オフの時期の日曜日、土井垣と不知火は土井垣と親しい仲間である合唱団の演奏会を聴きに行き、その後の打ち上げに一緒に参加していた。打ち上げのために休店日なのに店を開け、おいしい料理と酒を用意してくれたマスターに感謝しつつ、一同は今日の感想を言い合い、酒を酌み交わし、やがてメンバーが持ってきたアコーディオンとギターに合わせて歌い始めた。こうした打ち上げには初めて参加する不知火はその賑やかな勢いに圧されながらも、一同の楽しげな雰囲気を自分も楽しんでいた。土井垣はそうした不知火の様子を見て、満足そうに声を掛ける。
「どうだ、楽しいだろう」
「はい。最初はびっくりしましたけど…いいですね、こういう感じ」
そうして二人が時折合わせて歌いながらその雰囲気を楽しんでいると、やがてメンバーの一人がメンバーの中でひとり歳若い女性に声を掛けた。
「じゃあ宮田ちゃん、盛り上がってきた所で恒例のアカペラ行こうか!」
「ええっ!?またやるんですか?」
「あったり前じゃん。みんな宮田ちゃんのアカペラ聴くのも楽しみなんだから。不知火君や土井垣君だって傍で聴きたいでしょ?」
「そうですね。…宮田さん、久し振りに聴かせてくれないかな」
「…」
土井垣にまでダメ押しで勧められて、指名された『宮田ちゃん』と呼ばれた女性――フルネーム宮田葉月――は、困惑した様に赤面して黙り込む。その様子を見た不知火は、不思議に思って土井垣に問いかけた。
「どうして宮田さんのアカペラが皆楽しみなんですか?確かに演奏会の時に聴いた感じではすごく上手かったですけど」
不知火の問いに、土井垣は少し寂しげな表情を見せた。それが更に不知火には不思議に思えた。土井垣は表情を元に戻すと、静かに答える。
「…まあ、聴いてから教えてやるよ」
葉月はしばらく迷う様な素振りを見せていたが、周りの勢いに圧されて、やがて頷いた。
「…分かりました、歌います。何がいいですか?」
葉月の問いに、メンバーが口を開く。
「そうだな~『野ばら』も『エーデルワイス』もいいけど…今日聴けなかったマスターに聴かせてあげたいから、アメグレのソロパートいこうよ」
「賛成!」
「マスター、聴いてあげてね」
「ああ。みやちゃん、聴かせてくれないか」
「あ、はい…じゃあ…」
そう言うと葉月は今日の演奏会でも歌った『アメイジング・グレイス』のソロパートを歌った。今日の会場でもかなり上手いと思ったが、こうやって改めて近くで聴くと、更にその素晴らしさが分かって、不知火は溜息をつく。土井垣も聞き惚れるように満足げに微笑んでいた。ソロパート自体はそれ程長くないのですぐに終わり、葉月が頭を下げると、一同から拍手が送られた。不知火も拍手を送りながら、何だかもう少し聴いていたかった様な残念な気持ちがした。そしてまた皆で歌い始め、彼女も一緒に歌ったり時に踊ったりしているのを見て、酒に手を付けながら、不知火は改めて土井垣に問いかける。
「…宮田さんのあの歌声、ちゃんと聴くと素人の俺が聞いても分かる位、殿馬並みのプロ級じゃないですか。何でそんな彼女がプロにならずにこうやって埋もれてるんですか?」
不知火の問いに、土井垣は寂しげに笑い、答えを返した。
「…確かに、彼女は高校までは声楽の分野では殿馬並みの有名人で、彼女自身も歌の道を進むつもりだったらしい。でもな」
「でも?」
「彼女は元々丈夫じゃないのを無理して歌っていた上、体力を使う部活に入っていたのもあって歌えば歌う度、身体が蝕まれていってある日倒れてな、『このまま歌っていたら身体が持たない』と医師に言われたそうだ。そして彼女はその時から歌の道を諦めて、歌も封印した…」
「…」
「そうして療養で一年留年してから高校を卒業して今の道に進んだ時に、職場の人達がそれとは知らずこの合唱団に誘った。彼女は迷ったが、もう一度歌いたいと思って入った。最初彼女は自分の経歴を黙っていたそうだが、彼女の地元の近くに住んでいる人が入っていてな、彼女の事は皆の周知になった。でも皆は彼女の事は特別視しないで同じ仲間として、でも身体は気遣って接している…でも、やっぱり皆も彼女の歌を聴きたいんだろうな。だからああやって特別枠を作っている…俺が知っているのはそういう話だ」
そうして土井垣は手元の酒を飲み干した。不知火は彼女が痛々しくなり、いつの間にか言葉が零れ落ちていた。
「じゃあ…彼女の努力は報われなかったって事ですね」
「そうだな…でもな」
「でも?」
「『確かにプロとしての歌の道は諦めなければならなかったけれど、今自分はそれまでに培ってきたものを生かして別の形でその道を進んでいるし、それを楽しんでいる。それを思えばたとえ直接的には報われない努力だったとしても、その努力は決して無駄ではなかったんじゃないかと思っている』…この話を聞いた俺が今のお前と同じ事を彼女に言ったら、彼女は笑顔でそう言っていた」
「…」
そう言って土井垣は微笑んだ。不知火は沈黙する。実力以外の不本意な理由で夢を諦めなければならなかった事は、きっと身を切るより辛かっただろう。しかし彼女はそれを乗り越えて、別の形で夢を追いかけている。そして報われない努力だとしても、それは無駄な努力ではないと行きついた彼女の強さと、それを理解している土井垣のある種の絆に自分が入っていけないものを感じて、ちくりと痛む胸を抑えながら呟く。
「…強いんですね、彼女は」
「そうだな…でも、お前だって同じだぞ」
「俺も?」
土井垣の言葉に不知火は思わず問い返す。土井垣は更に続けた。
「だってそうだろう?甲子園に行けなかった事だけで考えれば、お前の高校時代の努力は報われない努力だ。でも、今プロ野球選手としての実力の中にその努力は生きている。無意識だろうが、お前はそうして過去の努力を無駄なものにはしていないじゃないか。バッテリーを組んでいる俺は、少なくともそう思うぞ」
「土井垣さん…」
土井垣の言葉に不知火は胸が一杯になる。彼のこういう所が彼への想いを駆り立てる所だ。人を理解する事の努力を怠らず、そして、さりげなく励ましてくれる――そんな彼の一面をを知ったからこそ、自分と同じく彼女も土井垣に惹かれたんだろう。しかし土井垣は彼女の気持ちにも、自分の気持ちにも気付いていない。そういう意味では彼女と自分はまだ同じスタートラインだ。だとしたらこの想いを報われないものにしたくない――不知火はその心のままに言葉を零した。
「今度は…『報われる努力』にするからな」
「守、どういう事だ?」
「秘密です…皆さん、俺も仲間に入れて下さい」
問い掛ける土井垣に不知火はウィンクすると、葉月を含む振りつきで歌っている面々の仲間に入っていった。そう。この努力は報われないものにしたくない。このたった一つの想いを報われるものにする努力だけは――
「どうだ、楽しいだろう」
「はい。最初はびっくりしましたけど…いいですね、こういう感じ」
そうして二人が時折合わせて歌いながらその雰囲気を楽しんでいると、やがてメンバーの一人がメンバーの中でひとり歳若い女性に声を掛けた。
「じゃあ宮田ちゃん、盛り上がってきた所で恒例のアカペラ行こうか!」
「ええっ!?またやるんですか?」
「あったり前じゃん。みんな宮田ちゃんのアカペラ聴くのも楽しみなんだから。不知火君や土井垣君だって傍で聴きたいでしょ?」
「そうですね。…宮田さん、久し振りに聴かせてくれないかな」
「…」
土井垣にまでダメ押しで勧められて、指名された『宮田ちゃん』と呼ばれた女性――フルネーム宮田葉月――は、困惑した様に赤面して黙り込む。その様子を見た不知火は、不思議に思って土井垣に問いかけた。
「どうして宮田さんのアカペラが皆楽しみなんですか?確かに演奏会の時に聴いた感じではすごく上手かったですけど」
不知火の問いに、土井垣は少し寂しげな表情を見せた。それが更に不知火には不思議に思えた。土井垣は表情を元に戻すと、静かに答える。
「…まあ、聴いてから教えてやるよ」
葉月はしばらく迷う様な素振りを見せていたが、周りの勢いに圧されて、やがて頷いた。
「…分かりました、歌います。何がいいですか?」
葉月の問いに、メンバーが口を開く。
「そうだな~『野ばら』も『エーデルワイス』もいいけど…今日聴けなかったマスターに聴かせてあげたいから、アメグレのソロパートいこうよ」
「賛成!」
「マスター、聴いてあげてね」
「ああ。みやちゃん、聴かせてくれないか」
「あ、はい…じゃあ…」
そう言うと葉月は今日の演奏会でも歌った『アメイジング・グレイス』のソロパートを歌った。今日の会場でもかなり上手いと思ったが、こうやって改めて近くで聴くと、更にその素晴らしさが分かって、不知火は溜息をつく。土井垣も聞き惚れるように満足げに微笑んでいた。ソロパート自体はそれ程長くないのですぐに終わり、葉月が頭を下げると、一同から拍手が送られた。不知火も拍手を送りながら、何だかもう少し聴いていたかった様な残念な気持ちがした。そしてまた皆で歌い始め、彼女も一緒に歌ったり時に踊ったりしているのを見て、酒に手を付けながら、不知火は改めて土井垣に問いかける。
「…宮田さんのあの歌声、ちゃんと聴くと素人の俺が聞いても分かる位、殿馬並みのプロ級じゃないですか。何でそんな彼女がプロにならずにこうやって埋もれてるんですか?」
不知火の問いに、土井垣は寂しげに笑い、答えを返した。
「…確かに、彼女は高校までは声楽の分野では殿馬並みの有名人で、彼女自身も歌の道を進むつもりだったらしい。でもな」
「でも?」
「彼女は元々丈夫じゃないのを無理して歌っていた上、体力を使う部活に入っていたのもあって歌えば歌う度、身体が蝕まれていってある日倒れてな、『このまま歌っていたら身体が持たない』と医師に言われたそうだ。そして彼女はその時から歌の道を諦めて、歌も封印した…」
「…」
「そうして療養で一年留年してから高校を卒業して今の道に進んだ時に、職場の人達がそれとは知らずこの合唱団に誘った。彼女は迷ったが、もう一度歌いたいと思って入った。最初彼女は自分の経歴を黙っていたそうだが、彼女の地元の近くに住んでいる人が入っていてな、彼女の事は皆の周知になった。でも皆は彼女の事は特別視しないで同じ仲間として、でも身体は気遣って接している…でも、やっぱり皆も彼女の歌を聴きたいんだろうな。だからああやって特別枠を作っている…俺が知っているのはそういう話だ」
そうして土井垣は手元の酒を飲み干した。不知火は彼女が痛々しくなり、いつの間にか言葉が零れ落ちていた。
「じゃあ…彼女の努力は報われなかったって事ですね」
「そうだな…でもな」
「でも?」
「『確かにプロとしての歌の道は諦めなければならなかったけれど、今自分はそれまでに培ってきたものを生かして別の形でその道を進んでいるし、それを楽しんでいる。それを思えばたとえ直接的には報われない努力だったとしても、その努力は決して無駄ではなかったんじゃないかと思っている』…この話を聞いた俺が今のお前と同じ事を彼女に言ったら、彼女は笑顔でそう言っていた」
「…」
そう言って土井垣は微笑んだ。不知火は沈黙する。実力以外の不本意な理由で夢を諦めなければならなかった事は、きっと身を切るより辛かっただろう。しかし彼女はそれを乗り越えて、別の形で夢を追いかけている。そして報われない努力だとしても、それは無駄な努力ではないと行きついた彼女の強さと、それを理解している土井垣のある種の絆に自分が入っていけないものを感じて、ちくりと痛む胸を抑えながら呟く。
「…強いんですね、彼女は」
「そうだな…でも、お前だって同じだぞ」
「俺も?」
土井垣の言葉に不知火は思わず問い返す。土井垣は更に続けた。
「だってそうだろう?甲子園に行けなかった事だけで考えれば、お前の高校時代の努力は報われない努力だ。でも、今プロ野球選手としての実力の中にその努力は生きている。無意識だろうが、お前はそうして過去の努力を無駄なものにはしていないじゃないか。バッテリーを組んでいる俺は、少なくともそう思うぞ」
「土井垣さん…」
土井垣の言葉に不知火は胸が一杯になる。彼のこういう所が彼への想いを駆り立てる所だ。人を理解する事の努力を怠らず、そして、さりげなく励ましてくれる――そんな彼の一面をを知ったからこそ、自分と同じく彼女も土井垣に惹かれたんだろう。しかし土井垣は彼女の気持ちにも、自分の気持ちにも気付いていない。そういう意味では彼女と自分はまだ同じスタートラインだ。だとしたらこの想いを報われないものにしたくない――不知火はその心のままに言葉を零した。
「今度は…『報われる努力』にするからな」
「守、どういう事だ?」
「秘密です…皆さん、俺も仲間に入れて下さい」
問い掛ける土井垣に不知火はウィンクすると、葉月を含む振りつきで歌っている面々の仲間に入っていった。そう。この努力は報われないものにしたくない。このたった一つの想いを報われるものにする努力だけは――