ある夜の都内某所の居酒屋、土井垣はカウンター席で一人酒を飲んでいた。この居酒屋は小さいながらもいい酒が揃い、また店主の気さくさや自分を特別視しない店の雰囲気のため土井垣が気に入っている店の一つで、彼がオフの時はもちろん、シーズン中でも一息つきたいときなどによく酒を飲みに来ている店である。今日もオフで暇ができふと思い立ってふらっと飲みに出てきたのだ。暑い時の習慣で冷酒を注文しちびりちびりと飲みながら、土井垣はぼんやりと昨日ロッカールームでした会話を思い出していた。
どういう流れからそういう話になったのかはよく分からないが、『自分の初恋はどんなものだったか』という話題が出てきて、チームメイト達が異様に盛り上がったのだ。いい歳をした男がどうしてそんな話題で盛り上がれるんだ、と土井垣は適当に聞き流していたのだが、その場にいたのが災いして自分にも話題が振られた。土井垣は『よく覚えていない』と言ってそうした話題が少ない彼の艶っぽい部分を散々聞き出そうとするチームメイト達から必死に逃げたが、それからふとその『初恋』という言葉がずっと引っかかっていた。初恋と呼べるだろうものは確かにある。しかしその相手は、ほんの僅かな間とある偶然から一緒にいただけで会話もほとんど交わさなかった少女であり、しかもその少女に感じた感情が恋だと気付いたのは、出会ってからずいぶん経っての事だった位本当に淡い想い。今となっては覚えているのは『はづき』という名前だったという事だけで顔もほとんど思い出せない、そんな淡い感情だったのに彼女と出会った時に感じた感覚は今でもはっきり思い出せる自分に苦笑する。
『結局今でも青臭い部分を引きずっているという事か…』
こんな話をしたらチームメイト達に後々までからかわれるネタにされる事は分かっているので話す気になれなかったのだが、どうして話題になったからと言って今更この事が心の中に引っかかっているのだろうと土井垣は酒を口にしながら考え込んでいた。と、店の入口から聞き覚えのある声とともに中年の男性が入って来た。その男性の姿に土井垣は顔をほころばせる。その男性は彼のサークル仲間と共に土井垣とこの店でよく会う事があり、その明るい人柄から親しくなっていた男性だったからである。
「マスター、久しぶり~」
「やあ、沼ちゃんご無沙汰だったじゃないか…おっと、お嬢さんも一緒か」
「はい。こんばんは、お邪魔します」
久しぶりに会う楽しい飲み仲間に土井垣は声を掛けようとしたが、その後ろにちょこんと付いて来た、見慣れない若い女性にふと言葉を飲み込む。この男性が若い女性と二人で店に来たという事もあるが、その女性に今しがた考えていた感覚を覚えたため、思わず言葉が止まったのだ。土井垣は男性とともに店主と談笑している、店主に『お嬢さん』と呼ばれたその女性を見る。年恰好は土井垣と同年代か少し下位の様で、こうした店には普通来そうにない年代の女性。それなのにこの店に随分馴染んでいる事も不思議に思ったのだが、それ以上に遠い昔に感じたあの感情が彼女を見ていると鮮やかになってくる事が不思議でたまらなかった。そんな感情を抱きつつ彼女を見ていると、その視線に気が付いたのか彼女がふと土井垣の方を見る。視線が合い、土井垣は動悸が速くなるのを感じた。自分達を見つめたまま固まっている土井垣を見て女性は小首を傾げると、『沼ちゃん』と呼ばれた連れの男性に声を掛けた。
「あの~沼田さん」
「何?宮田ちゃん」
「あの人、沼田さんのお知り合いですか?」
そう言うと彼女は土井垣の方に視線をもう一度向ける。沼田は会釈する土井垣を見るとぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに土井垣の方に寄って来た。
「何だ、土井垣ちゃんじゃん。久しぶり~。相変わらず忙しそうだね」
「はあ、お久しぶりです沼田さん。いいんですか、若い女性と二人きりで飲みなんて」
「いいのいいの。彼女、僕の職場の新人なんだ。今日は残業に付き合わせちゃったからご飯おごってあげようと思って連れて来たんだよ。…ほら、おいで宮田ちゃん」
「え?あ、はい」
沼田に促されて女性は土井垣の方に近付いてくる。沼田は彼女に土井垣を紹介した。
「宮田ちゃん。彼は土井垣ちゃんていってね、結構活躍してるプロ野球選手なんだよ」
「そうなんですか。本当に沼田さん顔が広いですね…あ、すいません。ご挨拶が遅れました。初めまして、宮田と言います」
「そうですか…こちらこそ初めまして。土井垣です」
挨拶をした後彼女は土井垣を見ながらしきりに首を捻っていたが、やがてポンと両手を合わせると軽く尋ねる様な口調で土井垣に話し掛ける。
「あの、失礼ですけど土井垣さんて日ハムでキャッチャーやってる土井垣選手ですか?」
「ええ、そうですが」
土井垣の答えに彼女は合点がいった様ににっこり笑うと言葉を続ける。
「ああ、それで名前に聞き覚えがあったんだ。私はあんまり野球詳しくないんですが、父が凄い野球ファンで…土井垣さんのリードが好きだって言ってテレビで見る度に褒めてるんですよ。…あ、これおべんちゃらじゃないですからね。本当の話ですよ」
「それは嬉しいな」
彼女の口調は楽しげではあるが、決してミーハーじみたものではなく、むしろ柔らかく心に響いて来る様で、土井垣は彼女の言葉が本当だと素直に信じられた。彼が喜びを表すと、彼女は嬉しそうにもう一度にっこり微笑む。その微笑みに土井垣は十年近く前に感じた感覚をはっきり自覚すると同時に、何故かこの女性に今ではすっかり薄れてしまっているあの少女の面影が重なった様な気がした。急に今までの酔いが回ってきた様に動悸が更に早まり、頬が熱くなってくる感覚に狼狽する土井垣を見て、女性は申し訳なさそうに口を開いた。
「あ、すいません。お一人でゆっくりなさってる所をお邪魔したみたいで…沼田さん、お知り合いとはいえやっぱりお邪魔しちゃいけないんですよね。私達は別口で飲まないと」
「そだね。ごめんね~土井垣ちゃん邪魔しちゃって」
「あ、はあ…そうだ、もしだったら一緒に飲みませんか」
「気を遣わなくていいよ。土井垣ちゃんだってたまには一人でゆっくり飲みたいでしょ?彼女もここの作法は分かってるから大丈夫だよ」
「いえ、そんな…」
「じゃね、今度また皆が来た時にでも飲もうよ」
「あ、はい…」
「お邪魔して本当にすいませんでした。失礼します」
「…」
土井垣は彼女ともっとゆっくり話したかったのだが、二人には彼に気を遣わせたと思われた様だ。二人は土井垣と別れると、彼から少し離れたテーブルに座って飲みながら何やら話し始めた。その様子をそれとなく伺っている土井垣に、店主がカウンター越しにさりげなく声を掛ける。
「土井垣君、彼女が気になるみたいだね」
「はあ、ちょっと…」
「一目惚れかい?」
「…!」
「図星みたいだね」
正確には『一目惚れ』とは違う様な気もするのだが、どう説明していいか良く分からない。赤面しながら黙り込む土井垣に、店主は悪戯っぽい口調で更に続ける。
「いい事教えてあげるよ。沼ちゃんも言ってたけど、時間作って皆に会いにおいで。彼女にまた会えるから」
「…え?」
「彼女、職場で沼ちゃん達に誘われてサークルに最近入ったんだよ。練習の後の飲みにもよく一緒に来てるから。他の皆といたら気兼ねなく話し掛けられるだろ?」
「…商売上手ですね、マスター」
店主の言葉に苦笑しながらも茶化す土井垣。茶化す様なその言葉に店主も楽しそうに応酬する。
「まあね、君の手助けで売上げが上がるならそれに越した事はないし」
「…ありがとうございます」
茶化す様に言ってはいるが、土井垣の気持ちを察した店主の心遣いに土井垣は素直に感謝する。もう一度彼が二人の方に目をやるとふと彼女と目が合った。彼女も彼の視線に気が付くと、にっこり笑って会釈する。彼も狼狽しながら会釈を返すと目を逸らし、今度本当に会う機会があるなら今度こそ彼女ときちんと話そうという決意を固めつつ手元の酒を飲み干した。
どういう流れからそういう話になったのかはよく分からないが、『自分の初恋はどんなものだったか』という話題が出てきて、チームメイト達が異様に盛り上がったのだ。いい歳をした男がどうしてそんな話題で盛り上がれるんだ、と土井垣は適当に聞き流していたのだが、その場にいたのが災いして自分にも話題が振られた。土井垣は『よく覚えていない』と言ってそうした話題が少ない彼の艶っぽい部分を散々聞き出そうとするチームメイト達から必死に逃げたが、それからふとその『初恋』という言葉がずっと引っかかっていた。初恋と呼べるだろうものは確かにある。しかしその相手は、ほんの僅かな間とある偶然から一緒にいただけで会話もほとんど交わさなかった少女であり、しかもその少女に感じた感情が恋だと気付いたのは、出会ってからずいぶん経っての事だった位本当に淡い想い。今となっては覚えているのは『はづき』という名前だったという事だけで顔もほとんど思い出せない、そんな淡い感情だったのに彼女と出会った時に感じた感覚は今でもはっきり思い出せる自分に苦笑する。
『結局今でも青臭い部分を引きずっているという事か…』
こんな話をしたらチームメイト達に後々までからかわれるネタにされる事は分かっているので話す気になれなかったのだが、どうして話題になったからと言って今更この事が心の中に引っかかっているのだろうと土井垣は酒を口にしながら考え込んでいた。と、店の入口から聞き覚えのある声とともに中年の男性が入って来た。その男性の姿に土井垣は顔をほころばせる。その男性は彼のサークル仲間と共に土井垣とこの店でよく会う事があり、その明るい人柄から親しくなっていた男性だったからである。
「マスター、久しぶり~」
「やあ、沼ちゃんご無沙汰だったじゃないか…おっと、お嬢さんも一緒か」
「はい。こんばんは、お邪魔します」
久しぶりに会う楽しい飲み仲間に土井垣は声を掛けようとしたが、その後ろにちょこんと付いて来た、見慣れない若い女性にふと言葉を飲み込む。この男性が若い女性と二人で店に来たという事もあるが、その女性に今しがた考えていた感覚を覚えたため、思わず言葉が止まったのだ。土井垣は男性とともに店主と談笑している、店主に『お嬢さん』と呼ばれたその女性を見る。年恰好は土井垣と同年代か少し下位の様で、こうした店には普通来そうにない年代の女性。それなのにこの店に随分馴染んでいる事も不思議に思ったのだが、それ以上に遠い昔に感じたあの感情が彼女を見ていると鮮やかになってくる事が不思議でたまらなかった。そんな感情を抱きつつ彼女を見ていると、その視線に気が付いたのか彼女がふと土井垣の方を見る。視線が合い、土井垣は動悸が速くなるのを感じた。自分達を見つめたまま固まっている土井垣を見て女性は小首を傾げると、『沼ちゃん』と呼ばれた連れの男性に声を掛けた。
「あの~沼田さん」
「何?宮田ちゃん」
「あの人、沼田さんのお知り合いですか?」
そう言うと彼女は土井垣の方に視線をもう一度向ける。沼田は会釈する土井垣を見るとぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに土井垣の方に寄って来た。
「何だ、土井垣ちゃんじゃん。久しぶり~。相変わらず忙しそうだね」
「はあ、お久しぶりです沼田さん。いいんですか、若い女性と二人きりで飲みなんて」
「いいのいいの。彼女、僕の職場の新人なんだ。今日は残業に付き合わせちゃったからご飯おごってあげようと思って連れて来たんだよ。…ほら、おいで宮田ちゃん」
「え?あ、はい」
沼田に促されて女性は土井垣の方に近付いてくる。沼田は彼女に土井垣を紹介した。
「宮田ちゃん。彼は土井垣ちゃんていってね、結構活躍してるプロ野球選手なんだよ」
「そうなんですか。本当に沼田さん顔が広いですね…あ、すいません。ご挨拶が遅れました。初めまして、宮田と言います」
「そうですか…こちらこそ初めまして。土井垣です」
挨拶をした後彼女は土井垣を見ながらしきりに首を捻っていたが、やがてポンと両手を合わせると軽く尋ねる様な口調で土井垣に話し掛ける。
「あの、失礼ですけど土井垣さんて日ハムでキャッチャーやってる土井垣選手ですか?」
「ええ、そうですが」
土井垣の答えに彼女は合点がいった様ににっこり笑うと言葉を続ける。
「ああ、それで名前に聞き覚えがあったんだ。私はあんまり野球詳しくないんですが、父が凄い野球ファンで…土井垣さんのリードが好きだって言ってテレビで見る度に褒めてるんですよ。…あ、これおべんちゃらじゃないですからね。本当の話ですよ」
「それは嬉しいな」
彼女の口調は楽しげではあるが、決してミーハーじみたものではなく、むしろ柔らかく心に響いて来る様で、土井垣は彼女の言葉が本当だと素直に信じられた。彼が喜びを表すと、彼女は嬉しそうにもう一度にっこり微笑む。その微笑みに土井垣は十年近く前に感じた感覚をはっきり自覚すると同時に、何故かこの女性に今ではすっかり薄れてしまっているあの少女の面影が重なった様な気がした。急に今までの酔いが回ってきた様に動悸が更に早まり、頬が熱くなってくる感覚に狼狽する土井垣を見て、女性は申し訳なさそうに口を開いた。
「あ、すいません。お一人でゆっくりなさってる所をお邪魔したみたいで…沼田さん、お知り合いとはいえやっぱりお邪魔しちゃいけないんですよね。私達は別口で飲まないと」
「そだね。ごめんね~土井垣ちゃん邪魔しちゃって」
「あ、はあ…そうだ、もしだったら一緒に飲みませんか」
「気を遣わなくていいよ。土井垣ちゃんだってたまには一人でゆっくり飲みたいでしょ?彼女もここの作法は分かってるから大丈夫だよ」
「いえ、そんな…」
「じゃね、今度また皆が来た時にでも飲もうよ」
「あ、はい…」
「お邪魔して本当にすいませんでした。失礼します」
「…」
土井垣は彼女ともっとゆっくり話したかったのだが、二人には彼に気を遣わせたと思われた様だ。二人は土井垣と別れると、彼から少し離れたテーブルに座って飲みながら何やら話し始めた。その様子をそれとなく伺っている土井垣に、店主がカウンター越しにさりげなく声を掛ける。
「土井垣君、彼女が気になるみたいだね」
「はあ、ちょっと…」
「一目惚れかい?」
「…!」
「図星みたいだね」
正確には『一目惚れ』とは違う様な気もするのだが、どう説明していいか良く分からない。赤面しながら黙り込む土井垣に、店主は悪戯っぽい口調で更に続ける。
「いい事教えてあげるよ。沼ちゃんも言ってたけど、時間作って皆に会いにおいで。彼女にまた会えるから」
「…え?」
「彼女、職場で沼ちゃん達に誘われてサークルに最近入ったんだよ。練習の後の飲みにもよく一緒に来てるから。他の皆といたら気兼ねなく話し掛けられるだろ?」
「…商売上手ですね、マスター」
店主の言葉に苦笑しながらも茶化す土井垣。茶化す様なその言葉に店主も楽しそうに応酬する。
「まあね、君の手助けで売上げが上がるならそれに越した事はないし」
「…ありがとうございます」
茶化す様に言ってはいるが、土井垣の気持ちを察した店主の心遣いに土井垣は素直に感謝する。もう一度彼が二人の方に目をやるとふと彼女と目が合った。彼女も彼の視線に気が付くと、にっこり笑って会釈する。彼も狼狽しながら会釈を返すと目を逸らし、今度本当に会う機会があるなら今度こそ彼女ときちんと話そうという決意を固めつつ手元の酒を飲み干した。