「将、ここ最近の報道からすると、お前は北海道へ行かないんだな」
「...はあ、とはいえ新球団の監督になる訳ですから、ある種北海道へ行くより大変ですよ」
オフの昼下がり、俺は実家へ戻り、家族とお茶を飲みながら時を過ごしていた。父さんの言葉に、俺は淡々と応える。俺の言葉に、今度は母さんが声を掛けてきた。
「でも、その道を選んだのは将さんでしょう?決めたからには精一杯務めなさい」
「...はあ」
「何じゃ将、さっきから気のない返事ばかりで...ああ、そうか」
「何ですか?」
俺の様子を怪訝そうに見ていたじいさんは、恵心した様ににんまりと笑うと、楽しげに口を開いた。
「お前、葉月さんの事を考えていたのじゃろう。そうじゃな、お前が北海道へ行かなくて済んだおかげで葉月さんはご両親の傍にもいられるし、仕事も辞めずに済むものな。これで障害は全て乗り越えたわけじゃ」
「障害...何のですか」
「じゃから、お前と葉月さんの結婚についてのじゃ」
「...!」
じいさんの言葉に俺は赤面して絶句する。確かに彼女が自分と結婚するのに一番躊躇していたのは北海道へ行くか行かないかだったのだから、その問題が解決したとなれば、お互いの想いがちゃんと分かっている今、後は結婚へ向かって一直線に行ってもおかしくないのだ。絶句したままの俺に、両親とじいさんは口々に呑気な言葉を掛けてくる。
「何となくの流れでこのまま結婚しそうだったが、これではっきりしたという訳だ」
「葉月さんなら、きっと将さんといい家庭が作れるわね。...ああ、その前に結納と結婚式ね。花嫁衣裳はドレスがいいかしら、それとも和装?可愛らしい葉月さんだから、どちらも似合いそうで迷うわね」
「いや~めでたい!将!結婚式の時は儂が『高砂』を唄ってやるぞ!」
「...」
余りにおめでたい家族の様子に俺は言葉を失う。俺はしばらくそうやって楽しげに話す家族を見詰めていたが、やがてそれを止める様に言葉を掛ける。
「...ちょっと待って下さい」
「どうした?将」
会話を止め、怪訝そうな眼差しで俺を見る家族に、俺は更に言葉を重ねた。
「確かに俺と葉月さんは見合い話を進めて、結婚をするつもりでお付き合いも続けていますけど...俺はまだ彼女にプロポーズしていないんですよ」
「何?」
「まあ...」
そう、確かにお互いの気持ちを確かめあって婚約指輪のつもりだった指輪も贈り、彼女から『今後どうするかはシーズン終了まで待ちましょう』と言われたが、俺は彼女に正式なプロポーズはしていない。そう考えると気持ちを確かめあったからとはいえ、そういう面で自分達ははっきりした約束は交わしていないのが現実なのだ。はっきりとした約束がないままなだれ込む様に結婚に持ち込むのは、彼女に失礼だろう。俺の言葉に家族はしばらく沈黙していたが、やがてその気まずい沈黙を破る様に、じいさんが口を開いた。
「...将」
「...はい」
「ぐずぐずせんで、一刻も早くプロポーズせんか!葉月さんに失礼じゃろう!」
じいさんに一喝されて俺は言葉を失う。確かにもっともな話だ。気持ちを確かめあったからと言って、プロポーズをしなくていいという理由にはならない。あまりの自分の間抜けさに自分でも呆れてしまった。自分自身に呆れながらも俺はじいさんに応える。
「...そうします」
「将、大丈夫だ。葉月さんならきっと受けてくれるさ」
「きっと優しい葉月さんの事だから、分かっていても将さんの言葉を待ってくれているのよ。だから早くちゃんと言葉にしてあげなさい」
「...はい」
家族の口々の言葉に、俺はただ頷くしかできなかった――
そうした会話が交わされた数日後、俺は薄いオレンジのカーネーションの花束を抱えて彼女も行きつけの飲み屋に向かった。今日は彼女が入っている合唱団のレッスン日だから、休んでいなければ終われば来るはずだ。本来なら二人きりの時にプロポーズするべきだとも思ったが、想いを確かめあって指輪まで渡している身としてはどうも居心地が悪く、いっそ周囲の公認にしてしまおうという気持ちが働いてこうしたのだ。俺が花束を持って店に入ると、マスターが声を掛けてきた。
「おっ、土井垣君よく来たね。...その花束は...みやちゃんにかい?」
「...はい」
「新球団の監督にもなるし、とうとう土井垣君も決心をつけたって事か。頑張ってね」
「...はあ」
すっかり見通されて俺は赤面して言葉を失う。マスターは悪戯っぽく笑いながら更に言葉を紡いだ。
「でも土井垣君らしいね。バラじゃなくてカーネーションだなんて」
マスターの言葉に俺は照れながらも自分の考えを口に出した。
「いえ...バラはどこか近寄りがたい雰囲気で、彼女のイメージには合わない気がして...それにこの色が彼女らしくて気に入ったんです」
「確かに、可愛いけど子供っぽくなくてあったかい色の感じが、みやちゃんに似合いそうな色だね。それに、みやちゃん達が良く歌う歌で、確か由来は誰かの結婚祝いのために作ったっていう歌に、オレンジの花を贈ろうみたいな歌詞があったはずだからそこでもいいかも」
「そうなんですか...その歌は俺も知りませんでした」
「いや、確かにその歌は最近あんまり歌ってないし、僕も話は皆から聞いた耳学問なんだけどね」
そう言うとマスターはまた悪戯っぽく笑った。俺は笑い返すと、更に照れ臭くなって口を開く。
「じゃあこっちで当たりだったんですね。本当は黄色や絞りも似合うと思ったんですが...そう言って選ぼうとしたら花屋に『花言葉が不吉だから止めろ』って止められたんですよ」
「それも土井垣君らしいな...じゃあみやちゃんが来るまでお酒はNGだね。とりあえずウーロン茶でも飲んで待ってなよ」
「はい」
そう言うと俺は出されたウーロン茶を飲みながら彼女をしばらく待っていると、店に一際賑やかな集団が入ってくる。目的が達成できた事を確認して、俺は急に鼓動が早くなってきた。
「おっじゃま~」
「マスター、来たよ~ああ、土井垣ちゃんも来てたんだ。久し振り~」
「いえ...こんばんは」
「いらっしゃい、皆。今日は特別イベントがあるからね」
「え?何それ」
「まあ見てのお楽しみって所で...みやちゃん、今日は来たんだね」
「はい、こんばんは、マスター。...土井垣さんもこんばんは。お久し振りです」
「ああ...宮田さん、久し振り」
葉月はマスターに挨拶した後、遠慮がちに俺にも挨拶をする。このメンバーには俺達の仲は知られているとはいえ、周囲の雰囲気を壊さないためにも、このメンバーといる時には恋人としての雰囲気はあまり出さないでいるのが常になっているので、彼女はある種いつもより遠慮がちになるのだ。俺もそれが分かっているので何となく遠慮がちに応える。とはいえこれからするべき事はもう決まっているので、高鳴る鼓動を抑えながら、俺はそのチャンスを待つ。と、皆がいつもの様に俺に声を掛けてきてくれた。
「じゃあ土井垣君、いつもどおり一緒に飲もうよ」
これがチャンスだ、と思った俺は高鳴る鼓動とはやる心のまま、葉月に声を掛ける。
「はい...でもその前に...宮田さん」
「はい、何ですか?」
俺の様子に全く気付いていない葉月は、にっこり笑って俺を見詰める。俺はそれも気にせずどんどん言葉を紡いでいく。
「...知っての通り、俺は北海道へ行かなくて済む事になった」
「はあ」
「その代わり、新球団の監督としてこれから全力を尽くす事になる」
「そうですね」
「だから...葉月」
「...え?土井垣さん、どうしたんですか?」
いつもは絶対こうした時自分の事を名前で呼ばない俺が自分を名前で呼んだ事で、葉月は何かを感じ取ったのか、俺に問い掛ける。俺は持っていた花束を差し出して決定打を浴びせた。
「俺が監督として全力を尽くせる様に...支えてくれ。...だから、結婚してくれないか」
「...」
俺の言葉に、他の皆は店の客も含めて彼女の反応を確かめる様に固唾を呑んで俺達を見守る。彼女はしばらく黙り込んでいたが、やがて俺の手から花束を受け取ると、俺にとっては最高の微笑みを見せて、ゆっくりと頷いた。
「...はい」
「...ありがとう」
彼女の言葉に皆は歓声を上げ、冷やかしの口笛も飛び交う。俺は彼女がプロポーズを受けてくれた事が嬉しいのと同時に、自分のある種大胆な行動が今更になって恥ずかしくなり、赤面していた。彼女はしばらくそんな俺を微笑みながら見詰めていたが、やがて不意に口を開いた。
「...でも」
「え?」
「今は結婚できないわ」
「お...おい...どういう事だ?葉月」
葉月の意外な発言に俺は狼狽する。狼狽している俺を尻目に、彼女はにっこり笑ってさらりと言葉を紡いでいく。
「土井垣さんはこれから新球団の基盤を作らなきゃいけないでしょう?結婚して生活ガラッと変わって基盤づくりに支障をきたす様な事になったら、球団の方に申し訳ないですもの。だから...基盤ができるまで私、待ちます」
「ちょっと待て葉月、今までの流れは何だったんだ?」
「だから、結婚はしますよ。けど、土井垣さんと新球団への影響を考えると今はできない...そういう事です」
葉月の言葉に俺は慌てて言葉を返す。その様子も気にせずに彼女はさらっと俺に応えていく。
「な、ならせめて形式上入籍だけでも...」
「そんな騙し討ちみたいな事、したくありません。新球団の監督として最高の動きができる様に、今は私の事より野球の事だけ考えて下さい」
「そんな...」
余りの展開に俺は呆然とする。呆然とする俺を見ながら、この展開を見守っていた店中の人間は、爆笑の渦に包まれた。
「土井垣ちゃん、宮田ちゃんに一本取られたね~。宮田ちゃんには座布団一枚!って所かな」
「天下の闘将土井垣も、女心の複雑さにはかなわないって事ね~」
「いや~いいもの見せてもらったよ~」
「それにしても告白の時は眠り込まれちゃったし、プロポーズの時はいきなり結婚延期の話か~」
「土井垣君って、ホントここぞという時不幸よね~」
周囲のからかう様な言葉を耳にしながら呆然とする俺を、葉月はにっこり笑って見詰めていたが、不意に俺に顔を近づけると、俺にだけ聞こえる位の小さな声で耳元に囁いた。
「...将さん、ありがとう。将さんの気持ち、とっても嬉しかった...だから早く基盤固めてね。あたし、いつまでも待ってるから...」
「葉月...」
呆然としながらも、彼女の言葉に俺は胸が温まる。どんな形であれ、俺の気持ちはちゃんと彼女に伝わった。だとしたら俺のする事はもう一つしかない。彼女が結婚を躊躇なく受け入れられる様にするために早く基盤を作る努力をするだけだ。俺は決意を込めて彼女に囁く。
「ああ...すぐに基盤が固まる様に頑張るから...早く認めてくれよ」
「...ん...」
葉月は恥ずかしげに頷いた後、俺から顔を離し、明るい声で皆に声を掛ける。
「...まあ、そういう事で。...こういう時には『陽気に生きようこの人生をさ』でも歌いますか」
「え?『花をおくろう』じゃないの?丁度花の色もオレンジだし...まあどっちにしろ土井垣君にはとどめだけど」
「いえ、私との事なら『花をおくろう』もいいんですけど、私としては私との事より土井垣さんの監督としての前途を祝ってエールを送るために歌いたいんで...お願いします」
「まったくお熱いねぇ...でも面白いから乗った!歌おう!」
そう言うと皆は声を合わせて歌い始めた。確かにある種今の俺にとってはとどめの様な歌詞だったが、もう一方で、沈んでいないで夢があるなら陽気に生きようという意味の歌詞に、プロポーズをするためだけではなく、今まで監督になるというプレッシャーで無意識にどこか固まっていた身体の力が、ふっと抜けた気がした。おそらくその意図でこの曲を選んでくれたであろう彼女の想いに、更に温かい気持ちが湧きあがってくる。そして、良く考えれば方法は一風変わっているものの俺の事を第一に考えて、目には見えなくてもこうしてそれとなく背中を押して支えてくれる彼女の思いやりに溢れた心遣いに、俺は胸が一杯になった。陽気に歌う彼女を見詰めながら、俺はこんな最高の女房を一日も早く迎えられる男になろうという決意を、心の中で固めた。
「...はあ、とはいえ新球団の監督になる訳ですから、ある種北海道へ行くより大変ですよ」
オフの昼下がり、俺は実家へ戻り、家族とお茶を飲みながら時を過ごしていた。父さんの言葉に、俺は淡々と応える。俺の言葉に、今度は母さんが声を掛けてきた。
「でも、その道を選んだのは将さんでしょう?決めたからには精一杯務めなさい」
「...はあ」
「何じゃ将、さっきから気のない返事ばかりで...ああ、そうか」
「何ですか?」
俺の様子を怪訝そうに見ていたじいさんは、恵心した様ににんまりと笑うと、楽しげに口を開いた。
「お前、葉月さんの事を考えていたのじゃろう。そうじゃな、お前が北海道へ行かなくて済んだおかげで葉月さんはご両親の傍にもいられるし、仕事も辞めずに済むものな。これで障害は全て乗り越えたわけじゃ」
「障害...何のですか」
「じゃから、お前と葉月さんの結婚についてのじゃ」
「...!」
じいさんの言葉に俺は赤面して絶句する。確かに彼女が自分と結婚するのに一番躊躇していたのは北海道へ行くか行かないかだったのだから、その問題が解決したとなれば、お互いの想いがちゃんと分かっている今、後は結婚へ向かって一直線に行ってもおかしくないのだ。絶句したままの俺に、両親とじいさんは口々に呑気な言葉を掛けてくる。
「何となくの流れでこのまま結婚しそうだったが、これではっきりしたという訳だ」
「葉月さんなら、きっと将さんといい家庭が作れるわね。...ああ、その前に結納と結婚式ね。花嫁衣裳はドレスがいいかしら、それとも和装?可愛らしい葉月さんだから、どちらも似合いそうで迷うわね」
「いや~めでたい!将!結婚式の時は儂が『高砂』を唄ってやるぞ!」
「...」
余りにおめでたい家族の様子に俺は言葉を失う。俺はしばらくそうやって楽しげに話す家族を見詰めていたが、やがてそれを止める様に言葉を掛ける。
「...ちょっと待って下さい」
「どうした?将」
会話を止め、怪訝そうな眼差しで俺を見る家族に、俺は更に言葉を重ねた。
「確かに俺と葉月さんは見合い話を進めて、結婚をするつもりでお付き合いも続けていますけど...俺はまだ彼女にプロポーズしていないんですよ」
「何?」
「まあ...」
そう、確かにお互いの気持ちを確かめあって婚約指輪のつもりだった指輪も贈り、彼女から『今後どうするかはシーズン終了まで待ちましょう』と言われたが、俺は彼女に正式なプロポーズはしていない。そう考えると気持ちを確かめあったからとはいえ、そういう面で自分達ははっきりした約束は交わしていないのが現実なのだ。はっきりとした約束がないままなだれ込む様に結婚に持ち込むのは、彼女に失礼だろう。俺の言葉に家族はしばらく沈黙していたが、やがてその気まずい沈黙を破る様に、じいさんが口を開いた。
「...将」
「...はい」
「ぐずぐずせんで、一刻も早くプロポーズせんか!葉月さんに失礼じゃろう!」
じいさんに一喝されて俺は言葉を失う。確かにもっともな話だ。気持ちを確かめあったからと言って、プロポーズをしなくていいという理由にはならない。あまりの自分の間抜けさに自分でも呆れてしまった。自分自身に呆れながらも俺はじいさんに応える。
「...そうします」
「将、大丈夫だ。葉月さんならきっと受けてくれるさ」
「きっと優しい葉月さんの事だから、分かっていても将さんの言葉を待ってくれているのよ。だから早くちゃんと言葉にしてあげなさい」
「...はい」
家族の口々の言葉に、俺はただ頷くしかできなかった――
そうした会話が交わされた数日後、俺は薄いオレンジのカーネーションの花束を抱えて彼女も行きつけの飲み屋に向かった。今日は彼女が入っている合唱団のレッスン日だから、休んでいなければ終われば来るはずだ。本来なら二人きりの時にプロポーズするべきだとも思ったが、想いを確かめあって指輪まで渡している身としてはどうも居心地が悪く、いっそ周囲の公認にしてしまおうという気持ちが働いてこうしたのだ。俺が花束を持って店に入ると、マスターが声を掛けてきた。
「おっ、土井垣君よく来たね。...その花束は...みやちゃんにかい?」
「...はい」
「新球団の監督にもなるし、とうとう土井垣君も決心をつけたって事か。頑張ってね」
「...はあ」
すっかり見通されて俺は赤面して言葉を失う。マスターは悪戯っぽく笑いながら更に言葉を紡いだ。
「でも土井垣君らしいね。バラじゃなくてカーネーションだなんて」
マスターの言葉に俺は照れながらも自分の考えを口に出した。
「いえ...バラはどこか近寄りがたい雰囲気で、彼女のイメージには合わない気がして...それにこの色が彼女らしくて気に入ったんです」
「確かに、可愛いけど子供っぽくなくてあったかい色の感じが、みやちゃんに似合いそうな色だね。それに、みやちゃん達が良く歌う歌で、確か由来は誰かの結婚祝いのために作ったっていう歌に、オレンジの花を贈ろうみたいな歌詞があったはずだからそこでもいいかも」
「そうなんですか...その歌は俺も知りませんでした」
「いや、確かにその歌は最近あんまり歌ってないし、僕も話は皆から聞いた耳学問なんだけどね」
そう言うとマスターはまた悪戯っぽく笑った。俺は笑い返すと、更に照れ臭くなって口を開く。
「じゃあこっちで当たりだったんですね。本当は黄色や絞りも似合うと思ったんですが...そう言って選ぼうとしたら花屋に『花言葉が不吉だから止めろ』って止められたんですよ」
「それも土井垣君らしいな...じゃあみやちゃんが来るまでお酒はNGだね。とりあえずウーロン茶でも飲んで待ってなよ」
「はい」
そう言うと俺は出されたウーロン茶を飲みながら彼女をしばらく待っていると、店に一際賑やかな集団が入ってくる。目的が達成できた事を確認して、俺は急に鼓動が早くなってきた。
「おっじゃま~」
「マスター、来たよ~ああ、土井垣ちゃんも来てたんだ。久し振り~」
「いえ...こんばんは」
「いらっしゃい、皆。今日は特別イベントがあるからね」
「え?何それ」
「まあ見てのお楽しみって所で...みやちゃん、今日は来たんだね」
「はい、こんばんは、マスター。...土井垣さんもこんばんは。お久し振りです」
「ああ...宮田さん、久し振り」
葉月はマスターに挨拶した後、遠慮がちに俺にも挨拶をする。このメンバーには俺達の仲は知られているとはいえ、周囲の雰囲気を壊さないためにも、このメンバーといる時には恋人としての雰囲気はあまり出さないでいるのが常になっているので、彼女はある種いつもより遠慮がちになるのだ。俺もそれが分かっているので何となく遠慮がちに応える。とはいえこれからするべき事はもう決まっているので、高鳴る鼓動を抑えながら、俺はそのチャンスを待つ。と、皆がいつもの様に俺に声を掛けてきてくれた。
「じゃあ土井垣君、いつもどおり一緒に飲もうよ」
これがチャンスだ、と思った俺は高鳴る鼓動とはやる心のまま、葉月に声を掛ける。
「はい...でもその前に...宮田さん」
「はい、何ですか?」
俺の様子に全く気付いていない葉月は、にっこり笑って俺を見詰める。俺はそれも気にせずどんどん言葉を紡いでいく。
「...知っての通り、俺は北海道へ行かなくて済む事になった」
「はあ」
「その代わり、新球団の監督としてこれから全力を尽くす事になる」
「そうですね」
「だから...葉月」
「...え?土井垣さん、どうしたんですか?」
いつもは絶対こうした時自分の事を名前で呼ばない俺が自分を名前で呼んだ事で、葉月は何かを感じ取ったのか、俺に問い掛ける。俺は持っていた花束を差し出して決定打を浴びせた。
「俺が監督として全力を尽くせる様に...支えてくれ。...だから、結婚してくれないか」
「...」
俺の言葉に、他の皆は店の客も含めて彼女の反応を確かめる様に固唾を呑んで俺達を見守る。彼女はしばらく黙り込んでいたが、やがて俺の手から花束を受け取ると、俺にとっては最高の微笑みを見せて、ゆっくりと頷いた。
「...はい」
「...ありがとう」
彼女の言葉に皆は歓声を上げ、冷やかしの口笛も飛び交う。俺は彼女がプロポーズを受けてくれた事が嬉しいのと同時に、自分のある種大胆な行動が今更になって恥ずかしくなり、赤面していた。彼女はしばらくそんな俺を微笑みながら見詰めていたが、やがて不意に口を開いた。
「...でも」
「え?」
「今は結婚できないわ」
「お...おい...どういう事だ?葉月」
葉月の意外な発言に俺は狼狽する。狼狽している俺を尻目に、彼女はにっこり笑ってさらりと言葉を紡いでいく。
「土井垣さんはこれから新球団の基盤を作らなきゃいけないでしょう?結婚して生活ガラッと変わって基盤づくりに支障をきたす様な事になったら、球団の方に申し訳ないですもの。だから...基盤ができるまで私、待ちます」
「ちょっと待て葉月、今までの流れは何だったんだ?」
「だから、結婚はしますよ。けど、土井垣さんと新球団への影響を考えると今はできない...そういう事です」
葉月の言葉に俺は慌てて言葉を返す。その様子も気にせずに彼女はさらっと俺に応えていく。
「な、ならせめて形式上入籍だけでも...」
「そんな騙し討ちみたいな事、したくありません。新球団の監督として最高の動きができる様に、今は私の事より野球の事だけ考えて下さい」
「そんな...」
余りの展開に俺は呆然とする。呆然とする俺を見ながら、この展開を見守っていた店中の人間は、爆笑の渦に包まれた。
「土井垣ちゃん、宮田ちゃんに一本取られたね~。宮田ちゃんには座布団一枚!って所かな」
「天下の闘将土井垣も、女心の複雑さにはかなわないって事ね~」
「いや~いいもの見せてもらったよ~」
「それにしても告白の時は眠り込まれちゃったし、プロポーズの時はいきなり結婚延期の話か~」
「土井垣君って、ホントここぞという時不幸よね~」
周囲のからかう様な言葉を耳にしながら呆然とする俺を、葉月はにっこり笑って見詰めていたが、不意に俺に顔を近づけると、俺にだけ聞こえる位の小さな声で耳元に囁いた。
「...将さん、ありがとう。将さんの気持ち、とっても嬉しかった...だから早く基盤固めてね。あたし、いつまでも待ってるから...」
「葉月...」
呆然としながらも、彼女の言葉に俺は胸が温まる。どんな形であれ、俺の気持ちはちゃんと彼女に伝わった。だとしたら俺のする事はもう一つしかない。彼女が結婚を躊躇なく受け入れられる様にするために早く基盤を作る努力をするだけだ。俺は決意を込めて彼女に囁く。
「ああ...すぐに基盤が固まる様に頑張るから...早く認めてくれよ」
「...ん...」
葉月は恥ずかしげに頷いた後、俺から顔を離し、明るい声で皆に声を掛ける。
「...まあ、そういう事で。...こういう時には『陽気に生きようこの人生をさ』でも歌いますか」
「え?『花をおくろう』じゃないの?丁度花の色もオレンジだし...まあどっちにしろ土井垣君にはとどめだけど」
「いえ、私との事なら『花をおくろう』もいいんですけど、私としては私との事より土井垣さんの監督としての前途を祝ってエールを送るために歌いたいんで...お願いします」
「まったくお熱いねぇ...でも面白いから乗った!歌おう!」
そう言うと皆は声を合わせて歌い始めた。確かにある種今の俺にとってはとどめの様な歌詞だったが、もう一方で、沈んでいないで夢があるなら陽気に生きようという意味の歌詞に、プロポーズをするためだけではなく、今まで監督になるというプレッシャーで無意識にどこか固まっていた身体の力が、ふっと抜けた気がした。おそらくその意図でこの曲を選んでくれたであろう彼女の想いに、更に温かい気持ちが湧きあがってくる。そして、良く考えれば方法は一風変わっているものの俺の事を第一に考えて、目には見えなくてもこうしてそれとなく背中を押して支えてくれる彼女の思いやりに溢れた心遣いに、俺は胸が一杯になった。陽気に歌う彼女を見詰めながら、俺はこんな最高の女房を一日も早く迎えられる男になろうという決意を、心の中で固めた。