「はい、宮田さん。バレンタインはおいしいお菓子ありがとうね」
「え?ああ、ありがとうございます藤川先生。ご丁寧に」
 昼休みの都内にある小さな病院付属の事務室。老齢のドクターが昼食を取っていた女性にお菓子を渡した。渡された歳若い女性は嬉しそうに微笑んでラッピングされた小さな箱を受け取る。今日はホワイトデー。義理、本命問わず男性からのバレンタインのお返しが飛び交う日でもある。箱を受け取って嬉しそうにバッグへとしまう女性に『藤川先生』と呼ばれたドクターは更に声を掛ける。
「宮田さん、今ここに二人しかいないから遠慮なく聞くけど、正直な所、宮田さんには誰かいい人はいないのかい?確かに僕らにバレンタインのお菓子をくれたのは嬉しかったんだけど、他に本命らしいものをあげてる気配なかったからちょっと気になってね」
 藤川ドクターが投げた直球の問いに『宮田さん』と呼ばれた女性――フルネーム宮田葉月――はまたにっこりと微笑むと明るい声で答える。
「何おっしゃるんですか。先生には保健師として大変お世話になっていますっていう感謝の気持ちを沢山込めたんですからそういう意味では本命ですよ。それに私は仕事で精一杯ですし、第一こんな忙しい仕事で恋愛なんて考える暇はありませんって」
「そうなのかい?もったいないねぇ…こんなに可愛くて良い子なのに…まあそれに見合う男の人じゃないと僕も認めたくないけどね」
「ありがとうございます。先生にそう言って褒めてもらえるだけで充分嬉しいです…そうだ、お茶いれましょうか?」
「ありがとう。頂くよ」
 葉月は藤川ドクターの問いをはぐらかすかの様に話を変えるとお茶を淹れにかかった。彼の位置からは見えない角度で小さく溜息をつきながら――

「はい、宮田ちゃんお返し」
「わ~い、ありがとうございます沼田さん!」
 多少残業をしたものの仕事時間が終わり、帰ろうとしていた葉月に今度は渉外職の沼田がクッキーの袋を渡す。葉月は上機嫌にこれもバッグに入れた後、タイムカードを押して事務所の残った人間に挨拶をする。
「じゃあ今日はこれで失礼します。お疲れ様でした~」
 一礼して帰ろうとした時に沼田がもう一度彼女を呼び止めた。
「宮田ちゃん、あと少しで僕も仕事終わるからもうちょっと待っててくれる?用があるから少し話がしたいんだけど」
「え?ああかまいませんけど…じゃあ待ってます」
「ありがとね」
 沼田はそれから10分程作業をした後、仕事を終わらせてタイムカードを押し彼女と外に出ると、近くの喫茶店に彼女を入れた。コーヒーを注文すると沼田は唐突に彼女に話しかける。
「…宮田ちゃん、今日何だかおかしかったけど、どうしたの?」
「そうですか?私としては別にいつもの『微笑みの夜叉姫』だったと思いますが」
「ま~た宮田ちゃん周りのジョークを真に受けて…まあ冗談は抜きにして、笑ってるのとかそれでも仕事に厳しいのとかはいつもの事だけど、その笑顔がどっか変だったよ」
「はあ…でもいつも通りですよ私は」
 明るい口調で答える葉月に、沼田は更に核心を突く問いをかける。
「…ねえ、宮田ちゃん。土井垣ちゃんにはもちろんチョコあげたんだよね」
 沼田の問いに彼女は一瞬こわばった表情を見せたが、すぐに笑顔に戻して答える。
「あげてませんよ~。バレンタインの時期、土井垣さんは春季キャンプ中ですよ?休んでまであげに行く暇なんて私にはないですし、それ以前に仕事場に部外者が勝手にずかずか入り込むのは良くないでしょう?」
「それはそうかもしれないけどさ、今なら宅急便とかあるじゃん」
「それも考えましたけど、宅急便は悪くなりそうで嫌なんですよ。だから土井垣さんには悪いですけど毎年あげない事で納得してもらってるんです。それに」
「それに?」
「一年初めの一番大事な時なんですから、土井垣さんには今の時期は野球だけに専念してもらいたいんですよ。私は野球の事は何にも分からないですから、あんまり気を散らさない様にするとかしかしてあげられる事ないですし…その代わりオフの時期のクリスマスとか、シーズン中ですけど誕生日とかにその分返してますから」
「…そう」
「はい」
 あくまで明るい口調と表情で、しかしいつもよりかなり饒舌に答える彼女に沼田は複雑な表情を見せたが、やがて静かな口調で口を開く。
「…まあ、宮田ちゃん達が納得してるなら僕から何も言う事はないんだけどね」
「はい、大丈夫ですよ」
「でも、宮田ちゃん明るく見えて何だか泣きたそうな感じだったから心配しちゃったんだ。まあ取り越し苦労ならよかったよ」
 沼田の温かな心遣いに葉月は静かな感謝を込めて微笑みながらお礼を言う。
「ありがとうございます…沼さん」
「どう致しまして。さあ、コーヒー飲んだら出ようか。たまにはうちでご飯食べなきゃね」
「はい」
 葉月は沼田と別れるとマンションに戻るために地下鉄に乗る。地下鉄の中で彼女は先刻の沼田との会話を思い出し、少し胸苦しさを感じていた。
『…本当に鋭いのよね沼さんは…』
 本当のところ土井垣と付き合いだしてからの彼女は、バレンタインデーとホワイトデーが大嫌いになっていた。本当は土井垣と甘い時間を過ごしたいが、この時期が一番大切なプロ野球選手の彼には無理な話。沼田に言った通り手渡すためにキャンプ先に行くほど休める時間はこの時期多忙な彼女にはないし、そうでなくとも部外者の自分が彼の仕事場であるキャンプ先に入り込むのは、社会人としてマナー違反だと彼女は思っている。かといって宅急便などでは他のファンと一緒にされてしまいそうで嫌だった。ましてホワイトデーの時期は、開幕直前のオープン戦真っ盛り。甘い時間など過ごせるはずもない。どんなに野球に疎い彼女でも、バレンタインやホワイトデーで浮かれていられる程プロの世界は生易しいものではない位分かる。何もできないならせめて邪魔にならない様にしようと決心し、渋る土井垣には『バレンタインばっかりがイベントじゃないでしょ?大切な時期だから野球に専念して。ごめんなさい』と正直に話して無理矢理納得して貰っているのが現状なのだ。しかし、それは彼女にとっても辛い事だった。昼の藤川ドクターの言葉も心に浮かび上がってきて、彼女は更に胸が苦しくなるのを堪えながら地下鉄のドアにもたれていた。

「雪だ…」
 地下鉄を降りて出口から出ると、外ははらりはらりと雪が降っていた。東京で3月半ばに近くなって雪というのも珍しいと思ったが今日にはぴったりの様な気がした。
「ほんと、正真正銘の『ホワイトデー』よね…」
 彼女はしばらく雪を見上げていたが、いつの間にか涙が零れて来た。
『将さんに会いたいよ…』
 静かに降る雪に紛れて出てきた本心。本当はものすごく会いたいし、切なくて胸が潰れそうだ。しかしそう思う事は我侭だと言う事は分かっている。彼女は涙を拭うと自宅マンションに向かって歩き出す。
『大丈夫、シーズン中でもオフでも会えるじゃない。こういうイベントだからって一緒に過ごさなきゃいけない義務はないんだし。寂しいなんて我侭言ったら将さんに悪いもの』
 強がりだとは分かっている。でも強がりに頼らなければ潰れてしまいそうだった。そんな思いを抱えながら自宅マンションの前に来た時、そこに立っていたのは――
「…何で…?」
 驚く彼女に立っていた土井垣はばつの悪そうな表情を見せて答える。
「いや、今日はデーゲームだったから夜に少し間ができてな…試合場所も近かったし…気がついたらここへ来ていた」
 土井垣のばつの悪そうな表情に、彼女は咎める様なある種冷淡な口調で声を掛ける。
「大事な時期に監督が何やってるんですか、土井垣さん」
「大事な時期だからこそお前に会いたくなったからここへ来たんだ。悪いか」
 照れ隠しの様な愛想のない土井垣の言葉に、彼女は咎める様な表情から苦しげに顔を歪ませると、また大粒の涙を零す。
「将さんの馬鹿。…大事な時期に、あたしの事なんて思い出してちゃ駄目よ…」
「どうしてだ?…俺はお前の仕事への姿勢を思い出すと自分も頑張らなければと身が引き締まるし、お前の笑顔を思い出すと気持ちが安らぐんだ…それじゃいかんのか?」
「わかんない…でも」
「でも?」
 土井垣の言葉に葉月は呟く様に口を開く。
「…将さんはずるいわよ」
「ずるい?」
「あたしは将さんに負担かけたくないから我慢して会わない様に、連絡もあんまりしない様にって頑張ってたのに、将さんはこんなに簡単に会いに来ちゃって…ほら、ずるい…」
 大粒の涙を零してしゃくり上げながら駄々っ子の様な、しかし甘い不満をこぼす葉月を土井垣はゆっくり力強く抱き締めると、その耳元にそっと囁いた。
「そうか…お前はお前なりに俺に気を遣って頑張っていたんだな。…それなのに、それをぶち壊す様な真似を俺はした訳だ…すまん」
 土井垣の囁きに葉月は彼の胸の中で頭を振り、小さな声で呟いた。
「ううん…勝手にやってるのはあたしだから…だからこうやって将さんが来てくれて嬉しいの。だって、あたしものすごく将さんに会いたくなってた」
「そうか」
 二人はしばらく抱き合っていたが、やがて葉月から身体を離し、手の甲で涙を拭うと遠慮がちに問いかける。
「…ねぇ、将さん。もうちょっと…もうちょっとだけ一緒にいられる?」
「ああ」
 遠慮がちな葉月の問いに土井垣が柔らかな笑顔で答えると、彼女は嬉しそうに微笑んで少しはしゃぐような口調に変わり、言葉を重ねる。
「じゃあ、この先の喫茶店でお茶飲みましょうよ。そうだ、ホワイトデーだからケーキセットで」
 はしゃぐ彼女を土井垣は微笑ましそうに見詰め、一旦は頷いたが、やがて少し考える様な素振りを見せると、柔らかな口調で問いかける。
「そうだな…いや、葉月は飯をもう食ったのか?」
「ううん、まだ」
 葉月が答えると土井垣は更に柔らかな微笑を見せ、表情のままの口調で更に言葉を紡いだ。
「じゃあ折角だから食事をしよう。それくらいの時間なら充分ある。それで…話そう。会えなかった時の事をゆっくりな」
「…ん」
 土井垣の言葉に葉月ははにかみながら小さく頷くと、二人は手を繋いで歩き出す。歩きながら彼女は悪戯っぽい口調で土井垣に声を掛ける。
「そうだ、将兄さん」
「何だ?」
「食事はいいけどお酒はNGよ。車で来たんでしょうし、そうじゃなくても明日また試合あるんでしょ?」
「う…」
 言葉を詰まらせる土井垣を見て葉月は楽しそうに笑うと、その笑顔を幸せそうな微笑みに変え彼に寄りそう。その間も雪は静かに降り続いていた。