「...ごめんなさい、将兄さんの立場が悪くなる事をしちゃって」
「いいさ。話からしたらどう考えても報道陣が悪い」
「でも、こんな事しちゃったら将兄さんがもっと叩かれるでしょう?ごめんなさい...」
 ある夜の土井垣のマンション、恋人である葉月は申し訳なさそうに落ち込んだ表情で彼に謝っている。彼はそれを励ます様に宥めていた。実は土井垣と葉月が付き合っていることがあるきっかけからスクープになってしまい、丁度チームが最下位に低迷していた土井垣の方は『女性にうつつを抜かして采配とプレーをおろそかにしている』とバッシングされ、相手の葉月の方もどんな女性なのかという興味本位から、家族や職場の人間も含めマスコミに追われる身になってしまったのである。とはいえ周囲の人間は心得たもので、付き合っている事を知らなかった人間は『知らないから何も言う事はありません』と突っぱね、彼女を含め付き合っている事を知っていた人間も『お付き合いは確かにしていますがそれ以上は言う事はありません』と毅然とした態度を貫き通していたが、彼女が職場の男性職員と良く飲みに行っている事などをどこから掴んだのかあげつらい、他にも様々な憶測や怪情報が飛び交い『魔性の女』等と紹介するなど、悪意のこもった記事も書かれていた。そうした矢先、職場である彼女の病院に報道陣が押し寄せた時、彼女は患者と受診者を守るために報道陣を一喝して追い返してしまった。それで更にマスコミから恨みを買われる身となったと感じた彼女は、彼にまでその余波が行くのではないかと心配して、またバッシングのネタにされる危険を冒して彼に会いに来ていたのである。
「いいや、院長先生やお前の職場の所長さんや事務長さんは援護してくれたし、患者さんからは拍手喝采だったんだろう?だからお前の方が正しかったんだ」
 そう言って彼女の頭を撫でる土井垣に、葉月はほろほろと涙を零し、ぽつり、ぽつりと呟いた。
「でも...あたしはともかく、これじゃ将兄さんの立場がまた悪くなるわ。あたしなんかと付き合っちゃったから、将兄さんがこんな目に遭っちゃうんだ。...ごめんなさい...」
 涙を零して呟く葉月を、土井垣はふわりと抱き締めると言い聞かせる様に囁く。
「そんな事を言うな。...たとえどんな女と付き合っていたとしても、この時期にこの話が上がったのならきっとこの騒動は避けられなかった...だったら相手がお前で、お前が傍にいてくれて良かったと思っている。だから...泣くな」
「...」
 土井垣の言葉に、葉月は涙を零しながら彼の胸に顔を埋めていた。そうしてしばらく彼女は彼に抱き締められていたが、やがてゆっくりと身体を離し、口を開く。
「...将兄さんに迷惑を掛けない様に、これからあたし、どうしたらいいのかしら」
「いいさ、お前は普通にしていればいい。マスコミ対策は俺が何とかする」
「いいの?」
「ああ。周りが何と言おうと、俺はお前の強さと優しさに支えられて頑張れているんだ。だから...そのままでいてくれ」
「...将さん」
 葉月はまた涙を零すと、土井垣の胸にもう一度顔を埋めた。彼はその彼女を今度はしっかりと抱き締める。彼女を抱き締めながら、彼は呟いた。
「...『われが名ははなぬすびとと立たばたてただ一枝は折りてかへらん』...」
「将さん...?」
「...分からなくていい」
 土井垣の呟きに顔を上げた葉月に、彼は微笑みかけた。彼女はその微笑みにつられた様に彼に微笑み返す。その微笑みを見て彼は彼女に啄む様なキスをすると、優しい口調で問い掛ける。
「じゃあ、今夜は...泊まって行くか?」
 彼の問い掛けに、彼女は彼の腕の中で首を振る。
「ううん...泊まる準備もしてないし、これ以上迷惑掛けたくないから...帰るわ」
「迷惑なんかじゃないぞ。むしろ...俺はお前に傍にいて欲しい」
「駄目よ。これ以上将兄さんの立場が悪くなる事は避けたいの。だから...落ち着くまでは泊まらないし、会わないわ。だから、将兄さんもあたしの所には来ないでね」
「...分かった」
 彼女の毅然とした決意に、彼は同意するしかなかった。彼女は身体を離すと立ち上がり、口を開いた。
「...じゃあ、あたしこれで帰るわ。...将兄さん、無理は絶対しないでね」
「ああ、分かっている。それじゃあせめて...送っていこうか」
「ううん...わざわざマスコミにエサを撒く様な真似はしない方がいいでしょ?道は覚えてるし、一人で帰るわ」
「...そうか」
「じゃあね...連絡はする様にするから」
 そう言うと葉月は荷物を取り、ドアに向かう。土井垣は見送るために付いて行った。そうしてドアの前まで来た時、不意に彼女が背中を見せたまま言葉を紡いだ。
「あたしはそんなに綺麗じゃないわ。...そうじゃなくても、その『一枝』のために人生を棒に振る様な真似はしちゃ駄目。...あたしは自分で全部何とかするから大丈夫。だから...将さんは将さんの事だけを考えて」
「葉月...」
「でも...あたしも愛しているわ、将さん」
 葉月は哀しげな表情で振り向くと、土井垣の首に腕を絡め、深く口付けた。驚いて固まる彼に彼女は哀しげな表情のまま微笑むと踵を返し、ドアを開けて出て行った。彼はしばらく固まっていたが、最後の彼女の言葉と態度に、彼女が自分の決心を見抜いていたのだと悟った。彼が先刻呟いたのは、帥宮敦道親王が和泉式部を伴って藤原公任の屋敷へ花見に出かけた時に不在だった公任へと詠んで従者に渡した和歌。そしてその当時、帥宮は和泉式部と道ならぬ恋に落ちていた。和歌の表向きの意味は『花盗人だと言われてもかまわない、この素晴らしい一枝はどうしても折って帰ります』だが、裏の意味は『一枝』が漢詩では『美女』の暗喩でもある事から裏の意味は『自分は和泉式部という美女を折り取った。世間が何と言おうとかまわない』となって、帥宮は和歌という形を取って自分と和泉式部の恋を公言したのだ。土井垣はその故事を引いて、自分も帥宮と同様彼女との恋を何があっても貫き通す覚悟を決めたと表明したのだ。そして彼女もそれを見抜いたからこそ、軽率な行動は起こさない様に、と諌めてくれたのだと彼は思った。しかし彼らとは違い、自分と彼女との付き合いは何の隠し立てする事も、後ろ暗い事もない。確かに彼女の言う通り軽率な行動は慎むつもりだが、自分は彼女との恋を貫き通す――彼女の最後に見せた哀しげな表情とキスで彼は改めてそう決心した。

――彼女がこの時すでに、もっと哀しい決心をしていたとは知らぬままに――