ある昼下がり、土井垣とその恋人の女性は彼の部屋でのんびり過ごしていた。二人はそれぞれ好きな事をしていたのだが、ふと土井垣の隣で本を読んでいた彼女が呟いた。
「…やっぱり分からない」
「何が」
「え?…ああこれ」
 そう言うと彼女は持っていた文庫本を見せる。それを見た土井垣は怪訝そうな表情を見せた。
「『人魚姫』…何だ童話じゃないか。お前さっきから熱心に何か読んでいるなと思ったらそれを読んでいたのか?」
「そう。昔からよく分からない話だと思ってたんですけど、改めて詳しい訳を読んだら余計分からなくなっちゃった」
「…しかし、何でまた童話なんぞいきなり読み返そうと思ったんだ?」
 土井垣の問いに、彼女は少し顔を赤らめながら途切れ途切れに呟く様な口調で答える。
「えっとね、前読んだ本に結構人魚姫が話題になってて…その中の一つに『恋をするとこの話の読み方が変わってくる』みたいな事が書いてあったから…今読んだら感動できるのかな~と思ってちょっと…」
「…」
 彼女の言葉に土井垣も赤面する。つまり彼女は自分との付き合いでこの話が理解できる様になったのではないかと思い立ち読んでいた、と言う事。彼女のある種ストレートな自分に対する想いの吐露に思わず照れながらも彼女の言葉を不思議に思い、土井垣は更に問いかける。
「…しかし、分からなくなったと言うのは何がだ」
 土井垣の問いに彼女は少しずつ言葉を紡いでいく。
「まず最初にね、人魚姫は結局何が一番欲しかったのかなって言うのが分からなくなっちゃった」
「それは王子の愛だろう?」
「ううん。詳しい方だとね、人間は死んでも永遠に残る魂を持ってるけど人魚は持ってなくって、人魚姫はその永遠の魂にも興味を持ってて、欲しいって思ってるんですよ」
「そうなのか。でもそれがどうかしたのか?両方を望む事は別に悪くないだろう」
「うん。それだけならいいですけど、人魚が永遠の魂を得るには人間に愛されてその人と結婚式を挙げて永遠の愛を誓えばもらえるんですよ。…で、訳し方の問題なのかな…読んでると時々、人魚姫は王子に愛されたいって言うよりそれは永遠の魂を手に入れるための手段にしか思ってないんじゃないかって思えてきて。確かに愛しい王子のためなら何でもしようとか、王子が助けてくれたと思っている修道院の女性に対する想いを語るのを聞いて胸を痛めたりしてるのは書かれているんですけど、それだって自分が愛されなければ自分は永遠の魂が手に入らない上海の泡になって消えちゃうっていう切迫感しか伝わってこなくて…私相当ひねくれてるのかしら」
「ほう」
「それにね、読んでたら段々王子に腹が立ってきちゃって。…だって王子って最初から最後まで人魚姫を可愛がっている割に、人魚姫の事なんかこれっぽっちも愛してないんですよ。しゃべれないから目でだけど人魚姫が『私の事が好きですか?』って問いかけるとそれには気付いて『うん、お前が一番好きだよ』とか言ってますけど、それと同じ口で自分が一番愛しているのは修道院の中の女性で手が届かないんだって自分に好意を持ってくれてる人魚姫に言ってるの。しかも人魚姫を気に入っている理由はその女性に似てるからだ、ってまで言ってるし…この王子よっぽどの馬鹿か無神経なのかって思っちゃうわ」
「確かにその王子の言動は俺にも分からんな…」
 たかが童話に腹を立てる彼女に苦笑しながらも、土井垣は彼女の語り口の興味深さに加え、彼女の恋愛に対する、ひいては自分に対する想いを聞くいいチャンスかも知れないと思い、更に話が続く様にうまく話を繋げていく。彼女は更に腹立たしげに続けた。
「しかもね、隣の国の姫との縁談が決まった時に言った台詞、何だと思う?『その姫が助けてくれた女性に似ている訳が無い、どうせ結婚するなら似ているお前と結婚するよ』…心が自分に向いていないどころか結婚しても好きな女の身代わりだって当の本人に断言する神経が私には分からないわ。それでも人魚姫はその言葉で愛されているって思うんですよ。何でそうなるのかしら。しかもその王女が助けてくれた女性だって分かったらあっさりその姫と結婚を決めて人魚姫の事は忘れ去ってるし…将兄さん、おんなじ男としてこの王子の気持ち分かります?」
「いや…何とも言えんな」
 腹を立てている彼女を更に怒らせない様にという気持ちもあるが、確かに彼女の口から語られる王子像では自分もこの王子が何を考えているのか分からないので土井垣は曖昧に答えた。彼女は更に続ける。
「ラストの…まあ本当はラストじゃないんですけど…王子を刺さずに海の泡になる場面で人魚姫の王子に対する愛を語りたいのかとも思うけど、何だか刺さない理由が愛って言うのはそれまでの仕打ちにしたら弱い気がするし…結局愛の話でもなさそうだし、それ以前にこの話で何が言いたかったのか本当に分からなくって…」
 そう言って遠くを見ながら疲れた様に溜息をつく彼女の様子に土井垣も何だかその話に興味が湧き、彼女に声を掛ける。
「…なあ、ちょっと俺にも読ませてくれないか?何だか俺も読んでみたくなった」
「え?うん、いいですけど…はい」
 土井垣の言葉に彼女は本を差し出す。彼は受け取ると話を読み始めた。確かに大筋は多少彼女の主観が入っていたとはいえ、今彼女が語った様に書かれている。しかし土井垣は彼女とはまた違った思いを抱きながら読み進めていった。話自体はそれ程長くないので時間もそれ程かからずに読み終わる。読み終わって一息つく土井垣にお茶を勧めながら彼女は彼に問いかけた。
「どう?」
「そうだな…」
 彼女の問いに土井垣はいれてくれたお茶を飲み一息入れると、ゆっくりと口を開く。
「まず人魚姫の方なんだが…確かに『永遠の魂』の方に比重が重くなっている事もあるな」
「でしょ?」
「でもこうは思えないか?口がきけないとはいえ、人魚姫の見た目や身のこなしの美しさは群を抜いていたんだろう?しかも足が痛んでも血が滲んでも微笑んで王子に付いていく様なけなげさもあるときている。だったら城の中の人間で少なからず彼女に惚れた男もいたんじゃないか?話の中では王子ではないといけないと思い込みそうだが、大筋から読んで行くと人魚が永遠の魂を手に入れるには自分が愛した人間に愛されれば相手は誰でもいい様だから、永遠の魂が欲しいだけだったら人魚姫はそっちに心を移しても全くかまわなかったとも言える訳だ。しかしそうした気配が無いと言う事は、そうした想いを振り切ってまで人魚姫が王子の愛を求めていたと言う事だろう?…つまり、城にいる時の彼女にとっては、王子から与えられる永遠の魂以外は全く意味の無いものだったのかもしれんぞ」
「そうか…」
 土井垣の解釈に彼女は感心した口調で頷く。土井垣は更に続けた。
「王子の方は…昔の王族というもの自体がこういうものだった、と思えば納得がいく。この時代の王族だったら結婚相手にはそれなりの身分を求めるのが普通だろう。人魚の世界では身分の高い姫だといっても、人間の世界での人魚姫は身元不明の上口もきけないただの娘だ。いくら可愛がっていたからといって、王となるための教育を受けている王子が口ではどう言っても本気でそんな得体の知れない娘と結婚しようと思う事は皆無といっていいだろう…それを覆せなかったのが人魚姫の悲劇だな」
「うん…そうね…でも」
「何だ?」
「もし人魚姫が海の泡にならなくてあのままあの城にいたとしたら、王子は彼女をどうするつもりだったのかしら」
「ああ、それは考えなかったな」
「お城から追い出すのかしら、それとも新しいお妃に仕えさせるつもりだったのかしら。まさかお妃が来る前と変わらない扱いをするつもり?…どれにしても私、やっぱり王子が許せないわ。そうだとしたら、海の泡になったのは人魚姫にとって幸せだったのかしらね」
「ふむ…そうして永遠の魂を手に入れる術だけは手に入った訳だからな。ある意味それが人魚姫にとって、唯一の救いかも知れん」
「そうよね…」
 彼女は複雑な表情で黙り込む。土井垣はしばらく彼女を見詰めていたが、やがて話している内に心に浮かんだ思いを口にする。
「…なあ」
「何ですか?」
「お前が人魚姫だったとして…同じ状況に置かれたら…どうする?」
「そうね…」
 彼女はお茶を一口飲んで小さく溜息をついた後、遠くを見詰めながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…あたしだったら、躊躇わず王子を刺しますね」
「愛も永遠の魂も得られないなら全てを無かった事にして元の世界へ戻る…と言う事か」
「違うわ。それで…そのナイフで自分も刺して死ぬの」
「…え?」
 彼女の答えの意味が分からず驚いた表情を見せる土井垣を彼女は一瞬見詰めると、また彼方に目をやり、静かな口調で続ける。
「…それにね、あたしがそうするのは王子を愛しているからじゃなくて…絶望からよ」
「絶望…?」
「愛されなかったのは仕方ないと思う。でも最初から最後まで眼中になんか入れていないのに、まるで愛しているかの様に錯覚させておいて、最後の最後で断崖から突き落とした上、自分がそうした事すら気付かない王子の無神経さと、そんな相手を愛しちゃった自分に対する絶望で…あたしは王子と自分を刺すのよ」
「…」
 彼女の余りに激しい答えに絶句する土井垣を宥める様に彼女は土井垣に向き直り笑いかけると、口調を軽いものに変え言葉を重ねる。
「…まあ、それだとストーカーと一緒だなとは思うけど、あの時代であの仕打ちならありでしょ」
「…中々激しい意見だな」
「そうかもね。でもね、あたしは付き合う以上はちゃんと自分を見て欲しいの。それができない相手は最初からお断りだわ」
「じゃあ、今お前がこうしていると言う事は、少なくとも俺はお前を見ているとは思ってくれている訳だ」
「まあ…そう言う事ね。将兄さんの気持ちはともかく、それだけは信じられると思えるから」
「そうか…じゃあ俺がこの王子と同じ様な男だったら…どうする?」
「意地悪ね…」
 彼の問いに彼女は苦笑しながら少し考えると、やがて寂しそうな微笑を見せて答える。
「そうね…その時はきっぱり別れるわ。傷つけられた落とし前はきっちり付けてね。海の泡になるのはあたし、怖くないもの。…それにそっちの方が可能性高いでしょ」
「…そうか」
「…どう?いい加減嫌になったでしょ?こんな女。だからいいのよ、気にしないでこの王子みたいにあたしを扱っても」
 自嘲気味な笑みを見せて軽い口調で言葉を紡ぐ彼女に、土井垣はふっと優しい笑みを見せ言葉を返した。
「いや、そんな事するものか。…それにな、俺はお前を海の泡になんかさせてやらんぞ。今様人魚姫は永遠の魂を王子から与えられて幸せに暮らすんだ」
「そうなるかしら」
「なるさ。いや…そうしてみせる」
 土井垣の言葉に彼女は一瞬黙り込んだが、すぐに茶化す様な口調で言葉を繋ぐ。
「…そう、ハッピーエンドまでは気が遠くなる程長いかもしれませんよ」
「そうか?俺は今の話ですぐそこまで来ていると思ったがな」
「…」
 彼女は赤面してすっかり黙り込んだ。彼女は常日頃土井垣と自分との付き合いは彼にとっては遊びだろうと言って土井垣の想いを信じていないかの様に振舞っているのだが、今日の会話で彼の想いを信じている事を無意識ながら自分から告げたのだ。それを指摘され自分も気付いた彼女が何も言えずに黙り込んでいるのを見て、土井垣は優しく彼女を抱き締めると囁く。
「少しづつだが…俺の気持ちはちゃんと届いている様だな」
「…さあ、どうかしら」
 口では抗う様な言葉を紡ぎながらも身体を預ける様に寄り添う彼女を抱き締める腕に土井垣が力を込めると、二人の周りの空気がふわりと風の様に舞った。