ある日土井垣が学校から帰ると、居間で知らない小さな女の子が本を読んでいた。大きな水玉模様のワンピースを着たおかっぱ頭のその女の子は、彼に気がつくと無邪気な笑顔を見せながらぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「こんにちは」
「え?…ああ…こんにちは。君、だれ?」
「あたし、みやたはづき」
「『はづき』ちゃん?」
「うん、あなたはだあれ?」
「ぼくは…土井垣将」
「『しょう』くん?」
「うん…君、何でここにいるの?」
「あのね、おじいちゃまがね、『きょうはおばあちゃまがいそがしいから、おじいちゃまといっしょにきなさい』っていって、さんのうからここにおじいちゃまといっしょにきたの。それで、『おじいちゃまはおはなしがあるから、おはなしがおわるまでここでごほんをよんでなさい』っていわれたの」
「そう…」
 にっこり笑って無邪気に、身振り手振りを交えながら一生懸命に答える『はづき』という女の子が何者か分からない上、どう対応していいのか分からずに立ち尽くしていると、不意に彼の母親が麦茶を持って居間に入って来た。
「葉月ちゃん、のど渇いたでしょ?麦茶よ。どうぞお飲みなさい」
「ありがとう、おばちゃま」
「いいのよ…あら将さん、帰って来ていたの?」
「うん…お母さん、この女の子誰?」
 土井垣の問いに、母親はにっこり笑って答える。
「ああ、この子はおじい様のお友達のお孫さんよ。おじい様達が今度大学の同期会をするって事で、おじい様とそのお友達の方が幹事になられてね。話し合いをするためにそのお友達がいらしてるのだけど、今日はご家族がみんなお忙しくて、保育園をお休みしているこの子…葉月ちゃんが一人になってしまうからって、一緒に連れてらしたそうなの」
「そうなんだ」
「…で、将さんには悪いけど、今日は野球の練習をお休みして、葉月ちゃんの相手をしてちょうだい。監督さんには電話でお話しておくから」
「え?でも…」
「お願いね。それから一つだけ約束して。葉月ちゃんはお熱が下がったばっかりだそうだから、お外では絶対に遊ばない事」
「…はい」
 母親には逆らえないので土井垣は頷く。母親は葉月に向かってにっこり笑うと口を開く。
「じゃあ葉月ちゃん、おじいさまのお話が終わるまで将さんと一緒にもうちょっと遊んでいてね」
「はぁい」
 葉月は頷くと、にっこり笑って土井垣を見ている。彼はどうしたらいいのか分からないのでまずは話してみようと会話の糸口を捜し、とりあえず年齢を聞く。
「いくつなの?」
「ごさい。いっしきほいくえんの、さくらのしろぐみ」
 そう言って葉月は小さな手を広げてにっこり笑い、逆に問い返す。
「しょうくんはいくつ?」
「ぼくは…7才。小学校一年生」
「しょうくん、しょうがくせいなの?いいなぁ、はやくあたしもしょうがっこういきたいなぁ」
「何で?」
「だって、しょうがっこういったら、おともだちいっぱいできるんでしょ?みんながおしえてくれたもん」
「でも葉月ちゃんはほいくえんせいだよね?ほいくえんだってお友達いっぱいできるだろ?」
「ううん…あたし、おやすみおおいからあそべないって、おともだちあんまりいないの」
 そう言うと葉月は少し寂しそうな表情を見せる。土井垣は悪い事を言った気がして謝る。
「ごめんね。いじわるいっちゃったみたいだね」
「ううん、ぜんぜんしょうくんいじわるじゃないよ。だって、こんなにいっぱいおはなししてくれるもん」
「そう…」
 土井垣は彼女の言葉と笑顔が少し切なく感じ、もっと楽しく笑わせてあげたいと思った。何故そんな風に思うのかは分からない。幼い考えなりに考えて、お客さんだから楽しくいてもらいたいのと、小さい子、しかも女の子はいじめたらいけないからだろうと結論を出した。その結論から、彼女が楽しく過ごせる話題はないかと考える。と、彼女の読んでいた本が彼の目に入った。そこにあったのは、自分が入学した時に母に買ってもらった本。彼は彼女には難し過ぎるのではないかと思い、問い掛ける。
「ねえ、君にはこの本、むずかしくない?」
「ううん、このくらいはよめるよ」
 そう言うと、彼女は彼にも分かる様に、しかも意味を理解して読んでいる事も明確な読み方ですらすらとその本の中身を音読していく。土井垣は驚いて彼女に声を掛ける。
「すごいね。こんなにむずかしそうな本、読めるなんて」
 土井垣の言葉に、葉月はにっこり笑って少し誇らしげに応える。
「あのね、あたしおそとであんまりあそべないから、おじいちゃまたちがおうちのなかでもいっぱいあそべるようにって、じとかおうたとかこうさくとか、いっぱいおしえてくれるの。だからごほんもいっぱいよめるの」
「そうなんだ」
「うん」
「でも、外に出て遊びたくならないの?」
 土井垣の問いに、葉月は少し寂しそうに答える。
「ほんとは…あそびたい。でもあんまりおそとでちゃだめっていわれてるし、ひとりでおそとでてあそんでると、おとうさんにおこられるの…」
 葉月の寂しそうな表情に彼女の本心を感じ取り、土井垣は少し考えると、彼女に提案した。
「ぼくがいっしょならだいじょうぶだよ。だから、これから外で遊ぼう?」
「でも、おじいちゃまからも、おばちゃまからもおそとにいかないようにっていわれてるから…」
「庭くらいだったら大丈夫だよ。ほら、外に行こう?」
 そう言うと土井垣は手を引いて庭へ葉月を連れて行き、自分のグラブを渡すと、問いかける。
「これ、着けられる?」
 土井垣の問いに、葉月はにっこり笑うとちゃんとグラブを着ける。
「きゃっちぼーるするの?」
「よく分かったね」
「おとうさんが、げんきなときにときどきやってくれるから」
「そうなんだ。じゃあ、ボールもふつうのでだいじょうぶ?」
「うん」
 葉月は本当に楽しそうに、幸せそうににっこり笑う。土井垣は一緒に買ってもらったキャッチャーミットを着ける。入学祝と誕生日で両方買ってもらった時、母親は『贅沢だ』と言っていたが、買ってもらって正解だったな、と彼はほんの少し嬉しくなった。そうして彼は彼女にも捕れる程度だろうと思った投げ方でキャッチボールを始める。彼女は心底楽しそうにきゃらきゃら笑いながらボールを捕っては土井垣に返す。その捕球も返球も小さな女の子にしては中々上手で、土井垣は驚きながらも、いつの間にかそのペースに呑まれて、本気になってボールを投げていた。それでも彼女は怒ったりべそをかいたりせず、むしろ満面の笑みを見せて彼の投球レベルに合わせる様に一生懸命捕っては返す。彼女は普段父親とキャッチボールをしているそうだから、自分に対する投球が手加減されているか本気かの理解は多分できているだろう。だから彼が自分と本気でキャッチボールをしてくれている事、何より身内ではない彼がこうして外で自分と本気で遊んでくれる事が心底嬉しいんだと彼女の様子で何となく分かってきた彼は、彼女が自分の行動で満面の笑顔を見せてくれる事が嬉しくなると共に、その笑顔がふと可愛らしいと思って、鬱陶しいと思っていた他の女の子とは違った感情を持った自分に少し戸惑ってもいた。そうして二人はしばらくキャッチボールをしていたが、不意に土井垣の投げたボールが逸れた時、捕れずに追いかけていった彼女がぺたんと座り込んだ。どうしたんだろうと思い近くに寄ると、彼女の顔は真っ赤で、少し目がうつろになっていた。彼が慌てて額に手を当てると、随分熱い。彼は慌てたまま声を掛ける。
「はづきちゃん、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ…ちょっとふらふらしちゃった…」
「今、お母さんよんで来るから、まっててね」
「うん…」
 そう言うと土井垣は家に入って母親を呼ぶ。呼ばれて庭に来た母親は葉月の様子にびっくりすると、彼女を抱き上げ、土井垣の部屋に連れて行き寝かせ、彼女の祖父を呼んで様子を見せると、彼に説教をし始めた。
「将さん!お外で遊んじゃいけませんって言ったでしょう!」
「ごめんなさい…」
 まさかこんな状態になるとは思っていなかったので、土井垣は素直に謝る。と、不意に熱で少しうつらうつらしていた葉月が口を開いた。
「おばちゃま…しょうくんをおこんないで…」
「葉月ちゃん、でも」
「あたし、すごくうれしかったもん…おそとでいっぱいしょうくんにあそんでもらえて…だからおこんないで…ありがとう、しょうくん」
「はづきちゃん…」
 土井垣は言葉を失う。言葉を失っている彼に、葉月の祖父らしい老年の男性が彼に声を掛けた。
「いや、葉月の言う通りだ。この子は丈夫じゃないから、外で中々遊べなくてね。そのせいで友達も少ないんだ。だから一杯君と遊んでもらって本当に嬉しいと思っているよ。だから気にしなくていい」
「おじいさん…」
 葉月の祖父は土井垣に笑いかけると、葉月にも笑顔で問い掛ける。
「葉月、お外で一杯遊んで楽しかったけ?」
「うん…たのしかった。またしょうくんとあそびたい」
「そうけ…だったら元気にならなくちゃな」
「うん…しょうくん、げんきになったら…またあそんでくれる?」
 葉月の言葉に、土井垣は胸が一杯になり、心からの言葉が零れ落ちていた。
「うん…また遊ぼう」
「…ほんと?」
 葉月は熱でぼんやりした顔だが、一生懸命嬉しそうににっこり笑った。そうして彼女は父親に車で迎えに来てもらい、帰る事になった。葉月の祖父が彼女の父に連絡して二時間程すると、彼女の父親らしい男性がやって来て、彼女を持ってきたらしい毛布に包んで抱き上げ、土井垣の家族に謝罪と挨拶をした。
「それでは…うちの娘がご迷惑をお掛け致して、申し訳ありませんでした」
「いえ、元はといえばうちの息子のせいですし」
「いいえ、言いつけを守らない娘が悪いのですから、お気になさらないで下さい。…葉月、お前はしばらく保育園以外、お外に出るのは禁止だ。いいな」
「うん…ごめんなさい、おとうさん」
「雅昭君、そんなに厳しくしなくても…」
「いいえお義父さん、いけない事はいけないときちんと教えないと、この子のためになりません。では失礼します…お義父さんも一緒にどうぞ」
「じゃあ僕もこれで。今日は迷惑を掛けたな、土井垣」
「いや、かまわんさ。じゃあまた話の続きは後日な鈴木…いや、酒匂か。どうも学生時代の話になるとすぐ旧姓になるな」
「そうだな。じゃあ皆さん、お邪魔しました」
 そうして一家が帰ろうとした時、土井垣は彼女達を呼び止める。
「あの…」
「何だい?坊や」
 葉月の父がそれに気付いて土井垣に声を掛けてくれたので、土井垣は今言える自分の思いを口に出した。
「また…はづきちゃんを連れて来て下さい。ぼく、またはづきちゃんと遊びたいんです。今度はちゃんとおとなしく遊びますから…」
 土井垣の言葉に一同は驚いた表情を見せる。しばらくの沈黙の後、葉月の父がにっこり笑って言葉を返す。
「ありがとう。そう言ってくれて…よかったな、葉月。お友達ができて」
「うん…」
 葉月も熱でぼんやりした口調だが、嬉しそうに頷く。それを見ていた土井垣の祖父が、不意に爆弾発言を落とした。
「ふ~む、将は葉月ちゃんが気に入った様じゃのう…折角じゃ、葉月ちゃん。大きくなったら将のお嫁さんにならんか?」
「は?」
「おじいちゃん!」
「お義父様!」
「土井垣…それは飛躍しすぎじゃないか?」
 一同は土井垣の祖父の発言に一瞬騒然となる。土井垣の祖父はそれも気にせず言葉を紡いでいく。
「いいじゃないか。こんなに可愛らしいお嬢ちゃんじゃ、きっと末は綺麗な娘さんになるし、そうでなくても酒匂の孫娘なら、気立ては絶対良くなる。嫁には最高じゃとおもったんじゃが。…どうじゃ、葉月ちゃん。大きくなったら将のお嫁さんにならんか?そうしたらずっと一杯将と遊べるぞ」
 土井垣の祖父の言葉に、葉月は熱でまとまらない頭ながらも少し考える素振りを見せると、ぽつりと答えた。
「しょうくんのおよめさん…なれないの」
「どうしてじゃ?」
「だって…あたし、なりたいものいっぱいあるから…しょうくんのおよめさんにはなれないの」
 葉月の言葉に一同は微笑ましさを感じ、空気がふと和らぐ。土井垣の祖父は、その答えを聞いてにんまり笑うと、更に葉月に言葉を掛ける。
「そうか…でもな、お嫁さんはどんなものになっても、そのものと一緒になれるんじゃぞ。じゃから心配いらん」
「…そうなの?」
「そうじゃ」
「…じゃあ…あたし、しょうくんのおよめさんになる」
 葉月は熱でぼんやりした口調だが、嬉しそうににっこり笑って言葉を紡ぐ。土井垣の祖父はそれを聞いて満足げに頷くと、土井垣にも声を掛けた。
「そうかそうか。ありがとうな、葉月ちゃん…将はどうじゃ、葉月ちゃんをお嫁さんにしてあげるか」
 土井垣は葉月と違って、最低限その言葉の意味は分かっているので気恥ずかしくなったが、何だか彼女だったらお嫁さんにしてもいいかなという思いがふと湧き、照れながらも口に出す。
「うん…はづきちゃんだったら…お嫁さんにしてもいい」
「よ~し、決まった!二人はこれから許婚じゃ!」
「あの、失礼ですが…本気なんですか…?」
「お義父様、そんな強引な…」
「いいのか土井垣、こんな簡単に決めて」
「いいんじゃ。儂は何だか二人を見ていてピンと来たんじゃ。二人には縁がある。たとえこの話を忘れたとしても、きっと別の形で二人は結ばれるぞ」
「まあ…じゃあ、仮話という事で一つの考慮に入れてはおくか」
「そうしてくれ酒匂…じゃあな、葉月ちゃん、お熱が出ているのに長話して悪かった。ちゃんと帰ったらゆっくり寝て、元気になってまた遊びにおいで」
「うん…しょうくん、またね」
「うん、またね。はづきちゃん」
 そう言うと葉月一家は帰っていった。その後土井垣はずっと彼女が来るのを待っていたが、結局彼女が再び遊びに来る事はなく、結婚話も彼女の事もいつの間にか忘れ去られた。しかし土井垣の祖父が予言したとおり、二人は別の形で出会い、恋に堕ちる事になる。