「…うわ~、懐かしいなその歌~」
 不意に思い出して無意識に口ずさんだ歌に反応して、隣に座っていた葉月が目を輝かせる。楽しそうな彼女の様子に土井垣は声を掛ける。
「お前も知ってるのか、この歌」
「どっちかって言うと、あたしにしたら将兄さんがこの歌知ってた方が意外だったんですけど」
「確かに」
 葉月の言葉に土井垣は自分の問いも忘れて苦笑した。彼が口ずさんだのは、彼が高校当時人気だったロックバンドのヒットナンバー。ロックどころか、流行の歌にはほとんど興味を示さない土井垣がこの歌を知っていたのだから、彼女がそう言うのも無理はない。
「高校の頃クラスでも野球部でもこの歌が流行ってな。試しに聞いてみたら良かったものだから、いつの間にか覚えてしまった」
「そうなんですか~あたしが高校の時にもこの歌が流行ったんですよ。で、あたしの場合は他の歌も気に入って結構聴いてたくちですけど」
「そうだったのか。でもこの歌が本格的に流行った頃はお前まだ中学生じゃないか?」
「結構この歌ロングヒットだったみたいですしね。それにこのバンドの曲、今聞いてもいいですけど高校生には結構ショック強いですもの。多分あたしかそのちょっと上下位の年代の高校生なら大体一度ははまる道じゃないですか?」
「そんなものか?」
「正しいかどうかはわからないですけど、でもあたし前後の年代の子は大体知ってますし、今の高校生でもいいって言う子は結構いるみたい」
「そうか」
 彼女はしばらくその歌を口ずさんでいたが、ふっと懐かしそうに表情を変えると呟いた。
「…ホントにあの頃は毎日がお祭り騒ぎで…先の事なんて夢の向こうだったな…」
「葉月…?」
 彼女の表情と言葉が土井垣は怪訝に思えて彼は問いかける。それに気付いた彼女はぱっと表情を明るくし、明るい口調で答えた。
「…あ、何でもないです。何となくこの歌良く聞いてた頃思い出してノスタルジックになっちゃっただけ」
「そうか。でもあの年頃は毎日が楽しくて、先なんて考えんものじゃないか?」
「そう言いますけど、将兄さんは『甲子園出場!』とか『将来はプロ野球選手に!』って結構未来の焦点定まってたんじゃないですか?何か目に見える様なんですけど」
「…う」
 実際その通りだったので言葉に詰まる土井垣。その様子にコロコロ笑いながら葉月は続けた。
「でもそれはそれでいいじゃないですか。あたしみたいに日々を楽しく過ごす事に労力を使う普通の高校時代も最高だって思ってますけど、ちゃんと自分の夢を決めてそれに向かって進む高校時代だって、ストイックで結構かっこいいと思いますよ」
「そんな事を言っているが、お前にも夢位はあっただろう?」
「ん?…まあありましたけどね。…将兄さんと違って、夢は夢のままでしたから」
「…」
 彼女の明るい口調とは裏腹の寂しげな表情に、土井垣は自分が今発した言葉の残酷さに気が付いた。彼女は大病を患っている訳ではないが、生来身体があまり丈夫ではないため常に医師の元で健康管理をしなければならず、それは彼女が生きている限り続くのだ。明るい口調で答えてはいたが、そうした現実に高校時代のある出来事から気付かされた彼女は、その夢を身を切る思いで諦めたのではないだろうか。自分の無神経さと彼女の心中を思い痛々しげな表情で彼女を見詰める土井垣に、彼女は宥める様な穏やかな口調で更に言葉を重ねた。
「ああすいません、言い方が悪かったですね。確かに一番目の夢は夢のままでしたけど、二番目の『看護婦さんになる』っていう夢はお釣り付きできっちり叶えましたよ。それに、一番目の夢だって形はちょっと違いますけど一応叶ってるとも言えるかもですし…だからそんな顔しないで下さいって」
「しかし悪かった…お前の事を考えずに、無神経な事を言ってしまった」
「だから謝らないで下さいって…それにね」
「それに?」
「もしかして一番目の夢が普通に叶ってたら、こうやって将兄さんと過ごしてる今はないかもしれないもの。…だから今は今で幸せなの、あたしは」
 そう言うと葉月は土井垣に甘える様にもたれかかった。彼女の珍しく素直な言葉と行動に土井垣は狼狽して言葉を繋ぐ。
「…お前がそんなに甘い言葉を吐くなんて珍しいな」
「…歌の効果かしら。この歌聞くと、何となく素直になれる気がするのよね」
「…そうか」
 土井垣は葉月の言葉に納得した様に頷くと彼女を抱き寄せる。
「俺もあの頃に違った道を選んでいたら…お前に出会えなかったかもしれんのだな」
「そうね」
 土井垣の腕の中で葉月はくすりと笑う。彼女を抱き寄せたまま、彼は呟く様に続けた。
「…お互い当たり前の様に過ごしていた日々がこうして重なった事は、奇跡かもしれんな」
「かも知れないじゃなくて、奇跡だと思うわ、あたしは。…ねぇ、その当たり前の中の奇跡は将さんにとって良かったと思う?」
「お前こそどうなんだ」
「…答える必要あるの?」
「…そうだな。俺もその言葉を返すぞ」
「ふふ」
 二人は照れくさそうに微笑みあうと、どちらからともなくキスをする。やがて唇を離した二人は寄り添いあう格好で呟く様に件の歌をしばらく口ずさんでいた。当たり前と思っていた日常が起こした小さな奇跡に感謝しながら――