「土井垣さん」
「何だ」
「…何でもないです」
嬉しさですっかり緩んだ顔で、不知火は自分のためにお茶をいれてくれている土井垣を見つめている。しかし、彼の角度からは見えない土井垣の表情は苦虫を噛み潰したもの。今は冬のオフ。不知火にとってはチームもホームも遠く離れてしまい、バッテリー時代の様に頻繁に会えないのだからこうしてまとまって会える時間が貴重だと思っての「来ちゃった☆」だったのだが、オフになり、監督としての仕事があるため短いが休暇もまとまって取れたから久しぶりにゆっくり過ごそうかと思っていた矢先に押しかけられた土井垣にとっては、休みを邪魔されて迷惑以外のなにものでもなかったのだから無理もない。実際彼が来た時の夜といったら…という妖しい事は置いておき、土井垣は苦虫を噛み潰した表情のままだが茶菓子と彼お気に入りの銘柄のお茶を盆に乗せて不知火のいるリビングに入って来ると、お盆をテーブルに置きごく自然に不知火の横に座る。怒っていながらもちゃんと自分の横に座る土井垣に不知火の顔がまた緩む。
「…ほら、茶だ。飲んだらさっさと帰れよ」
 不機嫌な表情と声のままお茶を不知火に渡す土井垣に、不知火はしれっとした態度で言葉を紡ぐ。
「嫌です。今日は帰りませんから」
「お前、我侭を言うのもいい加減にしろ」
「本当は会ったらすぐ帰ろうと思ったんですけど、こうして俺の隣に座ってくれたんで気が変わりました…今日は土井垣さんと一緒にいたいです」
 そう言うが早いか不知火は土井垣を抱き締める。土井垣は始めのうちこそ抵抗してもがいていたが、その内おとなしくなった。しかしそれは抵抗を諦めたからではなく、いつもの不知火とどうも様子が違うと感じたからだった。土井垣は彼に抱かれたまま、その気づいた事を口にする。
「守…お前、いつもより熱くないか」
「それは土井垣さんとこうしているから…」
「茶化すな。良く顔を見せろ」
 そう言うと土井垣は不知火の腕から抜け出し不知火の顔をまじまじと見ると、いつもより赤いその顔の額に自分の掌を付ける。
「…やっぱり。…お前熱があるぞ」
 土井垣の言葉に不知火は緩んだ表情のまま、おそらく熱のせいだろう間の抜けた声で反論する。
「そんな事ないですよ。今だって土井垣さんといるのが嬉しくて体が浮き上がる感じがするくらい気持ちがいいんですから」
「馬鹿野郎!それは熱のせいだ!…仕方ない、とりあえず俺のベッドで寝ていろ」
 自分が風邪をひいているのには気が付いてはいないが、土井垣が自分の事で心配してくれるのが嬉しくて不知火は思わずからかいたくなり、熱で間が抜けてはいるが、悪戯っぽい口調で土井垣に囁く。
「後で土井垣さんが来てくれるんですか?」
「行くか!…とにかく着替えて寝ろ。パジャマや下着はお前のやつを使えよ」
「はい」
 …何故土井垣のマンションに不知火の下着やらパジャマやらがあるのかは深く追求しない様に。不知火はパジャマに着替えて土井垣のベッドに横になると、土井垣は水をベッドサイドのテーブルに置き、不知火に体温計を渡して熱を計らせた。
「37度6分…少し高いな、ここから歩いてすぐの所に俺のかかり付けのクリニックがあるが…朝になったら行くか?」
 土井垣の言葉に不知火は寝たまま首を振る。
「いえ、それ位なら医者に行くほどでもないと思いますから…土井垣さん、市販の風邪薬持ってましたよね。あれでいいです」
「そうか、じゃあそれを飲んでおとなしくしていろ。…っと、その前に胃に何か入れないといかんかな。吐き気はないか?」
「はい」
「そうか…しかし消化のいいものの方がいいだろうな…何にするか」
 土井垣の言葉を熱で頭がぼんやりしている割にしっかり聞き逃さなかった不知火は、甘えたい気持ちが湧いてきて今度は少し我侭を言ってみる。
「土井垣さん…俺、お粥が食べたいです」
「お粥?…まあ病人にはそれが定番なんだろうが俺は…そうだ、コンビニのレトルトでいいか?」
「嫌です」
「何故だ。お粥が食べたいと言ったのはお前だろう」
「俺は『土井垣さんの作ったお粥』が食べたいんです。他のじゃ意味がありません」
「…」
 土井垣は溜め息をつく。大抵の事では我侭を言わない不知火だが、言い出すとてこでも動かない程強情である事は良く分かっている。しかもこういう我侭は無意識なのか故意犯なのか大抵断らない、あるいは断れない状況に追い込んでから発するので性質が悪い。今も相手は病人なのだからなるべく言う事を聞いてやろうと仏心を出していた矢先であり、土井垣の心中としては何となく断りがたかった。しかし実際の所土井垣はあまりお粥が好きでないせいもあり、作り方を知らないので作れないのだ。散々悩んだ末、土井垣は助けを借りる事にした。

『もしもし…あ、土井垣さんですか』
「ああ、山田か。いてくれて助かった。ちょっと聞きたい事があるんだが…」
『何ですか?』
「うちに来た親戚の奴が風邪をひいてしまってな。お粥を食べたがっているんだが、レトルトは嫌だと言ってな。…すまんが作り方が分からないから教えてもらえないか?」
『ああはい、いいですよ』
 土井垣は山田から作り方を教わりながらメモし、さらに分からない所を詳しく聞いてとりあえず頭に叩き込んだ。
「…すまなかったな急に。でも助かった。じゃあ来年のキャンプで会おう」
『はい、『親戚の方』にお大事にって伝えて下さいね』
「…ああ、分かった」
 受話器を置くと土井垣は脱力した。あの口調からすると、どうやら山田には『親戚』が誰だかばれているらしい。情報源はおそらく里中あたりなのだろうが…まああからさまに言わないのが彼の優しさなのだが、その優しさも土井垣にとっては針のむしろにある意味近かった。何せ明訓時代、始終べたべたしている(様に見えた)山田と里中を「たるんどる!」としばしば説教していた自分が同じ様な状況に陥っている(と土井垣は思っている)のだから彼にとってはある意味まっとうな意識かもしれない。彼は大きく溜息を付くと、キッチンに向かった。

「…とりあえず作ってはみたが…」
 土井垣は目の前の小さな土鍋に出来上がったお粥と一緒に作った彼特製のスープに目をやった。熱があるから水分を多くとるほうがいいと思ったのと、万が一お粥が食べられない代物だった時の事を考え、作り慣れていて不知火の好物でもあるものを一緒に用意したのだ。
「…あまり食った事がないからうまいのかまずいのか今ひとつ分からんからな…まあ、あいつの要求には応えたんだからこれで我慢してもらおう」
 土井垣は土鍋とスープを入れた皿を乗せたお盆を持って寝室に入る。不知火は今まで熱のせいでまどろんでいたようだが、ドアを開ける音で目を覚ましたのか、ゆっくりと目を開けると土井垣の方を見て嬉しそうに顔を緩める。
「…本当に作ってくれたんですね。それに俺の好きなスープまで…」
「お粥を作るのは初めてだからな。食えるかどうかは保障しないぞ」
「大丈夫ですよ、おいしそうな匂いですし…それに、土井垣さんの初物を俺が残すはずないでしょう」
「おま…とにかく食え!」
 相変わらず土井垣にとっては気恥ずかしい言葉を連発する不知火だが、熱で潤んだ目で言われるとどうも怒る気力が失せる…というか可愛いとすら思ってしまう自分を土井垣は律するように厳しい口調のまま(実際はいつもの十分の一の迫力もないのだが)お盆をサイドテーブルに乗せる。しかし不知火はお粥に手をつけるどころかベッドから起き上がりもしない。不審に思った土井垣は彼に声をかける。
「どうした、起き上がれない位辛いのか?」
 不知火は土井垣の言葉に首を振ると、横になったまま口を開いた。
「土井垣さん、食べさせて下さい」
「何ぃ!?」
「熱のせいか、何となく手に力が入らないんですよ。こぼしてしまいそうで…だから食べさせて下さい」
「…」
 不知火の言葉がどこまで真実か分からないので土井垣は不審そうな表情のまま不知火を見詰めて沈黙する。沈黙した彼を見て、不知火は熱で潤んだ目を上目遣いにして彼を見つめ、更に問いかける。
「…駄目ですか?」
 不知火の表情と言葉に、土井垣は目の前の彼がふと里中と重なる。しかし、土井垣は里中のこういう行動は彼が無意識にやっている事は分かっているにしてもどうも苦手なのだが、今不知火が同じ事をしているのに苦手意識は感じない。むしろ言う事を聞いてやろうという気になってしまっている。彼は山田が里中の我侭を断れない心理が根本的にではないが、うっすらと分かった様な気がした。
「…仕方ないな」
 土井垣の溜息まじりの言葉に不知火の表情が明るくなる。彼の表情に土井垣は苦笑すると、更に声をかけた。
「とりあえず起きられるか?寝ながら食べるのは少しきついだろうし、むせやすいからな」
「はい」
 不知火はゆっくり起き上がると熱でぼんやりとした表情だが嬉しそうに緩んだ顔で土井垣の方に顔を向ける。土井垣はまずお粥を一さじよそると彼の方へ持って行く。
「熱いからな、良く冷ましてから口に入れろよ」
 その言葉に不知火は緩んだ顔のまま更に(土井垣にとっては)爆弾発言を落とした。
「土井垣さんが吹いて冷ましてください」
「な…」
 不知火の発言に土井垣は思わずお粥をこぼしそうになるのを必死にこらえ、土鍋にレンゲを戻すと、相変わらずいつもより迫力のない状態ながら声を荒げる。
「吹いて冷ますくらい自分でできるだろう。我侭もいい加減にしろ!」
「…はい」
 いつもの迫力はないにせよ土井垣に怒られて、不知火は何となくしゅんとした様子になる。土井垣は土井垣でいつもなら多少怒られても平然としてくっついてくるはずであり、ついさっきまで熱はあるにせよ確かにいつもの通りだった不知火の意外な反応に狼狽する。何となく気まずい沈黙が続いたが、しばらくして土井垣がゆっくりと口を開く。
「…今日だけだぞ」
 その言葉にしゅんとしていた不知火の表情が明るくなる。相手は病人なんだ、気が弱くなるのも無理はないだろうし、そういう時はなるべく言う事を聞いてやった方がいいのだと自分に言い聞かせてみる土井垣だが、心のどこかで不知火にはめられた様な気もしないでもなかった。でも不知火が嬉しそうにしているのを見ていたらそのうち彼はどうでもよくなった。何故どうでもよくなってしまったのかは分からないが、病人に優しくするのは当然の事だという事で何となく自分を納得させた。
「…どうだ、食えそうか」
「大丈夫ですよ。すごくおいしいです」
 土井垣が冷ましてやりながら不知火の口にお粥とスープをゆっくり運んでやると、不知火は緩んだ表情でそれを口に入れ、更にとろけそうな顔で笑う。不知火の表情に土井垣は思わず赤くなりそうになるのを必死に堪えていた。
『何で俺が赤面しなけりゃならんのだ!…もしかして俺も風邪をひいたか?』
「…土井垣さん、どうしたんですか?」
「いや…何でもない」
「そうですか…でも本当においしいですよ」
 不知火は土井垣に食べさせてもらいながらお粥とスープを平らげ、もらった薬を飲むともう一度ベッドに横になった。土井垣が空になった食器を片付けていると、不知火が彼に声を掛ける。
「土井垣さん」
「何だ」
「…我侭ばっかり言ってすいませんでした…でも嬉しかったです」
 不知火のいつもとは違う神妙な口調に、土井垣は今度は完全に赤面する。赤面した顔を見られない様に不知火から顔をそむけながら彼は答えた。
「…言っておくが、今日だけだからな。それに明日まだ熱が上がるようだったら医者へ直行だ」
「はい」
 部屋を出て行こうとすると熱で少し苦しそうだが、規則正しい寝息が耳に入って来た。土井垣は苦笑すると寝室のドアを閉め、独り言の様に呟いた。
「…まったく、今日はあいつに振り回されっぱなしだ…しかし、たまにはこういうのも悪くない…かもな」