オフの夕刻、土井垣は銀座を歩いていた。久しぶりに外で食事をしたくなり、どうせなら豪華に行こうと考えてここに来たものの、これといった店が見付からず何となく散歩状態になってしまっているのだ。『こういう状態も銀ブラと言うのだろうか』などと考え苦笑していると、前方にどこかで見た事がある集団が目に入った。年配の、しかも女性のみの集団なのにどうして見覚えがあるのだろうと考えていると、ふとその集団の中で一人年若い女性に無意識に目が行っている事に気付いた。その女性をはっきり確認してどうしてすぐに見覚えがあると思ったのか理解する。その年若い女性の名は宮田葉月―土井垣の意中の女性であり、一緒にいる見覚えのあった年配の女性達の数名は彼が行きつけにしている飲み屋でよく一緒に飲んでいて、彼女と知り合いになるきっかけとなった合唱サークルのメンバーだったのだ。いつもは飲む場でしかほとんど会う事もなく、その時は男性メンバーも一緒なので一見した時には見過ごしそうだったが、それでも彼女の存在にしっかり目が行った自分に苦笑する。しかし苦笑しながらも女性メンバーのみで銀座に何の用があって来たのだろうと興味がわいた土井垣は、彼女達の後をそれとなく追う事にした。
女性達は何かおしゃべりをしつつ近くのファッションビル内のドレスショップに入っていく。店内はダンス用の衣装から本格的なドレスまで所狭しと並んでおり、男である土井垣が入るのに抵抗があるのもそうだが、その品揃えのせいで人が歩くのも一苦労しそうな店構えだった。中に入るのを躊躇しつつも彼女達の様子が知りたくてたまらない彼は、店の前でさりげなく様子を伺っていた。女性達ははしゃぎながらあれこれとドレスを物色していたが、やがてその内の一着を取り上げ、「試着してみよう」と言い出した。試着室は奥にあるらしく女性達は店の奥に入っていく。土井垣は意を決して、彼女達を追って店の中へ入っていった。
「じゃあ、とりあえず宮田ちゃん着てみてくれる?着てみてよければこれも候補に入れるから」
「あ、はい。分かりました」
葉月は先程取り出したドレスを渡され、試着室に入る。少し離れてその様子を見ていた土井垣を店員が不審に思ったのか「あちらの方達のお連れ様ですか?」と彼に尋ねてきた。彼が内心慌てつつも落ち着いた口調で「はい」と答えると、その答え方に店員も納得したのか遠巻きに彼が見ている事をそれ以上は追求しなかった。2~3分程しただろうか、外で待っていた女性の一人が「着られた?」と中の葉月に声をかけると「はい、着られましたけどぉ...」という気弱な声。その声に他の女性が「何か駄目な所あったの?」と聞くと「えっと、駄目な所というか...とりあえず開けますね」という声の後に試着室のカーテンが開く。中から出てきた彼女の姿に彼は鼓動が速くなるのを感じつつも、目が離せなくなっていた。彼女が着ていたのは濃いブルーのロングドレスで、肩などが露である上、均整が取れた肉感的な彼女のボディラインが強調されるデザインだった。元々あまり肌を露出したり、体型がはっきり分かる様なデザインの服は敬遠しているらしく着ている姿を見た事がない彼女だけに、この姿は土井垣にとってかなり刺激が強かったのだ。そして何より刺激が強かったのは――
「似合うじゃない宮田ちゃん。何でそんなおどおどしてるのよ」
「いえ、デザインとかサイズは別にいいんですけど...何だか布地が頼りなくて、着ていて安心できないんです...」
そう、確かにドレスとしては有りなのかもしれないが、彼女の着ているドレスの布地は彼のいる所から見ても、何となく服にしては薄いと思えるものだったのだ。別に肌が透けて見える等という事はないが、それだけに彼女の肉感的な身体が更に際立ち、下手な下着姿や裸よりもエロティックに見え、土井垣は思わず口元を押さえて赤面した。赤面しながらもしっかり彼女を見つめている彼の視線に気がついたのか、葉月は土井垣のいる方に顔を向け、ふと二人の目が合う。彼女はしばし硬直した後、彼よりも更に顔を真っ赤にしてカーテンを突然閉めると試着室に閉じ篭もってしまった。
「ちょっと、どうしたのよ宮田ちゃん!」
不可解な葉月の行動に女性陣は驚いて試着室に篭もった彼女に声を掛ける。しばらくの沈黙の後に、試着室の中から小さな声が聞こえてきた。
「...すいません、とりあえず着替えさせて下さい」
「あ、うん。分かった...」
彼女の行動の訳が分からず狼狽していた女性陣も彼女の言葉にとりあえず落ち着き、彼女が出てくるのを待つ。しばらくして元の服に戻りドレスを片手に出てきた彼女は、赤面しながら泣きそうな声で口を開く。
「すいません...やっぱりこれ恥ずかしくて人前じゃ着られません...」
「...まあ、宮田ちゃんがこれじゃしょうがないわね。じゃあ別のを...って土井垣君じゃない!いつの間にいたの!?」
葉月の口調に彼女の意志が分かった女性陣は彼女からドレスを受け取ると他のものを探すために踵を返し、そこに立っていた土井垣に初めて気がついた。驚いて問い掛ける女性陣に彼はばつの悪そうな口調で答える。
「あ、いえ...この辺りを歩いていたら皆さんがこちらに入っていくのを見かけて、何をしているのかと思ってちょっと...」
「ふうん...ああ、そういう事か」
「何ですか?」
女性陣の一人は土井垣を見ながらにやりと笑うと、何かを含んだ口調で口を開いた。
「このドレスは確かに却下だわ。土井垣君にそんな顔で見られちゃったら、宮田ちゃん歌どころじゃないもんね」
「三隅さん!」
彼女の言葉に土井垣と葉月は真っ赤にしてハモりながら声を荒げる。それをさらりとかわしつつ、三隅は彼に一つの提案をした。
「まあいいわ。土井垣君も付き合ってくれる?今度の演奏会に着る衣装を探してるんだけど、折角だから男性の意見も入れますか」
「あ、はあ...」
生返事をしながら土井垣はちらりと一番後ろについていた葉月に視線を向ける。彼女の方でもその視線に気付いて一瞬彼を見詰めたが、すぐに赤面して顔をそむけてしまった。その行動に彼は先程自分の考えていた事が彼女に見透かされた様な気がして居たたまれなくなったが、他の面々の勢いに圧されて結局衣装選びに付き合った。何着か試した後、最終的にサテン地を基調として襟ぐりに大きなフリルがついたブラウスにメンバーが元々持っている黒のロングスカートを合わせる事で落ち着き、それぞれのサイズでブラウスを注文して買い物は終了した。
「今日はお疲れ様、でも何とか決まって一安心ね」
「じゃあこれで解散だけど、駅までは皆一緒よね...っと、土井垣君と宮田ちゃんは別行動か」
「え?私も皆さんと一緒に帰りますけど」
三隅の言葉に葉月が少しきょとんとして答えると、三隅はにっこり笑って彼女の背中を押し、土井垣に引き渡した。
「いいのよ無理して帰らなくて...はい、土井垣君」
「ちょっと待ってくださいよ、何で私土井垣さんに渡されてるんですか!」
葉月は訳が分からず抗議の声を上げたが、三隅はその様子も気にせず笑顔のまま続ける。
「宮田ちゃんもたまには同じ若い人と過ごしなさい。じゃあ土井垣君、後任せたから」
「はあ」
「ちゃんと姫のご機嫌直してよね」
「...~っ!」
土井垣が赤面するのも気にせず、女性陣は二人を置いて駅の方向へ歩いて行ってしまった。付いていくタイミングを失ってそのまま残ってしまい、彼の傍で居心地が悪そうにしている葉月の背中をポンと叩くと、彼は感情を表に出さない口調で彼女に声を掛けた。
「...とりあえず、近くで茶でも飲もう。俺がおごるから」
「...はい...」
土井垣は黙り込んでいる葉月を近くの喫茶店に連れて行った。コーヒーを頼み、運ばれてきたコーヒーに口をつけ落ち着いた所で、土井垣は黙ったままの彼女に謝罪の言葉を掛ける。
「...さっきはすまなかったな」
「何がですか?」
「いや...あんな風に覗く様な真似をしてしまって...」
葉月も申し訳なさそうな口調で謝罪を返す。
「ああ、いえ...私こそあんな態度を取ってしまってすいませんでした」
「でも君にしたら当たり前の態度だろう?あんな覗かれ方をされたんだから」
土井垣の言葉に、彼女は顔を真っ赤にしながら消え入るような小さな声で反論する様に答えた。
「そうじゃなくて、あの時は違う意味で恥ずかしかったんです...だってあのドレス、着ているって気持ちが全然しなかったんですもの...だからあの時何だか土井垣さんに裸見られた様な気持ちになってしまって...考え過ぎですよね、すいません」
「いや...俺があの時不埒な目で君を見ていた様に感じたのなら、それは申し訳ないと思う」
実際不埒な考えを持ったのだが、さすがにそこまで言う程間は抜けていない。話を一般的なものに置き換えて土井垣はもう一度謝罪した。彼の言葉に葉月は困った様な口調で続ける。
「いえ、それは私が考えただけですから。...えっと...あの、私が言う立場じゃないですけど...もう過ぎた事ですし、何だか果てがなくなりそうですから、これ以上この話で謝るのはお互いやめましょうよ」
「そうだな...確かに果てがなくなりそうだ」
二人はお互いの言葉がおかしくなって楽しそうに笑った。ひとしきり笑うとリラックスしたのか、葉月はゆっくりコーヒーを飲みながら少しうっとりとした表情で口を開く。
「...でもあのドレスはともかく、今日はちょっと幸せだったな。あそこのお店のドレス、仕事で傍を通るたびに見とれてたんですもの」
「...ほう、君もああいうドレスには憧れる方か」
「はい、綺麗なドレスとか着物って見ていると何だか嬉しくて...ホントに着るとなると似合わないだろうし、現実味なさ過ぎて考えちゃいますけど」
「でも、演奏会で着るつもりだったんだろう?ああいうドレスを」
「ああ、それは三隅さん達が何だか盛り上がっちゃったからで...それに足が見えなくて一定の値段で全員分すぐに揃えられるものを探していたら、最初に当たったのがあれだったんですよ」
「そうだったのか...でもな」
「何ですか?」
「君には不本意かもしれないが、結構似合っていたぞ。あのドレス」
「はあ、ありがとうございます」
たとえ不埒な感情を抱いたとしてもこの言葉に偽りはない。その心を受け取ったかの様に先刻とは違い素直にその言葉に応えた葉月に、土井垣は更に偽りない気持ちを言葉に乗せる。
「あのブラウスでも充分華やかだが...きちんとしたドレスや着物を着た姿もそれはそれなりに見たい気もするな」
彼の言葉に、彼女はからりとした明るい声で笑いながらおかしそうにその言葉に応えた。
「あはは、確かに面白い見世物にはなりそうですね」
「いや、そう意味では...」
「いいですよ、無理しなくても。私のドレス姿や着物姿なんて下手な仮装にしかなりませんって」
「...」
「でも...それでもいいから着てみたい気もするんですよね」
先刻のからりと明るい表情をふと変え、困った様に笑う彼女に土井垣はふと真剣な表情になるとゆっくりと口を開く。
「あるじゃないか...君なら」
「でも、うちは演奏会でいつもああいうもの着るわけじゃ...」
「そうじゃなくて...君なら『結婚式』という場があるだろう」
華やかなウェディングドレスを着て微笑む彼女。そしてその隣にいるのは――そんな気持ちを込めながら口にする彼の言葉に彼女は少し考えた後、ポンと両手を合わせてにっこり笑う。
「そうですね。そういえば姉も独身だし、友達だってまだ結構残ってますし...チャンスはまだありますか。でもあんまり派手なのは着られませんよねぇ、むつかしいですよ」
「...」
彼が精一杯真摯な気持ちで発した言葉でも『自分の』結婚式は全く意識しない彼女の辞書にはまだ『恋愛』という言葉はないのかもしれない。まして彼の自分に対する気持ちになど露ほども気付いていないだろう。自分の選んだ道の険しさに思わず土井垣が溜息をつくと、葉月がそれを見て心配そうに声を掛ける。
「土井垣さん、大丈夫ですか?もしかして無理矢理付き合わせたから疲れてらっしゃいません?」
「え?ああ、何でもない」
「そうですか、ならいいんですけ...」
そこまで言いかけた時ふと彼女のお腹が小さく鳴った。
「え?やだもう、すいませ~ん」
彼女が慌てて恥ずかしそうに謝るのを見て、土井垣は自分も夕食を食べに来た事を思い出し、ふっと笑いながら彼女に話しかける。
「...宮田さん、腹が減ってるのか?」
土井垣の問いに葉月は真っ赤になって俯くと小さな声で答える。
「はあ、実は衣装探しに夢中でちゃんとお昼食べてなくって少し...」
「そうか...じゃあこのまま俺と飯を食いに行かないか?」
「はい?」
唐突な土井垣の提案に葉月は驚いた様な表情で彼を見詰め返す。土井垣は笑顔を見せながら、軽い口調で更に続けた。
「いや、最初は俺もここに夕飯を食いに出てきたんだ。皆に会ってすっかり忘れていたんだ、が今ので俺も腹が減っているのを思い出してな。とはいえ何だか一人で食べるのも味気ないと思っていたから、良ければ付き合ってくれると有難いんだが...」
「でも今回は他に誰もいないんですよ。一緒して本当にいいんですか?何だかご迷惑をかけそうで...」
「そんな事は気にしなくていいさ。むしろ今の様に君とこうして話しながら食べる方が俺にとっては単純に楽しそうだと思うから誘ったんだが...どうかな」
空腹だし、一人で食べるのが味気ないという気持ちも嘘ではないが、それ以上に気持ちが自分に向いていてくれなくてもいい、土井垣は彼女ともう少し一緒にいたかった。心の中に内心祈る様な気持ちを隠しながら軽い口調で更に誘いの言葉を続けると、彼女は少し考える素振りを見せた後、ためらいがちにぽそりと答える。
「そうですか...そう言って下さるなら折角ですからお言葉に甘えさせてもらいます。ただ...」
「ただ?」
土井垣が問い返すと、彼女は悪戯っぽい表情と口調で答える。
「あんまり高いところは止めてくださいね。私の懐でも払える範囲のお店にして下さい」
彼女の表情と言葉に土井垣は誘いに乗ってくれた喜びとその微笑ましさで思わずふっと笑うと、柔らかな口調で言葉を繋いだ。
「了解。じゃあ行こうか」
「はい」
喫茶店を出て、彼女の希望通りある程度の値段で開いている店を捜しながら二人で並んで歩いていると、不意に葉月が口を開いた。
「...そうだ」
「何だい?」
「私、本当の事言うと、土井垣さんと話してて楽しかったんでもう少し話していたかったんですよね。だから誘って下さって嬉しかったです。ありがとうございます」
「あ、ああ...そうか」
「はい」
そう言ってにっこり笑う葉月の言葉と表情に他意はないと分かっていても土井垣は赤面する。赤面しながら彼は、どんな豪華なドレスよりも彼女のこの笑顔が彼女にとって一番のドレスだと思った。高鳴る鼓動を抑え、彼は店を捜しつつもさりげなくそんな彼女の楽しそうな横顔を見詰めていた。
女性達は何かおしゃべりをしつつ近くのファッションビル内のドレスショップに入っていく。店内はダンス用の衣装から本格的なドレスまで所狭しと並んでおり、男である土井垣が入るのに抵抗があるのもそうだが、その品揃えのせいで人が歩くのも一苦労しそうな店構えだった。中に入るのを躊躇しつつも彼女達の様子が知りたくてたまらない彼は、店の前でさりげなく様子を伺っていた。女性達ははしゃぎながらあれこれとドレスを物色していたが、やがてその内の一着を取り上げ、「試着してみよう」と言い出した。試着室は奥にあるらしく女性達は店の奥に入っていく。土井垣は意を決して、彼女達を追って店の中へ入っていった。
「じゃあ、とりあえず宮田ちゃん着てみてくれる?着てみてよければこれも候補に入れるから」
「あ、はい。分かりました」
葉月は先程取り出したドレスを渡され、試着室に入る。少し離れてその様子を見ていた土井垣を店員が不審に思ったのか「あちらの方達のお連れ様ですか?」と彼に尋ねてきた。彼が内心慌てつつも落ち着いた口調で「はい」と答えると、その答え方に店員も納得したのか遠巻きに彼が見ている事をそれ以上は追求しなかった。2~3分程しただろうか、外で待っていた女性の一人が「着られた?」と中の葉月に声をかけると「はい、着られましたけどぉ...」という気弱な声。その声に他の女性が「何か駄目な所あったの?」と聞くと「えっと、駄目な所というか...とりあえず開けますね」という声の後に試着室のカーテンが開く。中から出てきた彼女の姿に彼は鼓動が速くなるのを感じつつも、目が離せなくなっていた。彼女が着ていたのは濃いブルーのロングドレスで、肩などが露である上、均整が取れた肉感的な彼女のボディラインが強調されるデザインだった。元々あまり肌を露出したり、体型がはっきり分かる様なデザインの服は敬遠しているらしく着ている姿を見た事がない彼女だけに、この姿は土井垣にとってかなり刺激が強かったのだ。そして何より刺激が強かったのは――
「似合うじゃない宮田ちゃん。何でそんなおどおどしてるのよ」
「いえ、デザインとかサイズは別にいいんですけど...何だか布地が頼りなくて、着ていて安心できないんです...」
そう、確かにドレスとしては有りなのかもしれないが、彼女の着ているドレスの布地は彼のいる所から見ても、何となく服にしては薄いと思えるものだったのだ。別に肌が透けて見える等という事はないが、それだけに彼女の肉感的な身体が更に際立ち、下手な下着姿や裸よりもエロティックに見え、土井垣は思わず口元を押さえて赤面した。赤面しながらもしっかり彼女を見つめている彼の視線に気がついたのか、葉月は土井垣のいる方に顔を向け、ふと二人の目が合う。彼女はしばし硬直した後、彼よりも更に顔を真っ赤にしてカーテンを突然閉めると試着室に閉じ篭もってしまった。
「ちょっと、どうしたのよ宮田ちゃん!」
不可解な葉月の行動に女性陣は驚いて試着室に篭もった彼女に声を掛ける。しばらくの沈黙の後に、試着室の中から小さな声が聞こえてきた。
「...すいません、とりあえず着替えさせて下さい」
「あ、うん。分かった...」
彼女の行動の訳が分からず狼狽していた女性陣も彼女の言葉にとりあえず落ち着き、彼女が出てくるのを待つ。しばらくして元の服に戻りドレスを片手に出てきた彼女は、赤面しながら泣きそうな声で口を開く。
「すいません...やっぱりこれ恥ずかしくて人前じゃ着られません...」
「...まあ、宮田ちゃんがこれじゃしょうがないわね。じゃあ別のを...って土井垣君じゃない!いつの間にいたの!?」
葉月の口調に彼女の意志が分かった女性陣は彼女からドレスを受け取ると他のものを探すために踵を返し、そこに立っていた土井垣に初めて気がついた。驚いて問い掛ける女性陣に彼はばつの悪そうな口調で答える。
「あ、いえ...この辺りを歩いていたら皆さんがこちらに入っていくのを見かけて、何をしているのかと思ってちょっと...」
「ふうん...ああ、そういう事か」
「何ですか?」
女性陣の一人は土井垣を見ながらにやりと笑うと、何かを含んだ口調で口を開いた。
「このドレスは確かに却下だわ。土井垣君にそんな顔で見られちゃったら、宮田ちゃん歌どころじゃないもんね」
「三隅さん!」
彼女の言葉に土井垣と葉月は真っ赤にしてハモりながら声を荒げる。それをさらりとかわしつつ、三隅は彼に一つの提案をした。
「まあいいわ。土井垣君も付き合ってくれる?今度の演奏会に着る衣装を探してるんだけど、折角だから男性の意見も入れますか」
「あ、はあ...」
生返事をしながら土井垣はちらりと一番後ろについていた葉月に視線を向ける。彼女の方でもその視線に気付いて一瞬彼を見詰めたが、すぐに赤面して顔をそむけてしまった。その行動に彼は先程自分の考えていた事が彼女に見透かされた様な気がして居たたまれなくなったが、他の面々の勢いに圧されて結局衣装選びに付き合った。何着か試した後、最終的にサテン地を基調として襟ぐりに大きなフリルがついたブラウスにメンバーが元々持っている黒のロングスカートを合わせる事で落ち着き、それぞれのサイズでブラウスを注文して買い物は終了した。
「今日はお疲れ様、でも何とか決まって一安心ね」
「じゃあこれで解散だけど、駅までは皆一緒よね...っと、土井垣君と宮田ちゃんは別行動か」
「え?私も皆さんと一緒に帰りますけど」
三隅の言葉に葉月が少しきょとんとして答えると、三隅はにっこり笑って彼女の背中を押し、土井垣に引き渡した。
「いいのよ無理して帰らなくて...はい、土井垣君」
「ちょっと待ってくださいよ、何で私土井垣さんに渡されてるんですか!」
葉月は訳が分からず抗議の声を上げたが、三隅はその様子も気にせず笑顔のまま続ける。
「宮田ちゃんもたまには同じ若い人と過ごしなさい。じゃあ土井垣君、後任せたから」
「はあ」
「ちゃんと姫のご機嫌直してよね」
「...~っ!」
土井垣が赤面するのも気にせず、女性陣は二人を置いて駅の方向へ歩いて行ってしまった。付いていくタイミングを失ってそのまま残ってしまい、彼の傍で居心地が悪そうにしている葉月の背中をポンと叩くと、彼は感情を表に出さない口調で彼女に声を掛けた。
「...とりあえず、近くで茶でも飲もう。俺がおごるから」
「...はい...」
土井垣は黙り込んでいる葉月を近くの喫茶店に連れて行った。コーヒーを頼み、運ばれてきたコーヒーに口をつけ落ち着いた所で、土井垣は黙ったままの彼女に謝罪の言葉を掛ける。
「...さっきはすまなかったな」
「何がですか?」
「いや...あんな風に覗く様な真似をしてしまって...」
葉月も申し訳なさそうな口調で謝罪を返す。
「ああ、いえ...私こそあんな態度を取ってしまってすいませんでした」
「でも君にしたら当たり前の態度だろう?あんな覗かれ方をされたんだから」
土井垣の言葉に、彼女は顔を真っ赤にしながら消え入るような小さな声で反論する様に答えた。
「そうじゃなくて、あの時は違う意味で恥ずかしかったんです...だってあのドレス、着ているって気持ちが全然しなかったんですもの...だからあの時何だか土井垣さんに裸見られた様な気持ちになってしまって...考え過ぎですよね、すいません」
「いや...俺があの時不埒な目で君を見ていた様に感じたのなら、それは申し訳ないと思う」
実際不埒な考えを持ったのだが、さすがにそこまで言う程間は抜けていない。話を一般的なものに置き換えて土井垣はもう一度謝罪した。彼の言葉に葉月は困った様な口調で続ける。
「いえ、それは私が考えただけですから。...えっと...あの、私が言う立場じゃないですけど...もう過ぎた事ですし、何だか果てがなくなりそうですから、これ以上この話で謝るのはお互いやめましょうよ」
「そうだな...確かに果てがなくなりそうだ」
二人はお互いの言葉がおかしくなって楽しそうに笑った。ひとしきり笑うとリラックスしたのか、葉月はゆっくりコーヒーを飲みながら少しうっとりとした表情で口を開く。
「...でもあのドレスはともかく、今日はちょっと幸せだったな。あそこのお店のドレス、仕事で傍を通るたびに見とれてたんですもの」
「...ほう、君もああいうドレスには憧れる方か」
「はい、綺麗なドレスとか着物って見ていると何だか嬉しくて...ホントに着るとなると似合わないだろうし、現実味なさ過ぎて考えちゃいますけど」
「でも、演奏会で着るつもりだったんだろう?ああいうドレスを」
「ああ、それは三隅さん達が何だか盛り上がっちゃったからで...それに足が見えなくて一定の値段で全員分すぐに揃えられるものを探していたら、最初に当たったのがあれだったんですよ」
「そうだったのか...でもな」
「何ですか?」
「君には不本意かもしれないが、結構似合っていたぞ。あのドレス」
「はあ、ありがとうございます」
たとえ不埒な感情を抱いたとしてもこの言葉に偽りはない。その心を受け取ったかの様に先刻とは違い素直にその言葉に応えた葉月に、土井垣は更に偽りない気持ちを言葉に乗せる。
「あのブラウスでも充分華やかだが...きちんとしたドレスや着物を着た姿もそれはそれなりに見たい気もするな」
彼の言葉に、彼女はからりとした明るい声で笑いながらおかしそうにその言葉に応えた。
「あはは、確かに面白い見世物にはなりそうですね」
「いや、そう意味では...」
「いいですよ、無理しなくても。私のドレス姿や着物姿なんて下手な仮装にしかなりませんって」
「...」
「でも...それでもいいから着てみたい気もするんですよね」
先刻のからりと明るい表情をふと変え、困った様に笑う彼女に土井垣はふと真剣な表情になるとゆっくりと口を開く。
「あるじゃないか...君なら」
「でも、うちは演奏会でいつもああいうもの着るわけじゃ...」
「そうじゃなくて...君なら『結婚式』という場があるだろう」
華やかなウェディングドレスを着て微笑む彼女。そしてその隣にいるのは――そんな気持ちを込めながら口にする彼の言葉に彼女は少し考えた後、ポンと両手を合わせてにっこり笑う。
「そうですね。そういえば姉も独身だし、友達だってまだ結構残ってますし...チャンスはまだありますか。でもあんまり派手なのは着られませんよねぇ、むつかしいですよ」
「...」
彼が精一杯真摯な気持ちで発した言葉でも『自分の』結婚式は全く意識しない彼女の辞書にはまだ『恋愛』という言葉はないのかもしれない。まして彼の自分に対する気持ちになど露ほども気付いていないだろう。自分の選んだ道の険しさに思わず土井垣が溜息をつくと、葉月がそれを見て心配そうに声を掛ける。
「土井垣さん、大丈夫ですか?もしかして無理矢理付き合わせたから疲れてらっしゃいません?」
「え?ああ、何でもない」
「そうですか、ならいいんですけ...」
そこまで言いかけた時ふと彼女のお腹が小さく鳴った。
「え?やだもう、すいませ~ん」
彼女が慌てて恥ずかしそうに謝るのを見て、土井垣は自分も夕食を食べに来た事を思い出し、ふっと笑いながら彼女に話しかける。
「...宮田さん、腹が減ってるのか?」
土井垣の問いに葉月は真っ赤になって俯くと小さな声で答える。
「はあ、実は衣装探しに夢中でちゃんとお昼食べてなくって少し...」
「そうか...じゃあこのまま俺と飯を食いに行かないか?」
「はい?」
唐突な土井垣の提案に葉月は驚いた様な表情で彼を見詰め返す。土井垣は笑顔を見せながら、軽い口調で更に続けた。
「いや、最初は俺もここに夕飯を食いに出てきたんだ。皆に会ってすっかり忘れていたんだ、が今ので俺も腹が減っているのを思い出してな。とはいえ何だか一人で食べるのも味気ないと思っていたから、良ければ付き合ってくれると有難いんだが...」
「でも今回は他に誰もいないんですよ。一緒して本当にいいんですか?何だかご迷惑をかけそうで...」
「そんな事は気にしなくていいさ。むしろ今の様に君とこうして話しながら食べる方が俺にとっては単純に楽しそうだと思うから誘ったんだが...どうかな」
空腹だし、一人で食べるのが味気ないという気持ちも嘘ではないが、それ以上に気持ちが自分に向いていてくれなくてもいい、土井垣は彼女ともう少し一緒にいたかった。心の中に内心祈る様な気持ちを隠しながら軽い口調で更に誘いの言葉を続けると、彼女は少し考える素振りを見せた後、ためらいがちにぽそりと答える。
「そうですか...そう言って下さるなら折角ですからお言葉に甘えさせてもらいます。ただ...」
「ただ?」
土井垣が問い返すと、彼女は悪戯っぽい表情と口調で答える。
「あんまり高いところは止めてくださいね。私の懐でも払える範囲のお店にして下さい」
彼女の表情と言葉に土井垣は誘いに乗ってくれた喜びとその微笑ましさで思わずふっと笑うと、柔らかな口調で言葉を繋いだ。
「了解。じゃあ行こうか」
「はい」
喫茶店を出て、彼女の希望通りある程度の値段で開いている店を捜しながら二人で並んで歩いていると、不意に葉月が口を開いた。
「...そうだ」
「何だい?」
「私、本当の事言うと、土井垣さんと話してて楽しかったんでもう少し話していたかったんですよね。だから誘って下さって嬉しかったです。ありがとうございます」
「あ、ああ...そうか」
「はい」
そう言ってにっこり笑う葉月の言葉と表情に他意はないと分かっていても土井垣は赤面する。赤面しながら彼は、どんな豪華なドレスよりも彼女のこの笑顔が彼女にとって一番のドレスだと思った。高鳴る鼓動を抑え、彼は店を捜しつつもさりげなくそんな彼女の楽しそうな横顔を見詰めていた。