「土井垣…将さんね」
「あなたは…」
「おい、あんた誰だよ」
ドームでのデーゲームが終わり、チームメイト達と話しながら選手通用口を出て来た土井垣にスーツ姿の女性が声を掛けてきた。土井垣は驚きながらもその女性に見覚えがある感覚に襲われ言葉を失う。漆黒の長い髪をアップにして、美人だが意志の強そうな瞳を強調する様に銀の細いフレームの眼鏡をかけたその女性は、周囲にいて自分に反論する様に声を掛けるチームメイトなど目に入っていないかの様に、更に土井垣に言葉を掛ける。
「ちょっとお話があるんだけど、同行してもらえない?」
「おい、あんた!土井垣のファンなんだろうが不躾だろう!?第一あんたに土井垣が付いて行かなきゃならない理由なん…て…な…」
チームメイトの言葉に、女性は眼鏡の縁を持ってふっと微笑む。その眼鏡の奥の眼差しの迫力と艶然とした微笑に、反論しようとしたチームメイトは言葉を失う。女性は嫣然と微笑んだまま、土井垣に一枚の名刺を差し出した。
「ごめんなさい。ご挨拶が遅れたわね。分かってるとは思うけど、とりあえず名刺渡すわ」
土井垣は差し出された名刺を見て納得した様に頷くと女性を見詰め返す。女性はそんな土井垣を見てまたふっと笑うと念を押した。
「…同行してもらえるわよね」
「…はい」
土井垣が頷いたのを見てチームメイトは驚いた様に名刺をそれぞれ見て声を上げる。
「おい!土井垣!」
「えっ…弁護士って…お前、何かやらかしたのかよ!」
チームメイトの言葉に、土井垣は宥める様に笑うと応える。
「いえ、そう言う訳じゃないですよ。ただ…この人はちょっとお世話になってる人の身内なんです。会うのは初めてなんですけど」
「そうなのか?ならいいんだが…」
「でも初めて会う人間なんだろ?偽者とかだったらどうするんだよ」
「大丈夫です、本人ですよ」
「何だよその確信的な言葉は」
「ちょっと色々あって分かるんです。…わざわざここにいらしたって事は、自分に直接用があるって事…でいいんですね」
「…まあ、そういう事。じゃあOKって事でいい?」
「ええ。一度あなたとも話してみたいと思っていましたから…じゃあ、皆さんすいません。自分はこれで…」
「あ、ああ…じゃあな」
土井垣はチームメイトと別れると、女性に声を掛ける。
「本当に良く似ていますね…それで…ここへは車で来たんですか?お姉さん」
「まだあなたに『お姉さん』って呼ばれたくはないわね。『文乃』って呼んで。ちょっと今回は連れて行く場所の関係で電車使ったから、あなたの車に乗せてくれるとありがたいんだけど…いいかしら『土井垣君』」
「あ、ああ…そうですか。そういう事ならナビも含めて助手席でいいですか…文乃さん」
「いいわ」
一旦は『お姉さん』と呼び、名前で呼ぶ様に訂正された『文乃』というその女性の少々棘のある口調と態度に多少辟易しながらも、土井垣は助手席に彼女を乗せると自分も車に乗り、彼女のナビで都内の小規模の法律事務所に辿り着く。土井垣は彼女の案内で駐車場に車を止め、事務所へ入った。事務所では女性が一人事務仕事をしていて、入って来た文乃に声を掛ける。
「あ、宮田先生お帰りなさい」
「ただいま和ちゃん。空木さんはお嬢さんの三者面談だったわよね。もう帰ったの?」
「はい、帰られました」
「神谷先生は調停の打ち合わせだったわね…所長と夏木君は町内の法律相談がまだ?」
「はい…あれ?後ろにいるの日ハムの土井垣選手ですよね~!何で先生と一緒なんですか?」
「ちょっと個人的に用があってね…面接室使わせてもらうからよろしく。とりあえず彼にお茶いれてあげてくれる?後悪いけど私にも頂戴」
「わかりました~」
「じゃあ土井垣君、そこが面接室だから中に入って座ってて」
土井垣は促された部屋へ入ると、依頼人が座る方であろうソファに腰掛ける。しばらくすると『和ちゃん』と呼ばれた女性がニコニコ笑ってお茶とお茶菓子を持って来て土井垣に振舞う。土井垣も笑顔で会釈すると、彼女は更に満面の笑顔になってはしゃいだ口調で口を開いた。
「あの~私土井垣選手のファンなんです。握手してもらえますか?」
「え?ああどうぞ」
「ありがとうございます~!」
女性ははちきれんばかりの笑顔で土井垣と握手をすると踊る様に部屋から出て行った。それと入れ替わりに文乃がいくつかの書類を持って面接室に入って来る。文乃は女性に話が終わるまで誰も部屋に入れない様に言い渡すとドアを閉め、土井垣の正面に座り口を開いた。
「まあ、とりあえず改めて挨拶するわ。あたしは宮田文乃。あなたがお見合いをした宮田葉月の姉で一応ここの弁護士よ」
「こちらも…土井垣将です」
土井垣は気持ちを落ち着けるためにお茶を一口飲むと、文乃に対抗して話を切り出す様に口を開いた。
「それで…自分への用って言うのは何なんですか?文乃さん」
文乃は煙草に火をつけてゆっくりと紫煙を吐き出すと、感情の薄い口調で口を開いた。
「あなた…今言った様にうちの妹とお見合いしたわよね。しかももっといい話がありそうなのに話を進めてる」
文乃の話の内容の意外性に土井垣は思わず言葉が詰まったが、それでも対抗する様に言葉を返す。
「あ、ええ。そうです…それがどうかしましたか」
土井垣の言葉に、文乃は更に感情の薄い口調で続ける。
「今言った通り、あなたにはもっといい話がありそうなのにこの話は進んでる。うちの周囲はともかく…あなたのネームバリューじゃなくて一応人柄を見込んだんだけど…身内びいきじゃないけど、あの子もあれだけいい子だからね。こんな良い縁はないってあなたの周囲も大喜びの万々歳よ」
「だったら別に良いじゃないですか。こんな急な形で話す事は無いですよね。…本当は一体何が言いたいんですか、文乃さん」
あまりに不可解な文乃の言動から出た土井垣の問いに、彼女はもう一度ゆっくりと紫煙を吐き出すと煙草を消し、意志の強い瞳を更にきつくした様な瞳で土井垣を見詰めると、力強い口調で問いかけた。
「じゃあ本題に入るわ…お見合い前からあなた達付き合ってたのよね。何でお見合い決まった時に家族にその事言わなかったの?」
「う…」
そう、見合いをする前から文乃の妹に当たるその女性と自分は付き合っていた。しかしタイミングがずれて言いそびれている間に偶然見合い話が決まってしまって、勢いで二人とも話を進めてしまっていたのだ。言葉を失っている土井垣に文乃は畳み掛ける様に続ける。
「あたしは周り程おめでたくないの。悪いけどこの通りあなたの事は全部調べさせてもらったわ。…まあ悪い事はとりあえず出なかったけど、唯一あの子との付き合いだけは引っ掛かって来たのよ。隠し事ができないあの子がよく隠し通したって事が一番びっくりしたけど」
「…」
「それを見てあなたがどういう考えであの子と付き合っているのか、ちゃんと確認したくなったって訳。…あの子は絶対に幸せにならなきゃいけないから」
「…文乃さん…?」
最後の言葉を虚空を見て呟く様に発した文乃を見て、土井垣は不思議な気持ちになる。文乃は土井垣の視線にふと気が付くとまたきつい、しかし真剣な眼差しになって問いかける。
「回りくどい事はしない。真っ向からあなたに聞くわ。あの子の事をどう思ってるの?」
文乃の真剣な様子に土井垣も真っ向から立ち向かう様に自分が語れる気持ちを全て話す。
「自分は、彼女の事が好きで…彼女も自分の事を好きだと言ってくれて…まずはそこを大事にしたいんです。それで、これは自分だけの考えですけど…できれば彼女を守ってやりたいんです。最初は分からなかったんですが、もしかして彼女は丈夫じゃないだけじゃなくて、無意識かもしれませんが、何か重いものを背負っているんじゃないかって時々思うんです。その背負っているもので傷つかない様に彼女を守りたい、それが自分達の将来に繋がる…これが自分が言える全部です」
「…そう」
土井垣の言葉に、文乃は眼鏡を外すと立ち上がり、土井垣の瞳を真剣な眼差しで覗き込む様に見詰める。どぎまぎしつつも土井垣も真剣に見詰め返すと、文乃は眼鏡を置き、改めてソファに座ると静かに口を開く。
「…そうね。じゃあ今度はあたしから話すわ…眼鏡なしでね」
「どういう事ですか?」
「この眼鏡は伊達なの。依頼者を安心させたり、法廷で相手を威圧するのに使ってるのよ。…つまり弁護士としてのあたしを作るものなの。だから今は外して、あの子の姉としてあんたと話すわ…あんたは信用できそうだから」
「…ありがとうございます」
土井垣の言葉に文乃はふっと笑うと、煙草に火をつけ、土井垣に声を掛ける。
「もし煙草吸いたかったら吸っても良いわよ。あたしもヘビースモーカーだし」
「ああ…自分は吸いませんから」
「そう?じゃああたしも吸わない方が良いかしら」
「どうぞ、自分は気にしませんから。そのままの文乃さんで話して下さい」
「ありがとう」
文乃はふっと笑うとゆっくりと煙草を吸い、大きく紫煙を吐き出した後ゆっくりと話し始めた。
「…あんた、さっきあの子が『何かを背負ってるからそれで傷つかない様に守りたい』って言ったわね」
「はい」
「…その言葉であたしはあんたを信用しようと思ったのよ。あんた、完璧とは言えないけどちゃんとあの子を見てるし、見ようとしてるわ」
「それは…」
文乃はまた大きく紫煙を吐き出すとその煙草を消し、新しい煙草に火をつけたが、今度は吸わずにその火を静かに見詰める。その様子に土井垣は何ともいえない感情が湧き出してきて何も言えずに彼女を見詰めていた。文乃はやがてまた話し出す。
「あの子は小さい頃から丈夫じゃなくって周りから大切にされてきた。それをただ我侭に受け止める様な子だったらあたしもここまでしないわ。でもあの子は違った。いつも周りで大切にしてくれる大人達に気を遣って、大事にされてるのが気に入らない同じ年頃の子から遠巻きにされて一人ぼっちになっても、泣き言一つ言わないで一人でおとなしく遊んでた。それに丈夫じゃない、そのたった一つの事で、たった一つの夢だった事まで諦めなきゃならなくなった時も、『仕方がない』って笑ってたわ。でもあたしは知ってた。そうやって表で笑っててもずっとあの子は一人で誰にも分からない様に泣いてたんだって。だからあたしは決心したの。『この子は今までずっと泣いてきた分、何があっても笑顔でいられる様に絶対に幸せにしなくちゃいけない』って」
「文乃さん…」
「…でもね、あの子はそうして生きてきた分、あたしがそう決心した頃にはもう沢山の傷を作っちゃったわ。身体じゃなくて…心にね」
「…」
「身体の傷ならまだいいわ。どれだけ治ったか、傷跡がどんなものか分かるから。…でも心の傷は違う。傷跡がどんなものかどころか、治っているのかさえ分からない。治ったと思ってたら全然治ってなくて、そこから突然血が吹き出す事すらあるのよ…それに」
「それに?」
「あの子は今言った事なんか全然大した事がないって思える様な傷を心に負ってるのよ。…傷を負ったって記憶すら失くしちゃった位のね」
「記憶を…?」
驚いて問い掛ける土井垣に、文乃は静かな口調のまま逆に問い返す。
「…ねえ、10年以上前だけど…横浜のデパートでの事覚えてる?」
「もしかして、迷子の事ですか?…もちろんです。もう折角だから言ってしまいますけど、あの頃から自分は知らずに彼女に想いを寄せましたから。…でも文乃さんも…?」
「あたしだって覚えてるわよ。あんたがあの頃から有名人だったって事は知らなかったけど、こんなインパクトある男の子の上あの状況だもの。あの子と偶然一緒になって、迷子を見ててくれたんだったわね」
「ええ」
「じゃああの子はその事、あんたに話した事あった?」
「そういえば…その頃の記憶は何故かあやふやだって言ってました」
土井垣の言葉に、文乃は答えを導き出すかの様な問い掛けをする。
「恋に落ちないまでも、何であんたも知っての通りあれだけ記憶力のいいあの子が、デパートで自分を一生懸命助けてくれたあんたを覚えてないのか、不思議に思わない?」
「確かに…何でそこだけあやふやになるんでしょう」
「あの子はそれだけ傷ついたのよ。…その後に、あんまりショックな事があって」
「『ショックな事』…?」
土井垣が更に問い返すと文乃はまた紫煙を吐き出して、沈痛な表情になりゆっくりと口を開いた。
「ええ…でも悪いけど、その事に関してはまだ今は言えない。…もう少しあんたが信用できるか、見させてもらうわ。それで…大丈夫だって判断したら教えてあげる」
「…分かりました」
土井垣は頷くしかなかった。文乃は煙草を消し、もう一度土井垣を見詰めながら問いかける。
「…あの子の傷跡が見えてきても…それがどんなに醜くても…あんたはあの子を好きでいられるかしら」
文乃の言葉に、今度は臆することなく土井垣はその瞳を見詰め返し、今言えるだけの言葉を力強い口調ではっきりと口にする。
「傷跡も含めて…彼女です。だから傷跡も愛せます。それで…俺は彼女の傷跡が直せなくても、それ以上酷くならない様に守って幸せにします」
「…そう」
文乃はまたふっと笑うと立ち上がり、右手を差し出して口を開く。
「どうやら一応は信用に値する男の様ね、良かった。これからはもしあの子の事で聞きたい事があったら教えられる範囲で教えてあげる。相談にも乗るわよ。だからあの子の事…よろしく」
土井垣も立ち上がって真剣な目でもう一度文乃を見詰め返し握手する。
「こちらこそ…よろしくお願いします。文乃さん」
「ええ」
文乃はここに来て初めてにっこり笑った。はじめの内こそきつい感じだと思っていたが、今ここで見せた笑顔は、妹である自分の恋人に良く似ていた。こういう所はやはり姉妹なのだと土井垣は思い、自分も無意識ににっこり笑う。文乃はまたソファに座るとお茶に口をつけ、リラックスした表情で口を開いた。
「さ、難しい話はおしまい。このお茶菓子、有名な所のでおいしいのよ。和ちゃんのいれるお茶もおいしいし、味わっていくといいわ」
「あ、はい。ありがとうございます」
土井垣は勧められるままに少し冷めたお茶とお茶菓子に手を付けながらも、ふっと恋人に思いを馳せていた。記憶を失うほどの傷跡が心にあるという彼女。そんな彼女に何ができるかは自分にも分からない。でも文乃に対して言った言葉は本心だった。傷跡も愛しい彼女の一部。傷が治せなくても酷くならない様に守り、幸せにする。それが今自分のできる精一杯の事。約束したからではなく自分はそうして彼女と生きていく――今の会話で土井垣はそっと決意した。
「あなたは…」
「おい、あんた誰だよ」
ドームでのデーゲームが終わり、チームメイト達と話しながら選手通用口を出て来た土井垣にスーツ姿の女性が声を掛けてきた。土井垣は驚きながらもその女性に見覚えがある感覚に襲われ言葉を失う。漆黒の長い髪をアップにして、美人だが意志の強そうな瞳を強調する様に銀の細いフレームの眼鏡をかけたその女性は、周囲にいて自分に反論する様に声を掛けるチームメイトなど目に入っていないかの様に、更に土井垣に言葉を掛ける。
「ちょっとお話があるんだけど、同行してもらえない?」
「おい、あんた!土井垣のファンなんだろうが不躾だろう!?第一あんたに土井垣が付いて行かなきゃならない理由なん…て…な…」
チームメイトの言葉に、女性は眼鏡の縁を持ってふっと微笑む。その眼鏡の奥の眼差しの迫力と艶然とした微笑に、反論しようとしたチームメイトは言葉を失う。女性は嫣然と微笑んだまま、土井垣に一枚の名刺を差し出した。
「ごめんなさい。ご挨拶が遅れたわね。分かってるとは思うけど、とりあえず名刺渡すわ」
土井垣は差し出された名刺を見て納得した様に頷くと女性を見詰め返す。女性はそんな土井垣を見てまたふっと笑うと念を押した。
「…同行してもらえるわよね」
「…はい」
土井垣が頷いたのを見てチームメイトは驚いた様に名刺をそれぞれ見て声を上げる。
「おい!土井垣!」
「えっ…弁護士って…お前、何かやらかしたのかよ!」
チームメイトの言葉に、土井垣は宥める様に笑うと応える。
「いえ、そう言う訳じゃないですよ。ただ…この人はちょっとお世話になってる人の身内なんです。会うのは初めてなんですけど」
「そうなのか?ならいいんだが…」
「でも初めて会う人間なんだろ?偽者とかだったらどうするんだよ」
「大丈夫です、本人ですよ」
「何だよその確信的な言葉は」
「ちょっと色々あって分かるんです。…わざわざここにいらしたって事は、自分に直接用があるって事…でいいんですね」
「…まあ、そういう事。じゃあOKって事でいい?」
「ええ。一度あなたとも話してみたいと思っていましたから…じゃあ、皆さんすいません。自分はこれで…」
「あ、ああ…じゃあな」
土井垣はチームメイトと別れると、女性に声を掛ける。
「本当に良く似ていますね…それで…ここへは車で来たんですか?お姉さん」
「まだあなたに『お姉さん』って呼ばれたくはないわね。『文乃』って呼んで。ちょっと今回は連れて行く場所の関係で電車使ったから、あなたの車に乗せてくれるとありがたいんだけど…いいかしら『土井垣君』」
「あ、ああ…そうですか。そういう事ならナビも含めて助手席でいいですか…文乃さん」
「いいわ」
一旦は『お姉さん』と呼び、名前で呼ぶ様に訂正された『文乃』というその女性の少々棘のある口調と態度に多少辟易しながらも、土井垣は助手席に彼女を乗せると自分も車に乗り、彼女のナビで都内の小規模の法律事務所に辿り着く。土井垣は彼女の案内で駐車場に車を止め、事務所へ入った。事務所では女性が一人事務仕事をしていて、入って来た文乃に声を掛ける。
「あ、宮田先生お帰りなさい」
「ただいま和ちゃん。空木さんはお嬢さんの三者面談だったわよね。もう帰ったの?」
「はい、帰られました」
「神谷先生は調停の打ち合わせだったわね…所長と夏木君は町内の法律相談がまだ?」
「はい…あれ?後ろにいるの日ハムの土井垣選手ですよね~!何で先生と一緒なんですか?」
「ちょっと個人的に用があってね…面接室使わせてもらうからよろしく。とりあえず彼にお茶いれてあげてくれる?後悪いけど私にも頂戴」
「わかりました~」
「じゃあ土井垣君、そこが面接室だから中に入って座ってて」
土井垣は促された部屋へ入ると、依頼人が座る方であろうソファに腰掛ける。しばらくすると『和ちゃん』と呼ばれた女性がニコニコ笑ってお茶とお茶菓子を持って来て土井垣に振舞う。土井垣も笑顔で会釈すると、彼女は更に満面の笑顔になってはしゃいだ口調で口を開いた。
「あの~私土井垣選手のファンなんです。握手してもらえますか?」
「え?ああどうぞ」
「ありがとうございます~!」
女性ははちきれんばかりの笑顔で土井垣と握手をすると踊る様に部屋から出て行った。それと入れ替わりに文乃がいくつかの書類を持って面接室に入って来る。文乃は女性に話が終わるまで誰も部屋に入れない様に言い渡すとドアを閉め、土井垣の正面に座り口を開いた。
「まあ、とりあえず改めて挨拶するわ。あたしは宮田文乃。あなたがお見合いをした宮田葉月の姉で一応ここの弁護士よ」
「こちらも…土井垣将です」
土井垣は気持ちを落ち着けるためにお茶を一口飲むと、文乃に対抗して話を切り出す様に口を開いた。
「それで…自分への用って言うのは何なんですか?文乃さん」
文乃は煙草に火をつけてゆっくりと紫煙を吐き出すと、感情の薄い口調で口を開いた。
「あなた…今言った様にうちの妹とお見合いしたわよね。しかももっといい話がありそうなのに話を進めてる」
文乃の話の内容の意外性に土井垣は思わず言葉が詰まったが、それでも対抗する様に言葉を返す。
「あ、ええ。そうです…それがどうかしましたか」
土井垣の言葉に、文乃は更に感情の薄い口調で続ける。
「今言った通り、あなたにはもっといい話がありそうなのにこの話は進んでる。うちの周囲はともかく…あなたのネームバリューじゃなくて一応人柄を見込んだんだけど…身内びいきじゃないけど、あの子もあれだけいい子だからね。こんな良い縁はないってあなたの周囲も大喜びの万々歳よ」
「だったら別に良いじゃないですか。こんな急な形で話す事は無いですよね。…本当は一体何が言いたいんですか、文乃さん」
あまりに不可解な文乃の言動から出た土井垣の問いに、彼女はもう一度ゆっくりと紫煙を吐き出すと煙草を消し、意志の強い瞳を更にきつくした様な瞳で土井垣を見詰めると、力強い口調で問いかけた。
「じゃあ本題に入るわ…お見合い前からあなた達付き合ってたのよね。何でお見合い決まった時に家族にその事言わなかったの?」
「う…」
そう、見合いをする前から文乃の妹に当たるその女性と自分は付き合っていた。しかしタイミングがずれて言いそびれている間に偶然見合い話が決まってしまって、勢いで二人とも話を進めてしまっていたのだ。言葉を失っている土井垣に文乃は畳み掛ける様に続ける。
「あたしは周り程おめでたくないの。悪いけどこの通りあなたの事は全部調べさせてもらったわ。…まあ悪い事はとりあえず出なかったけど、唯一あの子との付き合いだけは引っ掛かって来たのよ。隠し事ができないあの子がよく隠し通したって事が一番びっくりしたけど」
「…」
「それを見てあなたがどういう考えであの子と付き合っているのか、ちゃんと確認したくなったって訳。…あの子は絶対に幸せにならなきゃいけないから」
「…文乃さん…?」
最後の言葉を虚空を見て呟く様に発した文乃を見て、土井垣は不思議な気持ちになる。文乃は土井垣の視線にふと気が付くとまたきつい、しかし真剣な眼差しになって問いかける。
「回りくどい事はしない。真っ向からあなたに聞くわ。あの子の事をどう思ってるの?」
文乃の真剣な様子に土井垣も真っ向から立ち向かう様に自分が語れる気持ちを全て話す。
「自分は、彼女の事が好きで…彼女も自分の事を好きだと言ってくれて…まずはそこを大事にしたいんです。それで、これは自分だけの考えですけど…できれば彼女を守ってやりたいんです。最初は分からなかったんですが、もしかして彼女は丈夫じゃないだけじゃなくて、無意識かもしれませんが、何か重いものを背負っているんじゃないかって時々思うんです。その背負っているもので傷つかない様に彼女を守りたい、それが自分達の将来に繋がる…これが自分が言える全部です」
「…そう」
土井垣の言葉に、文乃は眼鏡を外すと立ち上がり、土井垣の瞳を真剣な眼差しで覗き込む様に見詰める。どぎまぎしつつも土井垣も真剣に見詰め返すと、文乃は眼鏡を置き、改めてソファに座ると静かに口を開く。
「…そうね。じゃあ今度はあたしから話すわ…眼鏡なしでね」
「どういう事ですか?」
「この眼鏡は伊達なの。依頼者を安心させたり、法廷で相手を威圧するのに使ってるのよ。…つまり弁護士としてのあたしを作るものなの。だから今は外して、あの子の姉としてあんたと話すわ…あんたは信用できそうだから」
「…ありがとうございます」
土井垣の言葉に文乃はふっと笑うと、煙草に火をつけ、土井垣に声を掛ける。
「もし煙草吸いたかったら吸っても良いわよ。あたしもヘビースモーカーだし」
「ああ…自分は吸いませんから」
「そう?じゃああたしも吸わない方が良いかしら」
「どうぞ、自分は気にしませんから。そのままの文乃さんで話して下さい」
「ありがとう」
文乃はふっと笑うとゆっくりと煙草を吸い、大きく紫煙を吐き出した後ゆっくりと話し始めた。
「…あんた、さっきあの子が『何かを背負ってるからそれで傷つかない様に守りたい』って言ったわね」
「はい」
「…その言葉であたしはあんたを信用しようと思ったのよ。あんた、完璧とは言えないけどちゃんとあの子を見てるし、見ようとしてるわ」
「それは…」
文乃はまた大きく紫煙を吐き出すとその煙草を消し、新しい煙草に火をつけたが、今度は吸わずにその火を静かに見詰める。その様子に土井垣は何ともいえない感情が湧き出してきて何も言えずに彼女を見詰めていた。文乃はやがてまた話し出す。
「あの子は小さい頃から丈夫じゃなくって周りから大切にされてきた。それをただ我侭に受け止める様な子だったらあたしもここまでしないわ。でもあの子は違った。いつも周りで大切にしてくれる大人達に気を遣って、大事にされてるのが気に入らない同じ年頃の子から遠巻きにされて一人ぼっちになっても、泣き言一つ言わないで一人でおとなしく遊んでた。それに丈夫じゃない、そのたった一つの事で、たった一つの夢だった事まで諦めなきゃならなくなった時も、『仕方がない』って笑ってたわ。でもあたしは知ってた。そうやって表で笑っててもずっとあの子は一人で誰にも分からない様に泣いてたんだって。だからあたしは決心したの。『この子は今までずっと泣いてきた分、何があっても笑顔でいられる様に絶対に幸せにしなくちゃいけない』って」
「文乃さん…」
「…でもね、あの子はそうして生きてきた分、あたしがそう決心した頃にはもう沢山の傷を作っちゃったわ。身体じゃなくて…心にね」
「…」
「身体の傷ならまだいいわ。どれだけ治ったか、傷跡がどんなものか分かるから。…でも心の傷は違う。傷跡がどんなものかどころか、治っているのかさえ分からない。治ったと思ってたら全然治ってなくて、そこから突然血が吹き出す事すらあるのよ…それに」
「それに?」
「あの子は今言った事なんか全然大した事がないって思える様な傷を心に負ってるのよ。…傷を負ったって記憶すら失くしちゃった位のね」
「記憶を…?」
驚いて問い掛ける土井垣に、文乃は静かな口調のまま逆に問い返す。
「…ねえ、10年以上前だけど…横浜のデパートでの事覚えてる?」
「もしかして、迷子の事ですか?…もちろんです。もう折角だから言ってしまいますけど、あの頃から自分は知らずに彼女に想いを寄せましたから。…でも文乃さんも…?」
「あたしだって覚えてるわよ。あんたがあの頃から有名人だったって事は知らなかったけど、こんなインパクトある男の子の上あの状況だもの。あの子と偶然一緒になって、迷子を見ててくれたんだったわね」
「ええ」
「じゃああの子はその事、あんたに話した事あった?」
「そういえば…その頃の記憶は何故かあやふやだって言ってました」
土井垣の言葉に、文乃は答えを導き出すかの様な問い掛けをする。
「恋に落ちないまでも、何であんたも知っての通りあれだけ記憶力のいいあの子が、デパートで自分を一生懸命助けてくれたあんたを覚えてないのか、不思議に思わない?」
「確かに…何でそこだけあやふやになるんでしょう」
「あの子はそれだけ傷ついたのよ。…その後に、あんまりショックな事があって」
「『ショックな事』…?」
土井垣が更に問い返すと文乃はまた紫煙を吐き出して、沈痛な表情になりゆっくりと口を開いた。
「ええ…でも悪いけど、その事に関してはまだ今は言えない。…もう少しあんたが信用できるか、見させてもらうわ。それで…大丈夫だって判断したら教えてあげる」
「…分かりました」
土井垣は頷くしかなかった。文乃は煙草を消し、もう一度土井垣を見詰めながら問いかける。
「…あの子の傷跡が見えてきても…それがどんなに醜くても…あんたはあの子を好きでいられるかしら」
文乃の言葉に、今度は臆することなく土井垣はその瞳を見詰め返し、今言えるだけの言葉を力強い口調ではっきりと口にする。
「傷跡も含めて…彼女です。だから傷跡も愛せます。それで…俺は彼女の傷跡が直せなくても、それ以上酷くならない様に守って幸せにします」
「…そう」
文乃はまたふっと笑うと立ち上がり、右手を差し出して口を開く。
「どうやら一応は信用に値する男の様ね、良かった。これからはもしあの子の事で聞きたい事があったら教えられる範囲で教えてあげる。相談にも乗るわよ。だからあの子の事…よろしく」
土井垣も立ち上がって真剣な目でもう一度文乃を見詰め返し握手する。
「こちらこそ…よろしくお願いします。文乃さん」
「ええ」
文乃はここに来て初めてにっこり笑った。はじめの内こそきつい感じだと思っていたが、今ここで見せた笑顔は、妹である自分の恋人に良く似ていた。こういう所はやはり姉妹なのだと土井垣は思い、自分も無意識ににっこり笑う。文乃はまたソファに座るとお茶に口をつけ、リラックスした表情で口を開いた。
「さ、難しい話はおしまい。このお茶菓子、有名な所のでおいしいのよ。和ちゃんのいれるお茶もおいしいし、味わっていくといいわ」
「あ、はい。ありがとうございます」
土井垣は勧められるままに少し冷めたお茶とお茶菓子に手を付けながらも、ふっと恋人に思いを馳せていた。記憶を失うほどの傷跡が心にあるという彼女。そんな彼女に何ができるかは自分にも分からない。でも文乃に対して言った言葉は本心だった。傷跡も愛しい彼女の一部。傷が治せなくても酷くならない様に守り、幸せにする。それが今自分のできる精一杯の事。約束したからではなく自分はそうして彼女と生きていく――今の会話で土井垣はそっと決意した。