「38度4分。…また上がりましたね」
体温計のデジタル表示を見た不知火守はベッドに横たわるこの値を出した当人――土井垣将に向かって声を掛ける。土井垣は熱で苦しいのと体調を崩した不甲斐なさで不機嫌な表情。その様子を見て不知火は困った様な表情を見せながらも、心配そうに言葉を重ねる。
「ここまで上がってるんだから医者に行った方がいいんじゃないですか?俺も付いていきますから…」
「断る」
即答する土井垣に不知火は怪訝そうな表情を見せ、更に続ける。
「何故ですか?かかりつけだって言うクリニックは歩いて行ける所だって言ってたじゃないですか。熱が上がり続けているんだし、行った方がいいですよ。俺も一緒に行けば途中で具合が悪くなっても安心…」
「風邪くらいで医者に行けるか。…それにな、お前に付いて来られると何かと面倒な事になる」
その言葉に不知火はある種の可愛らしさを感じ、病人相手だと言う事を忘れ少しからかいたくなった。彼は意味ありげな口調と笑みで土井垣と額を突き合わせながら囁く。
「面倒な事って…俺がついていくと何かあるんですか?」
不知火の表情に土井垣は墓穴を掘った事に気付き、熱のせいで赤い顔を更に赤くして弱々しくはあったが声を荒げた。
「とにかく!…風邪なんか寝ていれば治る、医者には行かん。第一俺の風邪の『原因』が何でまだここにいるんだ!帰れ!」
そう、オフで実家に帰って来たからと突然土井垣の住むマンションに遊びに来て彼にちょっかいを出しているうちに熱を出し、今までこのベッドで寝込んでいたのは他ならぬ不知火だったのだ。しかも寝込んでいる間、彼は今まで離れていて会えなかった憂さを晴らすかの様に「おかゆが食べたい」、困惑しながらも作ったら作ったで「食べさせて下さい」「熱いから吹いて冷まして下さい」と甘え続け、結局全快するまでこのマンションに居着いていたのだ。不知火が全快したのと入れ替わるかの様に今度は土井垣が寝込んでしまったと言う事は、結果的に土井垣は不知火の風邪がうつった形で風邪をひいたとも言える。土井垣の言う事はある意味もっともだと思う反面、病気の土井垣がいつになく弱々しく、不謹慎にも可愛いくて誰にも見せたくないと思った不知火は、帰りたくなくて必死に抵抗する。とはいえ不知火は不知火なりに、本気で土井垣の事を心配してはいるのだが。
「何言ってるんですか。こんなに辛そうな病人を置いて帰れませんよ。今まで充分わがまま言わせてもらいましたし、今度は俺が土井垣さんを看病します。何でも言う事聞きますから、好きなだけわがままを言って下さいよ」
不知火はあくまで優しく言っているのだが、土井垣には彼の態度が何故か癇に障り、だんだん腹が立ってきていた。この言葉で何かが切れた土井垣は、気が付くと思わずまた声を荒げていた。
「断る!お前の顔を見ている方が具合が悪くなりそうなんだ!さっさと帰れ!」
そこまで言って土井垣ははっとして口をつぐむ。八割方は言葉のあやだが、一度出てしまった言葉は消し様がない。言い過ぎたと思い申し訳なさそうに熱で潤む目でぼんやりと不知火を見詰めると、不知火も今の言葉に少しショックを受けた様な表情を見せ、土井垣を見詰めていた。気まずい沈黙がしばらく続いた後、不知火がゆっくりと口を開いた。
「…そうですよね、元はといえば俺が風邪をひいてうつしたのがいけないんですよね…土井垣さんが俺の顔を見たくないのも分かりますから…もう帰ります。…本当にすいません」
「…」
土井垣は何も言えずに不知火を見詰める。不知火は一瞬辛そうな表情を見せたが、すぐに後ろを向き部屋から出ようとする。と、立ち止まり後ろ向きのまま声を発した。
「…今の土井垣さんを一人にはしておけませんから…山田か…ここから近い三太郎でも呼んで看病してもらいましょう。それでいいですよね…?」
土井垣はその言葉に不知火の気持ちを察し、先程発してしまった言葉に対するほんの少しの償いを込めて応える。
「いや…誰も呼ばなくていい。…本当に寝ていれば大丈夫だから気にするな」
「…分かりました。じゃあ失礼します」
そう言うと不知火はそのまま部屋を出て行った。土井垣はしばらく天井を眺めていたが、しばらくしてぽつりと呟いた。
「…風邪など長い間ひかなかったんだがな…」
小さい頃ならまだしも、野球をはじめてから、ましてプロになって以後は目立った病気にかかった事はほとんどなかった。体調が崩れる事も確かにあったが、運がいいのか全てオフの日だったし、一日眠れば次の日には全快していた。今回もオフになってからかかったとはいえ、これ程酷くなったのは珍しい。慣れない監督業で見えない疲れが溜まっていたのだろうかなどとぼんやり考えていたが、その内にふと最後に不知火が見せた辛そうな表情が頭に浮かび、熱と先刻の自分の彼にとった態度に対する自己嫌悪で大きく溜息をついた。
「…あいつに…酷い事を言ってしまったな…」
あの時は言葉のあやだと思ったが、今から思うとあの言葉は完全に八つ当たりだった。不知火は本気で自分の事を心配してくれていたのに、自分は体調を崩した自分に対する怒りを、いや、それだけでなく今年激変した周囲に対する溜まっていた鬱積までも不知火にぶつけていたのだ。不知火の表情がまた浮かぶ。今度はその表情を思うとふと胸が痛んだ。何故胸が痛むのか理由が知りたいと思ったが、熱とそこから来る頭痛のせいで考えがまとまりそうにない。彼はそれに気がつくと考えるのを諦めた。
「…とりあえず寝るか…」
「…39度…」
ひとしきり眠った後、喉の渇きで起きた土井垣は水を飲むともう一度体温を測る。不知火が測ってくれた時以上に上がっている上、今までの経験からするとどうもまだ下がりそうにない。時計を見ると、クリニックの診療時間は過ぎていなかった。
「ああは言ったが…やっぱり医者に行くか…」
土井垣はゆっくり着替えると、必要な物を持って部屋から出る。マンションのエントランスまで下りた時、目に入ってきたのは――
「…守…」
驚いた表情をみせる土井垣に、不知火はばつが悪そうな表情を見せて口を開いた。
「…すいません。一旦は帰ろうと思ったんですけど、やっぱり心配で…」
あれ程きつい事を言ったのに帰らなかった不知火を見て、土井垣は先程の態度に対する申し訳なさが心に溢れて来る。申し訳ない気持ちと同時に何か暖かいものも沸き上がってきたのだが、それには彼は気付かなかった。しかし二つの感情を心のどこかで理解できたからであろうか。普段の土井垣からは見られない位素直に彼の口から謝罪の言葉が零れ落ちた。
「…さっきはすまなかった。あれは完全に俺の八つ当たりだ。お前は本気で心配してくれていたのに、俺は…」
申し訳なさそうに言う土井垣に、不知火は柔らかな笑みを見せてその言葉を遮る。
「いいんですよ。さっきは少し驚きましたけど、誰だって病気の時には機嫌が悪くなるもんです。それに、そういう事だったら俺は大歓迎ですよ」
「どういう意味だ」
「だって、八つ当たりできる位俺に気を許してくれてるんでしょ?八つ当たりしてもらえて俺、嬉しいですから」
「な…お前、何を訳分からん事を…」
困惑して文句を言おうとする土井垣を不知火はきつく抱き締めて耳元で囁いた。
「…八つ当たりだろうが何だろうがいいです…お願いですからもっと俺にわがまま言って下さい。…俺だけに…」
「…馬鹿野郎、思い上がるな」
「うふふ」
口調は相変わらずぶっきらぼうだし、抱き締めているので表情は読み取れない。しかし抵抗せず抱き締められるままになってくれている土井垣の態度が、不知火は嬉しかった。しばらく二人はそのままの態勢でいたが、その内にゆっくりと不知火が身体を離し、悪戯っぽい口調で声を掛ける。
「…で、土井垣さん。医者に行くんでしょ?やっぱり俺も付いて行きましょうか」
「いい、一人で行ける。…お前は部屋にいろ」
土井垣はぶっきらぼうだが、優しさのこもった声で言う。その言葉に不知火の顔がたちまち明るくなり、嬉しそうに頷いて言葉を続けた。
「はい。じゃあ今度は俺がおかゆを作って待ってます」
「俺はおかゆは苦手だ。いらん」
「じゃあうどんにしましょう。確か土井垣さん、好きだって言ってましたよね。ねぎがたくさん入ってて、くたくたに煮込んだやつ」
「う…」
「ちゃんと俺にしてくれた様に、冷まして食べさせてあげますから」
「いら~ん!やっぱりお前は帰れ~!」
誰もいないマンションのエントランスに土井垣の怒声が大音量で響き渡った。
体温計のデジタル表示を見た不知火守はベッドに横たわるこの値を出した当人――土井垣将に向かって声を掛ける。土井垣は熱で苦しいのと体調を崩した不甲斐なさで不機嫌な表情。その様子を見て不知火は困った様な表情を見せながらも、心配そうに言葉を重ねる。
「ここまで上がってるんだから医者に行った方がいいんじゃないですか?俺も付いていきますから…」
「断る」
即答する土井垣に不知火は怪訝そうな表情を見せ、更に続ける。
「何故ですか?かかりつけだって言うクリニックは歩いて行ける所だって言ってたじゃないですか。熱が上がり続けているんだし、行った方がいいですよ。俺も一緒に行けば途中で具合が悪くなっても安心…」
「風邪くらいで医者に行けるか。…それにな、お前に付いて来られると何かと面倒な事になる」
その言葉に不知火はある種の可愛らしさを感じ、病人相手だと言う事を忘れ少しからかいたくなった。彼は意味ありげな口調と笑みで土井垣と額を突き合わせながら囁く。
「面倒な事って…俺がついていくと何かあるんですか?」
不知火の表情に土井垣は墓穴を掘った事に気付き、熱のせいで赤い顔を更に赤くして弱々しくはあったが声を荒げた。
「とにかく!…風邪なんか寝ていれば治る、医者には行かん。第一俺の風邪の『原因』が何でまだここにいるんだ!帰れ!」
そう、オフで実家に帰って来たからと突然土井垣の住むマンションに遊びに来て彼にちょっかいを出しているうちに熱を出し、今までこのベッドで寝込んでいたのは他ならぬ不知火だったのだ。しかも寝込んでいる間、彼は今まで離れていて会えなかった憂さを晴らすかの様に「おかゆが食べたい」、困惑しながらも作ったら作ったで「食べさせて下さい」「熱いから吹いて冷まして下さい」と甘え続け、結局全快するまでこのマンションに居着いていたのだ。不知火が全快したのと入れ替わるかの様に今度は土井垣が寝込んでしまったと言う事は、結果的に土井垣は不知火の風邪がうつった形で風邪をひいたとも言える。土井垣の言う事はある意味もっともだと思う反面、病気の土井垣がいつになく弱々しく、不謹慎にも可愛いくて誰にも見せたくないと思った不知火は、帰りたくなくて必死に抵抗する。とはいえ不知火は不知火なりに、本気で土井垣の事を心配してはいるのだが。
「何言ってるんですか。こんなに辛そうな病人を置いて帰れませんよ。今まで充分わがまま言わせてもらいましたし、今度は俺が土井垣さんを看病します。何でも言う事聞きますから、好きなだけわがままを言って下さいよ」
不知火はあくまで優しく言っているのだが、土井垣には彼の態度が何故か癇に障り、だんだん腹が立ってきていた。この言葉で何かが切れた土井垣は、気が付くと思わずまた声を荒げていた。
「断る!お前の顔を見ている方が具合が悪くなりそうなんだ!さっさと帰れ!」
そこまで言って土井垣ははっとして口をつぐむ。八割方は言葉のあやだが、一度出てしまった言葉は消し様がない。言い過ぎたと思い申し訳なさそうに熱で潤む目でぼんやりと不知火を見詰めると、不知火も今の言葉に少しショックを受けた様な表情を見せ、土井垣を見詰めていた。気まずい沈黙がしばらく続いた後、不知火がゆっくりと口を開いた。
「…そうですよね、元はといえば俺が風邪をひいてうつしたのがいけないんですよね…土井垣さんが俺の顔を見たくないのも分かりますから…もう帰ります。…本当にすいません」
「…」
土井垣は何も言えずに不知火を見詰める。不知火は一瞬辛そうな表情を見せたが、すぐに後ろを向き部屋から出ようとする。と、立ち止まり後ろ向きのまま声を発した。
「…今の土井垣さんを一人にはしておけませんから…山田か…ここから近い三太郎でも呼んで看病してもらいましょう。それでいいですよね…?」
土井垣はその言葉に不知火の気持ちを察し、先程発してしまった言葉に対するほんの少しの償いを込めて応える。
「いや…誰も呼ばなくていい。…本当に寝ていれば大丈夫だから気にするな」
「…分かりました。じゃあ失礼します」
そう言うと不知火はそのまま部屋を出て行った。土井垣はしばらく天井を眺めていたが、しばらくしてぽつりと呟いた。
「…風邪など長い間ひかなかったんだがな…」
小さい頃ならまだしも、野球をはじめてから、ましてプロになって以後は目立った病気にかかった事はほとんどなかった。体調が崩れる事も確かにあったが、運がいいのか全てオフの日だったし、一日眠れば次の日には全快していた。今回もオフになってからかかったとはいえ、これ程酷くなったのは珍しい。慣れない監督業で見えない疲れが溜まっていたのだろうかなどとぼんやり考えていたが、その内にふと最後に不知火が見せた辛そうな表情が頭に浮かび、熱と先刻の自分の彼にとった態度に対する自己嫌悪で大きく溜息をついた。
「…あいつに…酷い事を言ってしまったな…」
あの時は言葉のあやだと思ったが、今から思うとあの言葉は完全に八つ当たりだった。不知火は本気で自分の事を心配してくれていたのに、自分は体調を崩した自分に対する怒りを、いや、それだけでなく今年激変した周囲に対する溜まっていた鬱積までも不知火にぶつけていたのだ。不知火の表情がまた浮かぶ。今度はその表情を思うとふと胸が痛んだ。何故胸が痛むのか理由が知りたいと思ったが、熱とそこから来る頭痛のせいで考えがまとまりそうにない。彼はそれに気がつくと考えるのを諦めた。
「…とりあえず寝るか…」
「…39度…」
ひとしきり眠った後、喉の渇きで起きた土井垣は水を飲むともう一度体温を測る。不知火が測ってくれた時以上に上がっている上、今までの経験からするとどうもまだ下がりそうにない。時計を見ると、クリニックの診療時間は過ぎていなかった。
「ああは言ったが…やっぱり医者に行くか…」
土井垣はゆっくり着替えると、必要な物を持って部屋から出る。マンションのエントランスまで下りた時、目に入ってきたのは――
「…守…」
驚いた表情をみせる土井垣に、不知火はばつが悪そうな表情を見せて口を開いた。
「…すいません。一旦は帰ろうと思ったんですけど、やっぱり心配で…」
あれ程きつい事を言ったのに帰らなかった不知火を見て、土井垣は先程の態度に対する申し訳なさが心に溢れて来る。申し訳ない気持ちと同時に何か暖かいものも沸き上がってきたのだが、それには彼は気付かなかった。しかし二つの感情を心のどこかで理解できたからであろうか。普段の土井垣からは見られない位素直に彼の口から謝罪の言葉が零れ落ちた。
「…さっきはすまなかった。あれは完全に俺の八つ当たりだ。お前は本気で心配してくれていたのに、俺は…」
申し訳なさそうに言う土井垣に、不知火は柔らかな笑みを見せてその言葉を遮る。
「いいんですよ。さっきは少し驚きましたけど、誰だって病気の時には機嫌が悪くなるもんです。それに、そういう事だったら俺は大歓迎ですよ」
「どういう意味だ」
「だって、八つ当たりできる位俺に気を許してくれてるんでしょ?八つ当たりしてもらえて俺、嬉しいですから」
「な…お前、何を訳分からん事を…」
困惑して文句を言おうとする土井垣を不知火はきつく抱き締めて耳元で囁いた。
「…八つ当たりだろうが何だろうがいいです…お願いですからもっと俺にわがまま言って下さい。…俺だけに…」
「…馬鹿野郎、思い上がるな」
「うふふ」
口調は相変わらずぶっきらぼうだし、抱き締めているので表情は読み取れない。しかし抵抗せず抱き締められるままになってくれている土井垣の態度が、不知火は嬉しかった。しばらく二人はそのままの態勢でいたが、その内にゆっくりと不知火が身体を離し、悪戯っぽい口調で声を掛ける。
「…で、土井垣さん。医者に行くんでしょ?やっぱり俺も付いて行きましょうか」
「いい、一人で行ける。…お前は部屋にいろ」
土井垣はぶっきらぼうだが、優しさのこもった声で言う。その言葉に不知火の顔がたちまち明るくなり、嬉しそうに頷いて言葉を続けた。
「はい。じゃあ今度は俺がおかゆを作って待ってます」
「俺はおかゆは苦手だ。いらん」
「じゃあうどんにしましょう。確か土井垣さん、好きだって言ってましたよね。ねぎがたくさん入ってて、くたくたに煮込んだやつ」
「う…」
「ちゃんと俺にしてくれた様に、冷まして食べさせてあげますから」
「いら~ん!やっぱりお前は帰れ~!」
誰もいないマンションのエントランスに土井垣の怒声が大音量で響き渡った。