とあるマンションのリビング。デーゲームで夜の時間が空いた部屋の主である土井垣はテレビでナイター中継を見ていた。解説や過剰なCMがわずらわしいと思う事もあるが、他チームの戦略や他のキャッチャーのリードは自分のリードの参考にもなるため、暇があると時々こうして他チームのゲームをテレビやビデオ録画で見るのが彼の常となっていた。しかし、今夜はいつもの様にゲームに集中できず、リビングの隣の客間にしている部屋に気がつくと目が行っている。理由は至極簡単である。今この部屋には彼の恋人である女性がいて、しかも件の部屋で眠っているからだった。元々今日は彼女とデートだったのだが彼女が熱を出してキャンセルしてきたのを見舞いに行った時の彼女のあまりに酷い状態を見て、一人暮らしの彼女を一人にはしておけないとここへ連れて来たのだが、後々よく考えてみれば彼女をこの部屋へ連れてきたのは初めての事で、しかも今夜一晩は泊める事になるのだ。熱を出している恋人に手を出す気は全くないが、部屋に入れた最初から泊まらせる事になるとは思いもよらなかった。
「心配が先行した勢いでこうしてしまったが…早まったかな」
そんな事を考えつつ手元のビールを口にすると、客間のドアが開き、件の彼女がとことことリビングに入って来た。のどが渇いた時のための水分は枕元に置いておいたので水が欲しい訳ではないだろう。他に何か用があるのかと思い、土井垣は彼女に問いかける。
「どうした?」
「…」
彼女は土井垣の問いかけにも答えずリビングの中を歩き回る。どうやら半分寝ぼけているらしい。土井垣は苦笑しながら彼女のそばへ行き抱き留めると、もう一度優しい口調で声を掛けた。
「ほら、寝ていないと熱が下がらんぞ。それとも…手洗いか?」
土井垣の問い掛けに、彼女は熱半分、寝ぼけているのが半分という感じの目つきで彼を見上げ、ぼんやりとした口調で答えるでもなしに呟いた。
「…暑い」
「え?」
訳が分からず土井垣はまた問い返したが、彼女は答えずに土井垣の腕をすり抜けてリビングの中をまた歩き回り、先刻まで彼が座っていたソファの肘掛に寄りかかる様にして床へ座り込んだ。
「…気持ちいい…」
ぼんやりとした口調でそう呟くと、彼女は気持ちよさそうに寝息を立て始めた。どうやら熱のせいで布団で寝ているのが暑苦しくなり半分寝ぼけながら眠るのに快適な場所を探していたらしく、床とリビングの温度が心地よくてここに落ち着く事にしたらしい。初夏に近いとはいえまだ夜は涼しく、クーラーをかけてはいないのでクーラーで身体を極端に冷やすという事はないが涼しい事には変わりなく、しかも彼女は熱を出している身だ。こんな寝方をしてこれ以上悪化したら大変だと思った土井垣は彼女を起こす様に軽く揺さぶりながら声を掛けた。
「おい、こんな所で寝たらまた熱が上るぞ」
「…ここがいい」
「あのな、これ以上熱が上ったら…」
起きているのかまだ寝ぼけているのか目を閉じてぼんやりとした口調のまま動こうとしない彼女に呆れ半分、叱るのが半分の口調で更に口を開きかけて土井垣はふと口をつぐんだ。彼女の閉じられた目から涙が零れていたのだ。彼女の涙の意味を図りかね彼はしばらく狼狽していたが、そのうちにある事に辿り着いた。職業からはあまり想像ができないが、彼女は元来あまり丈夫ではなく、小さい頃から何度か替わってはいるが常にかかりつけのドクターを持ち細かな体調管理をしている。それでも年に数度はこうして体調を崩す事があり、高校時代にはそのせいで一年近く休学した事さえあったらしい。そこまで大事ではないにせよ、おそらく昔からこうして寝込む事は頻繁にあったのだ、とはそこから簡単に想像がつく。病気で寝込んでいる時は誰しも心細くなるし、そうでなくとも一見明るいが本当は寂しがり屋の彼女はそういう時、どうやって過ごしていたのだろうか。小さい頃はきっと両親が傍にいてくれただろうが、今の彼女は両親から離れて一人で暮らしている。とはいえそれは仕事の関係上であり通えなくはない距離であるため、帰ろうと思えばすぐ帰れるのだ。では実家に帰っているのかとも思ったが、彼女は自分の事では余程の事がない限り帰っている気配がない。その理由を周囲に気を遣う性分の上あまり大事と思われたくないせいなのか彼女はあまり詳しくは話さないが、彼女の両親のどちらかが身体を壊していて、看病のため仕事を辞めようとした彼女を振り切って夫婦で看病をしていると言う事が関わっているだろう。彼女の性格からして家族の方が大変なのに何もできない自分が家族に頼る事など絶対にできないし、下手をするとただ帰る事すら自分に許していないかもしれない。家族が駄目なら友人などは尚更だ、絶対に頼らないだろう。だとするとこちらに来てからの彼女は、一番心細い時にずっと一人ぼっちで耐えていたのだろうか。その事に気付いて、先刻『自分が傍にいてくれて嬉しい』と言った彼女の言葉が胸に突き刺さった。誰かにいて欲しい時に誰にも頼れず、心細さを必死に堪えて、いつもこうして泣きながらせめて快適に眠れる場所を探して一人で部屋を歩き回っていたのだろう彼女の姿を想像して土井垣は胸が痛み、彼女の涙をそっと拭う。このまま彼女を抱き上げて布団に戻す事は簡単だが、それは余りに哀しい気がした。
「…仕方ないな」
彼は呟くと客間から布団を持って来て彼女に掛けると、静かな声で言い聞かせる様に囁く。
「…とりあえずはここにいてもいいから、せめてこれだけは掛けておけ」
「…ん…」
彼女は土井垣の言葉に応えたのか応えていないのか良く分からない言葉を発すると、掛けられた布団にくるまりそのまま床に丸くなった。土井垣は苦笑してソファに座り直しナイター中継をまた見始める。しばらくして声が聞こえるのでテレビの音がうるさいのかと彼女が眠っている足元を見ると、彼女は眠りながら嬉しそうに笑っていた。こうして自分が傍にいる事で彼女が笑ってくれた事が嬉しくて、彼女の傍へ座り込みその額を撫でると、彼女は嬉しそうに『お父さん』と呟いた。寝ぼけているとは分っているものの父親と間違えられた事がショックで土井垣は一瞬呆然としたが、その幸せそうな表情に土井垣は幼い頃の彼女が過ごした風景を見た様な気がした。
「…俺はお前の親父さんじゃないんだがな…」
彼女の幸せそうな姿を見詰め苦笑しながらも土井垣は暖かい気持ちが溢れて来るのを感じ、そのあまりに幸せそうな姿に『俺も今夜はこっちで寝てみるか…』という気持ちがふと湧いて来る。馬鹿馬鹿しい考えだとは思うが、何だかそれも悪くない様な気がした。土井垣は先刻とは違う柔らかな笑みを見せ彼女の頬に軽くキスをすると、小さく呟いた。
「ゆっくりお休み…いい夢を」
「心配が先行した勢いでこうしてしまったが…早まったかな」
そんな事を考えつつ手元のビールを口にすると、客間のドアが開き、件の彼女がとことことリビングに入って来た。のどが渇いた時のための水分は枕元に置いておいたので水が欲しい訳ではないだろう。他に何か用があるのかと思い、土井垣は彼女に問いかける。
「どうした?」
「…」
彼女は土井垣の問いかけにも答えずリビングの中を歩き回る。どうやら半分寝ぼけているらしい。土井垣は苦笑しながら彼女のそばへ行き抱き留めると、もう一度優しい口調で声を掛けた。
「ほら、寝ていないと熱が下がらんぞ。それとも…手洗いか?」
土井垣の問い掛けに、彼女は熱半分、寝ぼけているのが半分という感じの目つきで彼を見上げ、ぼんやりとした口調で答えるでもなしに呟いた。
「…暑い」
「え?」
訳が分からず土井垣はまた問い返したが、彼女は答えずに土井垣の腕をすり抜けてリビングの中をまた歩き回り、先刻まで彼が座っていたソファの肘掛に寄りかかる様にして床へ座り込んだ。
「…気持ちいい…」
ぼんやりとした口調でそう呟くと、彼女は気持ちよさそうに寝息を立て始めた。どうやら熱のせいで布団で寝ているのが暑苦しくなり半分寝ぼけながら眠るのに快適な場所を探していたらしく、床とリビングの温度が心地よくてここに落ち着く事にしたらしい。初夏に近いとはいえまだ夜は涼しく、クーラーをかけてはいないのでクーラーで身体を極端に冷やすという事はないが涼しい事には変わりなく、しかも彼女は熱を出している身だ。こんな寝方をしてこれ以上悪化したら大変だと思った土井垣は彼女を起こす様に軽く揺さぶりながら声を掛けた。
「おい、こんな所で寝たらまた熱が上るぞ」
「…ここがいい」
「あのな、これ以上熱が上ったら…」
起きているのかまだ寝ぼけているのか目を閉じてぼんやりとした口調のまま動こうとしない彼女に呆れ半分、叱るのが半分の口調で更に口を開きかけて土井垣はふと口をつぐんだ。彼女の閉じられた目から涙が零れていたのだ。彼女の涙の意味を図りかね彼はしばらく狼狽していたが、そのうちにある事に辿り着いた。職業からはあまり想像ができないが、彼女は元来あまり丈夫ではなく、小さい頃から何度か替わってはいるが常にかかりつけのドクターを持ち細かな体調管理をしている。それでも年に数度はこうして体調を崩す事があり、高校時代にはそのせいで一年近く休学した事さえあったらしい。そこまで大事ではないにせよ、おそらく昔からこうして寝込む事は頻繁にあったのだ、とはそこから簡単に想像がつく。病気で寝込んでいる時は誰しも心細くなるし、そうでなくとも一見明るいが本当は寂しがり屋の彼女はそういう時、どうやって過ごしていたのだろうか。小さい頃はきっと両親が傍にいてくれただろうが、今の彼女は両親から離れて一人で暮らしている。とはいえそれは仕事の関係上であり通えなくはない距離であるため、帰ろうと思えばすぐ帰れるのだ。では実家に帰っているのかとも思ったが、彼女は自分の事では余程の事がない限り帰っている気配がない。その理由を周囲に気を遣う性分の上あまり大事と思われたくないせいなのか彼女はあまり詳しくは話さないが、彼女の両親のどちらかが身体を壊していて、看病のため仕事を辞めようとした彼女を振り切って夫婦で看病をしていると言う事が関わっているだろう。彼女の性格からして家族の方が大変なのに何もできない自分が家族に頼る事など絶対にできないし、下手をするとただ帰る事すら自分に許していないかもしれない。家族が駄目なら友人などは尚更だ、絶対に頼らないだろう。だとするとこちらに来てからの彼女は、一番心細い時にずっと一人ぼっちで耐えていたのだろうか。その事に気付いて、先刻『自分が傍にいてくれて嬉しい』と言った彼女の言葉が胸に突き刺さった。誰かにいて欲しい時に誰にも頼れず、心細さを必死に堪えて、いつもこうして泣きながらせめて快適に眠れる場所を探して一人で部屋を歩き回っていたのだろう彼女の姿を想像して土井垣は胸が痛み、彼女の涙をそっと拭う。このまま彼女を抱き上げて布団に戻す事は簡単だが、それは余りに哀しい気がした。
「…仕方ないな」
彼は呟くと客間から布団を持って来て彼女に掛けると、静かな声で言い聞かせる様に囁く。
「…とりあえずはここにいてもいいから、せめてこれだけは掛けておけ」
「…ん…」
彼女は土井垣の言葉に応えたのか応えていないのか良く分からない言葉を発すると、掛けられた布団にくるまりそのまま床に丸くなった。土井垣は苦笑してソファに座り直しナイター中継をまた見始める。しばらくして声が聞こえるのでテレビの音がうるさいのかと彼女が眠っている足元を見ると、彼女は眠りながら嬉しそうに笑っていた。こうして自分が傍にいる事で彼女が笑ってくれた事が嬉しくて、彼女の傍へ座り込みその額を撫でると、彼女は嬉しそうに『お父さん』と呟いた。寝ぼけているとは分っているものの父親と間違えられた事がショックで土井垣は一瞬呆然としたが、その幸せそうな表情に土井垣は幼い頃の彼女が過ごした風景を見た様な気がした。
「…俺はお前の親父さんじゃないんだがな…」
彼女の幸せそうな姿を見詰め苦笑しながらも土井垣は暖かい気持ちが溢れて来るのを感じ、そのあまりに幸せそうな姿に『俺も今夜はこっちで寝てみるか…』という気持ちがふと湧いて来る。馬鹿馬鹿しい考えだとは思うが、何だかそれも悪くない様な気がした。土井垣は先刻とは違う柔らかな笑みを見せ彼女の頬に軽くキスをすると、小さく呟いた。
「ゆっくりお休み…いい夢を」