冬の夜、喪服姿の葉月は家路を急いでいた。そして住んでいるマンションに帰り着いた時、その入口に男性が立っている事に気付く。彼女を見て笑って片手を上げる男性に、彼女は驚いた様に声を上げた。
「よお、お帰り」
「土井垣さん、何でここにいるんですか」
「ん?いや…ちょっと顔が見たくなってな。とはいえ中に入ろうにも入口がオートロックの上合鍵もないし、君が帰って来るのを待っていたんだ」
「…来るならせめて携帯に連絡入れて下さい。もし私が泊まりで出張だったらどうするつもりだったんですか」
「そういえば、そこまで考えなかったな」
 いつもの土井垣では考えられない間の抜けた行動に彼女は呆れたが、寒い中外で自分を待っていた彼をただ追い返すのは気が引ける。それに今は何となく一人でいるのは辛かった。
「…とにかく、寒いでしょう。お茶くらいはいれてあげますから中に入りましょう」
「ああ」
 嬉しそうに笑う土井垣に葉月は溜息をつくと、ふと土井垣の頬を両手で包み込む様に触れ、呟いた。
「冷たいけど…冷たくない」
「どうした?」
「…あ、すいません。何でもないです」
 怪訝そうな表情を見せる土井垣に気付いた葉月は、慌てて手を離すとオートロックの鍵を開けた。

 葉月は土井垣を部屋に招き入れると、手早くお茶をいれ土井垣に出す。土井垣は出されたお茶を飲み、ふと思い出した様に口を開いた。
「…それで、お通夜の方はどうだったんだ?」
「ええ。参列なさった方が多くて、改めてすごい方だったんだなと思いました。…って将兄さん何で知ってるんですか?」
「その格好を見れば分かる。…と言いたい所だが…実はな、偶然沼田さんに用があって電話をした時に話を聞いたんだよ。慕っていたドクターが急に亡くなってお前がかなりショックを受けている様だとな」
「そうですか…それじゃ、あそこにいたのも沼さんに言われたから?」
 皮肉を込めた口調で問い掛ける葉月に彼はさらりと、しかし誠実さを込めた口調で答える。
「いいや、俺の意思だ。お前がショックを受けていると聞いて放っておけるか。大丈夫なら良し、落ち込んでいるなら傍にいてやりたいと思ってな。…何で俺を頼らない。もっと…いや、誰よりも俺を頼れと言っただろう?」
 土井垣の言葉に葉月はしばらく黙って彼を見詰めていたが、やがて彼の隣に座り込むとその手を取り、自分の頬に付けた。
「…冷たいと思うでしょう?帰ってきたばっかりで冷えてるから」
「あ、ああ…」
 唐突な葉月の行動に狼狽する土井垣に気付いているのかいないのか、彼女は淡々と言葉を続ける。
「でも、本当はこの位で冷たいなんて言えないんです。…知ってますか?死んだ人の冷たさってこんなものじゃないんですよ」
「…?」
 言葉の意味が分からず彼女を見詰める土井垣に、葉月は寂しげな表情を見せゆっくりと言葉を零していく。
「昔祖父が亡くなった時、私どう見ても眠ってる様にしか見えなくて、起こそうとして頬に触ったんです。…あの時の冷たさは今でも残ってる…死ぬってこういう事なんだって思った」
「葉月…」
「今回は触ってないけど、きっと同じ…せまいお棺の中にいるのは私の知ってる先生でも、それどころか生き物ですらない、芯から冷え切った物体で…先生はもうどこにもいない」
「…」
「倒れる前の日まで一緒に仕事してたのよ。なのに急に目の前からいなくなっちゃった…!」
 彼女の目から涙が溢れ出した。泣きじゃくる彼女を土井垣はゆっくりと抱き締め、しばらく泣かせるままにした後、優しく言い聞かせる様に言葉を掛ける。
「死ぬにしろ生きていてにしろ、急な別れなんて生きていたらこれからいくらだって経験するぞ」
「そんな事分かってます!」
「いいから聞け。大事なのはそこから逃げない事、かと言ってその感覚に慣れてしまわない事だ」
「…」
 土井垣の言葉に彼女は驚いた様に顔を上げ、彼を見詰める。彼は優しい、しかし真剣な眼差しで彼女を見詰め返すときっぱりと言った。
「別れが辛ければ泣けばいい。下手に悟りすますよりも…その都度しっかり泣いて受け入れろ」
 彼女はその言葉にまた涙を溢れさせ、土井垣の胸の中で声を押し殺して泣いた。そうして彼女はしばらく泣き続けていたが、やがて顔を上げ手の甲で涙を拭う。
「…ごめんなさい、これじゃ頼るんじゃなくて甘えよね。こうなっちゃうから頼りたくなかったの…一人でちゃんと立っていられなくちゃいけないでしょ?」
「何言ってる、お前はもっと甘えてもいい位だ。でもな、こうやってお前が甘えるのは俺の…俺だけの役目にしろ」
「今の言葉に『とりあえず今は』って付け足しておくわ。将兄さんだって、いついなくなるか分からないもの」
「お前は…」
 むっとする土井垣の胸に、葉月はもう一度顔を埋めるとぽつりと呟いた。
「…だから、今だけは思いっきり甘えさせてね…」
「ああ。その代わり、俺以外の奴に甘えるんじゃないぞ」
「はぁい…」
 土井垣はしばらく自分の胸に顔を埋める葉月を抱いていたが、やがてそっと身体を離し、何か探る様な口調で彼女に問い掛ける。
「…しかし、お前がここまで落ち込む位慕っていたドクターは、一体どういう奴だったんだ?」
 土井垣の口調に気付かないのか葉月はごく素直に、少しうっとりした表情でその問いに答える。
「えっと…すごくおしゃれだし、口は悪かったけど後には引かないし、もちろん腕は良かったし、とっても素敵な人だったなぁ…」
「ほう…」
 うっとりとした表情で語る葉月の様子に土井垣は虫の居所が悪くなる。その様子に気付いているのかいないのか、彼女はうっとりとした表情のまま続けた。
「…あたしも歳を取ったら、ああいう優しくて凛とした女性になりたいなって思う人だった」
「…女医なのか?」
「そうだけど」
「そうか…」
 一人安心した様に笑みを見せる土井垣を不思議に思い、葉月は彼に問い掛ける。
「どうしたんですか?難しい顔してると思ったら今度は笑ったりして」
「いや、沼田さんからは『慕っていたドクター』とだけ聞いていたから…そうか、女医だったか」
 その土井垣の言葉と表情に、葉月は呆れた様に言葉を返す。
「…もしかして将兄さん…先生にやきもち妬いてたの?」
「う…まあな」
 ぶっきらぼうな口調で答えながらも土井垣は赤面して顔を背ける。葉月は微笑みながらそんな彼の顔を自分の方に向き直らせると、こつんと額をつけて囁きかけた。
「もう、考えすぎ。…あたしが男の人として好きなのは将さんだけだし、将さんだけで気持ちはもう精一杯なんですからね。他の男の人なんてそういう意味では目に入りません」
「…」
 葉月の言葉に土井垣は相変わらずむっつりとした表情を見せながらも、顔は更に赤くなっていく。葉月はその表情を見て微笑んだまま、外でした様に両手で彼の頬を包み込む様に触れ、嬉しそうに呟いた。
「…あったかい」
「当たり前だ、俺はちゃんと生きているんだからな」
「そうね」
「それに…お前だってこんなに温かい」
 土井垣の言葉にくすりと笑う葉月を彼はもう一度抱き寄せ、二人はどちらからともなく口付ける。長い口付けの後、彼女を抱き締めたまま土井垣は彼女に囁きかける。
「もっとお前の暖かさを感じたい…と言ったら…どうする?」
「…そのセリフ、今日に限ってはあたしが言う状況だと思うんだけど…」
「…という事は、肯定と取ってかまわんのだな」
「…どちらでも」
 二人は見詰め合うと、意味ありげに笑った。