深夜に近い都内の道路を土井垣は必死にタクシーを急がせていた。その理由は十数分前に届いたある女性からの一本の短い電話。
『あの子を...救急車で運んだわ』
ほんの数時間前に電話でとはいえ話をしていた恋人が救急車で運ばれた――短かったが彼を急がせるには充分な内容だった。タクシーから降り伝えられた病院の夜間入口のドアの前に来た時、そこには電話を掛けてきた女性が紫煙をくゆらせて立っていた。長い漆黒の髪で意志の強そうな瞳をした、かなりの美人。その女性は彼を見ると煙草を吸殻入れに捨て、鋭い目で呟いた。
「...遅かったわね」
「すいません。それで...あいつの容態は?」
「...その前に、ちょっとあんたに『プレゼント』よ」
そう言うが早いかその女性は土井垣にボディーブローを浴びせかけた。女性の力であるし、プロ野球選手として身体は鍛えている土井垣だが、それでも無防備な状態から護身術を習っている女性に渾身の力で放たれたそれはかなり効いた。女性は咳き込んでいる彼を見つつ、冷たい瞳で更に瞳と同じ冷たい口調で言葉を紡ぐ。
「本当は顔面一発にしたかったけど後で目立つからね。感謝なさい」
「か、感謝って、文乃さん、何で俺はこうされてるんですか...」
殴られた理由が分からない土井垣は息を整えつつ『文乃さん』と呼んだその女性に問いかける。土井垣の問いに、彼女は更に冷たい口調で答える。
「あたしがあの子を運んだって事でまだ分からないの?」
「...まさか、そんなに悪いんですか?」
「...ええ、ある意味ね」
「...?」
「...とりあえずいらっしゃい」
そう言うと文乃は小さく溜息をつき、土井垣を病院の中へ案内した。誰もいない夜間の病院の待合室は補助照明以外消されており暗く、いつもよりも殺風景に感じる。文乃は適当な長椅子に座って彼を無視するかの様に黙ったきりだ。仕方なく土井垣も同じく長椅子に座り、文乃の出方を待つことにした。そうしてしばらく沈黙が続いた後、病院の奥の方から医師らしき男性が歩いて来た。文乃は立ち上がると慌てて男性に駆け寄る。
「先生!妹は...大丈夫ですか?」
文乃の言葉に医師は穏やかな顔で頷いた。
「ええ、発見が早かったおかげでほとんど薬が吸収されないうちに処置できました。後は意識が戻れば安心です。とはいえもう少し遅かったら危ないところでしたよ。お姉さんのお手柄です」
「そうですか...良かった」
医師の言葉に文乃の表情が安堵したものに変わった。医師は安堵した表情を見せる彼女に声を掛ける。
「入院手続きの書類は頂きました。病室へ案内しますがその前に少しお話を頂きたいので面接室へ行きましょう。...ところで、そちらの方も...お身内ですか」
二人の会話が理解できずに立ち尽くす土井垣を見て医師が文乃に問いかける。彼の正体が分かっている上であえて問いかけたのだろう。医師の問いかけに文乃は土井垣を一瞥すると静かな声で「はい」と答えた。医師は頷くと「では一緒にいらしてください」と二人を面接室に案内した。
医師は面接室のソファに二人を座らせ自分も正面に座ると、おもむろに静かな口調で話し始める。
「お姉さんにはもう説明したので分かっているかと思いますが、彼女は精神安定剤と睡眠薬をアルコールで大量服用した事による昏睡状態です。一つ一つの薬剤は少量の上弱いもので、多少多く服用しても安心なものでしたがあれだけ大量に...しかもアルコールと服用していましたから処置が遅ければ命に関わるところでした。幸いにも今回は発見も処置も早かったので、意識が戻れば後遺症もなく回復するでしょう」
「そうですか...」
文乃は静かに医師の説明を聞いているが、土井垣は未だに状況が理解できていなかった。状況が理解できずに戸惑う土井垣と全てを理解する様に静かに話を聞いている文乃を見比べながら、医師は更に言いにくそうに言葉を続ける。
「それから、彼女の左手首には浅いものですが何条かの切り傷の痕がありました。...これは私どもの推測ですし言いにくい話ですが、ここから考えるに彼女は何かに追い詰められて、発作的に自殺を図ったのではないかと思われます」
「自殺...!?」
土井垣は思わず声を上げる。文乃はそれを制すると更に医師の言葉を待つ。医師はあくまで静かな口調で二人に問いかける。
「込み入った話で申し訳ないのですが、お二人に何か思い当たる事はありませんか?...彼女が何か思い詰めていたとか、こうなってしまう様な出来事があったとか」
そこまで言われて土井垣はようやく事態を理解した。しかも、彼女が追い詰められて死のうとまでしたその原因は――
「俺のせいだ...俺が、もっとあいつを守ってやっていれば...」
唇を噛みしめ、拳を握り締める土井垣に医師は静かに、しかしきっぱりと語りかける。
「こうなったのは誰のせいと言う事でもありません。しかしそう思うのは何故ですか」
医師の問いに、土井垣は搾り出す様な口調で言葉を紡ぎ出す。
「彼女はここ数週間、自分との事でマスコミに追い掛け回されていました。彼女だけじゃありません。こちらのお姉さんにも、ご両親までそれは広がっていた様です。そうですね、文乃さん」
「ええ」
「しかし、誰も必要以上の事は話さず、毅然とした態度で接していたと聞きます。だから書かれた記事には根拠のない憶測や、悪意のこもった記事も相当含まれていました。その事は自分も心配していましたが、彼女の『大丈夫』と言う言葉につい安堵してあまり深刻に受け止めなかった上、必要な気遣いを怠っていました。一般人の、しかも身体の弱い彼女にマスコミ攻勢や酷い記事達は相当辛かっただろうに、自分はあいつを守ってやらなかった...」
搾り出す様な口調の土井垣に、文乃は更に言葉を続ける。
「私自身も自分の対応に追われて当事者の妹の事まで配慮をしていませんでした。あの子自身も、自分の事より私や両親の心配の言葉ばかり出していましたから。でも障害と立ち向かう事で自分が周囲に迷惑を掛けるくらいなら身を引くと言うあの子の性格を考えれば、こうしかねない事はもっと早く予知できたはずでした。...そう、今日だってもう一歩であの子のサインを見落とすところだった...」
そこまで言うと、毅然とした態度だった文乃が急に泣き崩れる。医師はしばらく二人を見詰めていたが、やがてまた静かに二人に話しかける。
「お話はよく分かりましたが、そこでお二人が自分を責めたら彼女は更に自分を責めて同じ事を繰り返しかねません。どうか彼女も自分も責める事無く意識が戻ったら彼女には普通に接して下さい。ただ、この後あなた方が彼女にどういった配慮をしなければいけないかは考える必要がある様ですね。彼女にはもちろん、必要ならばお二人にもカウンセラーを付けますので」
医師の言葉に二人は無言で頷いた。医師はそれを見ると静かに立ち上がる。
「それでは病室に案内します。事情が事情ですし、経過観察も兼ねて個室に入れさせて頂きましたのでご了承下さい」
「はい、その方が妹にとってもいいと思います」
文乃は頷くと土井垣と共に立ち上がり、案内されて彼女の病室へ入った。「では、何かあったらナースコールで呼んで下さい」と言い医師が立ち去ると、二人は彼女のベッドに近寄った。点滴を打たれ苦しげに眠る彼女の姿に、土井垣は罪悪感で胸が苦しくなる。文乃も同じ心境なのか、涙は止まっていたものの、硬い表情で妹を見詰めていた。しばらく二人がそうして立ち尽くしていると、彼女がうわごとで「ごめんなさい」と繰り返し呟いた。その言葉の痛々しさと自分の不甲斐なさに、本当なら壁の一つも殴りたい所だが夜中の、しかも病室ではそうもできず、土井垣は気持ちを叩き付けるかの様に右の拳を左の掌に叩き付けた。唇を噛みしめ拳を握り締めたままの彼を文乃は静かに「外へ出ましょう」と促した。
病院の外へ出ると文乃は煙草に火を付け、土井垣にも「あんたもどう?」と差し出した。彼が「いや...俺は吸いませんから」と断ると彼女は苦笑して「そうだったわね」としまい込んだ。ゆっくりと煙草を吸っている文乃に土井垣は口を開いた。
「...文乃さん」
「何?」
「さっきは何で殴られたのかと思いましたが...殴られて当然ですね。俺は文乃さんとの約束を破ったんですから」
沈痛な面持ちで言葉を紡ぐ土井垣に、文乃も紫煙をくゆらせながら呟く様な口調で応える。
「そういう事。...あの子、いくら何でもあんたには色々話してたでしょ」
「ええ。...でも俺を気遣うばかりで俺が何を言っても『自分は大丈夫だ』って言うだけで...いつの間にか俺もその言葉で勝手に安心していた面は否定しません」
「...そう」
文乃は吸っていた煙草を吸殻入れに捨て新しい煙草に火を着け直すと、大きく紫煙を吐いてまた呟く様に言葉を紡いだ。
「...でもね、さっきはああしたけどあたしも同罪だわ。あたしだってあの子があそこまで追い詰められてたって今日やっと分かったんだもの」
「文乃さん」
土井垣が彼女を見詰めると、彼女は煙草を吸いながらゆっくりと言葉を続ける。
「あの子ね、あたしの忙しさを知ってるから業務用兼ねてる携帯には絶対に、家の電話にだって滅多に掛けてこないの。あんたとの騒動があってあたし達に気を回してる時だってそうだった。回数が増えたなとは思ってたけど、携帯にかけないのは同じだったから勝手に安心しちゃって...でも、今から思えば本当はあの頃から相当追い詰められてたのよね。多分」
「文乃さん...」
「今日だって最初は携帯に掛けてきたのは珍しいなって思っただけで、何にも変わらない様に思ってたわ。言ってる事だって同じだった。『あたしのせいで皆に迷惑掛けてごめんなさい』って。でも、その後こう続けたの。『でも、もう全部何とかなるから大丈夫』って...電話を切った後何だか嫌な予感がしてあの子の部屋に行ったら...」
「...」
何も言えず自分を見詰めている土井垣の視線もどうでもいいかの様に、文乃はまた大きく紫煙を吐き出すと誰に聞かせるでもない口調で呟く。
「あたしは姉さんなのよ?...あんなサインじゃなくて素直に『辛いの、助けて』って言えば良いのに。死んじゃったら余計に騒ぎが大きくなる事位分からないのかしら...本当に馬鹿なんだから」
妹を責める様に呟く文乃の目からは、しかしまた涙が零れ落ちていた。土井垣はしばらく何も言えず立ち尽くしていたが、やがて彼も搾り出す様に言葉を紡いだ。
「...それなら俺だって同じです。いや...俺の方がもっと酷い...あいつ、今日俺に同じ事を言っていたんです。しかも泣きながら...かなり酷い扱いを受けたり書かれた物も相当酷い物があったのに...それだけじゃない、『あの事』まででたらめな内容だったとはいえ記事にされたのに、それでも俺はあいつがここまで追い詰められていたなんて全く気付かなかった...いや、気付こうとしなかったんだ...」
「将君...」
「俺があいつを隠していたせいでこうなったのに、それでもあいつは何も言わずに抱え込んで自分で立ち向かってしまう女だって分かっていたのに、俺はあいつに全部を背負い込ませて...偉そうに『彼女は俺が守って幸せにします』なんて文乃さんに約束しておきながら...申し訳ありません!」
土井垣の言葉に文乃は何故かふっと笑うと煙草を消して言葉を返す。
「...もういいわよ。あの子は結局助かったんだし...それにね、あんたと違ってあたしはあの子が生まれた時からの付き合いなのよ。そう簡単に立場を逆転されてたまりますか」
「...」
土井垣が彼女の態度に戸惑い言葉を失っていると、彼女は真剣な表情に戻り吸殻を捨て、毅然とした態度で言葉を続ける。
「でも、いつまでもそれじゃいけない事位分かってるわよね...一度壊れた約束だけど、もう一度約束できる?これから先は両親でもあたしでもない、あんたがあの子を守るのよ。それで、あの子がいつも笑顔でいられる様にして。できないなら、ましてまた傷つけるなら...もう二度とあの子には近づかせない」
文乃の毅然とした言葉に、土井垣は決意を込めた真剣な表情で応える。
「...約束します。今度こそ」
「聞いたわよ。守れなかったら今度こそあたしはあんたを許さないわ」
「はい」
土井垣の真剣な表情に文乃も真剣な表情で頷くと、ふっと顔を緩ませて彼に問いかける。
「じゃあ病室に戻る?それともこのまま帰る?」
「...病室へ。傍にいさせて下さい」
土井垣の言葉に、文乃は言葉を続ける。
「じゃあそうして。あたしは隆君が待ってるし、今日は帰って入院道具揃えてから明日の朝一に来るわ」
「そうですか」
「お父さん達への言い訳がちょっときついけど...まああの騒ぎの後だから何とかなるでしょ」
「文乃さん、あの...」
土井垣に背を向け、軽い口調で伸びをしながら言葉を紡ぐ文乃に土井垣は何か言葉を掛けようとしたが、彼女はそれを制する様に更に言葉を続けた。
「あの子は絶対に幸せにならなきゃいけないの。だからあの子の事...本当にお願いね」
「...はい」
決意を込めた口調で土井垣は文乃の背中に言葉を返した。一度は壊れた約束だが、今度こそは守ってみせる。いや、約束したからではなく、彼女を守るのも幸せにするのも自分でありたい――彼のその想いを感じ取ったのか文乃は振り向いて「じゃあとりあえず中へ入りましょ」と言うと土井垣に向かって柔らかに笑った。
『あの子を...救急車で運んだわ』
ほんの数時間前に電話でとはいえ話をしていた恋人が救急車で運ばれた――短かったが彼を急がせるには充分な内容だった。タクシーから降り伝えられた病院の夜間入口のドアの前に来た時、そこには電話を掛けてきた女性が紫煙をくゆらせて立っていた。長い漆黒の髪で意志の強そうな瞳をした、かなりの美人。その女性は彼を見ると煙草を吸殻入れに捨て、鋭い目で呟いた。
「...遅かったわね」
「すいません。それで...あいつの容態は?」
「...その前に、ちょっとあんたに『プレゼント』よ」
そう言うが早いかその女性は土井垣にボディーブローを浴びせかけた。女性の力であるし、プロ野球選手として身体は鍛えている土井垣だが、それでも無防備な状態から護身術を習っている女性に渾身の力で放たれたそれはかなり効いた。女性は咳き込んでいる彼を見つつ、冷たい瞳で更に瞳と同じ冷たい口調で言葉を紡ぐ。
「本当は顔面一発にしたかったけど後で目立つからね。感謝なさい」
「か、感謝って、文乃さん、何で俺はこうされてるんですか...」
殴られた理由が分からない土井垣は息を整えつつ『文乃さん』と呼んだその女性に問いかける。土井垣の問いに、彼女は更に冷たい口調で答える。
「あたしがあの子を運んだって事でまだ分からないの?」
「...まさか、そんなに悪いんですか?」
「...ええ、ある意味ね」
「...?」
「...とりあえずいらっしゃい」
そう言うと文乃は小さく溜息をつき、土井垣を病院の中へ案内した。誰もいない夜間の病院の待合室は補助照明以外消されており暗く、いつもよりも殺風景に感じる。文乃は適当な長椅子に座って彼を無視するかの様に黙ったきりだ。仕方なく土井垣も同じく長椅子に座り、文乃の出方を待つことにした。そうしてしばらく沈黙が続いた後、病院の奥の方から医師らしき男性が歩いて来た。文乃は立ち上がると慌てて男性に駆け寄る。
「先生!妹は...大丈夫ですか?」
文乃の言葉に医師は穏やかな顔で頷いた。
「ええ、発見が早かったおかげでほとんど薬が吸収されないうちに処置できました。後は意識が戻れば安心です。とはいえもう少し遅かったら危ないところでしたよ。お姉さんのお手柄です」
「そうですか...良かった」
医師の言葉に文乃の表情が安堵したものに変わった。医師は安堵した表情を見せる彼女に声を掛ける。
「入院手続きの書類は頂きました。病室へ案内しますがその前に少しお話を頂きたいので面接室へ行きましょう。...ところで、そちらの方も...お身内ですか」
二人の会話が理解できずに立ち尽くす土井垣を見て医師が文乃に問いかける。彼の正体が分かっている上であえて問いかけたのだろう。医師の問いかけに文乃は土井垣を一瞥すると静かな声で「はい」と答えた。医師は頷くと「では一緒にいらしてください」と二人を面接室に案内した。
医師は面接室のソファに二人を座らせ自分も正面に座ると、おもむろに静かな口調で話し始める。
「お姉さんにはもう説明したので分かっているかと思いますが、彼女は精神安定剤と睡眠薬をアルコールで大量服用した事による昏睡状態です。一つ一つの薬剤は少量の上弱いもので、多少多く服用しても安心なものでしたがあれだけ大量に...しかもアルコールと服用していましたから処置が遅ければ命に関わるところでした。幸いにも今回は発見も処置も早かったので、意識が戻れば後遺症もなく回復するでしょう」
「そうですか...」
文乃は静かに医師の説明を聞いているが、土井垣は未だに状況が理解できていなかった。状況が理解できずに戸惑う土井垣と全てを理解する様に静かに話を聞いている文乃を見比べながら、医師は更に言いにくそうに言葉を続ける。
「それから、彼女の左手首には浅いものですが何条かの切り傷の痕がありました。...これは私どもの推測ですし言いにくい話ですが、ここから考えるに彼女は何かに追い詰められて、発作的に自殺を図ったのではないかと思われます」
「自殺...!?」
土井垣は思わず声を上げる。文乃はそれを制すると更に医師の言葉を待つ。医師はあくまで静かな口調で二人に問いかける。
「込み入った話で申し訳ないのですが、お二人に何か思い当たる事はありませんか?...彼女が何か思い詰めていたとか、こうなってしまう様な出来事があったとか」
そこまで言われて土井垣はようやく事態を理解した。しかも、彼女が追い詰められて死のうとまでしたその原因は――
「俺のせいだ...俺が、もっとあいつを守ってやっていれば...」
唇を噛みしめ、拳を握り締める土井垣に医師は静かに、しかしきっぱりと語りかける。
「こうなったのは誰のせいと言う事でもありません。しかしそう思うのは何故ですか」
医師の問いに、土井垣は搾り出す様な口調で言葉を紡ぎ出す。
「彼女はここ数週間、自分との事でマスコミに追い掛け回されていました。彼女だけじゃありません。こちらのお姉さんにも、ご両親までそれは広がっていた様です。そうですね、文乃さん」
「ええ」
「しかし、誰も必要以上の事は話さず、毅然とした態度で接していたと聞きます。だから書かれた記事には根拠のない憶測や、悪意のこもった記事も相当含まれていました。その事は自分も心配していましたが、彼女の『大丈夫』と言う言葉につい安堵してあまり深刻に受け止めなかった上、必要な気遣いを怠っていました。一般人の、しかも身体の弱い彼女にマスコミ攻勢や酷い記事達は相当辛かっただろうに、自分はあいつを守ってやらなかった...」
搾り出す様な口調の土井垣に、文乃は更に言葉を続ける。
「私自身も自分の対応に追われて当事者の妹の事まで配慮をしていませんでした。あの子自身も、自分の事より私や両親の心配の言葉ばかり出していましたから。でも障害と立ち向かう事で自分が周囲に迷惑を掛けるくらいなら身を引くと言うあの子の性格を考えれば、こうしかねない事はもっと早く予知できたはずでした。...そう、今日だってもう一歩であの子のサインを見落とすところだった...」
そこまで言うと、毅然とした態度だった文乃が急に泣き崩れる。医師はしばらく二人を見詰めていたが、やがてまた静かに二人に話しかける。
「お話はよく分かりましたが、そこでお二人が自分を責めたら彼女は更に自分を責めて同じ事を繰り返しかねません。どうか彼女も自分も責める事無く意識が戻ったら彼女には普通に接して下さい。ただ、この後あなた方が彼女にどういった配慮をしなければいけないかは考える必要がある様ですね。彼女にはもちろん、必要ならばお二人にもカウンセラーを付けますので」
医師の言葉に二人は無言で頷いた。医師はそれを見ると静かに立ち上がる。
「それでは病室に案内します。事情が事情ですし、経過観察も兼ねて個室に入れさせて頂きましたのでご了承下さい」
「はい、その方が妹にとってもいいと思います」
文乃は頷くと土井垣と共に立ち上がり、案内されて彼女の病室へ入った。「では、何かあったらナースコールで呼んで下さい」と言い医師が立ち去ると、二人は彼女のベッドに近寄った。点滴を打たれ苦しげに眠る彼女の姿に、土井垣は罪悪感で胸が苦しくなる。文乃も同じ心境なのか、涙は止まっていたものの、硬い表情で妹を見詰めていた。しばらく二人がそうして立ち尽くしていると、彼女がうわごとで「ごめんなさい」と繰り返し呟いた。その言葉の痛々しさと自分の不甲斐なさに、本当なら壁の一つも殴りたい所だが夜中の、しかも病室ではそうもできず、土井垣は気持ちを叩き付けるかの様に右の拳を左の掌に叩き付けた。唇を噛みしめ拳を握り締めたままの彼を文乃は静かに「外へ出ましょう」と促した。
病院の外へ出ると文乃は煙草に火を付け、土井垣にも「あんたもどう?」と差し出した。彼が「いや...俺は吸いませんから」と断ると彼女は苦笑して「そうだったわね」としまい込んだ。ゆっくりと煙草を吸っている文乃に土井垣は口を開いた。
「...文乃さん」
「何?」
「さっきは何で殴られたのかと思いましたが...殴られて当然ですね。俺は文乃さんとの約束を破ったんですから」
沈痛な面持ちで言葉を紡ぐ土井垣に、文乃も紫煙をくゆらせながら呟く様な口調で応える。
「そういう事。...あの子、いくら何でもあんたには色々話してたでしょ」
「ええ。...でも俺を気遣うばかりで俺が何を言っても『自分は大丈夫だ』って言うだけで...いつの間にか俺もその言葉で勝手に安心していた面は否定しません」
「...そう」
文乃は吸っていた煙草を吸殻入れに捨て新しい煙草に火を着け直すと、大きく紫煙を吐いてまた呟く様に言葉を紡いだ。
「...でもね、さっきはああしたけどあたしも同罪だわ。あたしだってあの子があそこまで追い詰められてたって今日やっと分かったんだもの」
「文乃さん」
土井垣が彼女を見詰めると、彼女は煙草を吸いながらゆっくりと言葉を続ける。
「あの子ね、あたしの忙しさを知ってるから業務用兼ねてる携帯には絶対に、家の電話にだって滅多に掛けてこないの。あんたとの騒動があってあたし達に気を回してる時だってそうだった。回数が増えたなとは思ってたけど、携帯にかけないのは同じだったから勝手に安心しちゃって...でも、今から思えば本当はあの頃から相当追い詰められてたのよね。多分」
「文乃さん...」
「今日だって最初は携帯に掛けてきたのは珍しいなって思っただけで、何にも変わらない様に思ってたわ。言ってる事だって同じだった。『あたしのせいで皆に迷惑掛けてごめんなさい』って。でも、その後こう続けたの。『でも、もう全部何とかなるから大丈夫』って...電話を切った後何だか嫌な予感がしてあの子の部屋に行ったら...」
「...」
何も言えず自分を見詰めている土井垣の視線もどうでもいいかの様に、文乃はまた大きく紫煙を吐き出すと誰に聞かせるでもない口調で呟く。
「あたしは姉さんなのよ?...あんなサインじゃなくて素直に『辛いの、助けて』って言えば良いのに。死んじゃったら余計に騒ぎが大きくなる事位分からないのかしら...本当に馬鹿なんだから」
妹を責める様に呟く文乃の目からは、しかしまた涙が零れ落ちていた。土井垣はしばらく何も言えず立ち尽くしていたが、やがて彼も搾り出す様に言葉を紡いだ。
「...それなら俺だって同じです。いや...俺の方がもっと酷い...あいつ、今日俺に同じ事を言っていたんです。しかも泣きながら...かなり酷い扱いを受けたり書かれた物も相当酷い物があったのに...それだけじゃない、『あの事』まででたらめな内容だったとはいえ記事にされたのに、それでも俺はあいつがここまで追い詰められていたなんて全く気付かなかった...いや、気付こうとしなかったんだ...」
「将君...」
「俺があいつを隠していたせいでこうなったのに、それでもあいつは何も言わずに抱え込んで自分で立ち向かってしまう女だって分かっていたのに、俺はあいつに全部を背負い込ませて...偉そうに『彼女は俺が守って幸せにします』なんて文乃さんに約束しておきながら...申し訳ありません!」
土井垣の言葉に文乃は何故かふっと笑うと煙草を消して言葉を返す。
「...もういいわよ。あの子は結局助かったんだし...それにね、あんたと違ってあたしはあの子が生まれた時からの付き合いなのよ。そう簡単に立場を逆転されてたまりますか」
「...」
土井垣が彼女の態度に戸惑い言葉を失っていると、彼女は真剣な表情に戻り吸殻を捨て、毅然とした態度で言葉を続ける。
「でも、いつまでもそれじゃいけない事位分かってるわよね...一度壊れた約束だけど、もう一度約束できる?これから先は両親でもあたしでもない、あんたがあの子を守るのよ。それで、あの子がいつも笑顔でいられる様にして。できないなら、ましてまた傷つけるなら...もう二度とあの子には近づかせない」
文乃の毅然とした言葉に、土井垣は決意を込めた真剣な表情で応える。
「...約束します。今度こそ」
「聞いたわよ。守れなかったら今度こそあたしはあんたを許さないわ」
「はい」
土井垣の真剣な表情に文乃も真剣な表情で頷くと、ふっと顔を緩ませて彼に問いかける。
「じゃあ病室に戻る?それともこのまま帰る?」
「...病室へ。傍にいさせて下さい」
土井垣の言葉に、文乃は言葉を続ける。
「じゃあそうして。あたしは隆君が待ってるし、今日は帰って入院道具揃えてから明日の朝一に来るわ」
「そうですか」
「お父さん達への言い訳がちょっときついけど...まああの騒ぎの後だから何とかなるでしょ」
「文乃さん、あの...」
土井垣に背を向け、軽い口調で伸びをしながら言葉を紡ぐ文乃に土井垣は何か言葉を掛けようとしたが、彼女はそれを制する様に更に言葉を続けた。
「あの子は絶対に幸せにならなきゃいけないの。だからあの子の事...本当にお願いね」
「...はい」
決意を込めた口調で土井垣は文乃の背中に言葉を返した。一度は壊れた約束だが、今度こそは守ってみせる。いや、約束したからではなく、彼女を守るのも幸せにするのも自分でありたい――彼のその想いを感じ取ったのか文乃は振り向いて「じゃあとりあえず中へ入りましょ」と言うと土井垣に向かって柔らかに笑った。