「いいえ、かまいませんよ。忙しいんでしょう?文乃さんも」
ここは文乃のマンション。2LDKの一室には法律書や専門書が所狭しと並んでいて、テーブルや床にも置いてある。中に車の専門書や手書きのノートが混じっているのは、おそらく夫の隆のものだろう。土井垣の恋人である彼女の妹も家での持ち帰り仕事や勉強が忙しくなると片付けまで頭が回らなくなり、そういう時には自分の部屋にこうして本を散乱させている事を知っている彼は、性格はかなり違うが似ているところもあるんだなと微笑ましく思った。文乃は手早くテーブルに置いてあったり床に散乱した本を積み上げ土井垣が座る場所を確保すると、本棚の中から何冊かのアルバムを取り出し、彼の前に座った。
「じゃあ、約束通り小さい頃のあの子の写真見せてあげる…とは言っても持って来てるアルバムあたしメインだから、あの子が写ってるのはそんなに数ないんだけどね」
「いいですよ。葉月は恥ずかしがって絶対に写真を見せてくれませんから、こうしてもらえるのは有難いですし、文乃さんの小さい頃も何だか興味がありますし」
「あはは…うまい事言うわね、将君。まあとりあえず見てごらんなさい」
そう言って文乃は土井垣にアルバムを差し出し、自分も懐かしいのか一緒に見始める。アルバムの中には確かに文乃の写真が主に収められていたが、それと共に彼女の両親や小さい頃の隆と彼と文乃の友人である柊司、そして彼女の妹で土井垣の恋人である妹の葉月が一緒に写っている写真が収められていた。彼は写真を見ながらその当時を想像し、楽しくなってくる。
「この格好…文乃さん、バレエ習ってたんですか?」
「ええ、高校までね。一応トウシューズまで行ったのよ」
「そうなんですか…あ、隆さんってこの頃から車好きだったんですね」
「そうそう、ミニ四駆とか車のラジコンにはまっててね~葉月も面白がって時々触らせてもらってたわ」
「これは御館さんですね。…あれ?少年野球やってたんですか?」
「ううん、この頃はソフトボールね。この頃はうちの地域の小学校ソフトが盛んだったから、柊もスポーツ少年団で入ってたのよ。そこから高校は違うけど、中学と大学は野球部に入ってたし今でも草野球やってるから、実家に帰ると良くうちのお父さんと野球談義してるわよ」
「はあ…意外ですね」
写真から紡がれる文乃の思い出話に土井垣は感心する。そうして見ていった時、ある一枚の写真に彼は目が留まった。そこには文乃と葉月を含めた彼女の家族が写っていた。
「文乃さん…これは?」
「ああ、それは春日おばあちゃん…あんたと葉月のお見合い仕掛けた祖母だけど…が、撮ってくれた写真でね。あんまり家族で撮った写真がなくて寂しいだろうって撮ってくれたのよ」
文乃はその当時を思い出したかの様に懐かしげに虚空を見る。土井垣も文乃の心中を思いつつ複雑な気持ちになった。文乃は彼の表情に気付くと不意に笑顔になり問いかける。
「どうしたのよ将君、神妙な顔しちゃって」
「いえ…何だか悪い事を聞いたみたいで」
「そんな事ないわよ。確かにあの頃は忙しい両親に反発もしてたけど、この写真で両親が本当はあたし達を本当に大事にしようとしてるって分かって、本当に嬉しかったんだから」
「そう…ですか…」
「そうよ。…良く見てごらんなさい、みんないい顔してるでしょ?」
そう言われて土井垣は改めてその写真を見る。そこには妻と娘達を抱き締める様に抱え込んで優しい笑顔で写る今より若い彼女達の父親の雅昭、そしてはにかんだ様な笑顔のやはり今より若い母親の六花子。そして中央にちょっと澄ました笑顔の小学生位の文乃と、天真爛漫な笑顔の小さな葉月が写っていた。その笑顔は葉月が着ている手描きの様なプリントのひまわりのワンピースと重なって更に彩られ、周囲まで明るくする様な、本当に幸せそうな笑顔だった。写真を見ているうちに土井垣も文乃の言葉が良く分かり、自分も幸せな気持ちになってくる。
「…いい写真ですね」
「でしょ?」
「それに…葉月が今よりも何だか元気に見えます」
「そうね…この頃の葉月はまだそれ程弱さが目立たなくて、本当に元気な…子供らしい子供だったわ」
「…文乃さん」
文乃の寂しげな笑顔に土井垣はまた複雑な表情になった。確かにここに写っている葉月の笑顔は今の葉月の笑顔とは少し違う。彼女の笑顔が周囲まで明るくする様なものだというのは変わっていないが、今の彼女の笑顔はここに写っている様なひまわりを思い浮かべるな天真爛漫な笑顔ではなく、むしろタンポポや菜の花といった素朴で暖かく、しかし力強く咲く野の花の様な笑顔。その笑顔も土井垣は愛しいと思っているが、こうして彼女の笑顔が変わってきた理由を考えると、彼女が痛々しく思えてきた。複雑な表情になった土井垣に気付いた文乃は、宥める様に口を開く。
「…ごめんね、将君。暗い気持ちにさせちゃったかしら」
「…いえ…」
土井垣も文乃を宥める様に笑みを見せ、気を取り直してもう一度写真を良く見詰めると、ふとある事に気付いた。文乃がはいているキュロットスカートと葉月のワンピースの柄が全く同じものに見えたのだ。不思議に思い、彼は文乃に問いかける。
「…あの、ちょっと気付いたんですけど、文乃さんのキュロットと葉月のワンピースの柄、一緒なんですか?」
土井垣の問いに、文乃も気を取り直したのか笑顔で答える。
「そうよ。そのキュロットとワンピースは春日おばあちゃんの手縫いなの。おばあちゃんは分家筋とはいえお嬢様だったから、あの頃にしては珍しく女学校と合わせて自分の意志を通して洋裁学校も出ててね、結婚前とかおじいちゃんが病気で仕事ができなかった時は洋裁店で働いて家計を支えてたって位腕がいいのよ。だからよくあたし達にも服を縫ってくれたわ。あたしは途中から何だか恥ずかしくなっちゃって縫ってもらわなくなっちゃったけど、葉月は結構長い間縫ってもらってたし、洋裁の基礎も教えてもらってたわね。だからあの子裁縫上手なのよ」
「そうなんですか」
「葉月はそうやって沢山縫ってもらった服の中でも、小さい頃はそのひまわりのワンピースが特にお気に入りでね。『特別な時に着るんだ』って本当に大事にしてたわ。…お気に入りだけあって、良く似合ってるでしょ?」
「ええ。良く似合っていて、本当に可愛いです」
「言うわね、将君」
文乃の言葉に同意する土井垣の言葉に文乃は笑う。あの頃の彼女の笑顔を彩っていたひまわりのワンピース。特別な時に着るんだと決めていたものを着ている事、そしてこの家族の写真の幸せそうな彼女の笑顔で、どれだけこの写真を撮った時の彼女が幸せだったかという事が彼には良く分かる気がした。でもそれならば――ふとある事を思いながら、更に何枚か彼女の写真を見てそれについての思い出話を文乃から聞き、仕事から戻って来た隆にも勧められ食事をご馳走になってから、彼は文乃のマンションを後にした。
その後のオフ、土井垣は葉月と共に彼のマンションで時を過ごしていた。いつもの様に彼女のいれてくれたコーヒーを飲みつつ、今日は二人でトランプをしている。神経衰弱をしながら、彼は彼女を何とはなしに盗み見ていた。ひまわりのワンピースに彩られた彼女の笑顔は周囲を明るくするだけでなく、彼女自身の心の明るさや幸せが零れ出ている様で、本当に幸せそうな笑顔だった。そして雰囲気は変わったが、彼女の周囲を明るくする笑顔は今でも変わらない。ただ、彼は一つだけどうしても確かめたかった。確かに子供の頃と同じ笑顔であり続ける事はありえないとはいえ、昔とは随分と変わった笑顔を見せている彼女は今、昔の様な幸せを感じているのだろうか――そう思った時、彼の口から不意に言葉が零れ落ちていた。
「…なあ、お前…今、幸せか?」
「…はい?」
あまりに唐突な問いに葉月は思わず土井垣に問い返す。その問い返しに彼は自分の言葉に気付いて、この問いは問い掛けたくても問うてはいけない問いだと思い直し、取り成す様な笑顔を見せると言葉を濁した。
「いや…何でもない」
「…?…」
土井垣の言葉に、葉月は不思議そうな表情を見せる。そうしてまた二人はトランプに集中し始めたが、やがて彼女は呟く様に口を開いた。
「あたし…今、幸せよ」
「葉月?」
唐突な葉月の言葉に、今度は土井垣が問い返す。葉月は呟く様に続けた。
「だって…お母さんが病気なのはちょっと大変だけど、大分良くなってきたし、仕事にも、友達にも、周りの人にもすごく恵まれてると思ってますし…何よりもね」
「何よりも?」
「…将さんが傍にいてくれるから、あたしはすごく幸せよ」
そう言って葉月は土井垣の方を向いてにっこり笑った。その笑顔は確かに彼女が失ってしまったはずのひまわりの笑顔だった。失ってしまったはずの笑顔が自分がいるから幸せだという言葉と共に自分のために向けられている――土井垣は驚くと共に、何とも言えない幸せを感じた。そのままの気持ちで笑顔を返す彼に、葉月も笑顔で問い返す。
「じゃあ逆に聞くけど…将さんは今、幸せ?」
彼女の笑顔が嬉しくて、土井垣はその心のままに言葉を返す。
「ああ、幸せだ。…お前がいて、俺にその笑顔を見せてくれるから」
「どういう事?将さん」
「…秘密だ」
土井垣はそう言うと彼女を抱き寄せる。失ってしまったはずのひまわりの笑顔がここにある。失ってしまったはずの笑顔を取り戻し、無意識だろうが幸せを伝える言葉と共に自分のために見せてくれる彼女が愛しくて、彼は彼女にキスをした。