冬のある日、葉月は土井垣の家族に挨拶するために彼に連れられて彼の家へと訪問した。しかし彼と彼女の家族には二人が見合いで意気投合して話が進んだ事になっている。というのも元々二人は共通の知り合いがいた関係で出会っていてお互いに恋をし付き合い始めていたのだが、それを知らなかった土井垣の祖父が親友だった彼女の祖父の弔問に来た時に、その場にいた彼女を一目で気に入り見合い話を持ちかけ、悪ノリが好きな彼女が乗って土井垣は知らずに彼女と見合いとなり、その後どうするか考えていなかった彼女の悪ノリの収集をつけるためにも、自分と彼女の付き合いをこのまま公認で続けるためにも結局『本当の理由を話すと面倒な事になるから、お互い初対面で気に入った事にして、進めてしまおう』となり、話を進めたからである。そして土井垣は少し前に葉月の家族に挨拶をし、彼のネームバリューを度外視してその誠実さと実直さを彼女の家族に気に入られ歓迎された上で、今度は初めて彼女が彼の家へ挨拶に来たのである。葉月は初めて土井垣の家族に会うので少し緊張していたが、彼の性格や彼の祖父の様子を見てきっと優しくていい家族だろうと信じていたので、その緊張も嬉しいもので、むしろ土井垣の方が彼女の外見や気立てはともかく、病弱だという事で嫌がられないかと心配でハラハラしていた。彼の家の近くの道を歩きながら彼はその心配を口にする。
「…なあ」
「はい?」
「大丈夫か?」
「何がですか?」
「いや…もし俺の家族に『俺の様な職業の男の女房になるんだから健康な女性じゃないと』とか嫌味を言われたりしても…お前は耐えられるか?」
 土井垣の不安そうな言葉に、葉月はふわりと微笑んで返す。
「大丈夫です。将兄さんのご家族ですもの…そんな事絶対に言う方達じゃないって…あたし、信じてますから」
「…そうだろうか」
「そうですよ」
「…そうか」
 そう言って沈黙する土井垣の腕に葉月はそっと自分の腕を絡める。滅多にない彼女の自発的な行動に驚いた表情を見せ赤面する彼に、葉月はまたにっこりと微笑んで言葉を紡ぐ。
「…ありがとう、心配してくれて」
「…」
 土井垣は赤面したまま無愛想な表情で葉月の顔を見ない様に顔を背ける。彼女はそんな彼の様子にまた幸せそうににっこりと微笑んだ。そうして土井垣の家の前に来た時に、不意にショートカットに薄手のオレンジのセーターにジーンズ姿の気風のよさそうな女性が土井垣に声を掛けてくる。
「あら、将じゃない、帰って来たの?」
「ああ…何だサキか」
「『何だ』じゃないわよ、久しぶりに会った幼馴染に対する第一声がそれ?…っと、あら、そちらの可愛らしいお嬢さんは?」
 土井垣が『サキ』と呼んだ女性に葉月は丁寧に挨拶する。
「初めまして…宮田葉月と申します。あの…土井垣さんとはこの度お見合いをして…その、お話が進みまして…」
「え~!?将!お堅い…っていうか女に興味無さそうなあんたがお見合いなんかしてたの?しかも話進めてるって…いつ槍が降るかしら」
 からかう様なサキの言葉に、土井垣は無愛想に応える。
「うるさい、サキ…この見合いはじいさんたっての願いだったから断れなかったんだ。だが、会ったら気に入ってな…俺だって強引に仕立て上げられた見合い話だったとしても、気に入れば話を進める」
 無愛想な土井垣の言葉にサキはふと不敵な、しかし少し寂しげな笑みを見せて悪戯っぽく言葉を紡ぐ。
「ふぅん…じゃあ、あたしと結婚するって言ってたのは嘘だったんだ」
「え…?」
 驚いて哀しげな表情を見せる葉月を見て慌てながら土井垣はサキに対して声を荒げ、葉月を必死に宥める。
「待てサキ、それは何年前の話だ!…ああ葉月、誤解するなよ。この話は小学生やら中学生の頃の事だからな」
「あらまぁ、お見合い進めたにしては、もう名前呼び捨てなんだ~お熱い事で。…じゃあね、後でうちの家族も含めて『葉月さん』も一緒に飲みましょう?」
「あ…はい…」
 一応承知してはいるが戸惑う葉月を見て、土井垣は不機嫌に応える。
「来んでいい…むしろ来るな」
「い・や。あたしだって『葉月さん』と仲良くなりたいもの。じゃあ後でね」
 そう言って土井垣の家の隣の豆腐屋に鼻歌交じりで入っていくサキを葉月はどこか寂しげに見送った後、土井垣に問いかける。
「あの…あの方一体誰なんですか?」
 土井垣はなるべくならもう少し仲が固まってから話そうと思っていたのだが、こうなってしまっては逆に不安の多い彼女の不安が増えるだけだと思い、正直に答える。
「彼女は…江國サキと言って俺の同級生で、今は教師をしている。で、この通り隣同士で…その、仲のいい幼馴染だったんだ」
「…あ、確かに。『江國豆腐店』ってありますね」
「葉月には誤解されたくなかったからもう少し…その、しっかり仲が深まったと実感してから紹介しようと思っていたんだが…すまんな、隠していて」
「いいんです。そうして気を遣ってくれたんだし…でも」
「でも?」
 葉月は一瞬寂しげな表情を見せたが、すぐににっこり笑って土井垣の腕を引く。
「…あ、いいえ、何でもありません。それより、お家に入りませんか?」
「…?…ああ、そうだな」
 そう言うと二人は玄関のインターホンを押した――

 家に入ると居間に通され、土井垣が父の正面に座ったのとは対照的に葉月はまず入口に自ら座り、土井垣の両親を驚かせる。土井垣の祖父は満足そうに笑って頷いていた。その後葉月は土産の包みを脇に置き、三つ指をついて丁寧に挨拶する。
「初めまして…宮田葉月と申します。どうかよろしくお願いいたします」
 控え目な彼女の様子を見て土井垣の父は静かに彼女に声を掛ける。
「葉月さん…と言ったね。まずはこちらに…将の横に座りなさい」
「はい…失礼します」
 そうして促された後葉月は控えめに土井垣の隣に座ると土産の包みを開き、口を開く。
「それからこれは…つまらないものですがお土産の小田原の銘菓です。どうか召し上がって下さい」
 そう言って葉月は横に座っていた土井垣の母に包みを渡して一礼する。礼儀をわきまえた葉月の態度に土井垣の両親は感心し、土井垣の父が口を開く。
「本当に父が言った通り、気立てのいいしっかりしたお嬢さんだ。ありがとう。さてお菓子だが…今開けていいかな」
「ああはい、どうぞ。かまわないのであれば開けて下さい」
「じゃあ…開けてくれ」
「はい、あなた」
 そう言うと土井垣の母は包みを開け、中に入っているお菓子の詰め合わせを見て感嘆の溜息をつき、土井垣の祖父は喜びの声を上げた。
「まあ…本当に趣味がいいお菓子の選び方だわ」
「おお!これは儂の大好物の『幻庵』ではないか」
「あ…はい、祖母からおじい様はそちらが大好物だと聞きましたので、菓子店で頼んで詰めて頂いたのですが…」
「しかも一番多く入れておるではないか。ありがとう。やはり心根が優しいの」
「それに、他のお菓子の選択も今妻が言った通り品がいい。ここにもあなたの性格が表れている様だ」
「ああ…いえ…」
 一見聞くと褒め殺しのようだが、悪意のない本当に心からの感嘆の言葉に、葉月は戸惑う。土井垣の父はそんな彼女の可愛らしい様子が気にいった風情で満足げに口を開く。
「こんなにおいしそうなお菓子は今食べないと損だな。茶をいれてくれないか」
「はい、あなた…ああ、そうだわ。お義父様に聞いたのだけれど、葉月さんはお茶を入れるのが上手だそうね。茶道の心得などもあるのかしら?」
「ああ…いいえ、私は茶華道の心得はございません。申し訳ありません無作法で」
 葉月の正直な言葉に土井垣の母はにっこり微笑んで優しく言葉を紡ぐ。
「まあ、正直でいいこと。ならお手前のお話でもしながら、普通のお茶だけれど一緒にいれましょうか。さ、台所へ行きましょう?」
「えっ?もう台所に入ってよろしいのですか?」
「ええ。女は女同士…ね。いいわね将さん」
「あ…ああ」
「じゃあ、行きましょうか」
「…はい」
 そう言うと土井垣の母はお菓子を手に、戸惑っている葉月を連れだって台所へと姿を消す。それを心配そうに見送っている土井垣に、土井垣の父は安心させる様に言葉を掛ける。
「大丈夫だ。母さんも葉月さんの事が一目で気に入った様だ」
「そうでしょうか…」
「ああ」
 心配そうに呟く土井垣に、土井垣の祖父はにんまり笑いながら言葉を紡ぐ。
「ふぅむ…すっかり惚れ込んだ様じゃな。儂が言った通り、いいお嬢さんじゃろう?」
「そうですね、父さん。可愛らしいし、礼儀正しいし、あの様子だと気立てもよさそうだ。身体は余り丈夫でないそうだが、それを補って余りあるいいお嬢さんじゃないか。見合いをして正解だったな、将」
「ええ…はあ…」
 『そんな事は最初から知っている』と反論したかったが、それを話したら全てを話さなければならない。それはまた面倒なので適当に言葉を濁していると、土井垣の祖父はさらにからかう様に言葉を重ねる。
「おうおう、一人前に照れおって。もう嫁にした気分か」
「おじいさん!そうではなく…」
「いいいい、どうせすぐに嫁に来るんじゃ。あちらの家は姉上が婿を取るそうじゃし、葉月さんを後継ぎの養女としてふさわしい婿を探して貰い受けようとしておった酒匂の家は、お前らに子供を何人か産んでもらって、その子のうち一人を独身の息子の養子として貰い受けられれば、と言っておる。まあせいぜい葉月さんの身体を大事にして、子孫繁栄に励むがよい」
「まあ子供云々は別にしてもあんなにいいお嬢さんだ。大事にしろよ、将」
「…」
 そう言うと土井垣の祖父はカラカラと、土井垣の父も明るい声で笑う。土井垣は話の生々しさと恥ずかしさに赤面して沈黙した。そうしている内にお茶とお菓子が運ばれてきてお茶とお茶菓子を口にしながらの会話に移っていく。一家は葉月のお茶を口にして感嘆の声を上げる。
「ふむ…前も思ったがやはりうまいな」
「本当にうまい…葉月さんの歳でこの位のお茶がいれられるとは本当に珍しい」
「きっと、ご家族のしつけがよろしいのね。お料理などはどう?」
「あの…料理は基礎くらいしかできなくて…」
「いや、謙遜していますが料理も彼女はちょっと慣れていないだけで、かなりの腕前ですよ」
「何じゃ将。その知った様な口ぶりは」
「…!」
 思わず口を滑らせた土井垣は『しまった!』と顔を硬直させたが、すぐに頭を回転させて、取り繕う様に言葉を重ねた。
「ああ、いえ…その…そう、この間葉月さんのご家族と会った時に、夕食をご馳走になったんです。その時に彼女の手料理を食べて、本当においしかったものですから…」
「ほう…?まあいい。でもそんなにうまい料理なら儂も食いたいぞ」
「私も食べたいな」
「私は葉月さんとお料理がしたいわ。…じゃあ、満場一致という事で今日の夕食は葉月さんにも手伝っていただいて、一緒に食べましょう。そうだわ、お隣の江國さんご一家も呼んで宴会にしようかしら」
「母さん!葉月さんに料理を手伝ってもらうのはともかく、サキ達は呼ばなくても…」
「あら、サキちゃんは家族みたいなものじゃない。葉月さんをそんなサキちゃんに紹介したいし。それに、いつもなら宴会って言うと率先してサキちゃん達を呼ぶ将さんにしてはおかしいわね」
「そ…それは…その…そう、葉月さんが気を悪くするでしょう。いくら家族同様の付き合いだからって、その…初対面の夕食でいきなり身内に近い扱いをしている、他の年頃のひとり身の女性を呼んだら…」
 土井垣の狼狽しながらの言葉に土井垣の父は怪訝そうな表情で言葉を紡ぐ。
「こういう事には気が利かない将にしては、随分と気の利いた事を言うじゃないか。…しかし大丈夫だ。サキちゃんだったらきっと祝福してくれる。まあ葉月さんが確かに気にするかな」
「ああ、いえ…私は気にしませんから。それに、サキさんとももう少しお話したいですし」
「あら、葉月さん、サキちゃんに会ったの?」
「はい、こちらに上がる前にご挨拶した程度ですが…お会いしました」
 葉月の言葉に、土井垣の父はにっこり笑って更に言葉を紡ぐ。
「だったら話は早い。江國さんに電話をかけて夕食に呼ぶか。だとしたら、酒を用意しないとな」
「じゃあ儂とお前で買って来よう。こういう席じゃ、いい酒を用意せんとな」
「葉月さん、じゃあお料理を手伝ってもらえないかしら」
「あ…はい、でも私今日はエプロンも割烹着も持ってきていなくて…本当に無作法で申し訳ありません」
「いいのよ。初めての訪問でこんな事になるとは思わないでしょう?そうね…私の割烹着は少し体格が合わないから、将が中学の時使っていたエプロンを貸してあげるわ。だから手伝ってくれる?」
「はい。…分かりました」
「じゃあ俺も手伝…」
 口々の家族の言葉に、土井垣は葉月をサキにあまり関わらせない様に守ろうとしたが、それも悪気のない家族に拒まれる。
「いいわよ。私は葉月さんと二人で料理がしたいの。将さんは今回邪魔」
「将は部屋でリードの事でも考えていろ」
「…はい」
 そう言うと土井垣の祖父と父は酒を買いに行き、土井垣の母は再び葉月を連れて台所へと姿を消す。仕方がないので部屋に行くと、不意に窓ガラスがカチンと音を立てる。怪訝に思って窓を開けると、目の前の窓辺でサキが笑ってこちらを見ていた。
「…何か用か」
 余り今はありがたくない顔に、土井垣はむっつりとした表情を見せて無愛想に対応する。サキは明るく笑いながら言葉を紡ぐ。
「何よ、そんなつっけんどんな態度しなくたっていいじゃない」
「お前の存在と不用意な発言でどれだけ葉月が傷つくかお前が分かってないからだ」
 土井垣の無愛想な言葉に、サキは更にからかう様に言葉を重ねる。
「あらあらものすごい惚れ込み様ね。お見合いで気に入ったにしてはずいぶんお熱いじゃない」
「どうだっていいだろう。そんな事」
「どうでもよくないわよ。あんたを待って嫁き遅れたあたしの責任は誰がとってくれるのよ」
「お前…何を言って…」
 サキの意外な言葉に土井垣は狼狽する。狼狽する彼を見つめ、彼女は寂しげに言葉を紡ぐ。
「だから、そういう事よ…あたしはあんたがずっと好きだった。高校行って遠い存在になった気がしたけど、甲子園に行く時も、監督になった時も、プロに入る時もこうやって窓越しに所信表明をあたしだけにしてくれた。だから望みは残ってるって思ってたのに…」
「サキ…お前…」
 俯いたサキの目に涙が光っているのを見て、土井垣は更に狼狽する。そうしてしばらく居心地の悪い沈黙が続いた後、俯いていたサキは急にくくくっと笑い出し、やがて大爆笑する。
「や~だ将、シリアスになっちゃって~!学校の演劇クラブの顧問やっててそこの指導して仕込んでるんだけど、そんなにあたしの演技、うまかった?」
「サキ、お前は~!」
 からかわれたと思った土井垣は、怒りのあまり怒声を上げる。それを見たサキは手をパタパタ動かしてコロコロと笑いながら言葉を紡ぐ。
「馬鹿ね~、あたしが中学の頃の約束を未だに期待して待つ様な女だと思ってたの?あたしが結婚しないのはあたしの意志。仕事がおもしろいし、いい男がいないから。もちろんあんたは論外」
「…それも何だか腹が立つ」
「…ま、いいじゃない。じゃあさっきおじさんから連絡あったから、また後でそっちで会いましょ。それまでこれでも飲んでなさい」
 そう言うとサキはスポーツドリンクを投げ渡して窓を閉めた。土井垣は受け取るとしばらく隣の窓を見つめた後、窓を閉めながら呟く。
「全く…訳が分からん」
「…そう、本当に…馬鹿なんだから」
 そしてその窓の向こうでは、サキが涙を零しそう呟いていた――

 そうして夕刻になり、サキの一家が訪れる。サキの母はタッパーに入れた手料理を出迎えた土井垣の母に手渡しながら、言葉を紡ぐ。
「今晩は。この度は本当におめでたい席に招待して頂いて、ありがとうございます。これは足しにと思って用意したうちのがんもどきを煮たものです」
「ありがとうございます。頂きますね」
「いや~将君がいつの間にか見合いをしていたとはね~。それで、そのお嬢さんはどちらに?」
「今お料理の盛り付けをしていますわ。おっとりしている様でてきぱきと動くし、気立ても良くて物覚えもいい、サキちゃんとはまた違った雰囲気だけれど、同じ位素敵なお嬢さんよ」
「そうですか。さっき会った時に、可愛らしいけれど筋が通ってるなって思ったのは間違いじゃなかったんですね」
「まあ、そんな風に見てくれたの?嬉しいわ。サキちゃんも本当にいい娘ね」
「ありがとうございます、おばさん」
 そうしてサキ一家は家に上がり、サキは父や祖父と居間で待機していた土井垣に明るく声を掛ける。
「将、おめでと。いい娘を貰えていいわね」
 サキの一見悪意のない祝いの言葉に土井垣は照れ隠しの無愛想な態度で言葉を紡ぐ。
「まだ…結納も交わしていないし…話が決まった訳じゃない」
「将、お前はまさか葉月さんを嫁にしないつもりか」
「ああいや、そういう訳じゃ…」
「ヤブヘビね、将」
 自分の失言で突っ込まれ狼狽する土井垣を、サキは笑って見つめる。しかし料理を運んできた葉月だけは、そのサキの明るい態度に無理があると気づいていた。しかしその理由は自分と彼女が同じ立場だからだと分かっているので何も言えずに、自分も無理をした笑顔と明るい態度でサキ一家に対応した。食事と酒を口にしながら、土井垣一家とサキ一家は葉月の事を聞いていく。
「ふむ…本当にうまいな。そう言えば酒匂の細君も料理上手じゃったな」
「そうですか?ありがとうございます。私の料理は母はもちろんですが、祖母からも教わったものが多いですから、おじい様のお口に合うのかもしれませんね」
「そうなのか…それで仕事は病院の保健師をしているんだってね。しかも外回りの健診部門にいると…不規則な仕事だと聞いたが、あまり丈夫ではないのだろう?大変じゃないか?」
「いえ…確かに大変な事もありますが、周囲がフォローして下さいますし、何より私は現場を回って身体を動かしながら直に受診者様と関われるこの仕事が大好きですので、楽しくやっています」
「そういう風に身体を動かすのが好きだから、神輿も担ぐのが好きなんだね」
「はい…こちらの担ぎ方だと私の体力では中々持たないんですが、地元の担ぎ方なら何とか」
「そうか。この辺りはどっこいできついが、葉月さんの地元は小田原流じゃったな。そういえば、確か君の叔父上に当たる酒匂の息子達は木遣保存会に入っておったはずじゃが…葉月さんも木遣は唄えるのか?」
「はい…修業中であまり上手ではありませんが、少しずつ覚えてはいます」
「神輿といえば、お祭りの時は巫女もやっているそうね。将さんから聞いたわ」
「あ、ええ…縁起担ぎに駆り出されて、他にやる人がいないので…」
「それに合唱もやっていらっしゃるのね…歌はうまいの?」
「まあ…普通です。今入っている合唱団には声が大きいのを買われて勧誘されただけで」
「いや葉月さん、君は昔声楽の分野でかなり有名だったそうじゃないか」
「それは誇張された話ですよ。確かに声楽はやっていましたが有名って訳じゃ…」
「声楽をやっていて宮田葉月…ええ!?まさか『奇跡の歌声』って声楽では将の後輩の殿馬君並みの高い評価受けてたのに、将が弁慶高校に負けた同じ時期頃に、いきなり歌うのをやめて姿消して、高校音楽界で伝説の存在になってる宮田葉月って…まさかあなた?」
「え…?江國さん何でそれ…」
「やっぱり…音楽はあたし好きだからちょっとは詳しいの。カマかけてみたんだけど…引っかかったわね。ふぅん…そんな存在を将、手に入れたんだ~」
「そんな素晴らしいお嬢さんだったのね。将さん。本当に良かったわね」
「…」
 一同のからかう言葉に葉月と土井垣は沈黙する。そうして楽しく酒と料理が進んでいくうちに、不意にサキの父が残念そうに言葉を紡ぐ。
「…いやしかし、こんなにいい話とはいえ、私は少し残念だな。サキを将君に貰ってもらえるかと思っていたから」
「そうですね。私も実を言うと、この話がなければサキちゃんと将を結婚させようと思っていましたよ」
「父さん!おじさんも!葉月さんに失礼な事言わないで下さいよ!」
 声を荒げる土井垣を宥める様に葉月は優しく、しかし無理がある微笑みで言葉を紡ぐ。
「…ああ、いいんです。私は気にしていませんから」
「葉月さん、でも…」
「でもサキちゃんと葉月さんじゃ、確かに迷うわね。どちらも最高に素敵なお嬢さんだから」
「あらまあ、そう言ってもらえると嬉しいわ」
「どうじゃ将、ここで嫁選びをもう一度考えるか」
「そうしてもらえると私は嬉しいな。もう一度考え直してくれんか?将君」
「おじさん…その…」
 余りの展開についていけずに狼狽する土井垣を葉月はふっと哀しげに見つめたが、すぐに無理があったが微笑みに戻り、すっと立ち上がって言葉を紡ぐ。
「…あの、盛り上がっているところ申し訳ないのですが…私少し酔ったみたいですので…あの、外の空気を吸ってきます」
 葉月の言葉に土井垣は話が逸れた事に安心しつつも、葉月の酒の弱さを知っているので気遣う様に言葉を紡ぐ。
「ああ、そうか。葉月さんはお酒があまり強くなかったな。行って来るといい」
「ありがとう、土井垣さん。…では失礼いたします」
 そう言うと葉月は部屋を出て行った。その目に先刻の自分の様に涙が光っているのをサキは見逃さず、彼女が出て行った後土井垣に近寄ると…

――バチーン!――

 次の瞬間、土井垣はもんどりうって転がっていた。サキがいきなり一発平手打ちをしたのだ。いきなりのサキの行動に土井垣は頬を抑えながら起き上ると、声を荒げる。
「サキ、何するんだ!」
「馬鹿!あんたはホントに大馬鹿者よ!」
「サキ…?」
 サキのいきなりの言動に訳が分からず呆然とする土井垣に、サキは葉月が座っていた目の前の机を指して、更に声を荒げる。
「見なさいよ!どこに葉月さんのお猪口やビールコップがあるの!?葉月さん一口もお酒なんか飲んでないわ!ずっとウーロン茶やジュース飲んでるか、お酌しかしてなかったわよ!」
「…あ」
 そういえば乾杯の時にも葉月は『申し訳ありません、私はビールが苦手ですから』とウーロン茶にしていた。土井垣は彼女が酒を飲んでいなかった事を迂闊にも今更になってサキの言葉で気づき、言葉を失う。サキは声を荒げながら続ける。
「なのに何であんな風に言って出て行ったか…分からないの!?そんな無神経だから!…あたしの気持ちにも気付かなかったのよ!」
「サキ…」
「サキちゃん…」
 サキの言葉に、土井垣一家とサキ一家は目が覚めた様にサキを見つめる。サキは土井垣の眼前に座り込んで目を合わせ、真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。
「あんたの気持ち、はっきりさせてよ。…でないとあたし、諦める事も、懲りずにアタックする事も…できないじゃない…」
「…」
 二つの一家は固唾を飲んで二人を見つめる。土井垣は酔った頭ながらもサキの真剣さを受け取り、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「…俺は、ずっとサキの家の豆腐が大好物だった…」
「は?」
 土井垣の突拍子もない言葉に、サキを抜いた一同は声を上げる。それでもサキは真剣に言葉を聞いていた。土井垣は続ける。
「今までも試合の時の験担ぎには、サキの家の豆腐を食っていた。でも…初めて葉月と夕食をとって、葉月が出してきた葉月の実家の近所の店の豆腐を食った時…ああ、この豆腐が本来俺の食っていく豆腐だって…分かったんだ…」
「…そう」
「もちろん、サキの家の豆腐がまずくなったわけじゃない。うまいのは変わらない。でも俺の心に本当に響いた味は、葉月が出してくる、その豆腐だったんだ…」
「…」
 土井垣の言葉に、サキは泣き笑いの顔になったが、それでも嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「ありがと…これで諦められる。…でも」
「でも?」
「もう一発殴らせて。こんな無神経な男に惚れちゃった自分の…想いを断ち切りたいから」
「…ああ」
 そう言うとサキはもう一度土井垣の頬をバチーン!と強く平手打ちして、土井垣を立ち上がらせながら送り出す。
「…さあ、行ってらっしゃい。で、今の言葉、そっくりそのまま葉月さんに言ってあげる事。分かった?」
「…ああ」
「その後は部屋で二人っきりにしてあげるから好きになさい。…いいでしょ?おじさん。お酒の相手はあたしがしますから」
「おお、それはいい!将、邪魔はしないから好きにするといい」
「私達はうちへ移って勝手に宴会をしているから、二人で仲良くしなさい」
「ふぅむ…ひ孫の顔がすぐにでも見られるかもしれんのう!」
「!」
 土井垣は一同の言葉に赤面しながらも葉月を探しに家を出るが、それ程探さずともすぐに見つかった。彼女は庭で膝を抱えてしゃがみ込み、すすり泣いていたからだ。土井垣はそっと近づくと、背中から包み込む様に抱きしめる。驚いて葉月が振り返ると、土井垣は囁く様に言葉を紡ぐ。
「…すまん」
「将兄さん?」
「サキに…殴られて、叱られた。俺の無神経さを」
 土井垣の口から出たサキの名前に、葉月はビクンと身体を震わせると、呟く様な口調だが冷淡に言葉を返す。
「…あっちに…行って下さい。サキさんの話は聞きたくありません」
「いいから聞け。俺は…お前しか見えていない。サキの事でお前を傷つけていた事にも気付かない位俺は鈍い…いや、無神経だから…お前も、サキも傷つけた。でも…だからこそちゃんと言う。…サキのうちの豆腐で育った俺なのに、お前が出してくれた伊豆谷の豆腐を一口食っただけで、俺の食う本当の豆腐はこれだ、と思ったんだ。つまり…俺が愛していて、一緒に生きていきたいのは…お前だけなんだ」
 土井垣の言葉に葉月は今度は細かく身体を震わせる。彼が彼女をよく見ると、彼女はまた泣いていた。静かに涙を零す彼女を、彼はただ静かに、力強く抱き締める。そうしてしばらくすると葉月は泣きやみ、手の甲で涙を拭って静かに言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、勝手に…嫉妬しちゃって。でも…あたしはサキさんの気持ち…最初に会った時から、痛いくらい分かったから…」
「もういい…いいんだ。サキがどう想っていても俺にはお前しか見えてないんだから…でも、不安が強いお前なのに、はっきりしない態度をとっていたんだから…俺こそ謝らんといかん…すまなかった…でもな」
「でも?」
「お前がこんな風に分かりやすい嫉妬をしてくれたのは…少し嬉しい。いつもお前は不安が強い分、嫉妬をしていてもおおらかというか…やけっぱちな態度を取るからな」
「…」
 土井垣の言葉に、葉月は顔を赤らめたが、やがて、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「だって…将さんの過去の女の人は過去になってるからって、何とか割り切れるけど…サキさんはいつ現在進行形になるか分からないもの。それが嫌だったの。…あたしは、将さんの事…それ位…」
「それ位?」
 土井垣が問い返すと、葉月は消え入りそうな声で呟く。
「…てるんだもの」
 本当にかすかな声だったが土井垣は全部聞こえ、その言葉に幸せを感じ、彼女を立ち上がらせもう一度抱きしめると、そっとキスをして囁く。
「…さて、この後俺達は好きにしていいと言われたんだが…その…どうする?」
「…」
 土井垣の言葉に葉月は顔を真っ赤にして沈黙する。その様子が不思議で土井垣は問いかける。
「どうした?」
 葉月は顔を赤らめたまま、また消え入りそうな声で応える。
「それ…言わせるの?」
 その言葉に土井垣はふっと笑うと彼女を抱きあげてもう一度深く口づけると囁いた。
「それも…そうだな」
 そのまま二人は家の中へ入って行き、その後の事は言うまでもなく――