「やった~!終~了~!」
 周囲の封筒の山を見詰めながら白衣姿の女性がバンザイをした。女性の名は宮田葉月――この部署の新人職員である。はしゃぐ彼女を見て笑いながらも、中年の男性が申し訳なさそうに声を掛ける。
「ごめんね~宮田ちゃん。新人なのに遅くまで残業させちゃって」
 申し訳なさそうに言う男性に葉月は楽しそうに応える。
「いいですよ~高山さんは出張に出てますし、松岡さんは経理の仕事で手一杯でしたし、頼みの綱の緒川さんも今日は用事で残業できなかったんですし、私がやるしかないじゃないですか」
「それはそうなんだけどね」
「それに私早くここの仕事ちゃんと覚えたいですし、いい機会ですよ。どんどん使って下さい」
「まあ嫌じゃないならいいけどね、無理だけはしないでよ」
「は~い。じゃあ沼田さん、これ後は明日出せばいいんですよね」
「うん、明日緒川ちゃんと一緒に出しに行ってくれる?」
「分かりました~。じゃあ今日はおしまいですね。帰りましょうか」
「そだね…あ、そうだ宮田ちゃん、もう遅いしご飯食べてから帰ろうか。頑張ってくれたお礼に今日はおごってあげるよ」
「はあ、でも沼田さん、お家で奥様が待ってませんか?」
 心配そうに葉月が問いかけると、沼田はからりとした明るい口調で答える。
「大丈夫大丈夫、僕も奥さんも仕事が忙しいから晩御飯は自由になってるんだ」
「そうなんですか?ならいいですけど…じゃあ割り勘って事ならお言葉に甘えます」
「オッケー、じゃあ早く片付けて行こうね」
「は~い」

「じゃあ宮田ちゃん、和洋中何が食べたい?」
「う~ん、何でもいいですけど…そうだ、『うわばみ』に行きません?」
「いいの?あそこで。折角なんだから新しいお店開拓すればいいのに。他の店も教えるよ」
「いいんです。私あそこのお料理も雰囲気も大好きですし…それにこの間の練習後の飲みの時、マスターに『近い内に沼田さん連れて来ますね』って言っちゃったんですよね~」
 明るく笑って言葉を紡ぐ葉月に、沼田は呆れた様に言葉を返す。
「ま~た宮田ちゃん当てにならない約束して…でも最近練習行けなかったからそろそろ僕も顔出したかったし、じゃあ『うわばみ』に行こっか」
「はい」
 二人は仕事についての雑談をしながら職場からさほど遠くない目的の店へと向かった。五分程歩いた先の路地を曲がると、店の名前の入った提灯が並んだ地下への入口が見える。二人は階段を下りて店の中へ入っていった。
「マスター、久しぶりー」
 店に入りながら沼田が明るい声で店主らしき初老の男性へ声を掛けると、その男性は沼田の姿を確認して、楽しげな口調で応えた。
「やあ、沼ちゃんご無沙汰だったじゃないか…おっと、お嬢さんも一緒か」
 店主は沼田の後ろからちょこんと付いて来た葉月に気付くと、彼女にも声を掛ける。葉月は自分にも声を掛けてくれる店主の気遣いを喜びながらにっこり笑って応える。
「はい。こんばんは、お邪魔します」
「この時間だと今日は練習日じゃないよね」
「うん、今日は仕事帰りなんだ」
「残業で遅くなったからご飯食べていこうって事になったんで、この間のお約束どおり沼田さんを引っ張ってきました」
「いいのに、酒の席の冗談を本気にしてくれなくても」
「いいえ~そうじゃなくても私ここ好きですから」
「僕もここに来たかったしね。満場一致って事」
「そう言ってもらえると嬉しいね…と、どうしたんだい?お嬢さん」
「いえ、ちょっと…」
 葉月はふと自分達に向けられている視線を感じて店を見回す。と、カウンターに座っている大柄な男性と目が合った。彼女と目が合い、硬直しているその男性を見て葉月は不思議に思い、小首を傾げながら沼田に声を掛ける。
「あの~沼田さん」
「何?宮田ちゃん」
「あの人、沼田さんのお知り合いですか?」
 葉月はそう言うと先刻視線が合った男性の方に顔を向ける。沼田は示された男性の方を見るとぱっと顔を明るくし、楽しそうにその男性の方へ寄っていった。その様子を葉月が不思議そうに見ていると、店主が不意に声を掛ける。
「よく分かったね。彼が沼ちゃんの知り合いだって」
「いえ、それは分からなかったんですけど。…何だかあの人こっちをずっと見てたみたいなんで、何か用でもあるのかな~って思ったんです」
「ふぅん…」
 店主は一人納得した様な笑みを見せる。その表情がまた不思議に思えて葉月は店主に声を掛けた。
「どうしたんですか、マスター」
「ん?いや…あ、ほら沼ちゃんが呼んでるよ」
 楽しげな笑みを見せるマスターを不思議に思いながらも葉月が沼田の方を見ると、確かに沼田が自分を『おいで』と呼んでいる。彼女は「あ、はい」と声を返すと、マスターに会釈をして沼田のいるカウンターへ近寄った。彼女が二人の傍へ行くと、沼田は先刻の男性を示して彼女に紹介した。
「宮田ちゃん。彼は土井垣ちゃんていってね、結構活躍してるプロ野球選手なんだよ」
 沼田の言葉に改めて彼の交友関係の広さを認識し感心しながら、葉月は丁寧に挨拶をする。
「そうなんですか。本当に沼田さん顔が広いですね…あ、すいません。ご挨拶が遅れました。初めまして、宮田と言います」
「そうですか…こちらこそ初めまして。土井垣です」
 『土井垣』と名乗ったその男性に葉月はふとある種の懐かしさと胸騒ぎを感じる。初対面の人間なのにどうしてこんな感覚を覚えるのかと不思議に思い考え込んでいると、ふとある考えに辿り着き、その考えを素直に口にした。
「あの、失礼ですけど土井垣さんて日ハムでキャッチャーやってる土井垣選手ですか?」
「ええ、そうですが」
 土井垣の答えに彼女は合点が行き、にっこり笑うとそのまま考えていた事を明るい口調で続ける。
「ああ、それで名前に聞き覚えがあったんだ。私はあんまり野球詳しくないんですが、父が凄い野球ファンで…土井垣さんのリードが好きだって言ってテレビで見る度に褒めてるんですよ。…あ、これおべんちゃらじゃないですからね。本当の話ですよ」
「それは嬉しいな」
 葉月はこの店の約束を思い、ちょっとはしゃぎすぎたかなと反省したが、土井垣が怒らずに喜んでくれた事が嬉しく思えてもう一度にっこり笑う。と、土井垣が急に狼狽する様な様子を見せた。その仕草に彼女はやはり悪い事をしたかなと思い、沼田に声を掛ける。
「ああ、すいません。お一人でゆっくりなさってる所をお邪魔したみたいで…沼田さん、お知り合いとはいえやっぱりお邪魔しちゃいけないんですよね。私達は別口で飲まないと…」
「そだね。ごめんね~土井垣ちゃん邪魔しちゃって」
 二人が声を掛けると土井垣はまだ少し狼狽しながらも二人に応える。
「あ、はあ…そうだ、もしだったら一緒に飲みませんか」
 土井垣の提案に葉月は少し心が動いたが、厚意に甘えてはいけない事も分かっている。戸惑いながら彼女が沼田の方を見ると、沼田は明るい笑顔を見せて頷き、土井垣に応えた。
「気を遣わなくていいよ。土井垣ちゃんだってたまには一人でゆっくり飲みたいでしょ?彼女もここの作法は分かってるから大丈夫だよ」
「いえ、そんな…」
「じゃね、今度また皆が来た時にでも飲もうよ」
「あ、はい…」
「お邪魔して本当にすいませんでした。失礼します」
「…」
 土井垣はまだ何か言いたそうにしていたが、気を遣わせては悪いと思い畳み掛ける様に挨拶をして彼の傍を離れ、近くのテーブル席に座った。飲み物を頼み、運ばれてくる間に食事となるつまみを選びながらもふと土井垣の方を見ている葉月に気づいた沼田が声を掛けてきた。
「どうしたの?宮田ちゃん」
「…え?あ、いえ…」
 曖昧な答えを返しながらもまだ無意識に土井垣の方へ目が行っている葉月を見て、沼田はにやりと笑うと更に言葉を続ける。
「何、土井垣ちゃんが気になるの?」
「はい?何言ってるんですか沼田さん」
「だって、さっきから気が付くと土井垣ちゃんの方ばっかり見てるよ宮田ちゃん」
 沼田の言葉に、葉月はきょとんとした表情を見せて応える。
「そうですか?…まあ、気にはなりますよ。父が好きな野球選手とこんな所で出くわした上、身近な人が知り合いだったとは思ってませんでしたから」
「そうなんだ」
「はい」
「ふぅん…」
 本当はそれだけではない、何か良く分からない感情が湧き上がっているのも確かなのだが、それが何なのか説明できそうにないので分かる範囲で説明する。その内心を知ってか知らずか、沼田は彼女の言葉に含んだ笑みを見せながらしばらく沈黙すると、ふと提案する様にまた口を開く。
「…宮田ちゃん、どうせ一人だとちゃんと食べてないでしょ?栄養補給も兼ねて練習の後は飲みまで付き合いな」
「はあ」
「ここに来てれば、また土井垣ちゃんと会えるから」
「…は?」
 訳が分からず更にきょとんとする葉月に、沼田は明るい口調で説明する様に言葉を続ける。
「土井垣ちゃんはね、ホントは僕個人ていうよりこないだ宮田ちゃんを誘ったサークルの皆と知り合いなんだよ。でね、ここで会うと大体一緒に飲んでるんだ。宮田ちゃんも今度メンバーになった事だし、土井垣ちゃんも時々ここに来るからここで皆と飲んでればその内一緒に飲んだり、話したりできるよ」
「そうなんですか~でもどうして沼田さん、そんなにあの人と仲良くさせたがるんですか?」
 沼田の言葉の意図が分からず葉月が不思議そうに問いかけると、沼田は明るいが何かを含んだ様な口調で答える。
「だって宮田ちゃんの顔見てると、何か土井垣ちゃんと話したそうなんだもん」
「ええ、確かに色々お話を聞いてみたい気はしてますけど…」
「でしょ?だったらちゃんと話せる様にしてあげたいなと思ったからさ」
「そうですか、ありがとうございます」
 土井垣と話してみたいという気持ちは紛れもない事実。しかし自分がそう感じる理由と沼田の明るい口調の裏に含んだものには全く気付かず、葉月は沼田の言葉に素直に応えた。そうしてまた無意識に土井垣の方を見ると、こちらを向いた彼と目が合った。彼女がにっこり笑って会釈をすると、彼の方は何故かまた狼狽した様子で会釈を返して目を逸らした。その様子を見て彼女は楽しそうに沼田へ向き直り、明るい口調でお礼の言葉を紡いだ。
「今日は残業して何だか得した気分です。面白い方紹介してくださってありがとうございますね」
「ん?ああ、どういたしまして…ま、頑張ってね宮田ちゃん」
「何をですか?仕事ならもちろん頑張りますよ」
「そうじゃなくて…まあいいか」
「…?」
 何でもない日常の中に起こったちょっとした非日常。その非日常に湧き上がる胸さわぎの感覚を楽しみながら、彼女は手元のウーロン茶に口をつけた。彼女がこの感覚の本当の意味を知るのはまだかなり先の話である。