シーズン中のある日の夜遅く、土井垣と葉月は彼のマンションから駅までの道を歩いていた。年中忙しく全国を駆け回っているプロ野球選手の彼と不定休の部署にいる医療機関勤務の彼女という二人は、少しでも過ごす時間を増やすために、シーズン中は日曜出勤も多く休みの自由が割合きく彼女が彼のオフに合わせ、どちらかのマンションに片方が通ってオフを過ごすのが常になっていた。そういう経緯で今回のオフは彼女が彼のマンションで過ごしていて、翌日からの仕事の準備があるため彼女は帰ろうとしているのだ。ただ、今回は少しいつもと様子が違っていた。どちらがどうと言った訳ではないが、二人ともいつもより強くなっている離れがたい気持ちをどこかに持っていたのだ。理由はお互い分かっている。彼が率いている東京スーパースターズがまさかの最下位に低迷していて、彼がその事で悩み苦しんでいる事を彼女も分かっているからだ。かと言って彼女は別に彼の采配やプレーに口出しをする事はない。ただ彼の傍にいて、彼がチームの事で話を始めたら彼の話をじっと聞くだけだ。それしか彼女にはできないし、してはいけない事も彼女は良く分かっている。しかし、その事が彼にとっては救いになっていた。論評をするわけでもなく、励ましを直接与える訳でもない。しかし何も言わずに傍に寄り添い、話を何の色づけもなく聞いてくれる事――それが彼にとって最大の励ましになっていた。彼女も薄々それは感じていたので、今はもっと彼の傍にいてあげられたらと最近はずっと感じ、彼も彼女にもっと傍にいて欲しいと感じていたのだ。とはいえ彼女も仕事を持つ身であるし、自分の部屋もある。ずっと彼の部屋にい続ける事はできないし、かと言って一人暮らしの女性の身である彼女の部屋に、彼をそうずっと置いてもおけない。それに結婚している訳ではないので、お互い離れるべき時は離れなければいけない事も分かっている。分かってはいるが今回はどうしても離れがたい気持ちをお互い意識していた。そんな気持ちを抱えながら無言で駅まで辿り着き、駅へ入って改札口まで来た時、不意に葉月が口を開いた。
「じゃあ…あたし、帰りますね」
「…ああ」
「次に合わせて休める時は、また連絡しますから」
「…分かった。俺も何かあれば連絡する」
「…うん。…将兄さん、身体に気をつけてね」
「分かっている…お前こそ気をつけろよ」
「…うん、分かった」
何とか会話を繋いで別れまでの時間を長引かせようとしたが、それでも発する言葉は大体決まってしまっている。会話が途切れ、しばらく二人で見つめあった後、葉月は寂しげな笑顔を見せ口を開いた。
「じゃあ…ほんとに帰らなきゃ。…そろそろ入らないと終電に間に合わないから」
「…ああ、じゃあな」
「…うん」
そう言って彼女が踵を返して改札を通ろうとした瞬間、土井垣は反射的に彼女の手首を掴んで引き寄せ、後ろから抱き締めていた。
「…葉月」
「…え?」
「…帰るな。…いや…今夜だけでいい、今夜だけは帰らないで、傍にいてくれ…」
「将さん…」
最下位に低迷するチームの采配に対する不安、識者からの厳しい論評、ファンからの心無いブーイング――様々な事で傷つき疲れた自分を、彼女は癒してくれる。その彼女と今離れるのは余りに辛かった。それは自分の我侭だとは分かっている。しかし彼は自分の行動を止める事ができない。その心のままに彼は彼女を抱き締め、自分のところへ引き止める。彼女はしばらく抱き締められるままになっていたが、やがてゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「…着替えも仕事道具も無いから、明日は始発で帰らなきゃですよ」
「かまわん」
「…朝ごはんも一緒に食べられないし、朝のコーヒーもいれてあげられませんよ」
「それでもいい…お前が傍にいてくれるだけで充分だ。だから…今夜だけは…」
そこまで言った時に不意に葉月が向き直り、悪戯っぽい表情で土井垣の唇に人差し指を付けた。
「…あんまりそういう事は、こういう所で言う事じゃないですよ」
「葉月…じゃあ…」
言葉に詰まっている土井垣に、悪戯っぽい表情を見せていた葉月はその表情をふわりとした優しい微笑みに変えると、言葉を返す。
「…帰りましょう?将さんの所へ。…今夜は、一緒にいますから」
「葉月…すまん」
やっとの事でそう言った土井垣に、葉月は優しい微笑みのまま更に言葉を重ねる。
「いいの…将さんがあたしを頼ってくれて、本当はすごく嬉しいんだから」
「葉月…」
「だから…もっと頼ってくれていいのよ。将さんがあたしを支えてくれる様に、あたしだって将さんを支えたいの。最初の時にそう言ったでしょう?」
「そうだ…そうだったな」
「今夜は徹夜してでも話を聞くわ。だから…もっとあたしを頼って」
「…ありがとう」
二人はしばらく駅の改札で抱き合い、寄り添いながら今やってきた道を戻って行った。愛しい存在が傍にいてくれる事――それがどれだけお互いに力を与える事になるのか二人は分かった様な気がした。ならばこうして片方が『傍にいて欲しい』と言うならば傍にいよう。愛しい存在に力を与えるために――二人はお互いにそう決心した。
「じゃあ…あたし、帰りますね」
「…ああ」
「次に合わせて休める時は、また連絡しますから」
「…分かった。俺も何かあれば連絡する」
「…うん。…将兄さん、身体に気をつけてね」
「分かっている…お前こそ気をつけろよ」
「…うん、分かった」
何とか会話を繋いで別れまでの時間を長引かせようとしたが、それでも発する言葉は大体決まってしまっている。会話が途切れ、しばらく二人で見つめあった後、葉月は寂しげな笑顔を見せ口を開いた。
「じゃあ…ほんとに帰らなきゃ。…そろそろ入らないと終電に間に合わないから」
「…ああ、じゃあな」
「…うん」
そう言って彼女が踵を返して改札を通ろうとした瞬間、土井垣は反射的に彼女の手首を掴んで引き寄せ、後ろから抱き締めていた。
「…葉月」
「…え?」
「…帰るな。…いや…今夜だけでいい、今夜だけは帰らないで、傍にいてくれ…」
「将さん…」
最下位に低迷するチームの采配に対する不安、識者からの厳しい論評、ファンからの心無いブーイング――様々な事で傷つき疲れた自分を、彼女は癒してくれる。その彼女と今離れるのは余りに辛かった。それは自分の我侭だとは分かっている。しかし彼は自分の行動を止める事ができない。その心のままに彼は彼女を抱き締め、自分のところへ引き止める。彼女はしばらく抱き締められるままになっていたが、やがてゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「…着替えも仕事道具も無いから、明日は始発で帰らなきゃですよ」
「かまわん」
「…朝ごはんも一緒に食べられないし、朝のコーヒーもいれてあげられませんよ」
「それでもいい…お前が傍にいてくれるだけで充分だ。だから…今夜だけは…」
そこまで言った時に不意に葉月が向き直り、悪戯っぽい表情で土井垣の唇に人差し指を付けた。
「…あんまりそういう事は、こういう所で言う事じゃないですよ」
「葉月…じゃあ…」
言葉に詰まっている土井垣に、悪戯っぽい表情を見せていた葉月はその表情をふわりとした優しい微笑みに変えると、言葉を返す。
「…帰りましょう?将さんの所へ。…今夜は、一緒にいますから」
「葉月…すまん」
やっとの事でそう言った土井垣に、葉月は優しい微笑みのまま更に言葉を重ねる。
「いいの…将さんがあたしを頼ってくれて、本当はすごく嬉しいんだから」
「葉月…」
「だから…もっと頼ってくれていいのよ。将さんがあたしを支えてくれる様に、あたしだって将さんを支えたいの。最初の時にそう言ったでしょう?」
「そうだ…そうだったな」
「今夜は徹夜してでも話を聞くわ。だから…もっとあたしを頼って」
「…ありがとう」
二人はしばらく駅の改札で抱き合い、寄り添いながら今やってきた道を戻って行った。愛しい存在が傍にいてくれる事――それがどれだけお互いに力を与える事になるのか二人は分かった様な気がした。ならばこうして片方が『傍にいて欲しい』と言うならば傍にいよう。愛しい存在に力を与えるために――二人はお互いにそう決心した。
――ここで取った行動がやがて大きな火種になるとは思いもよらずに――