昼下がりの都内の喫茶店で、俺は女を待っていた。『彼女』は俺の幼馴染で、四半世紀以上の付き合いだ。やがて涼しげなブルーのチェックのワンピースを着た『彼女』が息を切らせてやって来た。『彼女』は俺を見つけると、嬉しそうに笑って正面に座る。
「やっほ~柊兄、久し振り~」
「おーよ。葉月、元気そうだな」
「ん、最近は結構元気だよ」
「そりゃいいな。でもお前は急にバッタリいく事があるからな。それに今はお前にとって最大の弱点の真夏だ。あんまり無理すんなよ」
「ん、ありがと柊兄」
 そう言うとまた葉月はにっこり笑って注文を聞きに来た店員にアイスティーを頼んで、運ばれてきた水を一口飲んだ後、口火を切った。
「…そうだ、柊兄ありがとう。あんな大手の仕事うちに紹介してくれて」
「いや、お前がいたからじゃねぇよ。丁度彰子が今までの健診機関が不祥事起こしたから、別の所に鞍替えしてぇって言ったからよ。調べてみたら偶然お前の所の評判が良かったし、外にも出て来られるってあったから紹介しただけさ。それにその後健康診断だけじゃなくて産業医契約まで取れたのはお前んとこの手腕だろ?彰子の奴言ってたぜ。営業に来た沼田…だったか…の説明は丁寧だし、ちゃんとできる事とできねぇ事をはっきりさせてくれたから、分かりやすくていい所だって実感できたってな」
「そっか、沼さんが渉外に行ったんだ。だったら完璧だわ」
「…へぇ、そいつってそんなにいい営業なのかよ」
「柊兄、沼さんは柊兄より年上よ。『そいつ』呼ばわりしちゃ駄目だって」
「ああ、そうだったか。…すまねぇ」
 ばつが悪くなって俺が謝ると、葉月はにっこり笑って取り成す様に言葉を返す。
「まあ柊兄にはまだ沼さん紹介してないから知らないもんね、仕方ないか…それはともかく、沼さんの渉外はホントいいから。渉外部長やってる割に何にも分かってない大日向さんとか、しっかりしてる様でちょっと抜けてる加藤さんとかよりずっといいんだよ」
「お前も結構ずけずけ言うよな」
「…えへ」
 葉月もばつが悪そうに笑った。葉月のこういう所が俺にとっては可愛くて仕方がない所だ。明るく、裏表がなく真っ直ぐで、口は時折悪くなるが、本当は寂しがり屋で心底優しい。とはいえ心に様々な傷を負った分相手に対して心を頑なに開かない面も持っている。こいつの知り合いが言う『明るく人懐っこいが、根はおっとりしていて優しく、子供の様に無邪気』というのもある意味嘘じゃないが、それはこいつの一面にしか過ぎない。それは俺が一番良く分かっている。そう、こいつについて一番良く分かっているのは俺だという自負が俺にはある。でも――
「…どうしたの?柊兄」
 ふっと黙り込んだ俺を葉月が怪訝そうに見詰めている。俺はそれに気が付くと、慌てて取り繕うために口を開いた。
「…ん?…ああ、何でもねぇよ。…そうだ、アイスかケーキでも食うか?折角の休みに呼び出したんだから、そんくらいはおごってやるぜ」
「ホント!?わ~い、柊兄ありがとう!じゃあレアチーズケーキ頼んじゃおっと」
 葉月は俺の内心までは気付かなかった様で、嬉しそうに笑うと、アイスティーを持ってきた店員にケーキを追加注文した。遠慮深い葉月が身内以外でこうやって遠慮なく甘えるのは俺と、多分後もう一人――俺はその『もう一人』を思い出して胸が痛んだが、葉月の嬉しそうな様子が嬉しくて、その胸の痛みも和らぐ。俺は嬉しそうな葉月を優しく見詰めながら、声を掛けた。
「…で、お前を呼び出した話ってのはな、彰子の評価を聞いて評判どおりだと思ったからうちの健康診断も頼もうかって思って、担当の営業を紹介してもらおうと思ってよ。確かお前ん所政府管掌の健康診断もできたよな」
 俺の言葉に、アイスコーヒーに手を付けていた葉月は更に顔をぱっと輝かせて応える。
「うん、その代わり政管だと来院になっちゃうけどいいかな」
「ああ、その辺はかまわねぇよ。うちは小さい何でも屋だから、来てもらうより俺らから出向く方が都合がいいからな」
「分かった。じゃあ来院短当の暁美さんに話通しとくから、柊兄からセンターに問い合わせ電話掛けてね。でもホントに来てくれる?だとしたら嬉しいな。仕事が増えると大変なんだけど、うち貧乏だから仕事が増えないとやってけないから」
「へぇ…評判は中々なのにそんなに経営苦しいのか?」
「ま…ね。都心の小規模の病院だもん。やっぱりキャパは大病院には叶わないんだ。…まあ、職業病っていう売りがある分、うちは有利でもあるんだけどね」
「そうか。結構大変なんだな、お前も」
「でもこの病院で働くの選んだのはあたしだもん。苦労はある意味仕方がないって思ってるから」
「そうか…偉いな、葉月」
「ありがと…柊兄」
「ほら葉月、そんな顔するんじゃねぇよ。俺までしんみりしちまうじゃねぇか」
「ごめん…」
「だからそんな顔するなって。…でも、偉いのは確かだぜ。だから偉い葉月のために俺も彰子もいい仕事回してやっからな。ほら、ケーキが来たぞ。遠慮せず食えよ」
 しんみりした表情を見せる葉月が見ていられなくなり、俺は宥める様に声を掛ける。葉月はそれに気を取り直したのかしんみりとしながらも笑顔を見せて、ケーキを口にすると口を開いた。
「ん…ところで柊兄」
「何だ?」
「あのさ…さっきから話に出てる『あきこ』さんって人、柊兄の彼女なの?」
「…」
 葉月の素朴な問いに俺は言葉を失う。そう、俺と葉月は長い付き合いで、仲が良くはあるが恋人同士じゃない。葉月にとって俺は兄貴の様な存在で、葉月の恋人は別にいる。その現実を突きつけられて俺はきりきりと胸が痛みながらも、わざとぶっきらぼうに答えた。
「…違うよ、彰子と俺はビジネスパートナーってだけだ。色恋が絡む様な色っぽい関係じゃねぇ」
「そうなんだ、残念。…でも、そこから恋愛が始まるって事もあるよね」
「残念ながら…ありえねぇな」
「どうして?」
 無邪気に聞いてくる葉月の言葉が聞いていられなくなり、俺は話の腰を折る様に話題を変えた。
「どうでもいいだろ。…それより、そんな事言ってる暇あるんだったら、おまえらの方はどうなんだよ。もう結婚しようってなってから2年も経ってんだぞ?チームも日本一になったし、いい加減籍入れたっていいだろうが」
「…」
 葉月は顔を真っ赤にして沈黙する。俺は畳み掛ける様に続けた。
「…まったく、土井垣の奴、いくらお前が『チームの基盤ができるまで待つ』って言ったからって、いつまでお前を待たせれば気が済むんだよ。いくら葉月が我慢強いからって、それに甘えて待たせ過ぎだぜ」
「でも、将さんまだ投手陣の補強がうまくいってないみたいだから…」
「そんな事言ってると、一生結婚なんざできねぇぜ?どっかでちゃんとけじめはつけねぇと駄目だろ」
「…」
 葉月はばつが悪そうに沈黙した。そう、葉月の恋人はプロ野球のプレーイング監督をしている土井垣将という男だ。俺自身も土井垣と多少の親交を持っている。葉月と土井垣は結婚間近までいった仲だったが、いざ結婚となった時に土井垣が新球団の監督に就く事になってしまい、それを気にした葉月から申し出て、新球団の基盤が固まるまで結婚を延期している状態なのだ。俺もそれを知っていて尚、土井垣の余りに不誠実に見える態度が我慢ならなかった。とはいえそれを当の土井垣にではなく葉月にぶつけるのは間違っているし、今の言葉で葉月を傷つけてしまったかもしれない事に胸がまた痛む。何よりこの言葉は言うべきじゃない言葉だった。何故ならこれは人生の先輩としてのアドバイスというより、俺の醜い嫉妬から来る言葉だからだ。何故なら俺は――ばつが悪そうに沈黙したままの葉月を宥める様に俺は葉月の頭を撫でると、口を開いた。
「悪ぃな、言い過ぎた。お前らはお前らなりに将来考えてるだろうにな」
「…ん…でもね、柊兄」
「何だ?」
 葉月はしばらく迷っていたが、やがてアイスティーを一口飲んで覚悟を決めた様に、ゆっくりと言葉を零した。
「あたし…時々不安になるの」
「葉月…」
 寂しげな葉月の表情に俺は胸が痛み、何も言えなくなる。葉月はゆっくりと言葉を零していく。
「あたし達は確かに結婚の約束はしてるけど…将さんだったらいくらでもひっくり返せる話はあるわ。だから、もしかしたらこのままだといつか別れるっていう選択肢がくるかもしれないって、時々思うの。…おかしいよね、あたしが自分から結婚延期の話を出したのにね…」
「…」
「将さんには見た目も、立場も、教養も、性格だってもっとふさわしい人がいるわ。でも、あたしには何もないもの…だから、今から覚悟だけはしてるの」
「『覚悟』?まさかお前…」
「うん。…将さんと別れる事になっても、それを受け入れるって覚悟…」
「おい!」
 そう言って寂しそうに微笑む葉月が痛々しくて、俺は見ていられなくなる。元々幸せに慣れていない上、過去に大きな傷を負った葉月は不安に囚われやすい性格だが、それを分かっているはずなのにここまで葉月を追い詰めている土井垣に対して怒りが湧き、追い詰められて痛々しい決意をしている葉月を見て更に胸が痛んだ。しかし、そうとは見せない様に痛む胸を堪えながら、俺は葉月を励ます様にわざとおどけた口調で言葉を紡ぐ。
「…な~に言ってんだ。土井垣はお前にベタ惚れなんだぜ?別れる事なんて考えてんじゃねぇよ。そんな事考える位だったら、結婚式の時どうするかでも考えろよ」
「ん…ごめんね、柊兄。こんな話しちゃって」
「かまわねぇよ。お前は大事な『妹』で、俺の宝物だからな。俺でよかったら何でも聞いてやるよ。…そうだ、式の時は『白龍の姫君』のために俺らで木遣り歌ってやるぜ。それともどっこいの甚句の方がいいか?何しろ白龍会の連中は、仲間の祝い事が何より好きだからな。お前は『姫君』って言われる位大事な白龍の一員じゃねぇか」
 自分の言葉で更にきりきりと痛む胸を堪えながらもおどける俺に、葉月は気を取り直した様に複雑な微笑みを見せると、ゆっくりと言葉を返す。
「ありがと…姫君はともかく…そうだな、ホントにやってくれるなら木遣り歌って欲しいかも」
「よ~し、決定だ…でも、その時はお前まで乗って歌うなよ。何かお前だとやりそうだ」
「そだね。やっちゃうかも」
「だからやんなって」
 やっと明るい笑顔になった葉月に俺もまだ少し胸の痛みはあるものの安心して笑う。そうして笑いながらも、思わず俺の口から呟く様に言葉が零れ落ちていた。
「まったく…こんなに葉月を不安がらせるくれぇなら、本気でかっさらっちまうぞ。土井垣」
「柊兄、何か言った?」
「あ?…いや、何でもねぇよ」
「…そう?」
 葉月は不思議そうに俺を見たが、俺が笑うとつられてにっこり笑い、俺と取りとめもなく話しながらケーキにまた手を付け始めた。俺は自分の呟きに驚いたが、これは俺の偽らざる本音だ。もし葉月を傷付ける様な真似をしたら、いくらベタ惚れしていても、迷わず俺は土井垣から葉月を奪ってやる。そう、俺は土井垣に宣戦布告をいつだってするつもりだ。彼女の笑顔を守るためならば――