「...で、いつ?...そう。随分急なんだね...分かってるよ、ちゃんと休ませてもらうから...分かった。とりあえず明日帰るからその時詳しく話聞かせてね。...うん、あたしは大丈夫だよ。お父さんこそ無理しないでね」
 葉月は電話を切ると小さく溜息をついた。複雑な表情を見せている彼女に、傍でお茶を飲みつつ様子を見ていた土井垣が心配そうに声を掛ける。
「お父さんの方から電話だなんて一体何の用だったんだ?まさかお母さんに何か...」
 土井垣の言葉に、葉月は複雑な笑みを見せて首を振った。
「ううん、真逆な話...お姉ちゃんの結婚式が決まったんですって」
「何だ、めでたい話じゃないか。俺も式は呼ばれんだろうが祝い品かご祝儀は用意せんとな。...それはともかく、そんなめでたい話なのにどうしてそんな顔をしているんだ」
 土井垣の問いに、葉月は苦虫を噛み潰した様な表情になって答える。
「まあ嬉しいのは確かだけど...あの二人、去年の秋には籍も入れずにとっくに一緒に暮らしてたのよ。籍はこの間入れたってお父さん言ってたけど、今何月?もう年まで明けて4月よ4月!しかも今更結婚式?順序逆でしょ!...って思えばこんな顔にもなるわよ」
「...いつも思うが、見た目は良く似ているのに性格は全く違うな。お前と文乃さん」
「どういう意味?」
「何と言うか、お前の方が箱入りと言うか...多少古風な所がある」
「何ですかそれ」
 姉が同棲していた事に呆れている所だけを見れば、葉月は確かに古風と言えるかもしれないが、彼女自身土井垣のマンションに泊まる事があり、同時に土井垣をこうして自分の部屋に入れているのも事実である。実際二人はそれなりの関係ではあるので彼女自身も完璧に古風とはいえない。しかしお互いの境界をあいまいにしたくはないと合鍵は作らない、自分の物を土井垣の部屋には絶対に持ち込まないし、土井垣の物も自分の部屋に持ち込ませないなどの行動は今の若者にすればある種かなり古風な意識があるのは確かであろう。
「しかし今話が来たという事は、式はいつなんだ?」
「6月の最後の日曜ですって」
「それはまた急だな。まあ6月の花嫁は女性の憧れだというから」
 土井垣の言葉に、葉月は呆れた様に溜息をつくと口を開いた。
「ジューンブライドね...本家のヨーロッパならともかく、日本は梅雨真っ只中よ?気候最悪なのにどうしてそういう習慣が馴染んだのかしら」
「6月の花嫁の由来は色々あるらしいぞ。俺が昔聞いた話は6月のジューンというのはローマ神話の結婚の女神ジュノーから来ていて、6月に結婚するとそのジュノーの守護で幸せな結婚ができるからそれにあやかってという説だった」
「ふうん...将兄さん博学なんですね。単なる野球馬鹿じゃなかったんだ」
「お前な...」
 心底感心した様な口調の葉月に土井垣はむっとした表情になる。その様子にも気付かず、彼女は土井垣の話にふと考え込む様な素振りを見せると独り言のように呟いた。
「でもジュノーって確かギリシャ神話だとヘラの事よね。...あんな浮気者の旦那持っててしょっちゅう嫉妬に狂ってて浮気相手どころか子供にまで嫌がらせしまくる様な女神様にあやかっても幸せにはなれない様な気がするんだけど...」
「...手厳しいな。お前には『6月の花嫁』という言葉に憧れはないのか」
「憧れも何も、あたしの職場6月は繁忙期のクライマックスで休みなんてあってなきがごとしですもの。今回みたいに身内ならまだ渋々許してもらえるけど、当のあたしが『結婚式挙げるから休暇取ります』なんて言ったら、あたし絶対皆から袋叩きに遭うわ。それ考えたら逆に怖いです」
「...」
 あくまで現実から頭を離さない葉月の思考に土井垣は小さく溜息をつく。普段は素直かつ純朴で下手をすると実年齢より幼く見える性格なのだが、妙な所でリアリストになる彼女の思考は彼には未だに理解不能だ。彼女の不可解な思考に頭を抱えながらも、彼はそれとなく問い掛けた。
「...じゃあ、お前がもし結婚式を挙げるんだったらいつにするんだ」
 土井垣の問いに葉月はまた少し考える素振りを見せると、やがてあっさりとした口調で答える。
「そうね...本当は4月とか5月の気候が好きなんだけど...でも別に何月だっていいな。縁起担ぐより当人の幸せでしょ?本当に好きな人と結婚できるんなら、いつだって幸せになれると思うし」
「それもそうだがな」
 彼女の思考の細部は不可解であったとしても彼女なりの結婚に対する意識には納得できるので土井垣は彼女の言葉に頷く。そんな彼を見ながら、彼女は取り澄ました様な口調で更に続けた。
「それに、将兄さんだって6月はシーズンの大事な時期でしょ?結婚式なんてしてる余裕ないじゃない。...ほら、6月にこだわってなんかいられない」
「それはどういう...」
「そのままの意味ですけど」
「それはつまり...その...」
 あくまでさらりとした口調のため彼女の真意が読み取れず狼狽する土井垣。狼狽しながらもある種の淡い期待をこめて言葉を紡ごうとした時、彼女は今までの流れを全て壊す様な言葉を続けた。
「あたしも将兄さんも6月に結婚式挙げる余裕なんてないですね~。ホント因果な商売ですね、あたし達って」
「...」
 明るい口調ながらもお互いを別々に考えさせる様強調し、今までの流れを全て破壊する彼女の言葉に土井垣は絶句する。お互いどんなに想いを込めた言葉を尽くしていても、肌を合わせる様になってからの葉月が時に冷めた様な寂しげな視線を自分に向ける事には薄々感付いていた。その理由も彼はちゃんと分かっている。しかし彼がどんなに本気で想っていても、彼が自分と付き合っているのはあくまで遊びなのだと思い込もうとする彼女に、理由は分かっていても彼は腹立たしくなって来る。腹立ち紛れに彼女を睨み付けた時、その口調とは裏腹に彼女の見せている笑顔が余りに儚げな事に気が付いた。その儚げな笑顔のため、明るく見せる程に痛々しくなっていく彼女を見詰める彼の視線にも気付かず、彼女ははしゃぐ様にしゃべり続ける。
「でも、女の人はジューンブライドに憧れる人の方が多分大多数でしょうし...将兄さんのお嫁さんになる人が6月の花嫁になりたがる人じゃないといいですね」
「...大丈夫だ。俺が嫁さんにしたい奴は、そういう事は全く気にせん」
「あら、もうそんな人がいるんだ。それじゃあたしなんかとずるずる付き合ってる暇...」
 痛々しい程にはしゃぐ葉月を見ていられなくなり、土井垣は彼女をきつく抱き締めてそれを制した。
「もういい。...それ以上言うな」
「でも...」
「でもじゃない。どうしてお前はいつも自分で自分を奈落へ突き落とす様な考え方をするんだ」
「だって事実でしょう?いくらあたし達がホントはともかく親達にはお見合い話進めた公認のお付き合いしてるって事になってても外部には内密だし、将兄さんならそれ全部ひっくり返せる位立場も見た目も性格も、もっとお似合いの人が周りに沢山いるじゃない。あたしとのお付き合いなんて遊びとしか思ってないでしょ?言われなくてもその辺りはあたし、きちんと心得てるから」
「馬鹿野郎、俺が女と遊びでここまで付き合える程器用な男だと思うのか」
「さあ、分からないわね。案外将兄さん女扱い手慣れてるもの、けっこうできるんじゃないの?」
 葉月のある種冷淡に取れる言葉に土井垣は思わず手を振り上げたが、彼女の顔を見るとその手がふと止まる。彼女の目には涙が溢れていたのだ。
「葉月...」
「...だってそうでしょ?...将さんの言葉も気持ちも信じるのが本当かもしれないわ。...でも、信じてそれがもし全部嘘だったら?...嘘だって分かって傷つくくらいなら、最初から信じない方がいいじゃない...」
 すすり泣く葉月を土井垣はしばらく何も言えず見詰めていたが、やがて先程とは違い優しく包み込む様に抱き締めると、そっと彼女に囁きかける。
「...お前は本当に馬鹿だな。...傷つくのが嫌だと泣いている時点で、お前は俺に心底惚れていると白状したのと同じだぞ」
「違うわ、あたしは...」
「違わないさ。お前が認めたくないだけだ」
 土井垣は真剣な表情で葉月を見詰めると、答えを導き出すかの様に問い掛ける。
「何も考えず言葉に出してみろ。...お前の気持ちはどこにある?」
 土井垣の言葉に、葉月は搾り出す様に言葉を紡いでいく。
「そうよ...あたしは将さんが好き...だけどそこまで好きだって認めたら、絶対その気持ちに溺れちゃう...認めれば楽になるかもしれないけど...気持ちに溺れるのは絶対嫌」
「...ほら、分かっているじゃないか。少なくとも俺に惚れているのは確かだ」
「...」
「俺も同じさ。気持ちに溺れるかどうかはともかく、俺もお前に心底惚れている」
「そんなの嘘よ...」
「嘘だと思うなら今はそれでもかまわんが...俺は本気だ。ほんの少しでもいい、俺を信じられないか?」
「...信じるのはものすごく怖いの...でも信じたい気持ちもあるのよ...」
 弱々しい口調で答える葉月に土井垣はふっと笑って彼女の頭を撫でる。
「...期待は持てるという事か。だがな、俺にも意地がある。絶対に信じさせてやるからな」
「...」
 二人に気まずい沈黙が訪れる。長い沈黙の後、それを破るかの様に土井垣が口を開いた。
「...しかしこう思うと、お前こそ『6月の花嫁』になるべきだな」
「どうして?」
 唐突な土井垣の言葉に黙っていた葉月は釣られたのか不思議そうに問い掛ける。彼は明るい口調で言葉を続ける。
「お前はさっき『本当に好きな相手ならいつだって幸せになれる』と言ったが、お前の性格だと本当に好きな奴と結婚できたとしても、絶対不安になるな。不安が多い人間こそ、こういう縁起を担いで、幸せになれるんだという安心を作った方がいいという事さ」
「縁起担いでも迷信だって思ってたら意味ないと思うんだけど...」
「迷信だって時に真実になる事もある。時には迷信に頼るのもいい手だ」
「そうかな...」
 腑に落ちない表情をする葉月に、土井垣はさらりと言葉を紡ぐ。
「花嫁に将来の幸せを不安がられる花婿程きついものはないからな...お前が幸せを疑わなくなる様にするためなら、俺は何でもするぞ」
 土井垣の柔らかではあるが真剣な表情と口調に、葉月はほんの一瞬じっと彼の目を見詰めると、ふと目をそらして話題を変える様に提案した。
「...そうだ将兄さん、いいお酒があるんですけど一緒に飲みません?勝彦おじ様が下さったんですけど、あたしだけじゃおいしい内に飲みきれないだろうし、何よりお姉ちゃんへの祝い酒に付き合って欲しいのよね」
「そうだな、有り難くもらうとしよう。文乃さんの幸せを祈って...ついでに俺達の未来の幸せも祈って乾杯といくか」
「...ありがとう」
 彼の言葉に彼女は泣き笑いではあるが翳りの消えた微笑みを見せると、冷蔵庫から日本酒を取り出した。