「いや~ごめんね土井垣ちゃん。一緒に来てもらっちゃって。起きてるならともかく、寝てる状態じゃ僕も人一人は運べないから」
 土井垣と中年の男性が大通りから一本入った道を歩いていた。土井垣の背には寝息を立ててぐっすり眠っている女性。道を歩きながら男性が申し訳なさそうに土井垣に謝ると、彼は『何でもない』といった様子で笑うとそれを制する様に言葉を返した。
「いえ、自分は構いませんから。それに…」
「それに?」
「彼女を運ぶなんて、他の誰にもさせたくないですし」
「はいはいごちそうさま…そうだったね」
 照れた表情を見せながらもはっきり言う土井垣の様子に男性はおかしそうに笑った。実はつい先刻土井垣はこの男性を含む一緒に飲んでいた面々が見物する中、今自分の背中で眠る彼女に思わず告白してしまったばかり。ところがそれを聞いていたのかいなかったのか、彼女は彼の告白の最中に抱き寄せられた腕の中で眠り込んでしまったのだ。その上帰る時間になっていくら起こそうとしても起きない。彼女が住んでいるマンションの詳しい場所を知っている人間が誰もおらず途方にくれていると、彼女と職場が一緒のこの男性が『職場ならここから歩いてすぐだから』と折衷案を思いつき、周囲からからかわれつつ土井垣が彼女を背負い、鍵等の関係で男性が一緒に行くという事で話がまとまり、今その道のりを歩いている最中なのだ。ぐっすり眠り込む彼女を見て、男性は楽しそうに口を開く。
「でもホント無防備に寝込んでるなぁ宮田ちゃん。僕らにはこんなリラックスした寝顔見せた事ないのに」
「…沼田さん、彼女の寝顔見た事あるんですか?」
 不機嫌そうに顔を歪める土井垣に、沼田は宥める様なからかう様な口調で言葉を重ねる。
「ほらほら土井垣ちゃんそんな顔しない。…彼女の仕事普段でもハードだし早朝出勤もしょっちゅうだから、彼女だけじゃなくて彼女のチームの人達みんな移動中の車の中とか事務所とかでしょっちゅう仮眠を取ってるんだよ。僕と彼女はチームは違うけど部署が同じだし、僕自身彼女のいるチームの仕事手伝うから、寝てる姿なんて見慣れてるの。…まあ彼女はなるべく寝顔見せない様な寝方してるけどね」
「そうですか…」
 沼田の言葉に土井垣の表情がふと曇る。それに気付いた沼田は軽い口調で声を掛ける。
「どしたの?土井垣ちゃん」
「あ、はあ…あそこまでしておいて今更と思われるかもしれませんが、自分は今日の一件で彼女の事を知っていたつもりで何も知らないんだなと痛感して…」
 土井垣の言葉に沼田はにやりと笑うと、読めない軽い口調で言葉を返す。
「そんなの宮田ちゃんも一緒だと思うよ。でも結局は土井垣ちゃん離さないで寝込んでたんだから、脈ありだと思っていいんじゃない?」
「…」
 土井垣は赤面して黙り込んだ。そう、彼女は確かに眠り込んでしまったのだが、飲み屋で眠っている間土井垣の服を決して離そうとしなかったのだ。帰る時もその状態で眠り込んでいたので土井垣がこうして背負っているというのも一緒に帰っている理由の半分にはある。
「ほい、着いたよ」
 二人は通り沿いのある一角に建っている小さな病院の前に立っていた。土井垣を残し沼田は通用口から入っていくと、しばらくの後鍵の束を持って出てきた。
「本当は看護師さんの仮眠室を借りようかとも思ったけど、そうすると看護師さん達が使えないから事務所のソファで寝かせるよ。付いて来て」
 沼田は病院の隣のビルに土井垣を促して入っていくとエレベーターに乗り、事務所があるらしい階まで上がる。土井垣を先に降ろした後自分も降りて、持っていた鍵で事務所のドアを開け土井垣を中へ招き入れると、衝立で仕切られた一角を指した。
「そこにソファがあるから寝かせてあげて。僕は病院からタオルケット借りてくるよ」
 そう言うと彼はまた出て行った。土井垣は示されたソファに彼女を降ろして寝かしつけると、すぐ傍に座り込んで彼女の寝顔を見詰める。相変わらず無邪気な寝顔で眠っている彼女を見詰めながら、彼は今日の一連の事を思い出して赤面した。
『俺が見ていた彼女は、ほんの一面に過ぎなかったんだな。…分かっているつもりで何にも分かっちゃいなかった…なのに何で俺はあんな事をしたんだ?』
 今日の自分の言動が自分でも分からなくなり土井垣は混乱していた。彼女に対する想いは今日の事でも何ら変わっていない。しかし想いは変わらないとはいえ何も分からなくなった相手に何で告白を含めてあんな大胆な行動ができてしまったのか彼は分からなかった。酔った勢いと言ってしまえばそれまでだが、そうではない事は心のどこかで理解している。でもそれなら何だと問われると答えられない。困惑しながら彼女を見詰めているとタオルケットを抱えた沼田が入って来た。
「ほ~い、タオルケット到着~…あれ、お邪魔だった?」
「沼田さん…」
 からかう様な軽い口調の沼田に苦々しげな表情を見せる。沼田はそんな土井垣の様子もあっさり受け流すと手際よく彼女にタオルケットを掛けた。
「とりあえずこれ掛けてあげて…後は鍵閉めて帰ればOKっと」
「でも、これだけじゃ風邪ひきませんか?」
 心配そうに問いかける土井垣に、沼田は明るく答える。
「大丈夫大丈夫、さっき言った通り彼女こういうの慣れてるから」
「はあ…でも朝起きたら彼女驚くでしょうね」
「そだね。でも明日は絶対遅刻なしだからいいんじゃない?…っと、そうだ。ちょっと待ってて土井垣ちゃん」
 沼田は事務所の机の一つに近付いて何やらサラサラと書くと、土井垣の傍に戻って書いたメモを差し出した。土井垣がメモを見ると、そこにあったのは見慣れない携帯番号。
「何ですか?これ」
「ん?宮田ちゃんの携帯番号。土井垣ちゃん知らないでしょ?」
「そうですか…って勝手に教えていいんですか!?」
「土井垣ちゃんなら大丈夫だよ。その代わり土井垣ちゃんの番号も明日宮田ちゃんに教えとくからね、いいでしょ?」
 そう言って相も変わらず読めない笑顔でにっこり笑う沼田に土井垣は毒気を抜かれ、思わず素直に本音を出す。
「あ、はあ…お願いします」
「明日になったら今日の事を使って電話かけて、ついでに食事にでも誘えば?彼女、断らないと思うけど」
「いやしかし…」
 困惑する土井垣に沼田は相変わらず読めない笑顔で、しかしきっぱりとした口調で言う。
「『何にも知らない』って悩んでるよりは、お互いこれから知ってけばいいじゃん。あそこまでやったらもう何も怖くないでしょ?」
「…そうですね」
 沼田の言葉に土井垣も思わず笑みを見せる。沼田はそれを見ると悪戯っぽい笑みを返して更に続けた。
「…で、どうする?職員の立場としては本当なら部外者は入れておきたくないけど、もしだったらついててあげてもいいよ~その代わり明日が大騒動かな」
 さらっとある意味とんでもない事を言う沼田に、からかわれているとは分かっているものの土井垣は顔を真っ赤にして彼女を起こさない様に小さな声でだが声を荒げる。
「沼田さん、からかわないで下さい!自分も帰りますよ!」
「あ、そう?じゃあ出ようか。じゃね、おやすみ~宮田ちゃん」
 そう言うと沼田は土井垣を置いてさっさと部屋を出て行く。土井垣は一瞬むっとした表情を沼田が出て行った方に向けたが、すぐにおかしそうにふっと笑い、眠っている彼女をもう一度覗き込み、そっと囁く。
「じゃあおやすみ…また明日」
 土井垣は彼女の額を手のひらでなぞり唇を寄せる。その時偶然なのか彼女が小さくふふっと声をあげて笑った。土井垣もそれを見て微笑み返すと、踵を返して部屋から出て行った。