久しぶりのオフの夜、土井垣がマンションのリビングで新聞を読んでいるとキッチンから『きゃう!』という女性の声。何かあったのかと彼がキッチンの方へ行くと、夕食の片付けをしていた女性がしゃがみこんで床に落ちた何かを拾っていた。彼女の姿に一瞬違和感を覚えたが、その理由をすぐに理解して、その感覚を言葉に乗せる。
「葉月...その頭はどうしたんだ」
「あ、うん。...今急に髪縛ってたゴムが切れちゃったの。多分長く使ってたから寿命なんだと思うけど...ごめんなさい、変な声出しちゃって」
「いや、それはいいんだが...」
 土井垣は彼女をまじまじと見詰める。普段は必ずアップにするか一つに束ねているので、何もせず髪を下ろした状態の彼女をじっくり見るのは彼女の髪が伸びてから実は初めてだった。腰を覆う程まで伸びた豊かな髪がふわりと広がっていつもより愛らしくも色っぽくも見え、土井垣はどきりとする。しかしその動揺を見せない様に軽い話で場を繋いだ。
「それでその頭...どうするんだ?」
「あとちょっとで片付け終わるから邪魔にはあんまりならないと思うし、とりあえず先にこっちを片付けて、後でどうするか考える」
「そうか」
 土井垣がリビングに戻ってしばらくすると、葉月が切れたゴムらしき物を持ってリビングに来ると、彼の隣にちょこんと座る。小首を傾げてゴムの状態を確かめている彼女の様子をじっと見詰めていた彼は、ふとそうして彼女を見て感じた事を口にする。
「こう改めて見ると...お前の髪は意外に茶味がかっていたんだな」
 土井垣の言葉に葉月はにっこり笑うと楽しそうに答える。
「うん、皆染めた茶髪に慣れちゃったみたいで真っ黒だって言うけど、本当は黒っぽく見えてけっこう茶色いの」
「そうか...それに随分伸びた。俺と初めて会った時にはまだ短かったのに」
「そうね。将兄さんと会った頃から伸ばし始めててそろえる以外には切ってないし、そりゃ伸びますよ。あれからもうそろそろ3年だもの」
「3年か...」
 土井垣はふと彼女と出会った時の事を思い返す。行きつけにしていた飲み屋で仲良くなった人間に連れられてやってきた彼女。さらりとしたショートに近いセミロングが会う毎にゆっくりと肩から背中へと伸びていき、彼女が髪をまとめる様になった頃から自分達は付き合うようになった。彼女の髪が伸びていく年月とともに彼女を知り、想いが募って来た自分。彼女の髪が自分との歴史を示している様な気がして、彼はふと彼女の髪に触れた。
「...どうしたの?」
「あ、いや...何でもない」
 土井垣を不思議そうに見詰める葉月の瞳で、彼はふと我に返り慌てて彼女の髪から手を離す。その行動に彼女は更に不思議そうな表情を見せながらも、困った様に呟いた。
「?...それにしてもこれじゃ駄目だわ、帰るまでの応急処置にもう一回結んで使おうと思ったけど、輪が小さすぎて髪全部結べない。三つ編みにすれば何とかなるかな...」
「いいじゃないか、そのままで。今は別に結んでいなければならん理由もないだろう」
「あ、うん...そうなんだけど...」
 歯切れの悪い葉月の言葉に、土井垣は以前から疑問に思っていた事を口に出した。
「...前から思っていたんだが、何でお前はいつも髪をおろさないんだ?」
「だって、仕事中はおろしてると邪魔だし元々まとめるのが基本だし...そうでなくても結んでると、気持ちが引き締まるんだもの」
「なら今は結ばなくてもいいだろう。俺と二人きりなのに気持ちを引き締める必要があるのか?」
「確かにそうなんだけど...あたしとしては気を抜くって言うだけじゃなくて、何だか無防備な姿将兄さんに晒すみたいで恥かしいの」
「俺としては...もっとお前の無防備な姿を見せてもらいたいんだがな」
「...」
 土井垣の言葉の意図を理解し、葉月は赤面しつつも複雑な表情で黙り込む。あるきっかけからこのマンションに彼女は時々来る様になったのだが、彼女はここへ初めて来た時に成り行きで彼にある『借り』を作った事になっている。成り行きで作った『借り』とはいえ彼女自身必ず返さなければいけない『借り』だとは理解しているし、たとえそうでなくてもこうした付き合いを続けていたら、いつかははっきりさせないといけない事だと解ってもいた。頭では解っているのだが、感情が追い付いていない彼女は土井垣に悪いとは思いながらも催促なしの言葉に甘えてごまかしてきていたのだ。彼もその事を分かっているので、あえて無理な催促はしない事にしている。気まずい沈黙の後、彼女はぽつりと呟いた。
「...ごめんなさい」
「別に謝らんでもいいさ...そうだ」
「何?」
「もう一度、髪に触らせてもらっていいか?」
「え?...うん...」
 自分のある種不可解な願いに葉月が頷いたのを確かめて、土井垣はそっと彼女の髪に触れる。自分と彼女の歴史が詰まっているかの様に思えた髪に触れながら、彼は出会った時の彼女の事を思い出していた。こうして触れる事はなかったが、短かった頃から触れたくなるほど綺麗な髪だとは思っていた。その髪の美しさは長くなった今でも全く変わらない。それだけでなく今の自分は、彼女の髪にこうして触れる事ができるのだ。きめの整った綺麗な髪に土井垣は思わず溜息をついた。
「しかし...本当に見事な髪だな」
「ありがとう、私の自慢はこれと声だけだから褒めて貰えるとうれしいかな」
「そうか...じゃあもっと触ってもいいか?」
 恥ずかしそうに微笑む彼女が愛おしくて、土井垣は彼女をそのまま抱き締めるとゆっくりと手で髪をすいた。この髪にもっと触れていたいのも確かだけれど、本当に触れたいのは――手ですいても絡まず流れる様に指を通っていく髪に感嘆する反面、勢いでこうしてしまったとはいえ自分が取っている行動とそこに隠された自分の本心の表面化に彼は赤面したが、髪をすいている手は止まらない。赤面しながらも止められない自分の行動に戸惑っていると、不意に抱き締められている葉月が小刻みに震え出した。自分が取ってしまった行動で彼女を怯えさせたのかと一瞬土井垣は不安を感じたが、どうも様子がおかしい。彼女の様子に彼の手が止まると、彼女がおかしそうに吹き出した。彼女の不可解な反応に戸惑いながらも彼は彼女を抱き締めたまま問いかける。
「...どうしたんだ?」
「ごめんなさい...始めは将兄さんにこうされてるの恥ずかしかったんだけど、ふっと昔知り合いのお姉さま方に言われた事を思い出したら、急におかしくなっちゃって...」
「...一体何を言われたんだ?」
「...言っていい?」
「だから何だ」
 彼女はくすくすと笑いながらも思い出した内容を話すのは躊躇われる様だ。しかし、身体を離して問い詰めるような視線と口調で問いかける土井垣に彼女は困った様な笑みを見せると、軽く溜息をついてゆっくりと答える。
「...あのね、簡単に言うと髪のすき方で女扱いにどれだけ慣れてるか判るっていう話で...それでね、将兄さんの髪のすき方だと、女扱い相当慣れてるすき方に当てはまるのよね」
「...それで?」
「その話思い出したら何かああ、やっぱりなって思っておかしくなっちゃって...ごめんなさい」
「...」
 ばつが悪そうに苦笑いする葉月を土井垣は不機嫌な表情で見詰める。土井垣もそれなりの年齢であるし、実際彼女が想像するまでではないにせよ、ある程度女性に対する扱いも慣れているのは確かである。しかし実際今惚れている女性にそれを言われるのは何となく腹が立った。
「...じゃあ、俺が女扱いに慣れていたら嫌だという事か?」
 軽い腹立ち紛れにそう問いかけると、彼女はまた困った様な笑みを見せ、しばらくの沈黙の後にゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「...ホントはちょっと寂しい気もするけど、将兄さんも普通の男の人だし、ありえなくはないっては思うから...それに」
「それに?」
「女扱いに慣れてても、そうでなくても今好きでいてくれてる女の人は...あたしよね?」
「...ああ」
 軽い口調ながらも真剣さが伝わる彼女の口調に、土井垣は戸惑いながらもその真剣さに応える様に彼女にはっきり伝わる声で呟いた。彼女はその言葉を聞くとにっこり笑って更に柔らかな口調でゆっくりと言葉を続けた。
「...だからどっちでもいいかなって。今あたしが好きな人がちゃんとあたしに対して同じ気持ちでいてくれたらそれでいいって思うから」
「至極優等生的答えだな」
「でも本心だもの。お互い過去を消せって言ったって無理でしょ?」
「確かにそうなんだが...感情として割り切れない部分はないのか?」
「...小説とか他の子の話だとあるけど、あたしには良く分からないな。その辺りの感情」
 淡々と答える葉月の言葉に、土井垣は本当に彼女が自分に惚れているのかと不安になったが、今まで男性とこうした付き合いがなく、それだけでなくもしかすると恋という感情を始めて知ったかもしれない程恋愛感情や男女の心の機微に対しては無知といえるほど無垢な彼女にとってはそうした感情は知る由もない事なのかもしれないと思い直した。そうなのだとしたら今時の女性にしては非常に無垢な彼女が自分との恋愛で染まっていく時には、そうした負の感情は知らないこのままの優しい色合いで染めてやりたいと心から思う。そう思う一方で、健康な男女の付き合いとしてはある意味不自然ともいえるこの状態を打開したい気持ちも心の片隅にはずっとあった。
『自分で惚れておいて何だが、厄介な女に惚れたものだ...』
 自分の感情のジレンマに悩まされる日々をこれからもまた送るのかと土井垣が溜息をつくと、それを見ていた葉月が急に彼の胸に身体を預けてきた。めったにない彼女の自発的な行動に土井垣は狼狽しながらも問いかける。
「...一体どうしたんだ、いきなり」
「...将兄さんは、あたしがこうしても嫌じゃない?」
「あ、ああ...」
 狼狽しながら土井垣が答えると、葉月は彼に寄り添ったままぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「あのね、さっきは茶化しちゃったけど...ホントはああやって将兄さんに髪の毛触られてもあたし、全然嫌じゃなかった...ううん、すごく嬉しかったの。ああいう風にしてもらって」
「そうか」
「...でね、もっとああしていてもらいたいなって...思ったの」
「...」
 驚いた表情で土井垣が彼女を見詰めると、彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。彼女は俯いたまま更にぽつり、ぽつりと言葉を零していく。
「じゃあ、逆に将兄さんはどうなのかなって思ってこうしたんだけど...本当に嫌じゃない?」
 彼女の精一杯の告白の微笑ましさと愛おしさに土井垣は微笑むと、優しく、しかし真剣さのこもった口調で答える。
「ああ、俺もお前にもっと触れたいし...触れてもらいたい」
「...そう」
 彼女はしばらく俯いたまま考え込んでいたが、やがて小さく頷くと、土井垣の目を見詰め、小さな声で、しかししっかりと呟いた。
「...やっぱりちょっと怖いけど、決心が付いた。『借り』...今なら返せそう」
 赤面しながら呟く彼女の瞳を土井垣は見詰め返すと、その頬を両手で包み込み柔らかな笑みを見せながらゆっくりと彼女に応えた。
「そうか...でもな、俺は本当は『借り』なんかどうでもいいんだ。お前が心から俺に触れたい、触れられたい...そう思ってくれたのならな」
「...そうなの?」
「ああ...だから、俺にお前の全てを...預けてくれるか?」
「...ん...」
 柔らかな表情を見せながらも真剣な瞳と態度で問いかける土井垣に、彼女は赤面しながら頷いた。彼女の態度に土井垣は彼女をゆったりと抱き締めると、その耳元にそっと囁いた。
「そうか...なら今は...『兄さん』は止めてもらえるか」
「分かった...『将さん』」
「...それでいい」
 二人はどちらからともなく口付ける。長い口付けの後ゆっくりと二人が唇を離し、土井垣が彼女を抱き上げると、葉月の解けた長い髪がふわりと揺れた。

――二人の夜はまだ始まったばかり――