「…こんな朝早くから始まるんですか」
「そだよ。胃は基本的に午前中しかできないし、空腹でないと血糖値とか脂質の値に変化出ちゃうからね。でもお腹空いてる時にあんまり待たせると普通に待たせる以上に機嫌悪くなるから。だからすぐできる様に開いたらすぐ設営が基本なんだ」
「そうなんですね」
 1月のある日曜日の都内某所。土井垣は沼田に『葉月の仕事の様子を見せて欲しい』と頼んで、土井垣の自主トレが休みで沼田がヘルプに入っておらず、かつ葉月が参加している健診をと探した時、一日を使う大規模なものがあったので、その健診をこっそりと二人で見に来ているのだ。物陰から見ていると、葉月はスタッフらしき人達に明るく挨拶をしながらレントゲン車から荷物を運び出し、会場となる場所へ指示を出しつつ運んでいた。かなり重そうな荷物もあるが、彼女は時折気付いたスタッフが手伝ってくれる時には快く受けているが、大抵そういった荷物もほぼ一人で一生懸命運んでいる。彼は心配でハラハラしながらその様子を見守っていた。
「大丈夫なんですか、彼女。あんな風に一人で頑張ってますけど」
「ん~まあね。パートさんは女性だけど正職は男ばっかで、負けたくないって気持ちが宮田ちゃんもあるし、それに正職で彼女を気遣える様な同僚職員、ほぼいないからねぇ…一人だけいるけど」
「それはどういう…?」
「ん~?その内分かるよ」
 そう言うと沼田は読めない笑顔で笑った。その笑顔を不思議に思いつつも、二人は会場へ入って、また物陰から覗く。葉月は周りをチェックしながらスタッフに指示を与え、自分でも準備をこなしている。時折、若い職員のせいか指示されるのが気に入らないらしく、彼女の指示を聞かない年上のスタッフもいるが、そうした時には彼女自らが淡々と仕事をこなして行っている。土井垣はしっかりした彼女の様子に感嘆すると共に、彼女の気苦労を思い、少し胸が痛んだ。その内設営が終わり、リーダーらしき人間によってミーティングが終わった後、大勢の受診者が訪れ健診が始まった。彼女は受付に並んだ受診者の整理を行いながら、丁寧に用意するものを説明している。そうしながらも、全体の様子は見ているらしく、時折会場を見渡してトラブルがない事を確認している様だった。そうしてしばらくは順調に進んでいたが、その内一人のスタッフが、不満そうな様子で彼女に声を掛けてくる。彼女はそのスタッフの話を聞いて、そのスタッフがいた場所へ行くと、何かの検体を調べて頷き、会場のまた一角に行って何かを確かめた後、指示を出していた。その様子を見て土井垣は問い掛ける。
「あれは…何なんですか?」
「ああ、受付が多分番号をダブって書いてたんだと思う。受付松岡さんだったら絶対ありえないミスだけど、今日は加藤さんだもんなぁ…ちょっと甘くなってるな。宮田ちゃん、松岡さんの直弟子で、そういうトラブル全部解決できる娘だから、皆不満は彼女が引き受ける事になっちゃうんだよね」
「そうなんですか…」
 と、不意に会場が騒がしくなる。見ていると、どうやら一人受診者が倒れたらしい。彼女はそれに気が付くとすぐに寄って行って、周りに指示を与え、持って来てもらった血圧計で血圧を測り、その受診者に声を掛ける様な様子を見せる。そしてその反応を見て他のスタッフが連れてきた医師に何やら話して様子を見てもらった後、看護師らしきスタッフと一緒にその受診者を奥へ連れて行き、戻って来る。それを見ていた沼田が困った様に口を開いた。
「あ~倒れちゃったか~。今日は報告書と明日の様子見大変になるな~。下手するとまた彼女休み返上しちゃうかも」
「え?彼女そこまでやってるんですか?」
「そう。具合が悪くなった受診者様の翌日の様子見は、巡回から離れて保健師チームの仕事になるんだけど、上野ちゃんが見張ってないと保健師チーム、巡回の事棚上げにしたがるから。彼女もそれ知ってるから本当は自分がやりたいんだけど、そうすると他の仕事できなくなっちゃうし、休まないって怒られるから、全部申し送りとか完璧にやって保健師チームが動く様に追い込む仕事もしてるの。他の巡回の職員、そこまではめんどくさがってやらないけど、彼女は『受診者様のため』ってなると入れ込むからね~それで仕事が増えるって言う悪循環なんだ」
「そうだったんですか…」
 土井垣は彼女の事を思い、更に胸が痛む。葉月は基本的にあまり丈夫ではない。なのにどんなに辛くても受診者のためなら自分の身体の事などいとわない。良く具合が悪くなって合唱のレッスンを休んでいる事は知っていたが、こういう理由もあって具合が悪くなり、趣味すら満足にできなくなっているのだと分かり、彼は彼女の傍へ行き労わってやりたい衝動に駆られる。しかしそうはできない事は分かっているので、黙って彼女の仕事ぶりを見ていた。やがて昼になり、会場は休憩時間となり、スタッフに弁当が配られ、皆談笑して食べている。しかし、彼女は全く食事をしないで何やら検体のチェックをし始めた。土井垣はそれを見て沼田に声を掛ける。
「いいんですか沼田さん。彼女何も食べないで仕事続けちゃってるじゃないですか」
 沼田も土井垣の言葉に、困った様に応える。
「あ~、帰ってからの仕事楽にするためと、もしかしたら何かトラブルがあってやってるのかも。松岡さんならまだ自分で持ってきた軽食食べるけど、彼女は全く食べないで仕事するからね~」
「沼田さん、行って食べる様にしてやってくださいよ」
「いや、今日のスタッフ配置だとそろそろ…ああ、行った」
 見ると、葉月の傍に一人の男性が寄って行って弁当を差し出している。彼女は『いらない』という様に手を振って断り、お茶だけもらってまた仕事を始めた。彼は彼女から離れると弁当を置き、財布を持って会場から出てきた。会場を出た時、その男性は二人に気づくと、驚いた様に声を掛ける。
「どうしたんですか沼田さん、今日は休みでしたよね」
 男性の言葉に、沼田は明るく応え、更に問い掛ける。
「うん、ちょっとここの仕事を見学したいって人がいたからこっそり見させてもらってるんだ。だから僕がいる事は内緒にしてね。…ところで緒川ちゃん、宮田ちゃん、相変わらず食べられないの?」
「ええ、いつもの『気持ちが悪くて食べたくないからいいです』が出ました。あたしが『食べないと逆に具合が悪くなるよ』って言っても『食べたら戻すかもしれない』って言って駄目でした」
「そんな状態なのか?大丈夫なのか彼女は!?」
「え?…この人誰ですか?」
 今にも掴みかかりそうな勢いで慌てる土井垣を見て、『緒川』と呼ばれた男性は沼田に問い掛ける。沼田は苦笑しながら、緒川に土井垣を紹介する。
「ああ、彼は土井垣ちゃんって言って、宮田ちゃんの知り合いで、今回仕事が見たいって言った当人」
「そうですか…」
 そう言うと緒川は、ふっと彼に何故か挑発的な視線を向ける。土井垣もそれに気付いて視線を返す。緒川は挑発的な視線から穏やかな眼差しになり、土井垣に言葉を返す。
「大丈夫です。顔色は悪くないんで、具合が悪いんじゃなくて気を張りすぎて胃に来てるだけですよ。あの様子だと最後まで無事に終われば、帰る頃には『お腹すいた』って騒ぎ出します」
「そうか…ならいいが…」
「で、緒川ちゃんは何しに出てきたの」
「いえ、食べられなくてもみやちゃん液体は飲みますから。コーヒーかスポーツドリンク位は飲めると思うんで、買ってきてあげようと思って。あたしも午後の水分買いたいですし」
 土井垣はふと緒川が『みやちゃん』の部分を強調した様に聞こえた気がした。そしてまるで自分達はそれだけ仲がいいんだぞというのを土井垣に強調した様に感じ取った。何だか突っかかられている気がして土井垣は不審に思いながらも、彼を見詰めていた。緒川は二人に挨拶をする。
「じゃあ昼休み終わり早いんで、早く買ってこないと。失礼します。どうぞゆっくり見学して下さい」
 そう言うと緒川は一礼して、前を通り過ぎていった。それを見送ると土井垣は沼田に問い掛ける。
「彼は…一体何者なんですか?随分彼女の事を分かっている様な感じがしましたが」
「ああ、彼は緒川ちゃんて言ってね。宮田ちゃんフォローできる数少ない同僚。実際仲もいいし、僕も含めて良く飲みに行ったりしてるんだ。…何、気になる?」
「ええ…ちょっと」
 土井垣の表情を読み取った沼田は、からかう様な口調で声を掛ける。
「図星。緒川ちゃんはある意味土井垣ちゃんの恋敵だよ…まあ、宮田ちゃんは『頼りになる先輩』としか思ってないけどね」
「…そうですか」
 土井垣は沼田の言葉に、今までの緒川の態度の理由が分かり、納得すると共にどことなく虫の居所が悪くなる。自分は彼女の仕事に関わってフォローしてあげたくてもできないのに、彼は先輩という事でそれを易々こなし、彼女から慕われている。自分と彼女は付き合っているとはいえ、まだ付き合い始めたばかり。今は『頼りになる先輩』としか思っていなくても、もし彼のフォローにほだされて彼女が彼の方に行ってしまったら…そんな事を考えて更に胸が痛くなり、むっつりとした表情を見せている土井垣を見て、沼田は宥める様に声を掛けた。
「ほらほら土井垣ちゃん、そんな顔しなくても大丈夫。もう緒川ちゃん宮田ちゃんに振られてるから」
「え?」
 意外な言葉に土井垣は驚く。沼田は続けた。
「いや、こないだ緒川ちゃんと二人で飲んでね。緒川ちゃんから『宮田ちゃんに告白したけど『自分には好きな人がいるから』って断られて、諦めはつけるつもりだけど同じ職場で気まずくなるのは嫌だから、これからも彼女と友人として仲良くできる様にフォローして欲しい』って頼まれたばっかなんだよ、僕」
「そんな事があったんですね…」
「その『好きな人』って…土井垣ちゃんの事じゃん。それを緒川ちゃん直感で気付いたから、まだ諦め切れてないのもあって、さっき土井垣ちゃんにちょっと突っかかったんだよ」
「沼田さん…気付いてたんですか?」
「うん。いつもの緒川ちゃんだと、もっと愛想いいもん。あんな風に当たりがきついって事ないから」
「そうなんですか」
「でも、土井垣ちゃんもそんな顔してないで好かれてるって自身持ちなよ。で、今日は後で宮田ちゃんにそれとなく電話掛けて食事に誘いな。例え直接フォローできなくても、そういう風にさりげなく彼女を支えてやれば、緒川ちゃんには負けないよ。ちゃんと宮田ちゃんが好きな土井垣ちゃんなら」
「そうでしょうか…」
「そんなもんだよ。彼女みたいないい娘は確かに恋敵も増えるだろうけど、やきもちばっかり妬いて変に縛っちゃ駄目だよ。それよりちゃんと自分ができる事で支える事。お互いにね」
「…はあ」
 と、不意に葉月が席から立ち上がり、会場を出てきた。慌てて二人は身を隠そうとしたが、間に合わず彼女に見付かってしまった。二人を見て、彼女は驚いた表情で声を上げる。
「え?沼さんはともかく、土井垣さんまで…こんな所で何やってるんですか?」
「あ…いや、実は…その…」
 葉月の問いに、土井垣は何と答えていいかしどろもどろになる。それを見た沼田はにやりと笑うと、明るい口調で彼女に応えた。
「実はね。土井垣ちゃんが宮田ちゃんの仕事ぶりを見たいって言い出して、こっそり見てたんだ。…もう土井垣ちゃん心配でハラハラしちゃって、何かある度に飛んで行きそうな様子でずっと見てたんだから」
「…」
 沼田の言葉に、土井垣と葉月は赤面して沈黙する。しばらくの気まずい沈黙の後、葉月がぽそりと口を開く。
「…ありがとうございます」
「いや…それより、食事はちゃんととった方がいい。いくら気分が悪くても、君の身体だと食べないと倒れるかもしれんぞ」
「…はあ、すいません」
「…まあ、あれだけ緊張感を持っているなら、君の事だし食べたくない気持ちも分かったがな…その代わり、今日は仕事が終わったらきちんと食おう。俺が一緒に食ってやるから。いや…一緒に食って話したいんだ。もっとお前の仕事について知って…支えるためにも」
「…え?」
「…とにかく、これからこういう仕事の後は遠征やナイターでいない時以外は、仕事が終わったら必ず俺に連絡する事。…迎えに行くから」
「…はい」
 葉月は赤面しながらも土井垣の気持ちが嬉しいのか、小さく頷いた。そこに缶コーヒーとペットボトルのお茶を持った緒川が戻って来て、彼女に気付くと声を掛けて缶コーヒーを渡す。
「ほら、みやちゃん救援物資。これ位なら飲んでも平気だろ。せめてカロリーだけは補給しな」
「あ、ありがとうございます緒川さん。えっとお金払わないと…」
「いいよ、俺のおごり。それより午後もしっかりこなそうぜ」
「はい」
 葉月は緒川から缶コーヒーを受け取ると、にっこり笑った。それを見て緒川も笑うと、また土井垣に軽く挑発的な視線を送る。土井垣は今度は自分も挑発的な視線を返し、葉月にわざと声を掛けた。
「葉月、それよりお前どこに行こうと思って出てきたんだ?用事があるなら、済ませないといかんだろう」
「あ…そうだ、お手洗い行こうと思ってたんだ。すいません、失礼します」
 葉月は緒川の態度にも土井垣の態度にも気付かず、慌てて洗面所の方向へ走って行った。土井垣は笑って見送ると、彼女を名前やお前と呼ぶ彼を見て、少し悔しげな様子を見せている緒川ににやりと笑い返し、沼田に声を掛けた。
「…じゃあ、大体様子が分かったんでもう大丈夫です。沼田さん、ありがとうございました」
 恋敵がいるならそれも良し。自分はただ彼女を自分らしく支えるだけ。そうして恋敵など蹴散らして、彼女を自分だけのものにするんだ――土井垣はそう思ってふっと笑うと沼田と共に会場を後にした。