「…ごめんねヒナ。ギリギリの人数なのに後ちょっとのところでダウンしちゃって」
病室のベッドの端に座った少女は、申し訳なさそうに隣に座るもう一人の少女に手を合わせる。『ヒナ』と呼ばれたその少女は明るい口調で手を合わせた少女――宮田葉月に言葉を返す。
「しょうがないよ、はーちゃんの体調考えないで無理させちゃったのはあたしとおゆきなんだし。こっちこそごめんだわ」
「それはいいよ。承知で無茶したのはあたしだしね…ま、とりあえず回った先で倒れなかっただけ良かったと思おうか」
「そうだね…それで、お医者さんは何て言ってるの?」
彼女の言葉に、葉月は少しむくれた口調で答えた。
「疲れから来た軽い貧血だろうけど、『家に帰したら絶対休まないだろうから、休養ついでにこのまま検査入院しろ』だって。検査付きだから二学期も最初少し休まなくちゃだし、めんどいったらないわ」
「ふぅん…でも付き合いが長いだけあって、はーちゃんの事良く分かってるねぇそのお医者さん。…まあ回る先もあと一つだし、はーちゃんの代わりは瑞穂さんが暇だからって引き受けてくれたから。心配しないでゆっくり休んでね」
「…げ、OB引っ張り出したの?迷惑かけまくりじゃんあたし…ヒナ、ホントごめん!」
「ごめんと思うならここでちゃんと治してよね。…その代わり秋からしっかり働いてもらうよ」
少し咎める口調ながらも悪戯っぽくウィンクして笑う彼女に、葉月も笑い返すと明るく答える。
「オッケー、まかせなさい」
「じゃあ、とりあえず今日は帰るね。明日にでもまたみんなで来るから」
「うん。じゃあね」
彼女が病室から出て行くと、葉月は小さくため息をついて勢い良くベッドに横になった。
「あたしの夏は今日でおしまい…か。ホント最悪…」
登校日に倒れて病院送りになったという事も悔しいが、何より彼女が悔しいのは、こうして不本意な形で夏休みの公演から離脱しなければいけなくなった事である。大病を患っている訳ではないが、生来彼女はあまり身体が丈夫ではない。しかし周囲の協力はもちろん、彼女自身の徹底した体調管理でこの数年間は大きく体調を崩すこともなく、それどころか下手な運動部以上にハードだと言われる今の部活で主戦力として扱われる程健康そのものだったのだ。それなのに不意に起きた軽い貧血程度で自分の夏が終わってしまうのは悔しくて仕方がなかった。何よりこの部は6月に行う文化祭で3年生は引退となるため、2年生である彼女にとってはこれが最後の夏。その大切な夏をこんな不本意な形で終わらせたくなかった。
「この程度の貧血でこうなるんだったら、せめて最後の公演が終わるまで持たせて欲しかったわよ。…神様も存外意地悪だなぁ…」
ベッドに横になりながらしばらく彼女はぼんやりとしていた。大部屋が空いていないため個室に入れられ気を遣わないで済むのは楽だが、一人でいる分ろくな事を考えなくなりそうだ。気を紛らわせるために起き上がってテレビをつけると、高校野球の中継が彼女の目に入ってきた。あまり高校野球は見ない彼女だが、自分と同じ年頃の人間がこうして自分の地元や学校を背負って戦っているという事実には普段から感心していた。
『そういえばこの人達は負けたらそこでおしまいなんだよね…』
入っている予定は全て行える自分達と違って、勝負に負けたらどんなに先に進みたくてもそこで全てが終わる彼ら。そうして敗れていった彼らをふと思い彼女は画面を見詰めると、試合は偶然にも地元神奈川が戦っていた。新聞のスポーツ面で度々取り上げられ良く目にしている高校の名に、彼女は彼らが去年あたりからずっと勝ち続けている事を思い出した。『常勝』という肩書きを付けられた彼らは最後まで夏が終わる事を許されない。その事は彼らにとって辛くないのだろうかとふと思ったが、彼らの目を見てすぐにその考えは打ち消される。推測でしかないが、彼らにとっては自分と同じく、途中で夏が終わる事こそが辛いのだろう。いや、途中で夏が終わるなどという事すら考えていないかもしれない。彼らの目が何よりもそう語っていた。一点を争う攻防に彼女はじっと画面を見詰め、いつの間にか心の中で彼らを応援していた。地元だから勝って欲しいという気持ちもあるが、何より自分の様に彼らの夏が途中で終わって欲しくないと思ったのだ。自分と彼らとはほとんど重なる所はない。それでも彼らには本当の終わりまで夏を過ごして欲しいと心から思った。しかし彼女の願いもむなしく、彼らは相手チームの捨て身の攻撃と常識では考えられないアクロバティックな走塁で敗退した。彼女はしばらくぼんやりとテレビを眺めていたが、やがてテレビを消してまたベッドに横になった。ぼんやりとした頭にサヨナラが決まった時のアナウンサーの絶叫がまだ響いている。
「あの人達も今日で夏がおしまいなんだ…」
無意識に呟くと同時に、不意に涙が零れてきた。彼らの悔しさを思い、それに自分の悔しさがシンクロされて彼女は泣いた。彼らの悔しさは自分には決して理解できない事も分かっているし、自分の悔しさを混ぜてしまうのは彼らにとって失礼だとも思う。それでもそうして泣かずにはいられなかった。着替えを持ってきた両親は泣いている彼女に驚き、訳が分からないながらも必死に宥めたが、彼女はかなり長い間泣き続けていた。
「…そういえば、明訓の連勝が最初に止まった時の監督って土井垣さんだったんですよね」
繁華街を少し外れた静かな夜道で、隣を歩いている土井垣に葉月はふと声を掛けた。今は二人の共通の知り合い達と飲んだ後、一人帰り道が違う彼女を心配した土井垣が駅まで送る途中である。あの夏の日から月日は流れ、彼女は社会人に、そしてあの日彼女が応援していた高校の監督だった男はプロ野球選手となり、二人は様々な縁が重なってこうして付き合う様になっていた。不意に声を掛けられた土井垣はその内容に少しむっとした口調で応える。
「確かにそうだが…何が言いたい」
「いえ、さっきお店のテレビで高校野球の特番が流れてたじゃないですか。それ見てたら何だかふっとその時の事思い出したんで」
「…ほう、何を思い出したんだ」
「あの時の試合私偶然テレビで見てたんですけど、明訓が負けた時、思わず泣いちゃったんですよね」
「それはまた何故だ。いくら地元だからといって、関係者でもない君が泣く必要はないだろう」
「それはそうなんですけど…まあ色々あったんです」
「何だその色々というのは」
「そうですね…ま、そのうちゆっくり話します」
そう言って彼女はにっこり笑うと夜空を見上げ、あの時の涙を思い返した。あの時は夏が終わってしまった悔しさから来る涙だと思っていたが、今思うとあの涙は、どんなに大切な時間でも終わってしまった時間はその先の時間を手に入れる事も、その前の時間を取り戻す事もできない事に気付いた哀しみの涙だったのだろうと思う。形は違えど、自分も彼らもその事は同じだと無意識に気付いたからこそ、大切な時を失ったもの同士として自分は彼らに対しても泣いてしまったのだ。そして時を経た今、もう一つ気付いた事がある。終わってしまった時間は確かにその先を手に入れることはできないけれど、また違った始まりがあり、終わってしまった時間とはまた違う形の先の時間を手に入れる事ができる。そうしてたくさんの時間を自分達は過ごしていくのだ。だから大切なのは終わりを悲しむ事でも過去を振り返る事でもなく、始まりを受け入れ、手に入れた今の時間を大切にする事。でも、今ここにはあの泣いた日の気持ちが愛おしくて振り返りたくなる自分がいた。これは単なる懐古なのか、それとも――
「…おい、どうした?」
「…ああ、すいません。酔って少し涙腺ゆるくなったかな」
土井垣に声を掛けられて涙ぐんでいる事に気付いた葉月は、おどける様に笑うと涙を拭う。
「まったく…ほら」
彼は彼女を引き寄せると、ゆったりと肩を抱いた。自分を労わってくれる彼の優しさに感謝しながらも、彼女はまたふと考える。自分が手に入れているこの時間も、いくつもの時間の終わりを経て得たものであり、今までと同じ様にこの時間もいつかは終わる。だから自分がするべき事は、この時間が終わるまでの間手に入れた今の時間を大切にするだけ。ではこの時間の先が手に入れられなくなり新しい時間を手に入れる様になった時、自分はこれまでの様にその時間を大切にしようと思えるだろうか――自分自身に掛けたその問いに、彼女は心の中で首を振っていた。
『どうして…?』
自分で出した答えに彼女は狼狽する。終わりがあるからこそ始まりがある、だから終わりは恐れるものではない。今まではそう思っていた。それなのに今の自分は今手に入れているこの時間が終わる事をものすごく恐れている。不可能だという事は分かっているのに、今手に入れている時間は終わらせたくないと思う自分。ましてや今の時間をこの後になって愛おしんで振り返りたくなる様になるなど考えたくもなかった。何故ならこの時間が終わる時に待っているものは――
「…ああ、そうか」
「どうした?」
「あたし…土井垣さんと離れたくないんだ」
涙を流しながらぼんやりと赤面しそうな言葉を呟く葉月に、土井垣は狼狽した口調で問いかける。
「何だいきなり、その…帰りたくない…とか言うんじゃないだろうな」
「いえ、今がどうとかじゃなくて…改めて自分の気持ちを自覚しただけです」
「…あのなぁ…」
土井垣は彼が狼狽している事にも気付かずただその問いにぼんやりと答えるのみの彼女を見詰め、呆れた様に溜息をつくと、彼女の背中をポンと叩く。
「…ほら、もう駅だぞ。ちゃんと一人で帰れるか?」
心配そうに問いかける土井垣に、葉月は気を取り直した様にまた涙を拭い、明るい口調で答える。
「大丈夫ですよ。別に泥酔してる訳じゃないですし」
「それならいいが…」
「本当に大丈夫ですって…それじゃ失礼します。暇を見てまた連絡しますね」
「分かった…ああ、ちょっと待て」
「何ですか?」
頭を下げて踵を返そうとする葉月を土井垣は引き止めた。振り向いた彼女を見詰めながら土井垣は言葉を捜す様にしばらく沈黙していたが、その沈黙の後ぼそりと、しかし言い聞かせる様な口調で言葉を掛けた。
「お前がさっき何を考えていたのか聞こうとも思わんが、俺はお前から離れる気はないぞ。ましてお前を離す気もない…だから泣くな」
「…」
自分を見詰めている土井垣の目が、あの日画面越しに見た少年達と重なる。夏が終わる事など考えもしない少年達の目。あの頃から変わらずこの目を持ち続けている彼と違い、自分にはこの目がもう持てない事に胸が少し痛んだが、彼の眼差しとその心は彼女の中に染み透る。言葉を失っている葉月に、土井垣は柔らかな表情を見せる。
「…じゃあな、その内さっきの『色々あった』という話を聞かせてくれよ」
「…そうですね」
彼の言葉に彼女はふっと笑うと、彼の目を見詰め返して答えた。たとえもう自分がこの目を持てないとしても、こうやってこの目が信じられる限り…
病室のベッドの端に座った少女は、申し訳なさそうに隣に座るもう一人の少女に手を合わせる。『ヒナ』と呼ばれたその少女は明るい口調で手を合わせた少女――宮田葉月に言葉を返す。
「しょうがないよ、はーちゃんの体調考えないで無理させちゃったのはあたしとおゆきなんだし。こっちこそごめんだわ」
「それはいいよ。承知で無茶したのはあたしだしね…ま、とりあえず回った先で倒れなかっただけ良かったと思おうか」
「そうだね…それで、お医者さんは何て言ってるの?」
彼女の言葉に、葉月は少しむくれた口調で答えた。
「疲れから来た軽い貧血だろうけど、『家に帰したら絶対休まないだろうから、休養ついでにこのまま検査入院しろ』だって。検査付きだから二学期も最初少し休まなくちゃだし、めんどいったらないわ」
「ふぅん…でも付き合いが長いだけあって、はーちゃんの事良く分かってるねぇそのお医者さん。…まあ回る先もあと一つだし、はーちゃんの代わりは瑞穂さんが暇だからって引き受けてくれたから。心配しないでゆっくり休んでね」
「…げ、OB引っ張り出したの?迷惑かけまくりじゃんあたし…ヒナ、ホントごめん!」
「ごめんと思うならここでちゃんと治してよね。…その代わり秋からしっかり働いてもらうよ」
少し咎める口調ながらも悪戯っぽくウィンクして笑う彼女に、葉月も笑い返すと明るく答える。
「オッケー、まかせなさい」
「じゃあ、とりあえず今日は帰るね。明日にでもまたみんなで来るから」
「うん。じゃあね」
彼女が病室から出て行くと、葉月は小さくため息をついて勢い良くベッドに横になった。
「あたしの夏は今日でおしまい…か。ホント最悪…」
登校日に倒れて病院送りになったという事も悔しいが、何より彼女が悔しいのは、こうして不本意な形で夏休みの公演から離脱しなければいけなくなった事である。大病を患っている訳ではないが、生来彼女はあまり身体が丈夫ではない。しかし周囲の協力はもちろん、彼女自身の徹底した体調管理でこの数年間は大きく体調を崩すこともなく、それどころか下手な運動部以上にハードだと言われる今の部活で主戦力として扱われる程健康そのものだったのだ。それなのに不意に起きた軽い貧血程度で自分の夏が終わってしまうのは悔しくて仕方がなかった。何よりこの部は6月に行う文化祭で3年生は引退となるため、2年生である彼女にとってはこれが最後の夏。その大切な夏をこんな不本意な形で終わらせたくなかった。
「この程度の貧血でこうなるんだったら、せめて最後の公演が終わるまで持たせて欲しかったわよ。…神様も存外意地悪だなぁ…」
ベッドに横になりながらしばらく彼女はぼんやりとしていた。大部屋が空いていないため個室に入れられ気を遣わないで済むのは楽だが、一人でいる分ろくな事を考えなくなりそうだ。気を紛らわせるために起き上がってテレビをつけると、高校野球の中継が彼女の目に入ってきた。あまり高校野球は見ない彼女だが、自分と同じ年頃の人間がこうして自分の地元や学校を背負って戦っているという事実には普段から感心していた。
『そういえばこの人達は負けたらそこでおしまいなんだよね…』
入っている予定は全て行える自分達と違って、勝負に負けたらどんなに先に進みたくてもそこで全てが終わる彼ら。そうして敗れていった彼らをふと思い彼女は画面を見詰めると、試合は偶然にも地元神奈川が戦っていた。新聞のスポーツ面で度々取り上げられ良く目にしている高校の名に、彼女は彼らが去年あたりからずっと勝ち続けている事を思い出した。『常勝』という肩書きを付けられた彼らは最後まで夏が終わる事を許されない。その事は彼らにとって辛くないのだろうかとふと思ったが、彼らの目を見てすぐにその考えは打ち消される。推測でしかないが、彼らにとっては自分と同じく、途中で夏が終わる事こそが辛いのだろう。いや、途中で夏が終わるなどという事すら考えていないかもしれない。彼らの目が何よりもそう語っていた。一点を争う攻防に彼女はじっと画面を見詰め、いつの間にか心の中で彼らを応援していた。地元だから勝って欲しいという気持ちもあるが、何より自分の様に彼らの夏が途中で終わって欲しくないと思ったのだ。自分と彼らとはほとんど重なる所はない。それでも彼らには本当の終わりまで夏を過ごして欲しいと心から思った。しかし彼女の願いもむなしく、彼らは相手チームの捨て身の攻撃と常識では考えられないアクロバティックな走塁で敗退した。彼女はしばらくぼんやりとテレビを眺めていたが、やがてテレビを消してまたベッドに横になった。ぼんやりとした頭にサヨナラが決まった時のアナウンサーの絶叫がまだ響いている。
「あの人達も今日で夏がおしまいなんだ…」
無意識に呟くと同時に、不意に涙が零れてきた。彼らの悔しさを思い、それに自分の悔しさがシンクロされて彼女は泣いた。彼らの悔しさは自分には決して理解できない事も分かっているし、自分の悔しさを混ぜてしまうのは彼らにとって失礼だとも思う。それでもそうして泣かずにはいられなかった。着替えを持ってきた両親は泣いている彼女に驚き、訳が分からないながらも必死に宥めたが、彼女はかなり長い間泣き続けていた。
「…そういえば、明訓の連勝が最初に止まった時の監督って土井垣さんだったんですよね」
繁華街を少し外れた静かな夜道で、隣を歩いている土井垣に葉月はふと声を掛けた。今は二人の共通の知り合い達と飲んだ後、一人帰り道が違う彼女を心配した土井垣が駅まで送る途中である。あの夏の日から月日は流れ、彼女は社会人に、そしてあの日彼女が応援していた高校の監督だった男はプロ野球選手となり、二人は様々な縁が重なってこうして付き合う様になっていた。不意に声を掛けられた土井垣はその内容に少しむっとした口調で応える。
「確かにそうだが…何が言いたい」
「いえ、さっきお店のテレビで高校野球の特番が流れてたじゃないですか。それ見てたら何だかふっとその時の事思い出したんで」
「…ほう、何を思い出したんだ」
「あの時の試合私偶然テレビで見てたんですけど、明訓が負けた時、思わず泣いちゃったんですよね」
「それはまた何故だ。いくら地元だからといって、関係者でもない君が泣く必要はないだろう」
「それはそうなんですけど…まあ色々あったんです」
「何だその色々というのは」
「そうですね…ま、そのうちゆっくり話します」
そう言って彼女はにっこり笑うと夜空を見上げ、あの時の涙を思い返した。あの時は夏が終わってしまった悔しさから来る涙だと思っていたが、今思うとあの涙は、どんなに大切な時間でも終わってしまった時間はその先の時間を手に入れる事も、その前の時間を取り戻す事もできない事に気付いた哀しみの涙だったのだろうと思う。形は違えど、自分も彼らもその事は同じだと無意識に気付いたからこそ、大切な時を失ったもの同士として自分は彼らに対しても泣いてしまったのだ。そして時を経た今、もう一つ気付いた事がある。終わってしまった時間は確かにその先を手に入れることはできないけれど、また違った始まりがあり、終わってしまった時間とはまた違う形の先の時間を手に入れる事ができる。そうしてたくさんの時間を自分達は過ごしていくのだ。だから大切なのは終わりを悲しむ事でも過去を振り返る事でもなく、始まりを受け入れ、手に入れた今の時間を大切にする事。でも、今ここにはあの泣いた日の気持ちが愛おしくて振り返りたくなる自分がいた。これは単なる懐古なのか、それとも――
「…おい、どうした?」
「…ああ、すいません。酔って少し涙腺ゆるくなったかな」
土井垣に声を掛けられて涙ぐんでいる事に気付いた葉月は、おどける様に笑うと涙を拭う。
「まったく…ほら」
彼は彼女を引き寄せると、ゆったりと肩を抱いた。自分を労わってくれる彼の優しさに感謝しながらも、彼女はまたふと考える。自分が手に入れているこの時間も、いくつもの時間の終わりを経て得たものであり、今までと同じ様にこの時間もいつかは終わる。だから自分がするべき事は、この時間が終わるまでの間手に入れた今の時間を大切にするだけ。ではこの時間の先が手に入れられなくなり新しい時間を手に入れる様になった時、自分はこれまでの様にその時間を大切にしようと思えるだろうか――自分自身に掛けたその問いに、彼女は心の中で首を振っていた。
『どうして…?』
自分で出した答えに彼女は狼狽する。終わりがあるからこそ始まりがある、だから終わりは恐れるものではない。今まではそう思っていた。それなのに今の自分は今手に入れているこの時間が終わる事をものすごく恐れている。不可能だという事は分かっているのに、今手に入れている時間は終わらせたくないと思う自分。ましてや今の時間をこの後になって愛おしんで振り返りたくなる様になるなど考えたくもなかった。何故ならこの時間が終わる時に待っているものは――
「…ああ、そうか」
「どうした?」
「あたし…土井垣さんと離れたくないんだ」
涙を流しながらぼんやりと赤面しそうな言葉を呟く葉月に、土井垣は狼狽した口調で問いかける。
「何だいきなり、その…帰りたくない…とか言うんじゃないだろうな」
「いえ、今がどうとかじゃなくて…改めて自分の気持ちを自覚しただけです」
「…あのなぁ…」
土井垣は彼が狼狽している事にも気付かずただその問いにぼんやりと答えるのみの彼女を見詰め、呆れた様に溜息をつくと、彼女の背中をポンと叩く。
「…ほら、もう駅だぞ。ちゃんと一人で帰れるか?」
心配そうに問いかける土井垣に、葉月は気を取り直した様にまた涙を拭い、明るい口調で答える。
「大丈夫ですよ。別に泥酔してる訳じゃないですし」
「それならいいが…」
「本当に大丈夫ですって…それじゃ失礼します。暇を見てまた連絡しますね」
「分かった…ああ、ちょっと待て」
「何ですか?」
頭を下げて踵を返そうとする葉月を土井垣は引き止めた。振り向いた彼女を見詰めながら土井垣は言葉を捜す様にしばらく沈黙していたが、その沈黙の後ぼそりと、しかし言い聞かせる様な口調で言葉を掛けた。
「お前がさっき何を考えていたのか聞こうとも思わんが、俺はお前から離れる気はないぞ。ましてお前を離す気もない…だから泣くな」
「…」
自分を見詰めている土井垣の目が、あの日画面越しに見た少年達と重なる。夏が終わる事など考えもしない少年達の目。あの頃から変わらずこの目を持ち続けている彼と違い、自分にはこの目がもう持てない事に胸が少し痛んだが、彼の眼差しとその心は彼女の中に染み透る。言葉を失っている葉月に、土井垣は柔らかな表情を見せる。
「…じゃあな、その内さっきの『色々あった』という話を聞かせてくれよ」
「…そうですね」
彼の言葉に彼女はふっと笑うと、彼の目を見詰め返して答えた。たとえもう自分がこの目を持てないとしても、こうやってこの目が信じられる限り…
――きっとこの夏は終わらない――