「…じゃあ、マルヴィーダ様との縁談が決まってしまったの?」
「…ああ」
 ここはベルリン郊外にある一軒家の一室。ブロッケン一族の執事見習いであるクラウス・ベルガーとその妻であるイザベルは、彼女のいれてくれたお茶を飲みながら話していた。イザベルの言葉に、クラウスは少し暗い口調で続ける。
「何とか思い直す様にテオドールと説得をしてみたんだが、フランツも強情というか…もしかすると絶望しているかもしれない」
「…そうね」
 彼女も夫の主人兼親友である男を良く知っているので彼と夫の気持ちを察し、溜息をついた。親友の婚約なのだから本当は喜ばしい事のはずであるのに、二人がこうして沈痛な表情になるのには理由があった。本来なら主人兼親友であるフランツが婚約するはずだった恋人である女性は別の女性だったのだ。しかし、その主人兼親友である本名フランツ・フォン・ブロッケンは実は残虐超人、そして『ドイツの鬼』として怖れられているブロッケンマンであり、恋人である女性のアマーリエ・シェリングは『ピアノの歌姫』と国民に愛されている存在。国民たちはこの二人の恋を許さず、また一族も彼の両親はともかく、アマーリエが貧しい庶民の出、しかも孤児である事を理由に強い反発を示し、二人は涙ながらに別れたのである。そしてここぞとばかりに一族は自分達の勢力を広げようとそれぞれ自分達に都合のいい女性を彼の婚約者にと差し出して来て、そしてその中からブロッケンマンが選ぶ形で遠縁であるマルヴィーダ・フォン・ブロッケンが選ばれたという次第だからである。クラウスはお茶を一口飲むと更に口を開く。
「まあ、マルヴィーダ嬢を選んだ所はまだ理性が残っていると言ってもいいかもしれないが…彼女は聡明だし、心も優しい。フランツにも好意を寄せてくれている…しかし」
「でも?」
「あいつはまだ…いやこれからもずっとアマーリエに心を捧げるだろう。…この結婚が愛のないものになるのは確実だ」
「…そうね」
 事の次第を良く知っているイザベルもクラウスの言葉に同意する。クラウスは続けた。
「愛のない結婚がどれだけの不幸を呼ぶか…それに当主という重い責務を負ったあいつの一番傍にいるべき人間は、あいつが一番愛し、そしてあいつを一番愛してくれる存在だと私は思う」
「どういう事?」
 イザベルの問い掛けに、クラウスはふっと笑って答える。
「重い責務を負う身には、お互い愛し合い、安らぎを与えられる相手が必要なんだ。そうして重い責務を負って疲れた身体と心が癒される…私も父に言われた時には良く分からなかったが、今ならその言葉の意味が良く分かる。…私もイザベルにどれだけ助けられているか…ありがとう」
「いいえ、私こそ…あなたに愛されて幸せだもの。それを返しているだけよ」
 二人はにっこりと笑い合って寄り添い合う。二人はしばらくそうしていたが、やがてクラウスが静かに口を開く。
「…だから、あいつも自分が一番愛し、愛される事ができる相手が必要なんだ。ブロッケン一族とドイツ親衛隊を率いるあいつなら尚更な。そうでないとあいつが不幸になる。いや…あいつだけじゃない。アマーリエも、こうして選ばれたマルヴィーダ嬢もだ」
「そう…そうね」
 イザベルも哀しげにその言葉に同意する。
「でも…このままだとマルヴィーダ様との婚礼は確実でしょう?どうしたらいいのかしら」
 困った様に続けるイザベルに、クラウスは少し考えた後、決意をした様に口を開く。
「…多少荒っぽい手になるかもしれないが、婚約自体を破棄する様に仕向けようと思う。それで、改めてもう一度アマーリエとの婚約に持って行く。マルヴィーダ嬢には悪いと思うが…」
「でも…どうやって?」
「イザベルならどうする?」
 逆に問い掛けたクラウスに、イザベルは少し考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「一番いいのは、アマーリエさんの今の気持ちをフランツ様に伝えて、フランツ様もご自分の気持ちを正直にアマーリエさんに伝えるのが一番なのかもしれないけれど…あの感情を抑えてしまうフランツ様だと、どうやったらその気持ちを引き出せるのか…難問ね」
 困った様に言葉を紡ぐイザベルにクラウスはふっと笑うと頷いた。
「しかし、確かにそれが一番だと私も思う。…だとするとフランツの気持ちを盛り上げるのが一番…か…」
 クラウスはしばらく考え込んでいたが、やがて何かを思いついた様に口を開く。
「これは私とテオドールが一肌脱ぐ場面だな。ありがとう、イザベル。名案を授けてくれて」
「そんな…私は答えを出してないわ。どうしてそうなるの?」
 イザベルの困惑した言葉に、クラウスはウィンクをして答える。
「今のイザベルの言葉で、ちょっとやってみたい事を思いついてね。…テオドールの同意を得るのが大変かもしれないが…フランツとアマーリエのためならやってくれるだろう。うまくいけば二人の気持ちはもう一度重なる」
「…うまくいかなかったら?」
「大丈夫さ。あの二人の想いが変わっていないなら…絶対うまくいく」
 不安そうな表情を見せたイザベルにクラウスはふっと笑って彼女の額にキスする。彼女はしばらく狐につままれた様な表情を見せていたが、やがて彼女もふわりと笑って言葉を返す。
「そうね…うまくいくといいわね」
「ああ…フランツにも私と同じ様に本当に愛し、愛される事の幸せを味わって欲しい。そうして、愛する存在が増えていく事の幸せも…な」
 そう言うとクラウスは愛おしげに彼女の腹部を擦った。そこには彼とイザベルとの間の新しい命が宿っていた。彼女も同じ様に自分の腹部を擦ると、呟く様に口を開いた。
「そうね…愛する存在が傍にいる事、そしてその存在が増えていく事。…その幸せを、心からフランツ様にも味わって欲しいわね…そして、アマーリエさんにも」
「ああ」
「…今、動いたわ。きっとお腹の子もそう思ってくれているのね」
「そうかもしれないな…だから、多少の悪役は買って出なければな」
「でも、無理はしないでね。私のためにも…この子のためにも」
「分かっている。そんなに危ない事じゃないさ。だから、色々難しい事を相談して悪かったが、後は安心してこの子を産む事を今は考えてくれ」
「ええ。そういえばもうすぐ生まれるのよね…男の子かしら、女の子かしら」
「どっちでもいいさ…元気な子なら」
「そうなの?跡継ぎの男の子じゃなくても?」
「いいさ。…女の子だって生まれてくる私達の子供で、大切な命に変わりはない。父だって母だってそう言うさ」
「…ありがとう」
 二人はまた顔を見合わせ笑うと、どちらからともなく優しいキスをした。