「はい、終了でーす!データの提出と片付けお願いします」

 受付時間が終わり、現場の統括をしていた葉月はそれぞれの持ち場に声をかけながらデータの回収と人数の確認をして回っていた。忙しく立ち働いている彼女を見つめながら、何人かの女性スタッフが囁きあっている。
「…ねえ、狩野さん」
「何?守弥さん」
「宮田さん…少し変わったよね?」
「確かにね~。ここに来たばっかりの頃は技術職とはいえ正職で女の子一人だから『女扱いされたくない』ってなりふり構わず頑張ってたけど」
「最近、何だか年頃の女の子らしくなったよね」
「元々が可愛いのにもったいなかったもんね。まあいい傾向じゃない?」
「そうね~。何があったのかは流れてこないから分かんないけど、こうなるともっと可愛らしくしてあげたくなるよね」
「…じゃあ片付け終わったらちょっと仕掛けてみようか」
「さんせ~い」
 女性陣は含んだ笑みを見せ合うとそれぞれの片付けに戻っていった。

「…ねえ、宮田さん」
「あ、守弥さん。…皆さん揃ってって事は…もしかして何かトラブルありました?」
 片付けが終わって一息入れていた葉月は、女性陣に話しかけられて心配そうな表情を見せた。その表情に女性の一人が宥める様な明るい口調で話を続ける。
「そうじゃなくて…最近宮田さん薄くだけどちゃんとお化粧したりして女の子らしくなったから、どうしたのかな~って思って」
「え、やっぱりどこかおかしいですか?」
「ううん、いい傾向だと思って…もしかして彼氏でもできたの?」
 その言葉に葉月は顔を真っ赤にして勢いよく首を振った。
「いいえ!…そんな事ないです…」
「ふうん…それはどっちでもいいとして…いくら男ばっかりの職場だからって、あなたは年頃の女性なんだからね。少し位おしゃれするのはいい事よ」
「でね、もっと女の子らしくするためにいい物貸してあげようと思って」
「はい…?」
「ちょっと待ってて…ほらこれ」
 そう言うと女性の一人が小さなアトマイザーを出して葉月の襟元に一吹きした。甘い香りが広がり、驚いた表情を見せる葉月に守弥はにっこりと笑って説明する。
「いい香りでしょ?バラの香りの香水なんだけど、宮田さんに似合うかな~って思って」
「ちょうど今日はきっちりスーツ着てるから、この香りも合いそうだし」
「気に入ったらブランドと名前教えてあげるからいつでも聞いてね。じゃ、お疲れ様~」
「はあ…ありがとうございます。お疲れ様でした」
 楽しそうに笑いながら去っていく女性陣を唖然として見送ると、彼女は改めて香水の香りを確かめる。少し甘めの女性らしい上品な香りだけれど、普段香水を付けない自分にとっては何だか違和感がある様な気がする。そして何よりこの自分を包む香りを、今日会う約束をしている人間はどう思うだろう、といつの間にか考えていた。

「ごめんなさい、事務処理が片付かなくって…」
 その日の夜、駅前で本を読んでいた男性に葉月は駆け寄ると両手を合わせて頭を下げる。頭を下げられた男性――土井垣将は本を閉じると笑ってその本で彼女の頭を軽く叩いた。
「いや、かまわないさ。ちゃんと連絡があったから出るのを遅らせてそれ程は待っていないし」
「それなら良かったですけど…じゃあどこに行きますか?」
「そうだな…」
 歩きながら考え込んでいた土井垣は隣を歩く彼女を包むかすかな香りに気付き、ふと問いかける。
「葉月…お前、もしかして香水か何か付けていないか?」
「あ、うん。…今日の出張の時にパートさん達が付けてくれたんだけど、まだ分かる?…バラの香りの香水なんですって」
 恥ずかしそうに答える葉月を土井垣はしばらく見詰めていたが、やがて不機嫌な口調で呟いた。
「…気に入らんな」
「え?」
「俺は香水が嫌いなんだ。そんな甘ったるい香りを付けているのは気に入らん」
「…そう」
 彼女は寂しそうな表情を見せるとふと立ち止まる。
「どうした」
 立ち止まった彼女を怪訝そうに見つめる土井垣に、彼女は寂しげな笑みを見せて口を開いた。
「気に入らない人間とデートするのは嫌でしょ?…今日はやっぱり帰るわ」
「お、おい…」
「またの機会に会いましょ…失礼します」
 彼女は寂しげに笑ったまま頭を下げると踵を返して去っていく。引き止めるタイミングを失った土井垣は、彼女を見送る形で立ち尽くしていた。

「…そりゃいくら何でも酷いですよ土井垣さん」
 不知火はいきなり土井垣に呼び出された居酒屋で酒を飲みながら、今しがた聞いた事の経緯に呆れた口調で言葉を発した。
「そう言われると返す言葉がない」
「そう思うなら、どうしてそんな事言ったんですか」
 不知火のある種もっともな問いに土井垣はしばらく沈黙した後、重い口を開く。
「…不安になったんだよ」
「…は?」
「あいつはそうは見せなかったから元が可愛いというか…綺麗だとは気付かれなかったんだが、最近は一見しても綺麗になってきていてな。…周囲の視線が変わってきているんだ」
「はあ…」
「今まではまだ良かったんだ。機能重視で洒落っ気がない分、見た目で寄って来る様な奴らがいなかったからな。しかしきちんと化粧をしたり、服装が歳相応の女性のそれになったらそれが妙に似合ってな、あいつに色目を使おうとする奴らが結構いるんだ。…当の本人は全く気付いていないがな」
「…」
「この上香水なんか付ける様になってみろ。…余計に男を引き寄せかねんじゃないか」
 土井垣の言葉に、不知火は額に手を当てて大きく溜息をついた。
「…つまりは、土井垣さんのやきもちなんですね」
「う…」
 言葉に詰まった土井垣に、不知火は呆れた口調で更に追い討ちをかける。
「元々彼女がそういう風にする様になったのは、どう考えたって土井垣さんのためですよ?土井垣さんのために綺麗になろうとしてるのに、それで当の本人に怒られたら、彼女が可哀想ですよ」
「…それはそうなんだろうが…」
「そうなんです」
「…そうだな」
「事情はどうあれ、ちゃんと謝った方がいいですよ」
 ついでに言えば、おごってもらえるのは有り難いけれど、この手の事がある度に自分を呼び出すのは頼むからやめて下さい、と不知火は心の中で絶叫した。

 数日後、土井垣は渋る葉月をもう一度呼び出した。待ち合わせの場所へやってきた彼女へ彼は開口一番謝罪する。
「…この間はすまなかった」
 彼の謝罪に、その気持ちが分かったのか、彼女も申し訳なさそうな表情で応える。
「いえ、私も大人気なかったですから…すいません」
「でな、侘びにと思ってこれを買ったんだが…開けてみてくれないか」
「はあ、何だか悪い気もしますけど、とりあえずお言葉に甘えて…」
 葉月が遠慮がちに包みを開けると、そこにあったのは香水のビン。彼女が驚いた表情で土井垣を見詰めると、彼はばつの悪そうな表情で口を開く。
「あんな事を言っておいてどうかとも思ったんだが、今回の侘びにはそれが一番だと思ってな」
「でも、将兄さん香水嫌いだって…」
「すまん。…香水が苦手なのも本当なんだが、この間の半分は俺の嫉妬だ…お前がどんどん女らしくなっていくのが不安になってな」
 土井垣の言葉に、彼女は怪訝そうな表情を見せて問いかける。
「あの…皆さんそう言いますけど、私そんなに変わって来てるんですか?私自身は実感全くないんですけど…」
「まあ…お前の中身は確かに変わっていないな」
「ですよね」
「でもな、変わった所も確かにあるぞ。全体的に女らしくなったというか、その…綺麗になってきた。その理由が俺のためなら…嬉しいがな」
「…」
 土井垣の言葉に葉月は彼を見詰めたまま顔を赤らめて沈黙する。しばらくの沈黙の後、彼女は遠慮がちに問いかけた。
「えっと…これちょっと試してみていいですか?」
「ああ。一応バラの香りだという事だけは覚えていたから、同じ系統のものを探したんだが…」
 葉月はハンカチに香水を一吹きして香りを確かめると、小首を傾げて口を開く。
「この前のよりもすっきりしてるみたい…でも私はこっちの方がいいです」
「そうか」
「本当の事言うと私もあんまり香水は好きじゃないんだけど…これは何だかいいな」
 さらりと紡がれた葉月の言葉に、土井垣は驚いた表情を見せる。
「そうだったのか?じゃあこの間付けていたのは…」
 驚いたまま問いかける彼に、彼女は困った表情を見せて答えた。
「不意打ちで付けられたから断れなかったんです。親切で付けてくれた訳だから怒れないし」
「そうだったのか」
「でもこれは特別。すぐに気に入っちゃいました」
「いいんだぞ、無理しなくて。押し付けの上…バラの香りという以外は、完全に俺の好みで決めたものだしな」
「いいえ、無理してませんよ。あたしはこの香り好きですもの。それに…将さんも気に入ってくれたなら尚更だわ。大切にしますね」
「…」
 照れ隠しの様な無愛想な表情を見せて沈黙する土井垣に、葉月はにっこりと笑うとバッグに香水を入れ、屈託のない態度でふと問いかける。
「ところでこの香水、何て香水なんですか?箱が無くて分からないんですけど」
 彼女の問いに土井垣はふと赤面すると、やがて無愛想なままの口調でぼそりと答えた。
「…自分で調べろ」
「はあ」
 彼の態度を不思議に思いながらも、彼女は後でゆっくり調べればいいかと思い直し、彼の袖をそっと掴んでもう一度にっこり笑いかけた。

――後日彼女がこの香水を調べて彼のこの態度の理由を理解し、この香水が完全に彼女のお気に入りになったというのはまた別の話――