とある小さな病院の休憩室、男女数名が昼食をとりながら話していた。
「午前中はけっこう忙しかったですね」
「でも重症患者さんはいなかったみたいだし…季節の変わり目だから、みんな体調を崩しやすくなってるんだと思うよ。村山先生の方はどうでした?」
「うちの方も急な熱発とかで重そうな子はいなかったみたいだけど…子供の場合は熱性けいれんの心配もあるし、急変が大人より多いしね、ちょっと心配でもあるわ。この地域今年インフルちゃん多いんでしょ?」
「確かに…今日の夜診は要注意かも知れないな」
「まあ今はお昼休みですし、おいしいご飯を食べてゆっくり鋭気を養いましょう」
「そうだね、テレビもつけようか」
 いつもの様にテレビをつけそれぞれ雑談をしながら食事を取っていると、女性が一人遅れて休憩室に入って来た。
「こんにちは~お邪魔します」
「ああ、宮田さん遅かったじゃん」
「はい、準備がひと段落するまでって思ってたらちょっとかかっちゃいまして」
「今日は男衆休みだっけ。一人で出張の準備も大変だよね~ほら、ご飯ここだよ」
「ありがとうございます~」
 食事が置かれた席を勧められ、お礼を言いつつふとテレビを見ると、プロ野球のオープン戦の中継がかかっていた。その対戦カードを見て彼女は内心見たい気持ちがあったが、周囲は余り野球に興味がないだろうし見たいとも言えず画面をちらちら伺いつつ食事を取っていた。と、聞こえてきた音声に思わず画面を凝視すると、チャンネルを変えようとする女性職員を思わず止めた。
「プロ野球じゃつまんないかしらね~。いつものチャンネルに変えるわ」
「あ、ちょっと待って下さい!スタメンだけ見せて!」
 チャンネルをそのままにしてもらうと、彼女は東京スーパースターズのスターティングメンバーを確認する。聞こえてきた音声通り、五番ファーストで土井垣が入っていた。自分の空耳ではない事を確認すると、彼女は周囲に謝りながらチャンネルを変えた。
「すいません、失礼しました。じゃあいつものとこに変えますね」
「びっくりした~でも宮田さんて野球好きだったんだね」
「はい、ちょっと興味がありまして…」
 曖昧な笑みを見せると、彼女は何もなかったかの様に食事を取りつつ雑談に加わる。食事が終わると彼女は用があるからと先に自分の部署に戻り、BGM用のラジカセをテレビ音声でつけ苦笑した。
「…とうとうやっちゃったか…」

 土井垣が新球団の監督になると聞いた時、彼女は自分が口に出す事ではないと分かっていたが思わず彼に『本当にそれでいいの?』と問い掛けていた。選手として脂の乗っている時期だという事もあったが、彼がまだ選手として野球をする側にいたいという思いを抱えている事が彼女にはよく分かっていたからである。彼は『考えた末の事だ、これでいいさ』と笑っていたが、結局プレーイング監督になっていた事を考えると、やはり内心はずっと揺れていたのだろう。しかしいくら自分もプレーしたいからと言って、彼は自分の思いだけで走って全体をないがしろにしたり自分の役目をおろそかにする人間でもない。監督一年目に選手として出なかったのは揺れながらも諦めたからなのかと思っていたが、ここから考えると慣れない監督業で余裕がなかったのと同時に、おそらく自分がプレーしても支障がない基盤作りをしていたのだろうと自然に思えた。ラジカセからは解説者やアナウンサーが土井垣がスタメン入りした理由は交流戦を意識してだと分析していたが、彼女にとってそれは的外れにしか思えなかった。確かにそういう面もあるかもしれないが、それ以上に土井垣は自分もプレーしたかったから、そしてその基盤ができたからこうして出てきたのだと彼女は考えていた。
『結局は野球馬鹿なんだから将さんは…』
 流れてくる音声を聞いていると、土井垣は復活一打席目にホームランを打った。しっかり結果を残す土井垣の勝負強さと解説者の興奮ぶりに彼女はくすりと笑う。
「お見事。…さて、あたしも見習って頑張りますか」
 彼女はラジオをかけたまま機材の山に向かった。

 その夜、宿泊先のホテルで一息ついていた土井垣の携帯が不意に鳴った。彼は何気なく届いたメールを見てその文面にふっと笑う。

――ラジオで聞いてました。復活ホームラン&勝利おめでとうございます!本格的なプレーイング監督の滑り出しは順調みたいですけど、無理だけはしないで下さいね――

「あいつめ…」
 土井垣はメールをしばらく見つめていたが、やがてよく分からない感情が湧き出してきてメールの主に電話を掛ける。数コール後に『はい』というメゾソプラノの柔らかい声が聞こえてきた。彼は「俺だ」と言うや否や話し始める。
「メール見たぞ。…何で電話にしない」
『だって、久しぶりに選手として出たんですし、疲れてたら悪いなって思ったから』
「たとえそうだとしても、俺としてはこういう事はちゃんと言葉で欲しいんだがな」
 土井垣の言葉に携帯の向こう側はしばらく沈黙したが、やがて小さな溜息の後ゆっくりと照れた様な言葉が聞こえてきた。
『おめでとう、ホームランも打てたし最高の滑り出しで良かったですね。この勢いで今年は日本一になって下さいね、一応は期待してるんだから』
「ああ、もちろんだ」
『でも、将兄さんキャッチャーじゃなくてファーストなのね』
「うちには山田がいるからな。俺がキャッチャーをする必要はとりあえずないだろう」
『それもそうか』
「…お前、そこで納得するか」
『ごめんなさい。でも高校の時も同じだったんでしょ?だから何となく納得しちゃったの』
 むっとする土井垣に相手は申し訳なさそうに言うと、心配そうな口調で更に続ける。
『…そうだ、解説の人は交流戦狙いだって言ってたけど、将兄さん普通の公式戦にも出るつもりでしょう』
「…お前にはお見通しか」
『ん…まあね。やりたくてやってるんでしょうから頑張るのは別に止めないけど、本当に無理だけはしないでね』
「俺は大丈夫さ。むしろお前が無理する方が俺としては心配だ。お前こそ絶対に無理するなよ」
『うん、気をつける』
「それじゃあ…無理矢理で悪かったが、祝いの言葉ありがとうな」
『ううん…あたしも本当は声が聞きたかったから…話せて嬉しかった。電話くれてありがとう』
「あ、ああ…じゃあ帰った時にいい話ができる様祈っていてくれ」
『もちろんでしょ…じゃあお休みなさい。ゆっくり休んでね…将さん』
「…ああ、お休み。お前こそちゃんと休めよ」
 土井垣は電話を切ると小さく溜息をつき、ふと電話を掛ける前のあのよく分からない感情が収まった事に気が付いた。彼はその理由を考え、ある思いに辿り着く。彼女は基本的に相手方に気を遣うせいか、直接電話を掛けるよりもいつでも読めるメールを多用する事は分かっているし、自分もそれで納得していたはずなのに、今日はなぜかそれが物足りなく感じたのだ。彼女が最後に口にした『声が聞きたかった』という言葉を反芻しながら、祝いの言葉がちゃんと欲しかったのもそうだが、何より自分こそ彼女の声が聞きたかったのだという事に辿り着き彼は赤面する。恋人になってそれなりの時間は過ごしているし、その間何度も電話を掛けていたが、そういう時はいつもメールのやりとりが先にあってその詳しい返事を返すためか、何か用件があっての電話であり、こうした感情が湧き上がり、その想いのまま自分の方から電話を掛けたのはそういえば初めての様な気がする。そう思った時、以前小次郎と飲んだ時自分達が頻繁に連絡を取り合わないことを知った彼に呆れられた事を思い出した。あの時にはお互い必要だと思った時にお互い取り合っているからと気にも留めなかったが、小次郎が言いたかったのはこういう事なのかと今更ながら実感し、普通の恋人同士とは違っていた自分達のあり方を思い、自分の鈍さに改めて苦笑した。
「…まあ、俺らしいといえば俺らしいか」
 土井垣はこれから電話代の苦労も増えそうだと思いつつも、それがとても幸せな事なのだと思った。初めて湧き上がった感情がこうして自分を、そして彼女を新しい場所へ連れて行ってくれる様に、二人の間の初めての積み重ねがいつまでも続く事を土井垣は心から願った。