耳元に心配そうな声が届いている。呼んでいるのはあたしの名前。大好きなその人の声に私も応えたいけど、何だか声が出てこないし、体も重くなってて動かない。…あ、声が少しきつくなった。うん、分かってる。あたしもどうにかしたいんだけど動けないし声も出ないの。早く何とかしなくちゃ…とりあえずあんまり口が動かないけど、何とか声の主の名前をゆっくり呼んでみる。…あ、やっぱりうまくしゃべれない。どうしようと思っていたら、急に体が宙に浮いた。その拍子に少し頭がはっきりして、あたしはぼんやりと目の焦点を合わせた。
「…あれ、あたし何で将兄さんにお姫様抱っこされてるの?」
 まだ意識がはっきりしないあたしに、あたしを抱き上げている将兄さんは少し呆れた様な、でも心底心配した口調で声を掛ける。
「あのな…お前は俺の部屋で倒れたんだ。ここに来た事すら記憶にないか」
「えっと…」
 あたしは意識のはっきりしない頭を精一杯働かせた。…ああ、そうだった…将兄さんの部屋に来てすぐにちょっと目の前が暗くなったから座り込んだら、そのままふっと気が遠くなったんだっけ…ぼんやりしているあたしに、将兄さんは言い聞かせる様にゆっくりと声を掛ける。
「とりあえず俺のベッドを貸すからしばらく寝ていろ」
「ううん…そんなに大げさじゃないし、こっちの方が落ち着くからそこのクッション貸して」
「そうか」
 貸してもらったクッションを枕にして床にそのまま寝かせてもらうと、あたしは意識をはっきりさせる様にゆっくり深呼吸をして、すぐ傍に座り込んだ将兄さんに話し掛けた。
「…倒れてからどのくらい?」
「まあ、2~3分という所だな」
「…そう、今度ドクターに言わないといけないな」
「それもそうだが…最近また顔色が悪くなっていると思っていたら、案の定この始末だ。また仕事で無茶をしているな」
「ううん、みんなあたし以上に無茶して仕事してるもの。あたし程度の仕事は無茶って言わな…」
「葉月!」
 ピシリと言葉を制する様に名前を呼ばれる。これは心底怒ってる声だ。
「休みを返上して、夜遅くまで残業をして、また家にまで仕事を持ち帰っているらしいじゃないか。その状態のどこが無茶じゃない。そうでなくてもお前はあまり丈夫じゃないんだぞ」
「でも…とりあえず一番辛くて多い早朝出勤と出張は減らしてもらってるもの。これ以上楽させてもらったら罰が当たっちゃうわ」
 おずおずとした口調で言葉を紡ぐあたしに、将兄さんは大きく溜息をついた。
「…そういう問題じゃないだろう。こんな状態になっているんだぞ」
「ごめんなさい…でも大丈夫、ちょっと疲れただけで倒れたのは偶然…」
「…葉月」
 静かだけど寂しそうな声。この声で呼ばれるのがあたしは一番悲しい。この声が出るって事は、大好きなこの人を傷つけたって事だから。悲しくなってあたしが将兄さんを見ると将兄さんは静かに、でも怒っている様な口調で言葉を続ける。
「偶然で倒れるか。そうやって周囲に気を遣うのがお前のいい所でもあるが、こういう時に無茶をするのは周囲の迷惑にしかならんといつも言っているだろう」
「…ごめんなさい」
 将兄さんが言った通り、実際のあたしはかなり無茶をしていて辛かった。でもそれを我慢して強がる事以上に将兄さんを傷つけた事と、それでも心配して叱ってくれる彼の優しさが辛くなって、あたしは将兄さんに謝った。あたしが謝ると、将兄さんはまた小さく溜息をついた。
「別に謝らんでいい、お前の気持ちも分からんではないからな…でもな、これもいつも言っているが…俺には気を遣うな、もっと頼れ」
「…」
 将兄さんの優しさが嬉しくて、でもそれ以上にその優しさが苦しくてあたしは彼を見詰める。将兄さんは自分を見詰めるあたしに向かって柔らかな表情を見せると、静かに続けた。
「…いいんだぞ、俺には辛いなら辛いと言っても」
 …もう駄目だ、あたしがどんなに無理しても将兄さんにはお見通しだ。厳しいのにすごく優しい将兄さんの言葉に色々な気持ちが噴き出してきて、我慢しようと思ったのに涙が溢れて来た。
「ホントはすごく辛いの…でも、自分で、辛い方向選んでるんだから、自業自得だもん…」
「…葉月」
 しゃくりあげているあたしを将兄さんはしばらく見詰めると、そのうちにあたしが一番大好きな優しい、少しかすれた声であたしを呼んでくれた。
「別に辛い方を選ぶのが悪いとは言っていないさ、問題は休む事が悪いと思っている所だ」
「…」
 将兄さんは優しくあたしの頭を撫でて続ける。
「辛い方向を選ぶのはお前が一生懸命だからだって、俺は分かっているから…楽な方を選べないなら少しづつでもいい、一息つく方法を覚えていけ」
「…無理よ…今までだってずっとできなかったんだもの…」
「大丈夫だ、できるさ」
「そうかな…」
「今までは一人でやろうとしたんだろう?今度は…俺がいる」
「…」
「辛かったら俺の前で泣け…どんなにお前が泣いても、俺は大丈夫だから」
「…うん…」
 まだ辛い気持ちもあるけれど、それ以上にこうやって将兄さんの暖かさがすぐそばにある事が嬉しくてまた涙が零れてくる。あたしはゆっくり起き上がると、その暖かさを確かめる様に泣きながら将兄さんの胸に顔を埋めた。泣いているあたしを将兄さんはゆっくり抱き締めると、もう一度大好きな声で今度は囁く様にあたしを呼んだ。
「葉月」
「…ごめんなさい…でも、ほんの少しだけでいいから…こうさせてくれる?」
「ああ、好きなだけこうしていてやる」
「ありがとう…将さん」
 精一杯の感謝の気持ちを込めて、泣きながらではあったけどあたしは将兄さんの名前をきちんと呼んだ。将兄さんはふっと嬉しそうに微笑むと、あたしを抱き締めている腕に力がこもった。