あるオフの昼下がり。土井垣と葉月は、彼女の両親の元へ母である六花子の見舞いがてら遊びに帰って来ていた。六花子は児童福祉や教育関連の仕事を歴任した有能なキャリアウーマンだったが、働き過ぎから心臓を患っている。とはいえ今は大分良くなった事もあり、夫である彼女の父に看病されながら第一線は退いたものの、後進の育成や相談を受ける形で仕事に復帰しているのだが。そんな母と、働き過ぎない様にと目を光らせながら自らも仕事をしつつ看病し、苦労しているだろう父である雅昭をねぎらうためにも葉月は折に触れて実家に帰り、うまくスケジュールが合えば雅昭が元々ファンで、彼女と付き合う様になった後彼女の仕組んだお見合い話が進んで、婚約者としてほぼ義理の親子同様に付き合う様になった土井垣も連れて来たりしているのだ。今日もそういった形で帰って来ている次第である。葉月と土井垣は二人の元気そうな姿に安心して、四人で色々話しながら時を過ごして、やがて3時になり『お茶にしよう』という事になった。その言葉に葉月が率先して口を開く。
「じゃあ今日持ってきたお菓子食べよう?このお菓子ね、お姉ちゃんに教えてもらったんだけど本当においしいんだから」
「そうけ。じゃあそれを食うべえか…将君もいいかい?」
「あ、ええ。じゃあお茶を用意しましょうか」
「緑茶が一番いいって言うからいれて来るね。お母さん、全員お客様用のお湯のみでいい?」
「いいわよ。…ああそうだ。お茶だけどね、あんたの好きな『藤の香』買ってあるから、折角だしそれいれるといいわ。将君にもおいしいお茶、飲んで欲しいでしょ?」
「あ…うん…じゃあいれて来るね」
「お願いね。『藤の香』はテーブルじゃなくて棚にあるから」
「分かった」
 葉月は六花子の言葉に顔を赤らめながら台所へと姿を消した。土井垣は二人の会話を聞いて不思議に思った事があり、それを口に出す。
「あの…『藤の香』って何ですか?」
 土井垣の問いに六花子は微笑んで答える。
「ああ、お茶の種類よ。ちょっといい値段のお茶なんだけど、高過ぎず安過ぎずのお茶では一番おいしくてね、葉月が大好きなのよ。それに、お客さんに出すのにもいいのよ」
「そうなんですか」
 頷く土井垣に、今度は雅昭が声を掛ける。
「多分そっちにも持って行って、将君にも時々出してるんじゃないかな。あの子は恥ずかしがり屋だから、そういう事は口に出さないだろうが」
「そう…ですか」
 確かに、彼女のいれるお茶やコーヒーは本当においしいのだがそれが特においしいと思う事が時折あるのには何となく気付いてはいた。彼女は自分のためにも、ちょっといいお茶をいれてくれていたのだろうか…そのさりげない心遣いが嬉しくて、彼は顔を赤らめつつも頬が何だか緩んだ。それに目ざとく気付いた雅昭が口を開く。
「どうやらその様子だと、当たりの様だね。仲良くやっている様で良かった」
「あ…いえ…」
 雅昭の言葉に土井垣は思わず言葉が詰まる。それを見た二人は微笑ましそうに笑いながら、ふっとそれぞれ言葉を零した。
「…本当に、あの子は変わってないわね」
「そうだな。大好きな人のためにうまい茶をいれるなんざ、本当にささやかだが幸せになれるべ」
「お父さん、お母さん、それは…?」
 二人の様子が不思議に思えた土井垣はふと二人に問いかけていた。それに気付いた二人は、口々に話し始めた。
「…ああ、将君は知らないのね。あの子の『お茶の秘密』」
「『お茶の秘密』…?」
「ああ。…将君、あの子は『料理が苦手だ』と言ってないか?」
「あ、ええ…確かに『料理はあんまり得意じゃない』って言っていますね。自分から見たら慣れていないだけで普通どころかおいしい位なんですが…」
「その割にお茶を入れる事は取り柄だと言っているし、本当にあんなにおいしいものがいれられるのか不思議に思ったことはないかい?」
「そう言われると…不思議ですね」
「それにはね、ちゃんと理由があるの」
「どんな理由ですか?」
 土井垣が問い掛けると、二人は寂しげに表情を変え、語り始めた。
「あの子が小さい時から、私達は仕事が忙しくてね。なかなか夕食を一緒にできなかったんだよ。六花子さんの家に預かってもらって彼女のご両親と食事をする事も多かったし、私の父が生きていた頃は大体文乃とその父と三人で食べてもらって、文乃が東京に出てからは父が亡くなるまでその父と二人で食事をしていたんだ」
「そうだったんですか…」
「その内あの子も大きくなって私の母から料理も教わったし、自分で料理ができる様になって『お父さん達のご飯も作ってあげる』って言ってくれたんだけどね。文乃は東京に出てしまったし、忙しかった私達はあの子の料理を無駄にしてしまうのが悪いと思ったし、せめて食事くらいはあの子に作ってやりたかったから…あの子には『料理はしなくていい』って言って、あの子の食事だけ別に用意していたのよ。それをあの子は一人ぼっちで食べていたの…時々私の実家へ遊びに行って食事をしていたけど、それを思うとよかれと思ってしていた事が、結果的にあの子を寂しがらせる結果になってしまっていたのね…」
「…」
「そうしたらある時、あの子は帰って来た私達に何も言わずにお茶を出したんだ。あの子も傍で一緒に飲んでね。私達が『ありがとう』と言ったら本当に嬉しそうな顔で笑って…それが、本当に嬉しかったんだろうな。それから、一生懸命おいしいお茶をいれる練習をしていた様だ。そうして毎日私達を労う様にお茶をいれてくれる様になって、一緒に飲む様になったんだ。その内生来の研究好きな性格も相まってこだわり始めたのか、紅茶からコーヒーまで全部うまくなっていた。…まあ、コーヒーだけは私にはかなわないと言っているがね」
「そうだったんですか…」
 彼女の『お茶の秘密』を知って土井垣は一瞬胸が痛んだが、同時に暖かい気持ちが湧きだしてきた。最初は寂しさを埋める様な形で彼女はお茶をいれたのだろう。しかし両親が喜んでくれた事で、更に上達しようと努力し、気が付くとそれは彼女と両親の絆に変化していったのだ。彼女の親を想う優しさに彼は胸が一杯になる。彼の様子を見ていた雅昭は気遣う様に口を開く。
「…悪かったね。嫌な気分にさせてしまったかな」
 その言葉に、土井垣は自分の思いをきっぱりと話す。
「いいえ。…お父さん達と葉月さんの仲の良さの秘密が分かった気がしました」
「そう?」
「ええ。…それに、自分も彼女の優しさを飲んでいたんですね。自分がどれだけ幸せ者なのか良く分かりました。葉月さんを本当に大事にしないと、罰があたりますね」
「将君…」
 言葉を失っている二人に土井垣は笑いかけた。と、葉月がお茶を持って居間へ戻って来る。
「ごめんなさい、お茶探すのに時間かかっちゃった。さあ、お茶にしましょ?」
「そうだな…お父さん、お母さん、じゃあお菓子をどうぞ」
「…ああ、頂くよ」
「…ありがとう、葉月、将君」
 そうして賑やかなお茶の時間が始まる。笑顔でお茶を飲み、両親と話している彼女を見詰め、先刻彼女の両親に言った通り自分がどれだけ幸せ者なのか、改めて土井垣は自覚した。彼女の親を想う真心と、それが形を変えて自分にも向けられていたと分かった事が、彼を幸せな気持ちにする。彼女の真心のこもったお茶を口にしつつ、今度は時々でもいいから彼女と同じ様に、自分が彼女のためにお茶をいれてあげようと思った。
「俺がいれる茶を…お前はうまいと思ってくれるかな」
「何か言いました?将さん」
「…いや。俺も葉月にうまい茶がいれられたらな、と思ってな」
「…?」
 土井垣の言葉に葉月は不思議そうな表情を見せ、首を傾げる。その様子を見ていた雅昭と六花子は微笑ましげに笑った。