ベルリンの片隅を、一人の男が歩いている。東洋人らしく、また顔立ちが端整であるためそれだけでも充分人目を引く存在ではあったが、更に映画に出て来るような忍び装束を身に纏っているため、人々の視線を一身に受けていた。しかしその男は道行く人々の視線など意に介さぬ風情である。いや、意に介してなどいられなかったのだ。彼はある男を探していた。ドイツを代表する超人であり、彼の元敵であり、そして今では大切な戦友である男を――。街を歩いている内に街中から少し外れたいかがわしい酒場が並ぶその通りで、彼は尋ね人を見つけた。彼は酔いつぶれて路地に倒れているその男に声をかける。
「久しいな…ブロッケンJr.」
 自分の通り名を呼ばれたブロッケンJr.は、どんよりとした目を彼に向け、すぐにその男─――ザ・ニンジャの姿を認めると起き上がり、口を開いた。
「…何しに来た」
「風の噂でお主の話を聞いてな…話もあった故、様子を見に来た」
「…で?噂通りで失望したか」
「…」
 失望こそしなかったが、彼が大きな衝撃を受けたのは事実である。大体の様子は聞いていたがここまで酷いとは思っていなかった。自分が知っているブロッケンJr.はこの様な男ではない――無言で自分を見詰めるニンジャに、ブロッケンJr.は飲んでいたワインを差し出す。
「どうだ?安もんだけどうまいぜこのワイン」
「…洋酒は飲まぬ故、遠慮しておく」
 やっとの事でそれだけ言ったニンジャを見て、ブロッケンJr.はおかしそうに、しかしどこか乾いた笑い声をあげる。
「そうだろうな、こんな飲んだくれの勧める酒なんか飲みたくねぇよな」
 乾いた笑いをあげる彼が見ていられなくなり、ニンジャは尋ねる。
「…楽しいか?」
「…ああ楽しいさ、何も考えずに好きに暮らしてるんだからな」
「…」
 分かっていた答え。しかしそれでも聞かずにはいられなかった問い。ニンジャは彼を殴ろうかと腕を振り上げたが、どんよりとしているがどこか寂しげに自分を見上げた彼の瞳を見ると、無言で彼を抱き締めた。
「…何で殴らねぇんだよ」
「…殴ってどうにかなる、というならばいくらでも殴るが…拙者にはお主が痛々しくて殴れん…」
「…」
 ブロッケンJr.は彼に抱かれたまま動かなくなり、二人はそのまま沈黙する。ゆっくりと時が流れていき、そしてどの位経ったのだろうか。ブロッケンJr.は身体を離すと虚空を見詰め、誰に話す訳でもなくぽつり、ぽつりと言葉を零していく。
「…平和になったらやろうと思ってた事はたくさんあったさ。でもよ、実際やってみるとひどく退屈なんだ…」
 ニンジャは答えない。答えない事で彼にすべてを吐き出させようとしていた。それを知ってか知らずか、ブロッケンJr.は更に続けた。
「退屈な毎日の中でつくづく思ったよ。…俺は戦うしか能がねぇ上に、それ以外の道ってのを本気で考えた事がなかったんだってな…かといってはいそうですかって新しい道が見つかる訳でもねぇ。…そんな毎日を過ごすには飲むしかねぇだろ?」
「…そうだな…」
「分かったらもういいだろ。こんな飲んだくれに付き合ってる暇があったらとっとと帰った方がいいぜ」
「いや…帰る訳には行かないな」
 自分の背中を押し、立ち去らせようとするブロッケンJr.にニンジャは真剣な眼差しを向け、ある『提案』を出す。
「『戦うしか能がない』…ならば、もう一度戦いの中に身を置いてみる…というのはどうだ」
「『戦いの中に』?」
 彼は今自分達がやらんとしている事を簡潔に話した。全体的には平和でも、まだ宇宙には悪事を働く超人がいる事、そうした者達を捕まえるための組織が必要であり、今その編成を行っている事、そしてその組織には腕が立ち、そして何より信頼できる仲間――つまりブロッケンJr.が必要な事。
「お主の力が必要だ、とアタル殿も申しておる。戦う事しか能がないというならば、ここでその力、存分に発揮すれば良い。その中で新たな道も生まれよう…拙者の様にな」
「…」
「…どうだ、乗らぬか」
 ブロッケンJr.は彼の話をじっと聞いている様であったが、無言でまたワインを一口飲むとぽつりと答えた。
「…悪い、行けねぇ」
「ブロッケン…」
「戦う事しか能がねぇ奴ってのは、いつも戦いを求めちまうんだよ。それはいつか自分が望もうが望まなかろうが、戦いを引き起こしちまうって事に繋がりかねねぇんだ。…お前なら分かるだろ?」
「…」
 悪魔騎士時代の自分を思い、ニンジャは沈黙する。その沈黙が答えとなり、ブロッケンJr.はさらに言葉を返す。
「野たれ死んじまっても文句は言わねぇ。俺は戦いの中でなく、退屈だと思っちまってるこの場所で、道を見つけなきゃいけねぇんだ…だから行けねぇ。俺の事忘れねぇでいてくれたのは嬉しいけどよ…ほっといてもらえねぇか」
 そう語る瞳が一瞬かつてのブロッケンJr.のものに戻る。まっすぐで一片の迷いもない澄みきった瞳。そう、敵同士として出会い戦ったあの時から自分の心を捕らえて離さない瞳――ニンジャは微笑みを浮かべると口を開く。
「…やはり拙者も相伴に預かっていいか?」
「洋酒は飲まねぇんじゃなかったか?」
 意地悪っぽいブロッケンJr.の言葉にニンジャはさらりと返す。
「食わず嫌いは忍びとして失格だからな」
「酒くらい食料から外せよな。こういうもんは楽しんで飲むもんだぜ」
「…ほう?無為に時を過ごす友として飲んでいる者の言葉とは思えんな」
「悪かったな」
 ふくれながらもブロッケンJr.はワインのビンを差し出す。
「…グラスがねぇけど…いいか?」
「かまわん」
 ニンジャはブロッケンJr.からビンを受け取ると直接口をつけ一口飲む。彼がこのワインを選んだのは偶然だろうが、口の中に広がる程よい甘みと酸味にニンジャは彼の気持ちがふと重なる様な気がした。
「…うまいな…」
「だろ?」
 ブロッケンJr.が無邪気な子供のように嬉しそうに笑う。と、その表情がふと翳った。
「…この酒が心底うめぇと思える日が…来るのかな…」
 そう言うとブロッケンJr.はそのままニンジャにもたれかかり、静かな寝息をたて始める。ニンジャは彼を抱き上げると彼の屋敷に向かって歩き出した。
「…来るさ、お主なら。…その時は拙者の秘蔵の酒も持参する故、共に飲もう。お互いのかつてを肴に…な」