夜明け前の都内のある病院付属の事務所のソファで、葉月は喉の渇きを覚えて目を覚ました。少し飲んだアルコールが残っているのか、ふらつく頭で周りを見渡して彼女は驚く。何故なら、彼女は自分でここに来た記憶が無かったからだ。とりあえず事務所の水道の水を飲んで喉の渇きを潤し気持ちを落ち着けた後、自分が眠っていたソファに腰掛けて何があったか考えてみる。
『タオルケットがある…だとすると昨日一緒に飲んでた沼さんあたりが運んでくれたのかな』
 そこまで考えてふとそれは違う、という考えに襲われる。おぼろげな記憶に残っている背中の感触は広くて暖かく、とても安心できるものだった。別に沼田の背中がどうとかではなく、沼田の体格は自分とそう変わらないため、背負っては運べないだろうと思ったのだ。案内は沼田がしたのかもしれないが、おそらく運んでくれたのは別の人物。なら自分を運んでくれたのは誰だったんだろう――そこまで考えて彼女はある考えに辿り着き、頬が熱くなってくるのを感じた。
『もしかして…でも…』
 昨日飲んでいたメンバーで、自分を背負って運べそうな体格を持った人間は一人しかいなかった。その人物を思い、飲んでいる時にした自分とその人物の行動を次々と思い出していくと、顔がどんどん赤くなってくる。
『そうだ…あたし、練習後の飲み会で最近の仕事のストレスでつい飲んじゃって潰れちゃって…その時に来てあたしを何で潰したんだって怒ってくれたのは…それに…あの人は…』
 彼女は『その人物』が取った言動を思い出すと恥ずかしくなり、思わず赤面した顔を覆う。
『あの人はなんて言ってくれた?それで…何をしたの…?』
 思い出すにつれどんどん恥ずかしさでどこかに隠れたくなってくる自分がいる。しかしそれと同時に『その人物』が取った行動が嬉しくてたまらないと感じた自分もどこかで自覚していた。
『…あの人は『あたしがどうなっても大丈夫だから自分を頼れ』って言って、あたしを抱き締めてくれた。…あたしはそれが嬉しくて…とってもその胸の中が居心地が良くって、安心して…眠っちゃったんだ…』
 彼女は自分のした行動に赤面したまま、ゆっくりと考える。
『そうよ…あそこで前沼さんに聞いた事の『答え』を、あたしは自覚しちゃったんだ…』
 ある時から『その人物』との距離をどう取っていいのか分からなくなっていた自分。なぜ距離の取り方が分からなくなったのか、自分は無意識に分かっていたのに否定しようとしていたのだ。しかしあの席でもう否定しようがなくなって、『その人物』も同じ気持ちでいてくれた気がして、それが嬉しくて幸せで――しかし酔いが大分覚めた今の頭で考えると、それは自分の勝手な思い込みに思えた。彼のとった言動は多分酔った頭が見せた夢。本当はもっと違う話だったんだろう。全てを自分の都合のいい様に考えていた、自分の酔った幸せな頭に彼女は苦笑すると、事務所の時計を見て呟く。
「さて…今日は出張もないし、とりあえず始発で一旦帰れば遅刻なしで戻って来れるわね…さすがに昨日と同じ格好はまずいもんね。お風呂入って着替えて来るか」
 彼女は今まで考えていた事を振り払う様に頭を振ると、傍らに置いてあった荷物を手に取り、事務所を後にした。

 とりあえず自分のマンションへ帰り、シャワーを浴びて着替えて食事をとった後、彼女はもう一度事務所へ何事も無かったかの様に出勤する。そうしていつも通り仕事をこなし、昼休みになった時、不意に沼田が声を掛けてきた。
「宮田ちゃん」
「ああ、沼さん。昨日は潰れちゃってすいませんでした」
「ん…?ああいいよ、でもとりあえずは気をつけな。昨日は土井垣ちゃんがいたから運んでもらったけど、いつもだったら僕らじゃ運べないから置いてく所だったよ」
「え…?あ…はあ…」
 悪戯っぽい口調で言葉を返す沼田に、彼女は『やっぱりそうだったのか』と思い、また恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。赤面して沈黙している彼女に、沼田は更に悪戯っぽい口調と表情でメモ用紙を渡す。
「でね…はいこれ宮田ちゃん」
「はい。…えっと…これ誰の番号ですか?」
 そこに書いてあったのは見慣れない携帯番号。問い返す彼女に沼田は悪戯っぽい口調のまま更に答える。
「ああ、土井垣ちゃんの携帯番号。教えていいって言われたからとりあえず渡しとこうと思って。ついでに言うと宮田ちゃんの番号も土井垣ちゃんに教えてあるから。昨日のお礼なりお詫びなりしたいなら掛けて大丈夫だよ」
「えっ?私の番号も教えたんですか!?」
 彼なら教えてもかまわない…と言うよりむしろ教えてくれた沼田のさりげない気遣いに感謝をしつつも、戸惑いもあり思わずまた問い返すと、沼田はさらりと答える。
「うん、宮田ちゃんならきっといいって言ってくれると思ったから…でしょ?」
 そう言って悪戯っぽくウインクする沼田に彼女は一瞬赤面して絶句しつつも、呟く様に答える。
「…ありがとうございます」
「良かった、怒られなくて。じゃあそういう事だから…ほら、早くお昼しちゃお」
「そうですね」
 沼田の行動に彼女は戸惑いつつもにっこり笑って応えた。

 その夜、彼女は自分の部屋で携帯電話を目の前に考え込んでいた。昼に沼田に教えてもらった土井垣の番号は登録し、着信音も専用のものを指定した。しかし、彼からかかってくるという保証はない。かと言って自分からかけて迷惑にならないだろうか、という思いもあった。迷惑がられるくらいならこのまま何も無かった事にしてしまおう。自分で自分に問いかけていた問いの答えはもう出たのだ。しかしその気持ちを押し付けて気まずくなるのは嫌だった。だとしたらこのまま無かった事にして前の様に何も考えずに楽しんでいる振りをすればいいのではないか。うまくはできないかもしれない。でも嫌われるよりは自分が気持ちを抑えた方が何もかもうまくいく――そんな事を考えていると不意に携帯電話が鳴る。そのメロディーに彼女は驚いた。何故ならそのメロディーは――慌てて電話を取り『はい』と応えると、電話越しに緊張した様な男性の声が聞こえてきた。
『ええと…宮田葉月さんの携帯で…よろしいんですよね』
「はい…そうです」
 彼女もその声に緊張した様に応えると、しばらくの沈黙の後更に言葉が続いた。
『…ああ、良かった。宮田さん本人だな。遅くにすまん、土井垣だが』
「いいえ、こちらこそ…」
『昨日は災難だったな。あれから二日酔いとかにはならなかったか?』
「はい…大丈夫でした」
『良かった。結構酔い潰れた感じだったから、少し心配だったんだ』
「はい…心配かけてすいませんでした」
 緊張した様にいつもより饒舌に話している土井垣に、彼女も高鳴る胸を抑えながら言葉を返す。
「あの…土井垣さん」
『何だ?』
「昨日は…私を運んでくださったんですよね。…すいませんでした」
『あ、ああ…いや…かまわんさ。あそこで君を運べそうなのは俺しかいなかったし…それに』
「それに?」
『ああ…いや。何でもない』
 彼女の言葉に電話の向こうの土井垣は狼狽した様な口調になる。その事を不思議に思いながらも彼女は更に謝罪の言葉を続ける。
「でも本当にすいませんでした。何て言ってお詫びしたらいいのか…」
 彼女の言葉に電話の向こうの土井垣は一瞬沈黙すると、緊張した、しかし同時に悪戯っぽい口調で言葉を紡いだ。
『…じゃあ、今度また食事に付き合ってもらおうかな』
「え?」
 訳が分からずに彼女が問い返すと、電話の向こうの土井垣の声が不意に真剣な口調になって返って来る。
『君のお詫びを聞くってだけじゃなくて、俺も話したい事があるんだ。…だから…付き合ってもらえないか』
 土井垣の口調の真剣さに彼女は何故かある期待を感じて、胸の高まりが更に強くなってくる。それでもそう悟らせない様に、努めて冷静な口調で彼女は応えた。
「…はい」
『ありがとう。じゃあ今夜は遅いからまた詳しい事は連絡するから…いいかな』
「はい。お昼の1時から2時と、夜9時以降は大抵空いてますからかけて下さって大丈夫ですよ」
『そうか…ありがとう。じゃあ遅くにすまなかった』
「いいえ…ではまた」
 そう言って電話を切った後、彼女ははやる心が抑えられなくなっていた。土井垣が食事に誘ってくれた。それだけじゃない。自分に話したい事があると言っている。昨日の彼の言動が本当に夢じゃなくて、もし自分の期待が正しければ――彼女ははやる心とともに、頬が熱くなってくる。しかし、もう一方で冷静に小さな決心をしている自分もそこにいた。期待通りでなくてもいい。ここに、自分の心の中に、たった一つだけ真実がある。自分が土井垣を好きだという事――この気持ちはもうごまかせない。だから、たとえ土井垣の話がどんな事であってもいい。この真実を彼に真っ直ぐ伝えよう――彼女は小さな決心をして眠りに就いた。

――このたった一つの真実がお互いのものだと分かるまでもう少し――