていると、試合終了後真っ先に電源を入れた携帯が鳴った。土井垣が慌ててチェックすると、メールが一通入ってきていた。そのメールを読み進めるうちに土井垣は今までの浮かれた気持ちが萎んでいく。そのメールは彼女からで、『ごめんなさい、体調が悪いので今日の食事はキャンセルさせて下さい』とあったのだ。お互い忙しい中をやり繰りして一ヶ月振りに会えると思ったのに…受かれた状態から急激に沈んでいく土井垣の様子を見ていた何も知らないチームメイトは『やっぱり脳にカビが…いや、虫くらい湧いているかもしれない…』と恐れおののいていた。
沈んだ気持ちで球場を出た時、土井垣はふと彼女が住むマンションの場所を聞いていた事を思い出した。恋人同士とはいえお互いの部屋に行く様な仲までは進展していないのでそれとなく聞いていただけだが、今は聞いていた事が有難かった。もしかしたら会えるかもしれないと彼女の話を思い出しながら車を走らせていると、彼女のマンションの傍の歩道を当の彼女――宮田葉月が歩いているのが視界に入ってきた。動きがかなり緩慢な事と、少し歩いては休んでいる事を考え合わせると彼女の状態はかなり良くないと思われた。心配になった彼は彼女が歩いている傍に車を寄せ、クラクションを鳴らした。びっくりした様に車の方を見た彼女は降りてきた人間を見ると安心した様に息をついて、間の抜けた小さな声で彼に話し掛ける。
「土井垣さんか~。何でここにいるんですか~?」
「あんなメールを見たら心配にもなる。君の家を聞いていたから見舞いでもと思って探していたんだ。まさか先に本人に会えるとは思っていなかったがな」
「そうですか~でも心配しないで大丈夫ですよ~。体調よくないって言ってもちょっと熱発しただけで、熱自体も8度ない…」
言いかけた葉月は急に座り込む。土井垣は座り込んだ彼女を支えながら立たせると、言い聞かせる様に声を掛ける。
「…とりあえず俺の車に乗れ、横になってもいいから。この様子だとこのまま歩いていたら途中で力尽きるぞ」
「はあ…すいません…」
彼女は素直に後部座席に乗り込むと崩れる様に横になり、そのままぐったりしてしまった。その様子を見た土井垣は彼女をマンションまで送るつもりだったがこの状態で一人暮らしの彼女を置いておくのは危ないし、かと言って一人暮らしの女性の部屋に男が一緒に入っていくのを他の住民に見られたら彼女に迷惑がかかるだろうと判断し、プライバシー保護がしっかりしている自分のマンションへ連れていく事にした。色々理由は付けているが、結局の所土井垣は彼女と離れたくなかったのである。その事を自覚して彼は苦笑すると、アクセルを踏み込んだ。
土井垣はマンションに着くと躊躇している葉月を部屋に入れ、自分のパジャマを貸し着替えさせた後、客用布団を出して寝かせる。熱を測ってみると熱は37度8分で、微熱に入るが高熱に近い高さだった。彼はぼんやりしている彼女にゆっくり問い掛ける。
「気分はどうだ?」
土井垣の声に葉月は熱で焦点が合いづらくなっている目を一生懸命土井垣に合わせながら、これもゆっくりと答える。
「何だか身体からどんどん力が抜ける感じがする…」
「そうか。医者には行ったのか?」
「ん…一応いつものドクターのとこ行ったら『これ以上熱が出る様なら飲め』って解熱剤下さったけど、平気だと思ったからまだ飲んでない」
「とりあえずそれを飲むか…それともその前に何か腹に入れるか?」
「ううん、食欲ないからいい。…それより今は薬かも…」
「じゃあ薬だな。水は今持ってくるから」
「うん…」
彼女はゆっくり起き上がって傍らに置いてあるバッグから薬を取り出したが、どうも手に力が入っていないのか手元が危なっかしい。薬を口に入れ震える手で土井垣が持ってきたコップを持つその手に、土井垣は自分の手を添えた。土井垣の行動に熱ではなく恥かしさで顔を赤くする彼女に、土井垣は優しく言い聞かせる。
「水をこぼしたら着替えがないだろう?支えてやるからゆっくり飲め」
彼女は言葉もなく頷くと、土井垣に手を添えてもらったままゆっくりと水を飲み、コップを置いて再び横になった。土井垣は彼女についていられる様自分のための軽食にうどんを作り、彼女の傍で食べる。彼女は横になりながら土井垣の方をぼんやり見詰めていた。その視線に気付いた土井垣は彼女に声を掛ける。
「どうした?」
「ん…なんかおいしそうな匂いだな~と思って」
「そうか、食欲が出たのはいい事だ。すぐできるからお前も食べるか?」
「ううん、一人分は無理…ちょっと食べたいだけだから将兄さんの一口ちょうだい」
「お前な…まあいいか、ほら」
土井垣は半分起き上がった彼女の口元に少しうどんを運んでやる。彼女は一口すすると小さな声で「おいしい」と言ってにっこり笑った。土井垣はその表情に鼓動が速くなるのを感じながら残りを急ピッチで食べた。葉月はその姿をぼんやり眺めていたが、やがてぽつりと呟く。
「…ごめんなさい将兄さん、折角ご飯食べに行こうって言ってたのにね…」
「食事なんてまたいつでも行けるさ、気にするな」
「でも…」
「いいから。今はちゃんと休んで熱を下げる事だけ考えろ」
「はぁい…そうだ、将兄さん」
「何だ」
「手、貸して」
「…?」
訳が分からないながらも土井垣は葉月に片手を差し出す。彼女はその手を取ると幸せそうに自分の頬に付けた。彼女の行動と熱を帯びた柔らかな頬の感触に赤面して狼狽する彼に、彼女はにっこり笑うとゆっくりと口を開く。
「…ホントに将兄さんの手だぁ。…あのね、熱が出ちゃったのはちょっと辛いし、ご飯食べに行く約束守れなかったのはごめんなさいだけど…こうやって将兄さんが傍にいてくれて…あたし、とっても嬉しいの」
「あ、ああ…そうか」
「うん…でも看病してもらって借りができちゃったかな」
無邪気に笑う彼女が愛おしいと思いながらもその言葉に少し意地悪がしたくなり、土井垣は何やら含んだ笑みを見せながら口を開く。
「借りか…確かに俺にしてみたら折角部屋に入れたのに手も出せんのは辛いものがあるからな、これは貸し一になるか。後で必ず返してもらうぞ」
「?」
元々が世間知らずな性格の上、熱のせいで頭がまとまらないのも加わって土井垣の言葉をあまり理解できていない様子の葉月に、じれったさと微笑ましさが半々になった彼は強硬手段に出た。
「つまりな…まあ、これくらいならしてもかまわんか」
そう言うと土井垣は彼女に口付ける。唐突な深い口付けに葉月はされるがままになっていた。やがて彼は唇を離しにやりと笑う。
「これは今日の『貸し』に対する担保だからな」
「普通担保っていうのは借りる方が用意する物なんじゃ…」
突然の土井垣の行動に頭がパニックに陥ったのか、彼女は自分が論点から相当離れた事を言っている事に気付いていない。土井垣は彼女をすっかり自分のペースに乗せて楽しんでいる。
「なら自分から担保を用意すればいい」
「担保って…何を」
「俺と同じ事をしてくれればいいさ」
「でもあたしちょっと今起きられそうにない…」
「だったら…ほら」
土井垣は読めない表情で葉月を抱き起こし、彼女に顔を近づける。彼女は困った様に軽く溜息をつくと彼の頬を両手で包み込み、そっと唇を合わせた。しばらくして彼女が唇を離すと彼は満足げに笑った。
「契約成立。…元気になったらここで借りはちゃんと返してもらうぞ」
「ん…って…えっ?……やだ~っ!」
土井垣にはめられた上、『返済内容』にやっと気付いた葉月は布団を頭から被ってしまった。土井垣はおどける様に笑いながら彼女の被っている布団を軽く叩く。
「すまんすまん、ちょっとやりすぎたな」
「知らない!将兄さんの馬鹿」
布団を被ったままの葉月に、おどけていた土井垣はふと真剣な口調になって独り言の様に言葉を紡いだ。
「…でもな、このままならいつかは…そうなるのが自然だろうが」
「…」
土井垣の言葉に葉月は布団から顔を出して彼を見詰めた。彼は複雑な、しかし真摯な表情で彼女の額を手のひらでなぞると言葉を重ねた。
「返済は無利子、無期限、無催促だ。…ちゃんと考えてくれよ」
「…うん」
葉月は土井垣の真剣さを受け止め、控え目にだが頷いた。土井垣は彼女の額に触れていた手を離すと、柔らかな口調で続ける。
「また少し熱が上がったみたいだな。騒がせて悪かった」
「ううん…あたしこそ考えなしでごめんなさい」
「別にいいさ…さあ、もう寝ろ。熱が下がらんと辛いのはお前だろう?」
「うん…」
「…お前が寝付くまでは傍にいるから」
「ありがとう…ねえ将兄さん」
「何だ?」
葉月は土井垣に手招きする様な仕草を見せる。土井垣が不思議に思い彼女に顔を近づけると、彼女は彼の首に腕を絡め、軽く口付けた。彼女の行動に今度は土井垣が硬直する。彼女は唇を離すとにっこり微笑む。
「…この程度の『利子』なら払えるからね」
「…」
赤面する土井垣をそのまま放置して彼女は目を閉じると、やがて寝息をたて始めた。熱のせいで少し苦しげではあるが、それでも無邪気な寝顔で眠る彼女を見詰め、土井垣は溜息を付く。
『全く、こいつにはかなわんな…』
仕事上はしっかり者で通っている一方、元来の性格――殊に男女間の心の機微に関しては芯から世間知らずで無邪気である事が彼女の魅力ではあるが、その無邪気さが時に妖艶さとなって土井垣を戸惑わせている事に、彼女自身は全く気付いていない。しかもそうした妖艶さを漂わせ、誘う様に見えても本人は全くその気がないのだから始末が悪い。土井垣は彼女との付き合いを振り返り、彼女と自分は年齢がほとんど変わらないが、気分は若紫を育てている光源氏に近いものがある気がした。違う所があるとすれば、彼女は自分の理想通りには決して育たないだろうという事と、自分の忍耐が年単位で続くかどうかは分からない…むしろ続かないだろうというところだろう。
『…前途多難だが…まあそれも醍醐味かもしれんな』
土井垣はふっと苦笑しながら無邪気に眠る葉月を見詰め、その額をもう一度ゆっくりと撫でた。
「いや別に…どうしてだ?」
「どうしてって…いえ、何でもないです」
不知火は小さく溜息を付いた。ここはロッカールーム。いつもは寡黙でリードと怒る時以外はあまり感情を表に出さない土井垣が、鼻歌でも歌い出しそうな位浮かれた様子で着替えている姿が不知火は不気味に思えたのだ。更に言えば、不知火はその様子にすっかり引いている。他のチームメイト達に至っては『あいつ…脳にカビでも生えたか?』と囁きあっていた。土井垣がおかしい理由。それは、この後一ヶ月振りに恋人と会い食事をしようという約束があるためだった。今日の試合は不知火の完封勝利に加えて、自らもタイムリーヒットやホームランを打つ事ができた勝利で、その事を話した時に見せるだろう彼女の笑顔を思うと、感情を抑えようと思っても自然と頬が緩んできてしまうのだ。待ち合わせは多忙な彼女の仕事が終わった後なので時間はまだあるが、彼女の笑顔が早く見たくて待ちきれない。そんな事を思いながら着替えていると、試合終了後真っ先に電源を入れた携帯が鳴った。土井垣が慌ててチェックすると、メールが一通入ってきていた。そのメールを読み進めるうちに土井垣は今までの浮かれた気持ちが萎んでいく。そのメールは彼女からで、『ごめんなさい、体調が悪いので今日の食事はキャンセルさせて下さい』とあったのだ。お互い忙しい中をやり繰りして一ヶ月振りに会えると思ったのに…受かれた状態から急激に沈んでいく土井垣の様子を見ていた何も知らないチームメイトは『やっぱり脳にカビが…いや、虫くらい湧いているかもしれない…』と恐れおののいていた。
沈んだ気持ちで球場を出た時、土井垣はふと彼女が住むマンションの場所を聞いていた事を思い出した。恋人同士とはいえお互いの部屋に行く様な仲までは進展していないのでそれとなく聞いていただけだが、今は聞いていた事が有難かった。もしかしたら会えるかもしれないと彼女の話を思い出しながら車を走らせていると、彼女のマンションの傍の歩道を当の彼女――宮田葉月が歩いているのが視界に入ってきた。動きがかなり緩慢な事と、少し歩いては休んでいる事を考え合わせると彼女の状態はかなり良くないと思われた。心配になった彼は彼女が歩いている傍に車を寄せ、クラクションを鳴らした。びっくりした様に車の方を見た彼女は降りてきた人間を見ると安心した様に息をついて、間の抜けた小さな声で彼に話し掛ける。
「土井垣さんか~。何でここにいるんですか~?」
「あんなメールを見たら心配にもなる。君の家を聞いていたから見舞いでもと思って探していたんだ。まさか先に本人に会えるとは思っていなかったがな」
「そうですか~でも心配しないで大丈夫ですよ~。体調よくないって言ってもちょっと熱発しただけで、熱自体も8度ない…」
言いかけた葉月は急に座り込む。土井垣は座り込んだ彼女を支えながら立たせると、言い聞かせる様に声を掛ける。
「…とりあえず俺の車に乗れ、横になってもいいから。この様子だとこのまま歩いていたら途中で力尽きるぞ」
「はあ…すいません…」
彼女は素直に後部座席に乗り込むと崩れる様に横になり、そのままぐったりしてしまった。その様子を見た土井垣は彼女をマンションまで送るつもりだったがこの状態で一人暮らしの彼女を置いておくのは危ないし、かと言って一人暮らしの女性の部屋に男が一緒に入っていくのを他の住民に見られたら彼女に迷惑がかかるだろうと判断し、プライバシー保護がしっかりしている自分のマンションへ連れていく事にした。色々理由は付けているが、結局の所土井垣は彼女と離れたくなかったのである。その事を自覚して彼は苦笑すると、アクセルを踏み込んだ。
土井垣はマンションに着くと躊躇している葉月を部屋に入れ、自分のパジャマを貸し着替えさせた後、客用布団を出して寝かせる。熱を測ってみると熱は37度8分で、微熱に入るが高熱に近い高さだった。彼はぼんやりしている彼女にゆっくり問い掛ける。
「気分はどうだ?」
土井垣の声に葉月は熱で焦点が合いづらくなっている目を一生懸命土井垣に合わせながら、これもゆっくりと答える。
「何だか身体からどんどん力が抜ける感じがする…」
「そうか。医者には行ったのか?」
「ん…一応いつものドクターのとこ行ったら『これ以上熱が出る様なら飲め』って解熱剤下さったけど、平気だと思ったからまだ飲んでない」
「とりあえずそれを飲むか…それともその前に何か腹に入れるか?」
「ううん、食欲ないからいい。…それより今は薬かも…」
「じゃあ薬だな。水は今持ってくるから」
「うん…」
彼女はゆっくり起き上がって傍らに置いてあるバッグから薬を取り出したが、どうも手に力が入っていないのか手元が危なっかしい。薬を口に入れ震える手で土井垣が持ってきたコップを持つその手に、土井垣は自分の手を添えた。土井垣の行動に熱ではなく恥かしさで顔を赤くする彼女に、土井垣は優しく言い聞かせる。
「水をこぼしたら着替えがないだろう?支えてやるからゆっくり飲め」
彼女は言葉もなく頷くと、土井垣に手を添えてもらったままゆっくりと水を飲み、コップを置いて再び横になった。土井垣は彼女についていられる様自分のための軽食にうどんを作り、彼女の傍で食べる。彼女は横になりながら土井垣の方をぼんやり見詰めていた。その視線に気付いた土井垣は彼女に声を掛ける。
「どうした?」
「ん…なんかおいしそうな匂いだな~と思って」
「そうか、食欲が出たのはいい事だ。すぐできるからお前も食べるか?」
「ううん、一人分は無理…ちょっと食べたいだけだから将兄さんの一口ちょうだい」
「お前な…まあいいか、ほら」
土井垣は半分起き上がった彼女の口元に少しうどんを運んでやる。彼女は一口すすると小さな声で「おいしい」と言ってにっこり笑った。土井垣はその表情に鼓動が速くなるのを感じながら残りを急ピッチで食べた。葉月はその姿をぼんやり眺めていたが、やがてぽつりと呟く。
「…ごめんなさい将兄さん、折角ご飯食べに行こうって言ってたのにね…」
「食事なんてまたいつでも行けるさ、気にするな」
「でも…」
「いいから。今はちゃんと休んで熱を下げる事だけ考えろ」
「はぁい…そうだ、将兄さん」
「何だ」
「手、貸して」
「…?」
訳が分からないながらも土井垣は葉月に片手を差し出す。彼女はその手を取ると幸せそうに自分の頬に付けた。彼女の行動と熱を帯びた柔らかな頬の感触に赤面して狼狽する彼に、彼女はにっこり笑うとゆっくりと口を開く。
「…ホントに将兄さんの手だぁ。…あのね、熱が出ちゃったのはちょっと辛いし、ご飯食べに行く約束守れなかったのはごめんなさいだけど…こうやって将兄さんが傍にいてくれて…あたし、とっても嬉しいの」
「あ、ああ…そうか」
「うん…でも看病してもらって借りができちゃったかな」
無邪気に笑う彼女が愛おしいと思いながらもその言葉に少し意地悪がしたくなり、土井垣は何やら含んだ笑みを見せながら口を開く。
「借りか…確かに俺にしてみたら折角部屋に入れたのに手も出せんのは辛いものがあるからな、これは貸し一になるか。後で必ず返してもらうぞ」
「?」
元々が世間知らずな性格の上、熱のせいで頭がまとまらないのも加わって土井垣の言葉をあまり理解できていない様子の葉月に、じれったさと微笑ましさが半々になった彼は強硬手段に出た。
「つまりな…まあ、これくらいならしてもかまわんか」
そう言うと土井垣は彼女に口付ける。唐突な深い口付けに葉月はされるがままになっていた。やがて彼は唇を離しにやりと笑う。
「これは今日の『貸し』に対する担保だからな」
「普通担保っていうのは借りる方が用意する物なんじゃ…」
突然の土井垣の行動に頭がパニックに陥ったのか、彼女は自分が論点から相当離れた事を言っている事に気付いていない。土井垣は彼女をすっかり自分のペースに乗せて楽しんでいる。
「なら自分から担保を用意すればいい」
「担保って…何を」
「俺と同じ事をしてくれればいいさ」
「でもあたしちょっと今起きられそうにない…」
「だったら…ほら」
土井垣は読めない表情で葉月を抱き起こし、彼女に顔を近づける。彼女は困った様に軽く溜息をつくと彼の頬を両手で包み込み、そっと唇を合わせた。しばらくして彼女が唇を離すと彼は満足げに笑った。
「契約成立。…元気になったらここで借りはちゃんと返してもらうぞ」
「ん…って…えっ?……やだ~っ!」
土井垣にはめられた上、『返済内容』にやっと気付いた葉月は布団を頭から被ってしまった。土井垣はおどける様に笑いながら彼女の被っている布団を軽く叩く。
「すまんすまん、ちょっとやりすぎたな」
「知らない!将兄さんの馬鹿」
布団を被ったままの葉月に、おどけていた土井垣はふと真剣な口調になって独り言の様に言葉を紡いだ。
「…でもな、このままならいつかは…そうなるのが自然だろうが」
「…」
土井垣の言葉に葉月は布団から顔を出して彼を見詰めた。彼は複雑な、しかし真摯な表情で彼女の額を手のひらでなぞると言葉を重ねた。
「返済は無利子、無期限、無催促だ。…ちゃんと考えてくれよ」
「…うん」
葉月は土井垣の真剣さを受け止め、控え目にだが頷いた。土井垣は彼女の額に触れていた手を離すと、柔らかな口調で続ける。
「また少し熱が上がったみたいだな。騒がせて悪かった」
「ううん…あたしこそ考えなしでごめんなさい」
「別にいいさ…さあ、もう寝ろ。熱が下がらんと辛いのはお前だろう?」
「うん…」
「…お前が寝付くまでは傍にいるから」
「ありがとう…ねえ将兄さん」
「何だ?」
葉月は土井垣に手招きする様な仕草を見せる。土井垣が不思議に思い彼女に顔を近づけると、彼女は彼の首に腕を絡め、軽く口付けた。彼女の行動に今度は土井垣が硬直する。彼女は唇を離すとにっこり微笑む。
「…この程度の『利子』なら払えるからね」
「…」
赤面する土井垣をそのまま放置して彼女は目を閉じると、やがて寝息をたて始めた。熱のせいで少し苦しげではあるが、それでも無邪気な寝顔で眠る彼女を見詰め、土井垣は溜息を付く。
『全く、こいつにはかなわんな…』
仕事上はしっかり者で通っている一方、元来の性格――殊に男女間の心の機微に関しては芯から世間知らずで無邪気である事が彼女の魅力ではあるが、その無邪気さが時に妖艶さとなって土井垣を戸惑わせている事に、彼女自身は全く気付いていない。しかもそうした妖艶さを漂わせ、誘う様に見えても本人は全くその気がないのだから始末が悪い。土井垣は彼女との付き合いを振り返り、彼女と自分は年齢がほとんど変わらないが、気分は若紫を育てている光源氏に近いものがある気がした。違う所があるとすれば、彼女は自分の理想通りには決して育たないだろうという事と、自分の忍耐が年単位で続くかどうかは分からない…むしろ続かないだろうというところだろう。
『…前途多難だが…まあそれも醍醐味かもしれんな』
土井垣はふっと苦笑しながら無邪気に眠る葉月を見詰め、その額をもう一度ゆっくりと撫でた。