――それは、言いたい、言わなければいけないけれど、言えない一言――
「…で、土井垣ちゃんとしてはどうしたい訳?」
晩夏の都内某所の小さな飲み屋。沼田は横で飲んでいる土井垣に問いかけた。今日土井垣はオフで、訳あって彼の恋人についての相談を自分とも仲が良く、彼女と職場が一緒で仲もいい沼田にしている次第である。沼田の問いに土井垣は困った様に答える。
「…自分も、どうしていいか分からないんです。彼女が仕事に誇りを持っている事も一生懸命な事も知っています。それに、彼女はかなり有能なんでしょう?」
「うん。皆『宮田ちゃんに任せておけば大丈夫』って彼女が受け持った仕事は全部ノータッチで任せてるね」
「それに、合唱団でもかなり重要なメンバーになりつつあるらしいじゃないですか」
「まあ、そっちは皆納得するだろうからどうでもいいけどさ…それも事実だね」
沼田の言葉に、土井垣は冷酒を一口飲むと更に困った様に続ける。
「それに彼女のお母さんは心臓を患っています。…そんな彼女にいくら国内だからと言っても『全部を捨てて北海道へ一緒に来てくれ』とは言い辛いんです。…かと言って『東京で待っていてくれ』と言ったら、彼女との付き合いはいい加減だと思われかねないですし…」
「でも、どっちにしろ首都圏の球団にトレードでもされない限り、土井垣ちゃんが北海道へ行くのはもう確実なんだよ?宮田ちゃんだってそれもう知ってるんだから、はっきりさせないといけないでしょ?」
「はあ…」
沼田のもっともな言葉に土井垣は言葉を失う。そう、日本ハムは来期から札幌ドームを拠点とするため、土井垣もトレードでもされない限り北海道へ行かなければいけないのだ。今までも彼女とはいい加減な気持ちで付き合ってきたつもりはないが、こんな急に将来の事が眼前に立ちはだかるとは思っていなかった彼には、その事がかなりのプレッシャーになっていたのだ。悩んで悩みぬいた末、そのプレッシャーを緩和する知恵を授けてもらおうと今こうして沼田に相談しているのだが、沼田の方はプレッシャーを緩和してくれるどころか、どんどんとどめを刺していく。とどめを刺されて言葉を失い、ただひたすら冷酒をあおる土井垣に、沼田はふと問いかけた。
「あのさ土井垣ちゃん…宮田ちゃんに『愛してる』って言った事ある?」
沼田の問いに、冷酒に口をつけていた土井垣は思わずむせる。
「ぬ、沼田さん…いきなり何言い出すんですか…」
「その様子だと言った事ないみたいだね」
「…」
沈黙する土井垣に沼田はさらりと、しかし真摯な口調で続ける。
「大事な事だよ。土井垣ちゃんとしてはこんなに早いとは思ってなかったけど、宮田ちゃんが仕組んだお見合い話だってそう分かった後も進めてるって事は、ちゃんと宮田ちゃんとの将来、考えてたんでしょ?」
「…はい」
「だったらちゃんとその気持ち、伝えないといけないと思う。今の土井垣ちゃんの状態だと、宮田ちゃん、どんどん不安になってっちゃうよ」
「分かってます…でも」
「でも?」
土井垣は一呼吸置いた後に、重い口調で言葉を続ける。
「…言えないんです」
「言えない…って、どういう事?」
沼田の問いに土井垣は重い口調のまま答える。
「確かに大切な一言だと分かっています。…でも、さっきから言っている事に繋がるんですが…その言葉を言ったら、続きが『付いて来てくれ』でも『待っていてくれ』でも、彼女を縛ってしまう気がするんです。自分は彼女の自由な笑顔を守りたいんです。なのに、そのたった一言の言葉で彼女からその自由な笑顔を奪って縛ってしまいそうで…そうなってしまうのが嫌なんです」
「…そう」
沼田も一口自分の冷酒を飲むと、きっぱりとした口調で言い聞かせる。
「…土井垣ちゃん、逃げちゃ駄目だよ」
「『逃げる』?」
「そう。先が分かっているのに何も言われない方が、相手を縛る事になるんだよ。それ以上に、何も言われないから不安にもなる。土井垣ちゃんは宮田ちゃんにそんな思いをさせていいの?」
「いえ、それは…」
沼田の言葉に狼狽する土井垣を見て、彼は更に続けた。
「それにね、僕の知ってる宮田ちゃんは、そんなにやわな子じゃないよ。たとえ今持ってる何もかもを捨てる事になっても、本当に大事だと思う事は形を変えてかもしれないけど持ち続ける…そんな子だよ。むしろ、土井垣ちゃんが何も言わないで一人で悩んでる方が、彼女の笑顔を無くすんじゃないかな」
「沼田さん…」
「そんな宮田ちゃんだから、仕事だって合唱だって続けたければ北海道へ行ってもどこかで必ずできる場所を見つけるはずだよ。それにね、親って言うのは子供が巣立つのを何よりも嬉しいと思うから、離れたって大丈夫なものだよ。…これは子供がいない僕が言っても、説得力ないかもしれないけど」
「…」
「もちろん、東京で待っててもらうのも首都圏にも球団あるから遠征で会うとかすれば、大丈夫なんだろうけどね…どっちにしても、ちゃんとどうしたいかは二人で話し合わなきゃ。僕にこうして愚痴ってても解決にはならないよ」
「…はい」
「…でも、僕を相談相手に選んでくれたのは嬉しかったけどね」
「…ありがとうございます」
そう言ってウィンクする沼田に、土井垣は笑顔になる。沼田はもう一度念を押す様に続けた。
「まずは、ちゃんと『愛してる』って言う事。そこからだよ」
「…」
沼田の言葉に、土井垣は赤面して沈黙する。話し合いはできると思うが、その言葉を彼女に言う事ができるだろうか――
そしてその後のオフ、土井垣は沼田の言葉を胸に置き、出せるか分からないが、ある物を用意して彼女と待ち合わせた。直帰の出張の仕事を終え、いつもの様に急ぎ足で待ち合わせ場所に来た彼女と、いつもの様に食事をするために店を見つけて落ち着いたところでそれとなく彼女の表情を伺うと、確かに沼田が言う通り、彼女の表情には翳りがあった。彼は自分の決断力の無さのせいで彼女にこんな表情をさせる様になっていた上、その事にも気付いていなかったのかと後悔の念に囚われたが、それとは見せず料理と飲み物を頼み、彼女を見詰めた。彼女はその視線に気付くと、翳りを持ったままの微笑みを見せる。その微笑みで彼の心は決まった。
「…葉月」
「はい?」
「すまなかった」
「何がですか?」
土井垣の言葉の意味が分からず問い返す葉月に、彼は続ける。
「俺が自分の勝手な考えで悩んでいたせいで、お前まで苦しめてしまった…」
「え…?」
「俺がもっと自分の気持ちに正直になっていれば、こんな回り道をしなくて済んだのに…本当にすまなかった」
「どういう事ですか?」
「つまり…こうだ」
そう言うと土井垣は小さな箱を取り出し、彼女に開けて見せた。そこに入っていたのはペリドットがはまった繊細な細工の指輪。驚いて言葉を失っている葉月に、彼は続ける。
「ダイヤは仰々しすぎる気がしたから、誕生石にした。とはいえ、本当ならお前の誕生石はルビーかカーネリアンだと聞いたんだが。…お前はこういう色が好きだし、この石は八月の誕生石で…お前の名前にも合っているから」
「将さん…」
「『北海道に付いて来てくれ』とも『東京で待っていてくれ』とも今は言えないが、これだけは言える。…愛している…葉月」
「…」
葉月は言葉を失い一瞬涙ぐんだが、すぐにその表情が微笑みに変わり、言葉を返す。
「ありがとう…将さん」
「この一言はずっと言えない…いや、言ってはいけないと思っていた。お前を縛ってしまいそうで…でも、言わなければ、気持ちは伝わらないんだよな」
「…そうね」
「これからの事によってはお前を縛る事になるかもしれない。でも…これを、貰ってくれるか?」
「…ん」
葉月は頷くと箱から指輪を取り出し、悪戯っぽい口調で問い掛ける。
「…で、どの指用なの?」
葉月の言葉に、土井垣は赤面しながらむっつりと黙り込んだが、やがてぼそりと答える。
「…左手の薬指に決まっているだろう」
「…いいの?」
「ああ」
土井垣の言葉に、葉月は左手の薬指にサイズがぴったりの指輪をはめ、今度は嬉しそうに涙を零した。
「…ありがとう」
「…いや」
そうして葉月はしばらく涙を零していたが、やがて涙を拭い、言葉を掛ける。
「…ねえ、これからの事だけど…」
「何だ」
「来季の将さんがどうなるか、シーズン終了…ううん、もしできるならオフまで様子を見ましょ。そこで決めても、あたしは遅くないもの」
「…そうか、そういう考えもあるか」
意外に冷静な判断を持っていた葉月の言葉に、土井垣は感心する。感心する彼に、彼女は更に続けた。
「だって…あたしもずっと考えてたの。『あたしも北海道へ連れて行って』って言おうか、『東京で将さんを待ってていい?』って聞こうか。それで、考えて、お姉ちゃんにも相談して…出した結論がこうだったの」
「…そうか」
「それにね、将さんがさっき『愛してる』って言ってくれたでしょう?あたしもずっと言えなかったけど、将さんの事…愛してるのよ。いつものあたしの態度じゃ、信じてくれないかもしれないけど」
「…」
顔を赤らめながら言葉を紡ぐ葉月に、土井垣も自分の顔が赤くなるのを感じた。それからの食事は二人とも味が分からず、アルコールを飲んでも酔えなかった。
――言えない一言を言い切って、その一言の幸せに酔ってしまったから――