ある夜の都内某所の小さな居酒屋。土井垣とそこで親しくなっていた合唱サークルのメンバーは、いつもお互いが会った時の様に一緒に酒を酌み交わし、賑やかに話していた。サークルの面々が取り置きしている焼酎を振舞ってもらい話しながらも、土井垣はある事がふと気になっていた。この合唱団のメンバー達はほとんどが土井垣よりも年配の人間なのだが、その中で一人歳若い女性メンバーがいて、実は土井垣はその女性に密かに想いを寄せていた。彼女は忙しい事とあまり身体が丈夫でなく、レッスンを休む事も多いので会えない事も多いのだが、今回はちゃんとレッスンに参加していたのか一緒に来てこの席についている。しかし、どうもその様子がおかしいのだ。いつもなら楽しげに話に参加し、焼酎の水割りなども率先して作っている彼女が今回は何故か黙ってもじもじした様子を見せているのである。それとなく様子を伺っていると、彼女の方も土井垣の様子を伺っている様なのだが、目が合うとその目を逸らしてしまう。彼女には自分の想いは気付かれない様に接しているので、自分の想いに気付いたからではないだろう。では他に何か理由があるのだろうかと考えてもう一度彼女の方を見ると、また彼女と目が合い、彼女は目を逸らす。彼女の態度の理由が気になって、土井垣はそれとなく声を掛けた。
「宮田さん」
「え?...あ、はい...」
「さっきから俺を見ているみたいだが、俺の顔に何か付いてるのか?」
土井垣の言葉に『宮田さん』と呼ばれた件の女性――フルネーム宮田葉月――は、びっくりした様に彼の方を見る。彼が彼女をリラックスさせる様に冗談を交えて軽い口調で問い掛けると、彼女はしばらく彼をじっと見詰める。その視線に彼はどぎまぎしたが、そうは見せない様に平静な笑顔で見詰め返していた。やがて彼女は大きく頷くと、自分のバッグから色紙とマジックを取り出して土井垣の前に差し出して頭を下げながら声を上げた。
「土井垣さん、本当に申し訳ないんですがサイン下さい!」
「え?」
あまりに意外な葉月の言動に土井垣が思わず問い返すと、彼女は説明する様に続ける。
「あの、どうしても父に土井垣さんのサインをプレゼントしたくって...ここの作法ではそういう事をやるのはご法度だって分かってます...でも、どうしても欲しいんです。お願いします!」
「いや、それはもう俺達はこうして親しくなっているからかまわんが...いきなりまたどうして...」
訳が分からなくて土井垣が問い掛けると、葉月は何故か悲しげに表情を変える。その表情を見て彼はどうしてそんな表情になるのかが不思議でたまらなかった。そんな思いを抱えて二人とも気まずい沈黙で見詰め合っていると、不意にメンバーの一人が声を掛けた。
「...宮田ちゃん、僕から説明するよ」
「沼さん、でも...」
「いいから。宮田ちゃん自分から言うの...っていうか考えるのも辛いでしょ?だから黙ってていいよ」
「...ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて...お願いします」
「うん」
「沼田さん、どういう事なんですか?」
土井垣は葉月が『沼さん』と呼んだ中年の男性――フルネーム沼田孝介――に問い掛ける。沼田は静かに話し始めた。
「...実はね、宮田ちゃんのお母さんが倒れたんだよ。で、今はかなり悪くて看病が必要な身体になっちゃってね...宮田ちゃん、看病のために仕事辞めて実家に戻ろうとしたんだけど、彼女のお父さんが『お母さんの看病は自分がするから自分の生活を第一に考えろ』って突っぱねたんだ。それで、宮田ちゃんのお父さんは仕事しながらお母さんの看病を続けてるんだよ。それですごく大変だから、せめてそれをねぎらって慰めたくて、お父さんがファンの土井垣ちゃんのサインが欲しかった...だよね、宮田ちゃん」
「...はい」
沼田の説明に葉月も悲しげな表情ながら静かに頷く。土井垣は理由が分かったのと同時に彼女を抱き締めて慰めたい衝動に駆られていた。理由が分かって彼女の表情を見ていると、本当に両親の事が心配で、憔悴している様子も伺えた。そんな彼女を見ていると痛々しくて仕方がない。抱き締めて慰めてやれたらどれだけいいだろう。しかしそうはできない事も分かっている。土井垣は暫く考えた後、彼女の頭を軽く叩き、労わる様な口調で口を開く。
「...そうか、大変なんだな。宮田さん」
その言葉に葉月は泣き出したいのを堪える様に唇を噛み締めて俯く。そうしてしばらく彼女は俯いていたが、やがて顔を上げ、真剣な表情と口調で口を開いた。
「いえ...私は大変じゃありません。...でも、大変な父を何とかしてねぎらいたかったんです...だから、申し訳ないんですが...駄目ならいいです...」
その言葉に親を想う葉月の心が伝わってきて、土井垣は胸が一杯になってくる。土井垣は暫く考え込んでいたが、やがてふっと彼女に微笑みかけると、わざと悪戯っぽい口調で応える。
「...今は駄目だな」
「...え?」
土井垣の言葉が分からず問い返す葉月に、土井垣は口調を柔らかく変えると更に言葉を重ねた。
「仕事をしながら看病をしている宮田さんのお父さんに敬意を表したいから、こんな色紙に書くよりサインボールか...キャッチャーミットにでも書こうと思う...だから書いて来るよ。それに、おまけで守のサインボールも貰って来てあげるから、しばらく待ってくれないか?」
「守って...不知火投手ですよね...本当にいいんですか?」
「ああ」
「土井垣さん...ありがとうございます」
葉月は我慢できなくなったのか、少し涙ぐんでお礼を言った。土井垣はそれを宥める様に更に彼女の頭を撫でて微笑みかける。彼女もそれにつられるように微笑んだ。そんな二人を見ていたメンバーは彼女に優しく言葉を掛ける。
「良かったね、宮田ちゃん」
「はい」
メンバーの言葉に、やっと気を取り直したのか葉月はいつもの周りまで明るくする様な笑顔で微笑んだ。それを見て安心した土井垣はメンバーに次のレッスン日を聞いた後、彼女を優しい目で見詰めながら自分の焼酎に手を付ける。それに目ざとく気付いたメンバーが、からかう様に口を開いた。
「でも、土井垣君もサービスいいよね~サインボールにしてあげるだけじゃなくって、不知火投手のサインボールも貰って来てあげちゃうなんてさ~」
「そ、それは...ファンサービスもそうですが仲間として当然の事でしょう?自分も彼女と仲間だと思っていますから、仲間が大変な時には手助けしたいですし」
「ふ~ん...」
メンバーは狼狽する土井垣の様子に、含んだ笑みを見せる。土井垣はその視線を避ける様に、焼酎を飲んだ。
「守」
翌日の試合前のロッカールームで、土井垣は不知火に声を掛ける。
「はい、何ですか?土井垣さん」
土井垣は新品のボールを差し出すと、更に口を開いた。
「後でもいいから...今日中にサインボールを書け」
「え?何でですか?」
「ちょっと事情があってな、お前のサインボールをある恩ある人に渡す約束をしたんだ。だから...書け」
「はあ、別にいいですけど...土井垣さん、どうかしたんですか?」
「何故だ?」
土井垣が問い返すと、不知火は首を捻りながら土井垣を上から下まで見て答える。
「いえ、どこがどうと言う訳じゃないですけど...何となくいつもと違いますよ。どこか浮かれてるっていうか...」
「...別に、どうもしないが...」
「ならいいですけど...今日もしっかりリードお願いしますね。で、絶対勝ちましょう」
「ああ」
土井垣は頷きながら、ふと不知火の言葉に自分が違う理由を考えて赤面しそうになるのを抑える。不謹慎だとは想うが、おそらく自分がいつもと違うのは、葉月が野球選手としての自分にとはいえ、自分に頼ってきてくれた事が嬉しいと思っているからだろう。彼女の両親を心配する気持ちも嘘ではないが、こうして彼女の役に立てる嬉しさに胸を弾ませながら、土井垣は今日の勝利と共にサインボールとキャッチャーミットをプレゼントしようと決意し、支度を始めた。
「宮田さん」
「え?...あ、はい...」
「さっきから俺を見ているみたいだが、俺の顔に何か付いてるのか?」
土井垣の言葉に『宮田さん』と呼ばれた件の女性――フルネーム宮田葉月――は、びっくりした様に彼の方を見る。彼が彼女をリラックスさせる様に冗談を交えて軽い口調で問い掛けると、彼女はしばらく彼をじっと見詰める。その視線に彼はどぎまぎしたが、そうは見せない様に平静な笑顔で見詰め返していた。やがて彼女は大きく頷くと、自分のバッグから色紙とマジックを取り出して土井垣の前に差し出して頭を下げながら声を上げた。
「土井垣さん、本当に申し訳ないんですがサイン下さい!」
「え?」
あまりに意外な葉月の言動に土井垣が思わず問い返すと、彼女は説明する様に続ける。
「あの、どうしても父に土井垣さんのサインをプレゼントしたくって...ここの作法ではそういう事をやるのはご法度だって分かってます...でも、どうしても欲しいんです。お願いします!」
「いや、それはもう俺達はこうして親しくなっているからかまわんが...いきなりまたどうして...」
訳が分からなくて土井垣が問い掛けると、葉月は何故か悲しげに表情を変える。その表情を見て彼はどうしてそんな表情になるのかが不思議でたまらなかった。そんな思いを抱えて二人とも気まずい沈黙で見詰め合っていると、不意にメンバーの一人が声を掛けた。
「...宮田ちゃん、僕から説明するよ」
「沼さん、でも...」
「いいから。宮田ちゃん自分から言うの...っていうか考えるのも辛いでしょ?だから黙ってていいよ」
「...ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて...お願いします」
「うん」
「沼田さん、どういう事なんですか?」
土井垣は葉月が『沼さん』と呼んだ中年の男性――フルネーム沼田孝介――に問い掛ける。沼田は静かに話し始めた。
「...実はね、宮田ちゃんのお母さんが倒れたんだよ。で、今はかなり悪くて看病が必要な身体になっちゃってね...宮田ちゃん、看病のために仕事辞めて実家に戻ろうとしたんだけど、彼女のお父さんが『お母さんの看病は自分がするから自分の生活を第一に考えろ』って突っぱねたんだ。それで、宮田ちゃんのお父さんは仕事しながらお母さんの看病を続けてるんだよ。それですごく大変だから、せめてそれをねぎらって慰めたくて、お父さんがファンの土井垣ちゃんのサインが欲しかった...だよね、宮田ちゃん」
「...はい」
沼田の説明に葉月も悲しげな表情ながら静かに頷く。土井垣は理由が分かったのと同時に彼女を抱き締めて慰めたい衝動に駆られていた。理由が分かって彼女の表情を見ていると、本当に両親の事が心配で、憔悴している様子も伺えた。そんな彼女を見ていると痛々しくて仕方がない。抱き締めて慰めてやれたらどれだけいいだろう。しかしそうはできない事も分かっている。土井垣は暫く考えた後、彼女の頭を軽く叩き、労わる様な口調で口を開く。
「...そうか、大変なんだな。宮田さん」
その言葉に葉月は泣き出したいのを堪える様に唇を噛み締めて俯く。そうしてしばらく彼女は俯いていたが、やがて顔を上げ、真剣な表情と口調で口を開いた。
「いえ...私は大変じゃありません。...でも、大変な父を何とかしてねぎらいたかったんです...だから、申し訳ないんですが...駄目ならいいです...」
その言葉に親を想う葉月の心が伝わってきて、土井垣は胸が一杯になってくる。土井垣は暫く考え込んでいたが、やがてふっと彼女に微笑みかけると、わざと悪戯っぽい口調で応える。
「...今は駄目だな」
「...え?」
土井垣の言葉が分からず問い返す葉月に、土井垣は口調を柔らかく変えると更に言葉を重ねた。
「仕事をしながら看病をしている宮田さんのお父さんに敬意を表したいから、こんな色紙に書くよりサインボールか...キャッチャーミットにでも書こうと思う...だから書いて来るよ。それに、おまけで守のサインボールも貰って来てあげるから、しばらく待ってくれないか?」
「守って...不知火投手ですよね...本当にいいんですか?」
「ああ」
「土井垣さん...ありがとうございます」
葉月は我慢できなくなったのか、少し涙ぐんでお礼を言った。土井垣はそれを宥める様に更に彼女の頭を撫でて微笑みかける。彼女もそれにつられるように微笑んだ。そんな二人を見ていたメンバーは彼女に優しく言葉を掛ける。
「良かったね、宮田ちゃん」
「はい」
メンバーの言葉に、やっと気を取り直したのか葉月はいつもの周りまで明るくする様な笑顔で微笑んだ。それを見て安心した土井垣はメンバーに次のレッスン日を聞いた後、彼女を優しい目で見詰めながら自分の焼酎に手を付ける。それに目ざとく気付いたメンバーが、からかう様に口を開いた。
「でも、土井垣君もサービスいいよね~サインボールにしてあげるだけじゃなくって、不知火投手のサインボールも貰って来てあげちゃうなんてさ~」
「そ、それは...ファンサービスもそうですが仲間として当然の事でしょう?自分も彼女と仲間だと思っていますから、仲間が大変な時には手助けしたいですし」
「ふ~ん...」
メンバーは狼狽する土井垣の様子に、含んだ笑みを見せる。土井垣はその視線を避ける様に、焼酎を飲んだ。
「守」
翌日の試合前のロッカールームで、土井垣は不知火に声を掛ける。
「はい、何ですか?土井垣さん」
土井垣は新品のボールを差し出すと、更に口を開いた。
「後でもいいから...今日中にサインボールを書け」
「え?何でですか?」
「ちょっと事情があってな、お前のサインボールをある恩ある人に渡す約束をしたんだ。だから...書け」
「はあ、別にいいですけど...土井垣さん、どうかしたんですか?」
「何故だ?」
土井垣が問い返すと、不知火は首を捻りながら土井垣を上から下まで見て答える。
「いえ、どこがどうと言う訳じゃないですけど...何となくいつもと違いますよ。どこか浮かれてるっていうか...」
「...別に、どうもしないが...」
「ならいいですけど...今日もしっかりリードお願いしますね。で、絶対勝ちましょう」
「ああ」
土井垣は頷きながら、ふと不知火の言葉に自分が違う理由を考えて赤面しそうになるのを抑える。不謹慎だとは想うが、おそらく自分がいつもと違うのは、葉月が野球選手としての自分にとはいえ、自分に頼ってきてくれた事が嬉しいと思っているからだろう。彼女の両親を心配する気持ちも嘘ではないが、こうして彼女の役に立てる嬉しさに胸を弾ませながら、土井垣は今日の勝利と共にサインボールとキャッチャーミットをプレゼントしようと決意し、支度を始めた。