ある日の東京ドーム。凛子は仕事で東京に出張に来た後に休暇を取り、東京スーパースターズと四国アイアンドッグスの試合を観に来ていた。元々は凛子が東京に行くと聞いた小次郎が『丁度試合があるから観に来い』と試合のチケットを強引に渡したのも理由の半分にあるのだが…小次郎の強引さに呆れ半分、嬉しさ半分と言った形で指定された三塁側のバックネット席へ腰を下ろし、バッティング練習を観ていると、特徴的なメゾソプラノの声で『隣、失礼します』という声が聞こえた。声のする方へ顔を向けると、腰まである長い髪をバレッタで一つにまとめ、少しラフなパンツスーツに口紅のみの質素なメイクをした、しかし口紅のみでも充分愛らしさが目立つ女性がにっこり笑って会釈する。凛子の方もにっこり笑って『どうぞ』と言うと彼女は隣に座り、バッティング練習を楽しげに目を輝かせて観始めた。その様子が余りに楽しそうだったので、思わず凛子は声を掛ける。
「こんな所で聞くのも何ですけど…野球、お好きなんですか?」
凛子の言葉に、女性は少し驚いた様子を見せたが、すぐににっこり笑って答える。
「はい、ルールとかはまだあまり詳しくないんですけど、見てるだけで楽しくて…それに、初めて直にこうして試合を観るんで、すごく楽しみなんです」
「そうなんですか。じゃあまだどこのチームがご贔屓とかはあんまりないんですね」
凛子の言葉に、女性は何故か少し困った表情を見せたが、すぐに微笑んで更に応える。
「え、ええ…まあ…」
「初めての試合観戦、楽しめるといいですね」
「はい」
そこで試合が始まったので二人は会話を止め、試合を観始める。試合は投手戦になり、緊迫した試合展開に凛子は内心小次郎を応援しながら試合に見入る。女性の方も、ドッグスの応援団の応援に最初はびっくりした様子を見せていたが、やがて手を前に組みながら目を輝かせ、じっと試合を観ていた。均衡を崩したのはスターズだった。4番キャッチャーの山田がヒットで出塁し、その後5番ファーストのプレーイング監督である土井垣がツーランホームランを叩き出したのだ。ドッグスの応援団は落胆した様な溜息をつき、凛子も『小次郎、苦戦するわね』と思い溜息をつく。が、隣にいた女性は「すごーい!」と笑って拍手をしながら目を更にきらきらと輝かせている。その様子に応援団のメンバーの一人が「あんた、スターズのファンか?」と不満そうに聞く。その問いに女性はばつの悪そうな顔を見せると「いえ、初めての試合観戦でホームランが見られるとは思ってなかったんで、ちょっと興奮しちゃって…」と答える。その言葉に応援団も納得した様に頷くと「あんまり空気読まない行動はするなよ」と釘を刺す。女性は素直に「はい」と頷くと、凛子に向かってぺろりと舌を出して笑った。凛子もその女性の表情にふと気持ちが和らいだ。そうしてアイアンドッグスの応援団は更に応援を過熱させ、チームを奮い立たせようと頑張る様子を見せる。凛子も祈る様な気持ちで試合を見詰めていたが、結局このツーランホームランが元で、ドッグスは敗北を喫してしまった。応援団は落胆し、凛子も少し残念に思いながら、この後小次郎から連絡が来るだろうと思い、球場の外で待とうと席を立とうとしてふと横を見た時、件の女性が真っ青な顔でハンカチで口元を押さえているのが目に入って来た。驚いて凛子は声を掛ける。
「あなた、大丈夫?」
凛子の言葉に、女性は弱々しくだが答える。
「ええ、ちょっと人いきれでめまいと息が苦しくなっただけですから…」
「でも顔色が悪いわ。救護室へ連れて行ってあげるから」
「…いえ、お気になさらず。…それに私、ヒーローインタビューが最後まで見たいんです…」
丁度そこでは先発の里中と、今日の勝利の元となった土井垣がお立ち台に立ってヒーローインタビューを受けている所だった。彼女は真っ青な顔ながらも、瞳だけは強く輝かせ、そのヒーローインタビューに見入っている。凛子はその様子を見て、先刻はああ言っていたが本当は彼女はスターズのファンなのかもしれないと思うと同時に、彼女の様子が心配になり、彼女を見守る事にした。そしてヒーローインタビューが終わり、拍手が起こった所で、彼女は真っ青な顔ながらも瞳を更に輝かせ、心底幸せそうな微笑みを見せる。そうして彼女は帰るためか立ち上がったが、すぐにその場に座り込んでしまう。やっぱり放ってはおけないと凛子は彼女を支えて立たせると、声を掛けた。
「やっぱり、救護室へ行きましょう。その様子じゃ帰るに帰れないわよ」
「はい、すいません…ええと…」
「私は、鷹野凛子。あなたは?」
「宮田…葉月と言います…」
「そう、じゃあ宮田さん、救護室へ行くわよ」
「はい…」
そう言うと凛子は『宮田葉月』と名乗った女性を救護室へ連れて行く。とはいえ球場の救護室ではできる事も限られる。救護室の医師は困った様に口を開いた。
「う~ん、血圧がかなり低下してるのと、息が荒いのは多分緊張から来る過呼吸だと思うけど…これ以上ここの設備じゃ何もできないな。とはいえかなり具合が悪いみたいだし、どこか病院の夜間救急外来に行った方がいいかも」
「そうですか…」
「宮田さん…だったね。どこかかかりつけの病院はあるかい?」
医師の問いに、女性は少し荒い呼吸で、弱々しく答える。
「あの…少し遠いんですけど…M区のみなと病院に行けるとありがたいんですけど…」
「みなと病院か。あそこなら1次救急なら受け付けるし、よっぽどの事がなきゃ拒否もしないな。うん、じゃあ連絡を取って…ちょっと大げさかもしれないけど動けないみたいだし、救急車で行こうか…とはいえ、救急車には付き添いが必要なんだが…」
医師の言葉に、凛子は思わず声を出していた。
「私が付き添います。ここまで関わったんですから、最後までお付き合いするわ」
「すいません…」
「じゃあ、お願いするよ。僕は今から体制整えるから」
そう言うと医師は電話を掛け始める。その時凛子の携帯が同時に鳴った。このメロディーは小次郎だ。凛子は電話を取る。
「小次郎?」
『ああ、俺だ。来てるんだろ?これから飲みにでも行こうぜ』
「悪いけど、私これから救急車で病院に行くから」
『何!?凛!どうかしたのか!?』
「ちょっとね。M区のみなと病院だから。迎えに来るなら来て」
『当たり前だ!すぐ行くからな!』
「じゃあね、小次郎」
凛子は電話を切る。その様子を見ていた女性は申し訳なさそうに口を開く。
「すいません…何かのお約束を破らせちゃったみたいで…」
その言葉に、凛子は宥める様に応える。
「いいのよ。向こうが勝手に約束してた事だから。それにちゃんと居場所は言ったから、迎えに来てくれるしね」
「そうですか…」
「それより、あなたは自分の事を考えなさい。ゆっくり休んで、具合を良くしないと」
「はい…」
そう言うと彼女は目を閉じ、程なく救急隊員がやって来て彼女の状態を聞き、車に乗せる。凛子も付き添いで車に乗ると、救急車は走り出し、どの位経ったのだろうか、M区という場所には似合わない小規模の病院に着き、彼女はストレッチャーに乗せられたまま奥の処置室に運ばれた。救急隊員の手続きが終わり、救急車が去ったのを見計らって、凛子より少し年上位の男性の医師がのんびりした口調で彼女に声を掛けてきた。
「宮田さん、こんばんは。随分派手なご登場だけど、今回は何やらかしたの?」
医師の余りに呑気な言葉に凛子は思わず抗議の声を上げそうになったが、女性の方は全く気にしない風情で、弱々しいながらもこちらも呑気に応える。
「いえ…野球の試合観に行ったら、人いきれにやられました。…めまいと息苦しさが酷くなっちゃって…」
「最近仕事多かったみたいだよね。そんな疲れた状態でそんなとこ行けば、あなたならそうなるかも。まあとりあえず診察しようか」
「はい…」
そう言うと医師は手際よく診察していく。
「血圧は90の…54。サチュレーションは…大丈夫。脈は速いけど心音も…大丈夫。やっぱりストレスと興奮から来た血圧低下と過呼吸だよ。という訳で、安定のためにアダP点滴するからね」
「え~…?アダPはフラフラが酷くなるし、翌日まで残るからやです…過呼吸は何とかなりますし、めまいだけが心配なんで、メニエース程度にしてくれませんか…?」
「だ~め。いくら保健師でも医者の言う事は聞きなさい…弦さんには僕から話しとくから、忙しかった分の休養と思って、明日は休めばいいよ。もしだったら一日入院してく?」
「それもやです。…手続きめんどくさいしお金かかるから」
「でも帰れる?前アダP打った時、フラフラしてかなり帰るのに苦労したって言ってなかったっけ?」
「何とかします…どうせ明日休みなら家の方が気楽にできるんで」
「そう…まあとりあえず打とうか」
医師と女性の会話が不思議に思えて、凛子は医師に問いかけた。
「あの…宮田さんてここに関わりある人なんですか?」
凛子の問いに、医師はふと彼女に気付いてにっこり笑いながら答える。
「ああ、宮田さんに付き添って来てくれた人だね。ありがとう…彼女はここの職員で、保健師なんだよ。本当の事を言うと、彼女のかかりつけのクリニックは別にあるんだけど夜はやってないし、とはいえここも急に具合が悪くなった時とか、何度か仕事中にかかってる事もあって状態は分かるから、彼女もここを今回選んだって訳」
「そうなんですか…」
凛子は納得した様に頷く。そうして医師は彼女に点滴を打つ。
「川崎先生…相変わらず下手ですね。痛いです」
「うるさい、とにかく点滴終わるまで静かにしてなさい。…そうだ、君」
医師は凛子に振り返ると声を掛ける。
「はい」
「後は彼女一人でも大丈夫だから、もしだったら帰っても大丈夫だよ。こんな夜遅くまで付き添わせて、悪かったね」
「いえ…乗りかかった船ですから。それに、もう少し待たせてもらえませんか?迎えが…」
と、不意に何かを叩く様な大きくて鈍い音がする。医師と凛子が処置室を出ると、どうやら入口のガラス扉を誰かが叩いている様だ。二人で見に行くと、そこにはガラス扉を必死の形相で叩いている小次郎がいた。
「…あれ、君の連れ?」
「…ええ、ご迷惑かけてすいません…」
凛子は恥ずかしさで穴があったら入りたい心情になる。医師は苦笑しながら口を開いた。
「横から入れる通用口があるから、入れてあげよう」
そう言うと医師はフロアの横に入り、小次郎を連れてくる。小次郎は凛子を見つけるなり駆け寄ると両肩を掴んで揺らしながら、慌てた調子で問い掛ける。
「凛!大丈夫か!?どこが具合悪いんだ!」
慌てている小次郎に呆れながらも一片の嬉しさも感じつつ、凛子はそれでも冷静に答える。
「…あのね、小次郎。こうやって普通に立ってる時点で私は何でもないって思わないの?」
「…え?」
「私は付き添い。本当の患者は処置室で今点滴中」
「本当か?」
「嘘だと思うなら見に行く?…先生、申し訳ないんですけどいいですか?」
「いいよ。心配性な恋人のために安心を与えてあげなきゃね」
「…!」
医師の言葉に、凛子も小次郎も赤面して沈黙する。そうしながらも凛子は処置室に小次郎を連れて行き、点滴を打たれて目を閉じている女性を見せる。と、不意に小次郎が驚いた様子を見せた。
「おい…何でお前が凛といるんだ…」
小次郎の言葉に、凛子は彼女と小次郎が何かの関係を持っていると気付き、ふと腹立たしくなって低い声で問い掛ける。
「小次郎…彼女と何か関係があるの…?」
「いや…凛、確かに俺はこいつと親しいが、お前が考えてる様な関係じゃ…」
「馬鹿!浮気がばれる様な態度取らないでよ!」
そう言うと凛子は小次郎を平手打ちする。小次郎は凛子を宥めようと必死に言葉を紡ごうとする。
「だから凛、こいつと俺は友人なだけで…」
「そんな見え透いた嘘つかないでよ!」
ケンカを始める二人を医師が冷静に止める。
「ほらほら、ケンカは止めなさい。彼女にも、上の入院患者さんにも迷惑が掛かる」
「…」
二人はとりあえず言い争いをやめたが、それでも凛子は小次郎を睨みつけていた。と、女性が目を開け、間の抜けた声で小次郎に声を掛ける。
「あれ~?…やっぱり犬飼さんだ、何でこんなとこにいるんですか~?」
「お前こそ、何で凛と一緒にこんなとこにいるんだよ」
「ああ…もしかして、今聞いてた様子だと、犬飼さんの彼女さんなんですか~この方~…私が具合悪くなったのを心配して付いてて下さったんです~。…すいません、ご迷惑をおかけした上、誤解させてしまって…」
「いいさ。それより、その様子じゃきついだろ。迎えに来てもらう様に『あいつ』を呼ぶからな」
「え~…?それは勘弁して下さい…絶対に怒られる~。……私は一人で大丈夫ですから…」
「いいや。俺の身の潔白証明のためにも呼ぶからな…っと病院じゃ携帯はご法度か…公衆電話はっと…」
「いいよ。今は機器を使ってるわけじゃないから、このフロアなら今ちょっと位なら使っても」
「じゃあお言葉に甘えて…」
小次郎は医師の言葉に甘えて、携帯で誰かに電話を掛ける。
「…おう、俺だ。今どこだ?…そうか。宮田が倒れて病院に運ばれてるぞ……点滴打たれてるな…おう、すぐ来い。M区のみなと病院だ。分かるか?…そうか。じゃあな」
小次郎は電話を切ると、女性に向かってにやりと笑い口を開く。
「『すぐ向かう』だとよ。相当慌ててたぜ」
「…」
女性は困った様に沈黙する。凛子はそのやり取りが不思議に思い、今までの怒りも忘れて小次郎に問い掛ける。
「どういう事?小次郎」
「俺の潔白を証明するために『証人』を呼んだ」
「え?」
「まあ見てのお楽しみ…ってとこだな」
そうして二十分ほど経った時、ドアが乱暴に開く音と、フロアを誰かが慌てて歩く音がする。それに気付いた小次郎が処置室から顔を出し『ほら、ここだぜ』と足音の主に声を掛ける。すると、心配と怒りを前面に出した足音の主が処置室に入るやいなや女性に向かって必死に声を掛けてきた。
「倒れたって…葉月お前、何をしたんだ!」
「何って…将さんの試合観に行っただけよ…」
「それで倒れるなんて、お前は…小次郎から話を聞いて、どれだけ俺が心配したと思ってる…!」
「ごめんなさい…」
「え?土井垣監督…何で?」
そう、足音の主は土井垣だったのだ。訳が分からず混乱する凛子に、小次郎が説明する様に言葉を紡ぐ。
「あいつはそもそも土井垣の女。ついでに言えば俺と凛みたいな関係だぜ。俺は偶然あいつの存在を知って、面白れぇから会わせてもらって仲良くなっただけなんだよ」
「そうだったの…」
凛子は二人を見詰める。土井垣は怒りを少し収めた様で、女性の点滴を打たれていない方の手を取り、額を撫でながら心配そうに声を掛けている。
「大丈夫か?辛くないか?」
「具合は大分良くなったけど…薬の方でフラフラする…」
「そうか…辛いな。付いていてやるからな」
「ん…ありがと…」
その様子を見ていた医師が、不意に土井垣に声を掛けてきた。
「君、確か宮田さんの恋人だったよね」
「え?…何でそれを…」
「あの『騒動』をうちが忘れるとでも?うちの法人に迷惑かけた人間の顔はよ~く覚えてるよ」
「…あの節は本当に申し訳ありませんでした…」
医師の言葉に、土井垣は心底申し訳なさそうに頭を下げる。それを見た医師はくすりと笑うと、悪戯っぽい口調で更に言葉を重ねた。
「冗談だよ。…で、ここからは真面目な相談なんだけど…彼女アタラックスPっていう薬を点滴してるんだけど、彼女この薬打つと副作用が多く出て、今言ってる通り眠気とフラフラ感が出て帰るの辛くなるんだ。だから一緒に帰るか、一番いいのは君の家に泊めてくれるとありがたいんだけど…」
「!」
「川崎先生…!」
「君達の仲なら別にかまわないだろ?」
医師の言葉に、土井垣と葉月は赤面して絶句したが、医師は悪戯っぽい口調でウィンクする。その言葉に、土井垣はしばらく赤面して沈黙していたが、やがて小さな声で頷いた。
「はい…俺の家へ連れて帰ります。…いいな、葉月」
「…分かった」
「うん。冗談抜きで何かあった時、誰かいてくれると僕も安心できるから。ありがとう。じゃあ宮田さん、彼の気持ちに甘えて、ゆっくりしなさい…うん、点滴も終わったね。針抜くよ」
そう言うと医師は針を抜き、葉月をゆっくりと起き上がらせる。彼女はフラフラするらしく少しおぼつかない手元で荷物を取り、診察台から降りると、医師に声を掛ける。
「えっと…会計は…」
「明日薬が抜けたら弦さんと電話で相談して、その後か明後日出勤する時か決めてその時おいで、今できないし。さっき言った通り、弦さんにも医事課にも僕から申し送りしとくから」
「はい…」
「じゃあ皆揃ってゆっくり帰りなさい。この辺りは寂しいから気をつけてね」
「はい」
「失礼しました」
そう言うと四人は病院を出る。土井垣はフラフラする葉月を支えながら、小次郎と凛子に声を掛ける。
「ありがとう、小次郎。後…ええと…」
「鷹野凛子と言います」
「鷹野さんか。こいつが迷惑かけてすまなかった」
「いいえ。具合が良くなって何よりです。それに今から思うと、彼女本当に土井垣さんの事が好きなんですね」
「それはどういう…?」
不思議そうに問い掛ける土井垣に、凛子はにっこり笑って答える。
「彼女、球場で具合が悪くなっても、ずっと目を輝かせて土井垣さんを見てたんですよ。本当に幸せそうに。具合が悪くなったとはいえ、土井垣さんの活躍が直に見られて、本当に嬉しかったんじゃないかしら。…どう?宮田さん」
「はい…嬉しかったです。将さんに負担掛けたくなかったからチケットを自力で買って、いい席って思ったら三塁側しか取れなかったけど…でも試合してる将さんをずっと遠目でも観られて…ホームランまで打ってて…ヒーローインタビューまで観られて…本当に幸せだった…」
「葉月…」
土井垣は葉月の言葉に、言葉を失った代わりに、彼女をしっかりと抱き締める。その様子を見て、小次郎はむくれた様に口を開く。
「ちぇ~、土井垣だけ幸せになりやがって。俺は負けた上に凛に平手打ちまで喰らって、大損だぜ」
小次郎の言葉に、凛子はふっと笑うと先刻平手打ちした頬を撫で、小次郎に声を掛ける。
「いいじゃない…私達にはこれから後があるでしょ?」
「…」
小次郎は照れ隠しの様にむっつりと沈黙する。凛子はそれを見てにっこり笑った。その様子を見て、土井垣が不思議そうに声を掛ける。
「小次郎、彼女と随分親しそうだが…」
「ああ、こいつは俺の許婚」
「何?」
驚く土井垣に、小次郎はにやりと笑って応える。
「俺もお前には負けてねぇってこったな。お前も宮田を隠してた訳だし、お互い様さ」
「そうか…中々いい女性じゃないか」
「お前には渡さねぇぞ」
「何言ってる。俺には葉月以外はどんないい女性でも意味がない」
「お前…無意識に臆面もなく恥ずかしい言葉出す癖、止めろよな…まあ、俺も気持ちは同じだがな」
土井垣と小次郎はお互いに笑い合う。それを見て微笑む凛子に、葉月も微笑みながら口を開いた。
「鷹野さん…今日は、ありがとうございました」
「いいえ、後はゆっくりお休みなさい。また会えるといいわね」
「そうですね。犬飼さん通してお会いできるといいですね…犬飼さん、お願いします」
「ああ、その内元気な時に皆で会って飲もうぜ」
「その時はいいお店紹介しますよ…このすぐ傍にあるんです」
「そうなのか?」
「ああ、あそこならいいな。俺のとっておきの店だ。マスターもまた珍しくて新しい客に喜ぶ」
「そうか。じゃあ…その時まで、さよならだな」
「はい…じゃあ…あれ?」
歩き出そうとしてふらつく葉月を土井垣は抱き止めると、優しい口調で声を掛ける。
「葉月、その様子だと歩くのも辛いだろう。背負ってやる」
「でも…重くない?」
「馬鹿野郎、お前位で重いなんて言えるか。むしろお前の荷物の方が重い位だ」
「…ん…じゃあ、お願い」
「よし…ほら」
土井垣は葉月を背負うと、二人に笑いかけ、軽く手を上げて去って行った。小次郎と凛子は逆方向に歩き出し、傍にあったバーで酒を飲みながら話す。
「本当に、世間って狭いわね。あんな風に小次郎と関わりがある人と会っちゃうなんて」
「そうだな。俺もびっくりしてるよ」
「そうだ…ちょっと気になってたんだけど、お医者さんが言ってた『騒動』って小次郎は知ってる?」
凛子の問いに、小次郎は少し神妙な顔になって答える。
「ああ、詳しい事までは分からねぇがな。スターズが初めて日本一になった年、最初最下位だったろ?その頃にあいつらスクープされてな。土井垣は相当バッシング受けたし、宮田の方も相当マスコミに追い掛け回されたみてぇだ。で、確か宮田の職場の病院にマスコミが押しかけて、その時宮田の奴『ここは病院です、患者様が辛くなる事はしないで下さい』ってマスコミ一喝して追い返したらしい。その話を俺も聞いて、宮田が丈夫じゃねぇって事も知ってたから心配になって状態聞こうと思ったら、土井垣の奴すっげえ不機嫌な顔で『しばらくあいつの話は禁句だ』って言って教えてくれなかったから後の事は良く知らねぇが。…あの話だとその職場っていう病院はあそこだったんだな…」
「そうだったの…」
凛子はあまりスクープ記事などを読まないのでそんな話があったとは知らなかった。そして今日の蒼い顔とは裏腹の強く輝く瞳も思い出し、どことなく愛嬌があり、可愛らしく見えていた彼女の心の激しい一面をその話で感じ取り、ぽつりと口を開く。
「彼女…あんなに可愛らしく見えて、結構芯が強いのね」
「そうだな」
「それに、土井垣さんも、そんな騒動があっても彼女を放さなかったのね…その上今でもあんなに優しい。本当に彼女の事が好きなんだわ」
「…そうだな…でもな」
「何?」
「俺だって凛に本気で惚れてるし、凛を放す気はねぇぞ」
「小次郎…」
凛子は幸せな気持ちになり、小次郎の方を見る。小次郎は照れ隠しの様に無愛想な顔でそっぽを向いていた。彼女はその顔を向き直らせると、そっと唇を合わせる。驚いた彼に彼女はふっと笑う。
「で…これからどうする?小次郎の所へ行きましょうか。それとも…私の所へ来る?」
小次郎はしばらく沈黙していたが、やがてぼそりと口を開く。
「…凛の所へ」
「…じゃあ、行きましょうか」
そう言うと二人は寄り添い合って店を後にした。