「ねえ、将兄さん」
「何だ?」
 昼下がりの土井垣のマンションの部屋。スポーツ誌を読んでいた葉月が土井垣に声を掛けた。葉月が読んでいたのは東京スーパースターズの特集記事。そこには様々なデータや識者の論評等と共に彼へのインタビューも載っていた。彼女はそのインタビュー記事を読んでいて不思議に思った事があったので問いかけたのだ。彼女はその問いかけたい内容をそのまま口にする。
「将兄さん、FAの時行使しないで日ハムに残ったでしょ?」
「ああ、それがどうかしたか」
「あの頃将兄さんメジャーに行くって噂立ったし、実際行っても充分通用するって評判だったのに行かなかったのって、ここで言ってるけど『自分がメジャーに行って野球をする姿が想像できなかった』からって本当?」
 葉月の問いに土井垣は苦笑するとゆっくりと答える。
「…ああ、まあな。守ともう少しバッテリーとして付き合いたいっていう気持ちもあったんだが、一番の理由はそうだったな」
「ふうん…みんなメジャーって憧れるものだって思ってたけど、例外がここにいたんだ」
 からかう様に軽い口調で言葉を紡ぐ葉月に、土井垣は更にゆったりと答える。
「そうでもないぞ。日本の野球だって問題も多くあるが、いい所も沢山ある。日本の方がいいと思う選手だってきっと多くいると俺は思っている。そしてそれが俺自身だった…そういう事さ」
「そう?」
「ああ…それにな」
「それに?」
「俺がFA権を得た時に自分の未来を考えて浮かんだのは、メジャーで野球をしている自分じゃなかった。それに、さっきはああ言ったが…守とずっとバッテリーを組んでいる姿でもなかったんだ」
「じゃあ、どんな姿だったの?」
 不思議そうに問い掛ける葉月に、土井垣は更に苦笑しながら答える。
「今から思うと因縁めいてるんだが…実はな、明訓の連中ともう一度野球をしている姿だったんだ」
「嘘でしょう?またあたしをからかってるんだ」
 土井垣の言葉に頬を膨らませてポカポカと土井垣の身体を叩く葉月に、彼は困った様に続ける。
「いや、からかってなんかいないぞ。本当にそれが浮かんだんだ」
「…」
 葉月は土井垣の瞳を見詰める。そこに浮かぶのはからかう様な光でも、彼女を騙す様な光でもなく、真摯で誠実な光だった。それを見て葉月は小さく溜息をつくと口を開く。
「…確かに、冗談じゃないみたいね。…だとすると本当に不思議よね」
「そうだな。今の俺は本当にあいつらと同じチームで野球をしているからな」
「しかも監督もしてるし…だとすると、将兄さんには予知能力があったって事かしら」
 またからかう様に言葉を紡ぐ葉月に、土井垣はふっと笑って答える。
「いや、きっと俺はあいつらとまた野球がやりたいって心のどこかで思っていたんだ。それが偶然叶っただけさ」
 ふっと笑って答える土井垣に、葉月もにっこり笑って応える。
「じゃあ望んでた未来が叶って良かったですね」
「そうだな」
 葉月の言葉に土井垣は更に笑顔になる。笑顔を見せた土井垣はふと思い出した様に口を開く。
「そういえば俺にはもう一つ未来が見えていたんだ。…それに、それは段々はっきりしてきているんだ」
「何ですか?その未来って」
 無邪気に問い掛ける葉月を土井垣は不意にふわりと抱き締めると、その耳元に囁く。
「お前と一緒に生きていく事だ…」
 彼の未来予想図の中にそれはあった。微笑んで自分の隣を歩く彼女、そして自分との新しい生命を抱く彼女、そして家族に囲まれながら互いに白髪と皴が増えた姿で微笑み合って――彼には様々な彼女が彼の未来予想図に描かれていたのだ。葉月はしばらく抱き締められるままになっていたが、やがて彼の胸の中で小さな声で呟く。
「…本当?」
「ああ」
 土井垣の答えに彼女はまたしばらく沈黙すると、やがてゆっくりとまた小さな声で呟く。
「…嘘でもいいわ…信じてあげる」
「お前は…」
 むっとして身体を離す土井垣に、葉月は寂しげに微笑むと言葉を紡ぐ。
「あたしも…将さんと一緒に生きていくって未来が描けたら嬉しいな」
「今は描けないのか?」
 土井垣のむっとしたままの問いに、葉月は寂しげな微笑みを見せたまま答える。
「うん。…でも、もう少し…そう、もう少ししたら、きっと描けると思う…あたしが将さんを、何よりあたし自身を信じられたら…」
「…そうか」
「うん」
 葉月の言葉に土井垣はもう一度、今度はきつく抱き締めると口を開く。
「だとしたら俺はもっと頑張らなければな…お前が俺を信じられる様に」
「ううん…将さんは将さんのままでいいの…違うわ、将さんのままじゃなきゃ駄目。…信じるのはあたしの力よ」
 彼女の言葉に、土井垣は何故か自分の描いた未来予想図が更にはっきりした気がして幸せな気持ちになり、それをそのまま言葉に乗せた。
「なら大丈夫だ…お前はそこまで分かっているし、何より俺達の未来は今はうっすらとかもしれんが、確かに重なっているんだからな」
「そうかな…」
「そうさ。お前は俺を愛している…そう言っていただろう?」
「…ん…」
「俺もお前を愛していると言ったろう。お前は嘘がつけないし、俺もお前に嘘はつかない。だから俺達の気持ちも未来も重なっているんだ。…お前は自分の感じている気持ちに慣れていないだけさ。だから、お前が俺とお前の気持ちに感じているものに慣れれば、俺の気持ちも、俺達の未来が重なっている事だって絶対に信じられる。だから大丈夫なんだ」
 そう優しく囁く土井垣の胸に葉月は幸せそうに体を埋め、呟く様に口を開いた。
「…そう、そうよね…ありがとう。あたし、自分の気持ちに早く慣れる様に頑張るわ」
 自分の胸に身体を埋めてそう呟く葉月が愛おしく、土井垣は更に彼女を抱き締める腕に力を込め、その耳元に囁く。
「頑張らなくていい。ゆっくり…ゆっくり慣れていけ。ちゃんと俺達両方の気持ちが染み透る様にな…身体にも…心にも」
「…ん」
 二人は微笑み合うと、お互いの気持ちを確かめる様にそっとキスを交わした。