都内某所の小さな飲み屋。土井垣は馴染みにしているこの店に久しぶりに訪れ、この日偶然練習後の定例飲み会に来ていた飲み仲間である合唱サークルの面々と一緒に飲んでいた。会話の幅も広く話が弾むこの面々と飲むのは、いつしか土井垣にとってここに来る時の楽しみの一つになっていた。そして楽しみがもう一つ――土井垣はこの面々の中に気になる女性がいるのだ。多忙な事とあまり丈夫ではなく練習を休む事が少なくないため会えない事も多いが、彼女がいる時はそれだけでいつもの倍は楽しく感じられた。今日はその女性も来ている上に、自分の隣に座っている。嬉しい反面、彼女がどうも元気がない様子でいるのが彼は気になっていた。
「…宮田ちゃん、どうしたの?何か元気ないみたいだけど」
 周囲にニコニコとお酒を勧めながらも、間があくと溜息をついている件の女性――宮田葉月にメンバーの一人が声をかける。彼女はその言葉に少し疲れた様な笑みを見せて応えた。
「はあ…何となくくたびれちゃって…」
「もしかして、また仕事で何かあったか」
「そんなところです…そうだ。あの、高槻さん」
 葉月は土井垣と反対側の隣に座っている女性に遠慮がちに話し掛ける。『高槻さん』と呼ばれたその女性はからりとした明るい声で彼女に応えた。
「ん、何?」
「また、『いつもの』お願いしていいですか?」
「しょうがないわね~いいわよ」
「わ~い、じゃあお言葉に甘えて…」
 そう言うと葉月は高槻に甘える様に抱き付いた。高槻も慣れているのか「よしよし」と言いながら彼女をゆったり抱き締めて背中を叩いている。土井垣はその光景に面食らいつつも何故か少し胸が痛んだ。その胸の痛みを隠しながら、そこにいたメンバーの一人に問い掛ける。
「…何なんですか?あれ」
「ああ、あれね。土井垣君見るの初めてだっけ?宮田ちゃん落ち込んだり疲れたりするとああやって人…って言っても女性限定だけどね…にくっついて甘えるんだよ。甘えるって言ってもほんのちょっとだけどね」
「はあ…」
 土井垣は胸の痛みが増していく。男性にはああして甘えないらしいが、自分以外の人間に甘えているのを見るのはたとえ女性であっても何となく辛い。彼女とはそういう仲ではない事は百も承知だが、叶うなら自分が抱き締めてやりたいと思った。
「…ん、もう大丈夫。高槻さんすいません」
「いいのよ~でも宮田ちゃんもそろそろ彼氏をちゃんと作って、その彼氏に抱き締めてもらいなさいよ」
 高槻の言葉に、彼女は良く通るメゾソプラノの声でコロコロと明るく笑って応えた。
「無理ですよ~私恋愛感情って良く分かりませんし。…それ以前に私を好きになる様な奇特な人がまずいませんって」
「…じゃあ、もし俺が『立候補する』って言ったら…どうする?」
 片手をパタパタと振りながら笑う葉月に、土井垣はいつの間にかそんな言葉を口走っていた。葉月は一瞬きょとんとした表情で土井垣を見詰めたが、次の瞬間にぷっと吹き出した。
「やだ土井垣さん、からかうにも程がありますよ~」
「…からかう?俺はいたって本気だが」
「ま~た何似合わないジョーク飛ばしてるんですか。私ネタにして遊んでる暇があったら、ちゃんと好きな人くどいた…」
「…俺は本気だと言っている」
 茶化す様に言葉を連ねる葉月の言葉が聞いていられなくなり、土井垣は衝動のままに彼女をきつく抱き締める。いきなり抱き締められた彼女は彼の腕の中でもがいていた。しばらくして彼が暴れる彼女を解放すると、葉月は呆れた様に大きく溜息をついて彼の行動を咎めた。
「…酔ってますね土井垣さん。私だから別にいいですけど、こんな事他でやったら下手するとセクハラですよ?」
「セクハラ…」
 葉月の言葉に土井垣は愕然とする。確かに酔った勢いだったとはいえ全て本気の言動だったのに、彼女に自分の気持ちは全く伝わらないのか…呆然とする土井垣の姿を見て彼の気持ちに気付いていた察しの良い数名のメンバーは、内心不憫に思いつつも『まあ、あれじゃあね…』とその様子を見詰めていた。

「…全く、あの言葉は結構傷ついたんだぞ」
「でも、あの時は本当にからかってるとしか思えなかったんですもの。土井垣さんならどんな女性でもよりどりみどりでしょう?私なんか眼中に入る訳ないと思いますよ、普通」
「『私なんか』なんて言うな。何にせよ俺が惚れたのはお前なんだからな」
「…」
 土井垣の言葉に葉月は赤面して黙り込む。あれから時が流れ、二人はいつしか付き合うようになっていた。
「…まあ、ホントの事言うとあの時嫌じゃなかったのも確かなんですけどね」
 照れた様に呟く葉月が愛しくなり、土井垣は彼女を抱き締めた。あの日とは違い、彼女は彼にゆったりと身体を預け、くすりと笑う。
「こうしてもらうの、ホントに居心地いいんだけど…いいのかな、それで」
「いいんだ、俺がこうしたいんだから」
「そうなの?」
「ああ。…でもな、もうこうするのは俺だけにしろよ」
「う~ん、それはちょっと…あたし甘えただから大丈夫かなぁ…」
「大丈夫さ。第一、もう俺じゃないと駄目だろう?…俺ならこういう事もしてやれるからな」
 そう言うと土井垣は彼女に軽くキスをした。彼女は驚いて顔を赤らめると、慌てて彼から身体を離そうと抵抗する。
「ちょっと待って、これはやっぱりセクハラっぽい…」
「…じゃあ、いらんのか?」
 彼の余裕たっぷりの笑みに彼女は抵抗をやめると、顔を更に赤くして頬を膨らませ、横を向く。
「…知らない、好きにして」
 彼女の態度の愛らしさに土井垣が改めてきつく抱きしめると、その胸の中で葉月がふと呟いた。
「…将兄さんがこうするのは…あたしだけなのよね?」
 彼女の言葉に、彼はふっと笑うと優しく言い聞かせる様に呟いた。
「もちろんだ。…俺がこうしたくなるのはお前だけだ」
「…ならいい、あたしも将兄さんにしかこうしない様にする」
「そうか」
「うん」
 二人は顔を見合わせると、にっこり笑った。