「すいませ~ん、明日早いんで私これで失礼しますね」
「宮田ちゃん、いいじゃんもうちょっと位」
 ある夜も更けた時間の小さな居酒屋、楽しげに飲んでいる一団にいた一人の若い女性が申し訳なさそうに集団の仲間に挨拶した。残念そうな口調で引きとめようとする面々に『宮田ちゃん』と呼ばれたその女性――フルネーム宮田葉月――は、更に申し訳なさそうな口調で言葉を続ける。
「でも明日は出張先に直行するって言っちゃったんで、帰って少し地図を見ときたいんですよ」
「そっか~宮田ちゃんにしたら確かに直行は大仕事だもんね。仕方ないか」
「何せ下手すると歩いて5分の所を、地図を持ってても一時間以上迷う娘だし」
「もう、事実ですけどそれ言わないで下さいよ~」
 彼女の言葉に納得した様に言葉を畳み掛けていくそこにいた面々に彼女を含めた全員が爆笑する。ひとしきり笑った後、気を取り直した様に葉月は挨拶をした。
「という事ですんで、お名残惜しいですが今日はこれで…お疲れ様でした」
「お疲れ様~気をつけて帰ってね」
「はい。マスター、ごちそうさまでした」
「ああ、またおいで」
 葉月が自分の分のお金を払い帰ろうとした時、そこにいた彼女と同年代の男性が声を掛けた。
「宮田さん、もう遅いからもしだったら送ろうか」
「いいですよ~一人で帰れます。久しぶりなんですから土井垣さんはゆっくり飲んでて下さい」
「大丈夫なのか?今の話だとここから駅まででも迷う事がありそうだが」
「…」
 土井垣の言葉に、葉月は決まりの悪そうな表情で目を逸らす。その様子に土井垣は呆れた様な口調で言葉を続けた。
「やっぱりな…こんな遅い時間にこの辺りで迷ったら危ないだろう。やっぱり送ろう」
「すいません。…じゃあお言葉に甘えて…」
「じゃあすいません、自分も途中まで彼女を送ってきます」
「オッケー、戻ってくるまで僕達は好きに飲んでるから、ゆっくり送っておいで」
「…」
「すいません、なるべく早く戻しますから」
 心なしか『ゆっくり』が強調された一同の言葉に土井垣はばつの悪そうな表情で沈黙し、一同の言葉のニュアンスにも土井垣の様子にも気付いていない葉月が言葉を素直に受け取り申し訳なさそうに口を開くと、一同は彼女が気付かない程度(しかし、土井垣はしっかり理解できる程度)に含んだ笑みを見せ、殊更明るい口調で二人を送り出した。
「いいよいいよ気にしないで。じゃあ土井垣君、いってらっしゃ~い」

「…すいません、折角皆さんと久しぶりに飲んでらしたのに」
「かまわんさ。君が道に迷って、何かある方が心配だったからな」
「はあ…でもこうしてもらっておいて何ですが…そんなに危なっかしく見えます?私」
「いや、それだけじゃなくて、その…」
「…ねえ、もしかしてあなた宮田さん?」
「え?あなた…あ、朝霞さん?」
 二人が話しながら歩いていると、不意に前方から歩いて来た若い女性が葉月を見詰めて呼び止めた。女性の呼び止めに戸惑いながらもその女性を見てふと何かに気付いた様に葉月が答えると、その女性はぱっと明るい表情になり、はしゃいだ口調で葉月に抱きついた。
「あったり~!やっぱりはーちゃんだ~!やだホント久しぶり~!」
 抱きついた彼女に応える様に葉月も嬉しそうにはしゃぐ。
「何よ~!それはこっちも同じよヒナ!あんたの卒業以来じゃない!」
「そうだね~。お互い色々大変だったから連絡取れなかったし。でもこうやって会えて嬉しいな」
「あたしもよ。でもヒナ、あんたの入った医大この辺じゃなかったよね、しかもこんな時間に何でこんなとこにいるの?」
「ん~?今の研究の文献がこの傍の病院にあってね。…で、読んでたらこの時間。それより、あんたこそどうしたの?地元から一歩も出そうになかったあんたがこんな所で」
「そうしたかったんだけどね~結局こっちで就職して、仕事の関係で通えないから家出たの。今はこっちでお世話になってる方達と飲んだ帰りなんだ」
「じゃあもう大丈夫なの?身体の方は」
「ん…まあ完璧とは言えないけどね、何とかあの頃くらいまでにはなってるよ」
「そっか…良かったね。連絡しなかったけど、ずっと心配してたんだから」
「ありがとう、悪いとは思うけど嬉しいな」
「どういたしまして。…で、この男の人は誰?」
 陽気にはしゃいでいる二人の様子を驚いた様に見詰めている土井垣を指して女性が問いかける。彼女の問いに、葉月はぺろりと舌を出すとお互いを紹介した。
「あ、ごめん。紹介が遅れたね。えっと、この人は土井垣さんていうの。さっき言ったこっちでお世話になってる方の一人でね、今あたしを駅まで送ってくれてるんだ。土井垣さん、こちらは朝霞弥生さんって言って、私の高校時代の同級生なんです」
「そうか…しかし、宮田さん今彼女の事を『ヒナ』と呼んでいなかったか?」
「あ、それ彼女が付けた私のあだ名なんです」
 土井垣の問いに弥生が微笑みながら明るい口調で答えると、葉月が首をすくめながらばつが悪そうな口調で続ける。
「『弥生』じゃかたいから連想で雛人形の『ヒナ』にしよって勝手に付けちゃったんだよね~今更ながらごめんね」
「いいよ、あたしだっておんなじ様な理由で『はーちゃん』って呼んでるんだし。皆が言ってた『カレンダーコンビ一号・二号』より相当ましだと思うけど?」
「そっか、そう言われるとそだね」
「そうなのか…ああ、すいません、初対面でずけずけと。はじめまして、土井垣です」
「こちらこそすいません、朝霞です…ええと、もしかしてはーちゃんの恋人なんですか?」
「あ、いや、それは…」
「やだ違うよヒナ、あたしが恋人じゃ土井垣さんに失礼だって。土井垣さんも困ってるじゃん」
 弥生の屈託ない問いに土井垣は狼狽し口ごもったが、葉月はその態度の意味を取り違えてコロコロと良く通る声で笑うとあっさりと否定する。しかし葉月の答えに弥生は納得がいかない様子で更に問いかけた。
「え~っ?嘘だぁ!彼氏じゃないんだったらどういう人なのよ?お堅いあんたが二人っきりで送ってもらって平気なこの男の人って」
「あ、ええと、何ていうか…」
 弥生の重ねての問いに葉月はふと今までと態度を変え少し考え込むと、やがて呟く様な口調だがやはり屈託ない態度で答える。
「…お兄ちゃんがいたらこんな感じかなっていうか…うん、ある意味『保護者』…?」
「…」
「ホントは『保護者』も失礼だと思うけど、お友達とも仲間ともちょっと違うし、恋人なんかじゃもちろん失礼に当たるし…何かそれ以外当てはまりそうな言葉が思いつかない。…あ、すいません土井垣さん、失礼な事言っちゃって」
「いや、別にかまわんさ…そうか、『保護者』か…」
「ふーん、『保護者』ね…」
 呆然とする土井垣と申し訳なさそうながらも屈託ない葉月を見比べながら弥生はしばらく考え込んでいたが、不意にくすりと笑うと明るい口調で葉月に声を掛ける。
「…ねぇはーちゃん、連絡先教えてくれる?また今度ゆっくり会おうよ」
「うん、あたしもヒナとゆっくり話したいな…あんたも教えてよ」
「オッケー」
 二人はお互いに連絡先を書いたメモを渡すとにっこり笑い合う。
「じゃあごめんね長々と。近い内に連絡するから」
「あたしこそごめん、何か引きとめた形になっちゃったし…そうだはーちゃん」
「何?」
「この人がいくら保護者してくれてても、あんまりそれに甘えちゃ駄目だよ」
「もちろん、あたしにとっては得がたい人だもん。大事にしなくちゃって思ってる」
「そっか…はーちゃんにしたら上出来ね」
「何が?」
「ん~別に~?…そうだ、土井垣さんでしたっけ…色々失礼しました。はーちゃんてこういう子だから、彼女が何か迷惑かけてたら、遠慮なく怒ってやって下さいね」
「ああ、いや…」
「じゃあはーちゃん、またね」
 そう言うと弥生は土井垣に一礼し、葉月に軽く手を振って二人の横を通り抜けていった。すれ違った瞬間、弥生は彼にだけ聞こえるくらいの小さな声で『ファイト』と呟く。驚いて土井垣が彼女の方を向くと、彼女はにっこり笑って葉月から見えない角度で小さく彼にVサインをした。その行動に彼女が自分の気持ちを見抜いたと分かり、去っていく彼女を見詰めたまま土井垣は赤面して立ち尽くす。その様子を見た葉月が不思議そうに声を掛けた。
「どうしたんですか?」
「いや…別に」
「もしかして…ヒナに一目ぼれですか?見た目も頭も性格もいいしお勧めですよ、彼女は」
「違う!…ああすまん」
 からかう様な口調の葉月に土井垣は一瞬声を荒げかけたが、その口調にしゅんとした表情を見せた彼女を宥める様に頭を叩くと、静かな口調で言葉を続ける。
「そうだ、さっき彼女が言っていた『身体は大丈夫か』というのは一体…?」
 彼の問いに彼女は困った様に笑い、少し躊躇った後明るい口調で、しかしぽつりと答えた。
「ああ、言ってなかったですっけ。…私、高校の時ちょっと体調崩して一年留年してるんです」
「そうだったのか…もしかして悪い事を聞いたかな」
「別にかまいませんよ。隠してる訳じゃないですし、皆知ってる事ですから。…あの、ええとすいません、長話しちゃって。皆さん待ってるでしょうし、ここまで来たら大丈夫ですから…もしだったらもうお店に戻って下さって大丈夫ですよ」
 土井垣を気遣い取り成す様に言葉を続ける彼女の口調は一見いつもの様に明るかったが、その明るさに隠された彼女の脆さと、他人を踏み込ませないための見えない壁を土井垣は鋭く感じ取った。こうして彼女が壁を作っている以上、彼女の言葉に従いここで戻るのが正しい選択なのだろうとは思う。しかし壁に阻まれていてもいい、いつもとは違う儚げな今の彼女を一人にはしておきたくなかった。そう思った彼は次の瞬間、無意識にからかう様な口調で言葉を紡いでいた。
「いや…最後まで送ろう。何せ俺は君の『保護者』だからな」
「もしかして怒ってます?あれは言葉のあやで…本当にすいません」
 土井垣の言葉に一瞬彼に作った壁を消し心底申し訳なさそうな表情と口調で応えた葉月に、彼はふっと笑うと更に軽い、しかしその中に優しさを込めた口調で言葉を続けた。
「いや、別に怒ってはいないさ。…しかし冗談抜きで、君が嫌じゃなければ送るぞ…いや、送らせてもらえないか?」
 土井垣の言葉に葉月は驚いた表情を見せたが、やがて先刻の儚さが消えたいつもの芯から明るい、しかしその代わりいつもより心なしか柔らかい表情と口調でにっこりと笑うと言葉を返した。
「…お願いしていいですか?今は何となくお言葉に甘えさせてもらいたい気分なんで」
「ああ、じゃあ行こうか」
「はい、お願いします」

「…土井垣君、うまくやってるかねぇ」
 二人がいなくなった後の居酒屋の面々は、二人を肴に陽気にしゃべりあっていた。
「相手があの宮田ちゃんだからねぇ、色々道は険しいわよね」
「でも宮田ちゃんも土井垣君に結構懐いてるんだよね。ああやって素直に送ってもらってるし」
「僕達だったら絶対に断ってるもんね。恋愛感情はないとしても、僕達よりは距離を近くしてる」
「だとすると宮田ちゃんにとっての土井垣君て、一体何だろうね」
「そうだねぇ…あ、そうだ。もしかして…」
「何?」
「保護者代わりか何かだと思ってるんじゃないか?」
 その言葉に一同は大爆笑に包まれ、それぞれ口々に言葉を続ける。
「保護者!それ傑作!」
「土井垣君には不憫だけど、でも宮田ちゃんならあり得るから笑えるわ~」
「でもそこから昇格する可能性だってあるじゃん」
「保護者だけにかすかな希望だけどね~。まあ望みなしよりはいいのか」
「じゃあ昇格できるかうちらは賭けでもする?」
「乗った!」
 面々はそれぞれ賭けに乗ってそれぞれの予想と金額を言い合い始める。都内某所の小さな居酒屋はこうして今日も陽気に時が過ぎていくのだった。