12月半ばのある日、凛子は出張で東京地方裁判所に来ていた。最近はキャリアアップの意味もあり、都内での仕事も精力的に受ける様にしていて、今回も東京に来た次第である。また、丁度この時期婚約者の小次郎もオフという事もあり同行していて、以前から約束していた小次郎と凛子、そして小次郎の一番のライバルであり友人でもある土井垣とその恋人である宮田葉月という女性との飲み会も仕事が終わった後に企画されていた。オフタイムの楽しみを胸にしまいつつ、それでも仕事をきちんとこなそうと地裁に入り廊下を歩いていると、不意に見知った顔を見つける。髪をアップして銀の細いフレームの眼鏡をかけ、雰囲気は少しクールな感じがするが、あの顔は確かに土井垣の恋人である葉月。しかし確か彼女は保健師のはず。どうして地裁に用があるのだろうと思い、凛子は思わず声を掛けていた。
「宮田さん、お久し振りね。地裁に何の用があって来たの?」
「…あの、どちら様ですか?」
声を掛けられた『葉月』は、怪訝そうな表情を見せて問い返す。凛子は不思議に思って更に声を掛ける。
「私よ、鷹野凛子。具合が悪い時に会ったから忘れちゃったの?」
「…すいませんが、覚えがありませんわ。私も確かに『宮田』ですけど、どなたかと勘違いなさっていませんか?」
「…そうですか。失礼しました」
「では…失礼します」
申し訳なさそうに言葉を返す『葉月』に凛子はこれ以上言葉を掛けるのも悪い気がして引き下がり、『葉月』は軽く会釈をすると凛子の横を通り過ぎていった。凛子は訳が分からず、しばらく『葉月』を見送って立ち尽くしていた――
「…ふうん、そんな事があったのか」
「ええ。確かにあの顔も声も宮田さんだったのに…他人の空似にしては似過ぎてるわ」
仕事を終えた後、凛子は都内見物をして時間を潰していた小次郎と合流して、葉月と土井垣との待ち合わせ時間まで喫茶店で時間を潰していた。時間を潰しがてら凛子は今日会った出来事を小次郎に話す。小次郎はコーヒーを飲みながら不審そうに言葉を紡ぐ。
「宮田にしてもおかしい反応だぜ。あいつなら、見知った姿見つけたら自分から一番にすっ飛んでく奴だからな」
「じゃあやっぱり他人の空似…?」
「…どうだろうな」
二人は考え込んでしまう。と、不意に土井垣達との約束を思い出して小次郎が口を開く。
「何にせよ今日会えるじゃねぇか。聞いてみりゃわかるさ」
「そうね…あ、そろそろ待ち合わせ時間だわ。行きましょう」
「ああ」
二人は喫茶店を出ると、JRのS駅に向かう。駅に着いて約束の場所で二人を待っていると、不意に言い争う様なやり取りが聞こえて来た。
「ですから、お食事のお付き合いはできません」
「いいじゃないか、たまには君だって羽を伸ばしたいだろ?ちょっと位つきあっても…」
「ですから、羽を伸ばす気などありませんのでお断りしますと何度言ったら…」
男の強引な誘い方に、凛子も小次郎も不快な気分になる。
「…嫌ね、無粋な男って」
「ああ、ああいう男がいるから世間の男が誤解されるんだぜ」
「あら、小次郎も言えた義理?」
「凛、そりゃ痛ぇ…っておい!凛、あれ宮田じゃねぇか?」
「えっ?…本当だわ。どうしてあんな男に声掛けられてるのかしら」
小次郎の言葉に凛子も見ると、確かにそこにいたのは地裁で見た『葉月』。今日彼女は土井垣と一緒に待ち合わせに来るはずだ。どうしてこんなシチュエーションになっているのかと不思議に思いつつも、凛子は彼女を助けようと近付いていって、わざとらしく声を掛ける。
「宮田さん、どうしたのよ。今日は私達と飲む約束でしょ?小次郎も待ってるからいらっしゃいよ」
凛子の言葉に、『葉月』は驚いた表情を見せたが、すぐに合わせる様に言葉を紡ぐ。
「ごめん、凛子さん。ちょっとここで知人に会ったら食事に誘われちゃって…あなた達との約束があるから断ってたのに食い下がってくるんだもの。…という訳です、古木先生。失礼していいですわね?」
「う…分かった…じゃあその内にまた」
「『その内』はありませんわ。私は夫も子どももある身ですので、軽はずみな行動はしませんの。では」
「…」
ピシリという『葉月』の言葉に、『古木先生』と呼ばれた男はすごすごと去っていく。『葉月』は凛子を見ると、にっこり笑ってお礼の言葉を紡ぐ。
「ありがとう。鷹野凛子さん…だったわね。助かりました。あの男、法曹界のセクハラ大王で有名なんです。運悪く捕まって鉄拳制裁でもしないと引き下がらないかと思ったけど、おかげ様で穏便に済ませる事ができました。でも、見知らぬ私を助けてくれるなんて親切ですね」
「何言ってるの。宮田さんとは本当に親しいじゃない。今日だって本当に土井垣さんと小次郎と一緒に飲む約束してるし。どうしたの?おかしいわよ宮田さん」
「…っ!」
凛子の言葉に、『葉月』は驚いた顔をしていたが、しばらくしてぷっと吹き出すとコロコロと良く通る声で笑った。それが不審に思え、凛子は更に問い掛ける。
「どうしたの?私何かおかしい事言った?」
凛子の言葉に、『葉月』はおかしそうに笑いながらも、説明する様に言葉を返した。
「や~だ、将君の名前が出てやっと分かったわ。あなた、葉月と私を間違えてたのね。…でも葉月と間違えられる様じゃ、私もまだまだイケてるって事よね」
「えっ?宮田葉月さんじゃないんですか?」
凛子の問いに、『葉月』はにっこり微笑んで答える。
「ええ、葉月は私の妹。私は姉の宮田文乃っていうの。これでも将君や犬飼監督より年上よ」
「ええっ!?」
意外な事実に凛子は驚く。驚きながらも凛子は更に問い掛ける。
「じゃあ、今日地裁にいたのは…?」
「私はこれでも弁護士なの、民事を主に担当してるね。で、今日も仕事があったからいたって訳」
「そうだったんですか…失礼しました。勘違いしていて」
「いいのよ。おかげで助けてもらったんだし。ありがとう、鷹野さん」
「いいえ」
文乃の暖かい言葉に、凛子は勘違いしていたのは恥ずかしいと思いつつも、嬉しい気持ちも湧いてくる。と、小次郎が二人に近付いてきて声を掛ける。
「大丈夫だったか?宮田も何で土井垣と一緒に来ねぇんだよ。だからナンパなんてされるんだぞ」
小次郎の言葉に、凛子と文乃はくすくすと笑う。小次郎はそれを見てぶすっとした口調で言葉を続ける。
「何だよ。二人ともおかしいぜ」
そう言っていると駅の構内から葉月と土井垣がやって来て三人に気付き、声を掛けてきた。
「よお、小次郎に鷹野さん…って文乃さんがどうしてここにいるんですか?」
「お久し振りです~…ってお姉ちゃん、犬飼さん達と何やってんの?」
「『あやのさん』?『お姉ちゃん』?…しかも宮田が二人…?どういうこった?」
一人訳が分からず混乱している小次郎を宥める様に、文乃は自己紹介をする。それでやっと納得した様に小次郎は口を開く。
「ってこたぁ、今まで見てた宮田は宮田の姉さんって事か…ホントによく似てるぜ。眼鏡外したら分からねぇんじゃないか?」
「そうね…じゃあもうオフタイムだし、外すとしますか」
「へ?」
「この眼鏡は伊達。仕事にはそれなりに見かけも必要って事なの」
そう言うと文乃は眼鏡を外してバッグにしまう。そうすると化粧をした顔ではもう髪型や服装の違いと醸し出す雰囲気の違いだけでしか、初対面に近い凛子や小次郎には分からない。土井垣と葉月は笑って言葉を掛ける。
「じゃあ、折角知り合った事だし、文乃さんも一緒に飲みに行きませんか?ちょっとだけ」
「美月ちゃんが心配だろうけど、隆兄が確か今日はいるでしょ?ちょっとだけ行こうよ」
「そう?じゃあお言葉に甘えて…いいかしら、犬飼君、鷹野さん」
「え?ああ…もちろん。大歓迎です」
「折角の縁ですしね。一緒に行きましょう」
「じゃあ、ちょっとだけご一緒するわ。でもちょっと待って」
そう言うと文乃は携帯を手にして電話を掛ける。
「…ああ、隆君?…うん、あたし。帰りがけに葉月達と会ったからちょっとだけ飲んで帰るわ。悪いけど美月をお願い…うん。久し振りのお父さんと二人だからちょっと危ないかもね…ならいいけど、なるべく早く切り上げる様にはするわ。…うん、ありがとう。じゃあね」
文乃は電話を切るとにっこり笑って口を開く。
「オッケーよ。旦那に子ども見てもらう様に頼んだわ。うちの旦那も忙しくてよく家空けるから、子どもをかまいたいみたいね。『楽しんでおいで』って。だから気兼ねなく参加させてもらうわ」
「それもあるだろうけど、さすが隆兄、お姉ちゃんにはものすごく甘いわ…」
「まあいいじゃないか…じゃあ案内するから」
「おう、頼むぜ」
一同は土井垣と葉月の案内で、路地に入ったビルの地下の小さな飲み屋へと足を運ぶ。暖簾をくぐると、カウンター越しに初老の男性が声を掛けてきた。
「やあ、土井垣君にみやちゃん、よく来たね…おや、今日は団体さんで来たんだ。そこにいるのは犬飼監督だよね。それから後二人の綺麗なお嬢さんはどういった関係?」
「ええマスター、一人は小次郎の許婚で、もう一人は葉月のお姉さんです」
「へぇ…そりゃまた嬉しい団体さんだ。さあ入って」
「はい」
「失礼します」
『マスター』と土井垣が呼んだ男性の言葉に、一同は奥さんらしき女性に案内されたテーブル席へと腰を下ろす。腰を下ろした所で、土井垣がそれぞれに声を掛ける。
「じゃあ飲み物を頼もうか…小次郎は生でいいか?」
「ああ」
「鷹野さんは?」
「私も生でいいです」
「文乃さんはジュースかウーロン茶ですよね。ウーロン茶なら暖かいのも出ますけど、どうします?」
「じゃあ、あったかいウーロン茶にしようかしら。ありがとう将君、気を遣ってくれて」
「いいえ…葉月はどうする?」
「お姉ちゃんと同じ。あったかいウーロン茶からにします」
「そうだな。それがいい」
土井垣はそれぞれの希望を奥さんに話し、つまみとなる料理も頼む。一息ついた所で小次郎が問い掛ける。
「なあ土井垣、ここはお前のとっておきの店だって聞いてたが、こんな小さい店で良く騒がれずに飲めるな」
「ああ、ここはそういう店なんだ。来る客はみんな肩書きを外して、同じ客って以外は気にしないって言うのが暗黙の了解になっているんだ。客同士親しくなったら話は別だけどな」
「そうなのか…それから、宮田…の姉さん」
「文乃でいいわよ」
「じゃあお言葉に甘えて…宮田があんまり飲めねぇって事は知ってますが、文乃さんも飲めないんですか?」
「ええ、私は葉月以上の下戸。一口でも飲んだら寝ちゃうから、アルコールは厳禁よ。それに今は子育て中だしね」
「ああ、そういえばさっき旦那さんに子どものお世話頼んでましたね」
文乃の言葉に凛子は相槌を打つ。その言葉に土井垣が更に重い口調で続ける。
「ちなみに…旦那さんは俺達と同い年でな。俺には結構なプレッシャーだ」
「何?」
「うそ…」
驚いて文乃を見詰める二人に文乃は苦笑すると、説明する様に言葉を紡ぐ。
「幼馴染でね、何でだか分からないけどベタ惚れされちゃって。私が東京に出た後、彼はどうしても取りたい資格を取るために関西の大学に行かなきゃいけなかったんだけど、その時は手紙と電話攻撃。で、卒業したら追いかけて東京に就職して来てね。すっかりほだされちゃったわ」
「ずっと見てて柊兄と言ってたけど、隆兄のあの半ストーカー的根性はすごいと思うわ…」
「その割に文乃さんが絡まない時は落ち着いた人でな。とは言っても絡んでも暴力的とかではなく、大甘なだけだが…あの落差はどこから来るんだと、知り合って随分経つが今でも思うぞ…」
「一体…どんな人なんだよ…」
「一度会ってみたい様なみたくない様な…」
「良かったらいつでも遊びにいらっしゃい。私も子育てのガス抜きしたいから歓迎するわよ」
「はあ…」
くすくすと笑って言葉を紡ぐ文乃に、小次郎と凛子は生返事を返す。と、飲み物が運ばれてきて、皆で『楽しい縁に乾杯』と言って乾杯をした後、それぞれ自己紹介から雑談に移る。凛子は検察官という事もあって弁護士の文乃と法律論で話が弾み、楽しく飲みながら話す。葉月はそれを見て、楽しそうにニコニコと笑ってウーロン茶を飲んでいる。小次郎と土井垣は相変わらずチームの苦労話に花を咲かせていた。その内飲み物が切れると、今度は葉月が気を遣って声を掛ける。
「…あ、皆さん飲み物切れてる。どうします。お酒に変えます?」
「ああ、そうだな…凛も酒でいいか?」
「ええ、そうさせてもらうわ」
「じゃあ熱燗でいいですか?」
「ああ、頼む…文乃さんは同じものを頼みますか?」
「ええ、そうするわ」
「葉月はどうする?」
「あたしはお湯割の『スペシャル』頼みます」
「そうか…でも一杯だけだぞ」
「うん」
「何だその『スペシャル』って言うのは」
分からずに問い掛ける小次郎に、土井垣が説明する様に答える。
「ああ、葉月は知っての通り酒に弱いんだが、特にここの酒には弱くてな。普通に飲める量でも時々潰れるんだ」
「それじゃ飲んだらやべぇって事じゃねぇか」
「まあ聞け。ただ一種類だけ、ここの特性焼酎の水割りかお湯割りは大丈夫なんだ。量も葉月に合わせてマスターが上手に味を殺さない程度まで薄くしてくれてな。料理のうまいここのマスターでしかできない技だぞ」
「すごいんですね、ここのマスターって」
「ええ。おつまみを食べたらもっとすごいって思いますよ」
「でも葉月、あんまりお酒は飲まないようにね。うちの家系は皆弱いんだから」
「うん、分かってるよ。皆といて楽しい時しか飲まないもん」
「そう、ならいいわ」
「大丈夫ですよ、文乃さん。俺がちゃんと見てますから」
「将君、悪いわね。この子のお守りまでしてもらっちゃって」
「お姉ちゃん、『お守り』はないでしょ?」
「あら、あんたにはぴったりの言葉じゃない」
「そうだな。お前と土井垣だとどうしてもそんな感じに見えちまうぜ」
「犬飼さんまで、ひど~い!」
そう言うと一同は笑い、その後葉月が飲み物の追加を頼み、やがて飲み物と共に、つまみが運ばれてくる。その中の一品を見た土井垣と葉月以外の面々は、目を丸くした。そこにあったのは山盛りの野菜炒めだったからだ。しばらくの沈黙の後、小次郎が重い口調で口を開く。
「…おい土井垣、これは何だ?」
「見ての通り、野菜炒めだ。ここの名物でな、この人数なら丁度いいと思って頼んだ。葉月が大好物だからな」
「俺たちゃキリギリスじゃねぇぞ!野菜ばっかり食えるか!」
「あら、野菜も食べないと健康に良くないわ。宮田さん、正しいわよ。小次郎、好き嫌いせずに食べなさい」
「凛…俺はそういう意味で言ったんじゃねぇんだが…」
「でも…葉月がこの野菜炒め好きなの、分かる気がするわ」
「どういう事ですか?文乃さん」
凛子の問いに、野菜炒めを見つめていた文乃は静かに答える。
「この野菜炒め…うちの母が作る野菜炒めに似てるのよ。…うちは両親の仕事が忙しくて、食事も中々一緒にできなくってね。一緒の時は遅い事が多かったから、作り置きできるもの以外はすぐできるものっていう事で、野菜炒めはうちの母の定番だったの。だからこの野菜炒めを食べると、家での楽しい事を思い出すんでしょ?葉月」
「…そう。何だか皆でこれ食べてると家に帰った様な気がするから…嬉しいし、落ち着くの」
「そうなの…」
「宮田…」
文乃と葉月の会話に、凛子も小次郎も自分の家族の事を思い出し、ふっと寂しい気持ちになる。それを察した文乃が宥める様に二人に声を掛ける。
「ごめんなさいね。しんみりさせちゃって」
「いいえ…いい家族なんですね、宮田さんの家って」
「ええ。あたしはちょっとだけぐれたけど、この子はずっといい子だったからいい親だと思うわ」
「そうですか」
「ええ。あなた達の家族だっていいご家族でしょ?」
「はい」
文乃の言葉に、二人ははっきりと答える。小次郎は今弟と母しかいないし、凛子に至っては家族と呼べる存在はもう小次郎しかいない。しかし文乃の言葉で、どれだけ自分達が今の家族はもちろん、今は亡き家族にも愛されたかを思い出して、暖かな気持ちになる。その答えを聞いて文乃はにっこり笑うと、更に続ける。
「それにね、あなた達許婚同士なのよね。そうやって家族の愛を受けた分、あなた達が今度はそれを返す様にそうした家族を作る番なのよ。お互いを労わりあういい夫婦に、それから子どもが生まれたら愛を精一杯降り注ぐ温かい親になりなさい、二人とも。人生の先輩からのちょっと一言よ」
「…」
文乃の言葉に、小次郎と凛子は気恥ずかしくなり俯く。それを見て文乃はにっこり笑うと、今度は土井垣と葉月の方に顔を向けて言葉を掛けようとして絶句した。
「将君、葉月、あんたた…って」
そこでは土井垣が葉月を抱き寄せて頭を撫でながら言葉を紡いでいる最中だったからだ。
「すまん…そんな理由があったとは知らずに、ただ単に好物なんだと思っていた。…寂しかったんだな、葉月」
「あの、えっと…将さん…?」
「その内、お母さんから作り方を聞いて、俺が家で作ってやるからな」
「…はあ」
「…この二人は相変わらずね。これなら問題なしか…っと、ごめんなさいね」
そう言うと文乃は鳴っていた携帯を取り、電話に出る。
「隆君、どうしたの?…ああ、限界なのね。電話口に出してあげて…み~ちゃん、お母さんよ~?…ごめんね~すぐ帰るからね~泣かないでお父さんともうちょっと待っててね~…うん、帰ったら一杯抱っこしようね~…じゃあ、お父さんに『ど~ぞ』してね~。…ううん、こっちこそごめんなさいね。切り上げてこれからすぐ帰るわ。待ってて」
文乃は電話を切ると、申し訳なさそうに四人に言葉を掛ける。
「ごめんなさい。子どもがむずがっちゃって限界らしいから私はこれで申し訳ないけど失礼するわ。とりあえずこれで清算していて」
そう言うと文乃は五千円出す。土井垣は驚いて口を開く。
「こんなにかかりませんよ。とりあえず…三千円でいいです」
「そう?じゃあお言葉に甘えて…はい」
文乃は言う通りに三千円を出し直し、片手を上げて口を開く。
「それじゃあ、色々勝手な事言って、勝手に帰ってごめんなさいね」
「いいえ。楽しかったです」
「また是非お会いしましょう」
「文乃さん、その内遊びに行きますから」
「お姉ちゃん、早く帰ってあげな。美月ちゃん、きっと寂しがってるよ」
「ありがと…じゃあまたね。マスター、ご馳走様でした。また家族か友人とでも寄らせてもらいます」
「ああ、待ってるよ」
そう言うと文乃は店を出て行った。それを見送った小次郎がふっと笑って口を開く。
「一気に母親の顔になってたな。…俺達も、いつかああいう風になるのかな」
「そうね」
「そうありたいな…葉月」
「うん」
四人はそれぞれ文乃から暖かい気持ちを受け取り、それを口にする。小次郎はくくっと笑うと、更に口を開いた。
「じゃあ…この野菜炒めを食うか!」
そう言って四人は文乃の言葉を噛み締めながら野菜炒めを口にする。確かに家庭的な味で、葉月が家の事を思い出す気持ちが分かる気がした。そして一緒に頼んだのは焼き鳥ではなく焼きとんといって鶏肉ではなく豚肉の焼き鳥風で、これも名物だと土井垣は言う。種類がそれぞれ違うので、串から外して食べてみると少し塩気が強いがこれもおいしい。また運ばれてきた熱燗もおいしく、おいしい料理と酒にすっかり小次郎と凛子は上機嫌になっていた。
「お前がここをとっておきにする気持ち、分かる気がするぜ」
「だろ?それに、ここは俺と葉月を出会わせてくれた所だしな。俺にとっては特別な場所だ」
「そうなの?」
「将さん…それはホントですけど、恥ずかしい事言わないで下さい」
土井垣の言葉に、葉月は赤面して言葉を紡ぐ。その様子を見ていた小次郎が更に口を開く。
「どういう事だよ~さあ話してもらおうか、宮田」
ほろ酔いの勢いでにやにや笑いながらの小次郎の言葉に、葉月が戸惑っていると、不意に入口から賑やかな声が聞こえてきて、何人かの集団が店に入り、その中の一人が葉月に声を掛けた。
「こんばんはマスター…ああ、宮田さん、飲みに来てたんだ。珍しいメンツだよね」
「はい。…弦さんは今日会議でしたっけ?」
「そう。終わったから皆で飲みに来ようって来たんだ。沼さんもいるよ~」
「沼さんも?…あ、ホントだ」
「宮田ちゃん、おかえり~今日も出張無事に終わったんだ、良かったね」
「はい、おかげ様でお酒がおいしいです」
「土井垣ちゃんも久し振り。犬飼監督と一緒なんだ。そこのお嬢さんは誰の知り合い?」
「ああ、沼田さん、お久し振りです。彼女は小次郎の身内ですよ」
「そうなんだ。じゃあごめんね邪魔して、ゆっくり飲みな。マスター、松の間でいいかな」
「ああ、その人数ならその方がいいね。空いてるからどうぞ」
そう言うと集団は奥の座敷へ入っていった。小次郎は土井垣にくくっと笑いかける。
「『土井垣ちゃん』…だって?可愛いじゃねぇか」
「…うるさい、ほっといてくれ。お前も親しくなったら『犬飼ちゃん』か『小次郎ちゃん』と呼ばれるぞ」
「それは…嫌だな。まあ話を戻して…あれは誰だ?」
「俺に話しかけてきた人は沼田さんと言って、葉月の職場の先輩で、俺とも親しい人で…その、葉月との縁を作ってくれた人なんだが…残りはちょっと俺にも分からん。葉月、誰だ?」
「最初に話しかけてきた人は坂本弦さんって言って、うちの職場の事務長です。後は病棟とか総務とか、皆うちの病院の職員ですね。今日会議があったから、終わった後ご飯ついでの飲みに来たんでしょう。ここ、うちの病院から近い事もあって、病院の人も溜まり場にしてますから」
「へぇ…で、今さらっと流そうとしたが、特別な場所だとか、縁を作ってくれたって言うのはどういう事だ?確か合唱仲間と飲みに来る様になって知り合いになったって言ってたよな、前」
小次郎のにやにや笑いながらの言葉に、土井垣と葉月は赤面して絶句するが、やがて葉月がぽつり、ぽつりと経緯について説明する。
「へぇ…じゃああの沼田って人とここに飯食いに来て会ったのが、こいつとの初対面だったのか」
「はい…で、合唱団に勧誘してくれたのも、あの沼田さんともう一人、同じ保健師の上野さんなんです」
「そうなの…色々な縁が重なっているのね」
「はい」
「そんな縁からお互いが繋がって行ったって言うのも何だかロマンティックでいいわね」
「…」
「おい凛、ってこたぁ俺との経緯には納得してねぇって事か?」
「ううん、私達みたいに自然にお互いを選ぶって言うのももちろんいいわ。でも沢山の縁の中からお互いに繋がるって言うのも素敵だなって思って」
「…そうか」
「宮田さん、そんなに素敵な縁なんだから、土井垣さんを大切にしなきゃ駄目よ」
「はい」
凛子の言葉に、葉月は恥ずかしげにだが、それでも素直に頷く。そうしてまたしばらく飲み明かした後、10時頃四人はお互いの時間を大切にしたいからと切り上げる。そこで勘定を割り勘にしてみると、3000円づつでも若干お釣が出る位に収まってしまうその安さにも驚いた。
「結構飲み食いしたつもりなんだがなぁ…」
「安くて、おいしくて、いい所ですね、マスター」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。またぜひ飲みに来てね」
「はい。ぜひ寄らせてもらいます」
「じゃあ、ご馳走様でした、マスター、奥さん」
そう言うと四人は店を出る。店を出た所で小次郎が口を開く。
「じゃあ、俺は凛と一緒のホテルだから一緒に帰るが…お前らはどうするつもりだ?」
小次郎の言葉に、土井垣は少し考えた後、葉月に言葉を掛ける。
「葉月、明日は早朝出勤じゃないよな」
「うん、定時だけど…」
「じゃあ、今晩は泊めてくれ。…折角のオフだ。少しでも一緒にいたいからな」
「…ん…」
土井垣の言葉に、葉月は恥ずかしそうに頷く。それを見た小次郎と凛子はそれぞれ微笑ましそうに口を開く。
「全く、『闘将』って呼ばれてる男なのに、宮田にかかっちゃ本当に可愛いよな」
「でも、素直になれる人が好きになれるっていい事ね。見習いたいわ」
「…」
二人の言葉に、葉月と土井垣は赤面して沈黙する。その二人に手を上げて小次郎は口を開く。
「じゃあな。また飲もうぜ。宮田もその内高知とか松山に来いよ。いい店教えてやるから」
「はい、夏場辺りにでも試合観がてら行かせてもらいますね」
「じゃあ土井垣、ちゃんと宮田を守って帰れよ」
「ああ、お前もな。じゃあな」
そう言うと二組のカップルはそれぞれの方向に歩き出す。そして小次郎と凛子は取っていたビジネスホテルへと帰るとそれぞれの部屋でユニットバスを使い、凛子が小次郎の部屋へ行き、ビールを改めて飲み始める。
「楽しかったわね」
「ああ、宮田の姉さんも明るくていい人だったしな」
「ええ。それに…文乃さんの言葉、大切にしなきゃって思った」
「凛…」
「『愛をもらった分、愛を与え合う』…って、文乃さんもきっといろんな事があって行き着いた言葉なんだって、聞いていて分かったわ。それに、宮田さん達と違って私は小次郎を自然に選んだけど、そうやって愛する存在を自然に選べたって事が本当に幸せだと思うの。だから、私も小次郎にもらった愛をちゃんと小次郎にも、いつか生まれてくると思う小次郎との子どもにもあげられたらって思うわ」
「…そうか」
「ええ」
そう言って微笑む凛子に、小次郎はキスをすると、囁く様に声を掛ける。
「俺も…凛を自然に選べた事が幸せだって思うし、ちゃんと愛を与えたいって思うぜ」
「…そう?」
「ああ」
「…良かった」
「…じゃあ、幸せをもっと実感するか」
「小次郎ったら…」
小次郎の言葉の意図を察し、凛子は顔を赤らめる。そんな彼女の?を上げて、小次郎は彼女にもう一度深くキスをした。