「やめろ小次郎!子ども達に見られたらどうする!」
抵抗する土井垣を更に抱きすくめるようにした、いぬ組の小次郎先生は挑発的な口調で囁く。
「いいじゃねぇか。どうせここには誰も来ねぇさ。それとも…『あの女』が来るから俺の匂いが残っちゃやべぇって警戒してんのか?」
「小次郎!彼女を『あの女』呼ばわりするのは…んっ…!…」
いきなり噛みつく様にキスされ、土井垣先生は身体から力が抜ける。崩れ落ちそうになる土井垣先生をにやりと笑って見つめながら、小次郎先生はその耳元に囁く。
「…お前が誰と付き合ってようと…お前は俺のものだ…」
「違う…俺は…お前のものなんかじゃ…」
「でも…俺じゃないと満足できねぇだろ?…『あの女』とは、こんな風にスリリングな事はできねぇだろうからな」
そう言いながら小次郎先生は唇を耳朶から首筋に這わせる。その陶酔に土井垣先生が不覚にも溺れそうになった刹那――小次郎先生が『ぐっ!』といううめき声と共に唇を離す。土井垣先生が見ると、そこにはいぬ組園児の不知火が、正義感に燃えた目で仁王立ち(というには幼いが)で立っていた。小次郎先生は不知火に蹴られた足をさすりながら、先生らしく注意する様に声を掛ける。
「こら不知火!乱暴は良くないだろう!」
その言葉に反論する様に不知火は声を上げる。
「そういうこじろうせんせーだって、どいがきせんせーをいじめてたじゃないか!だからおれはたすけたんだ!」
『…この野郎、痛いところをついてきやがる…』
本当はいじめていた訳ではないのだが、何をしていたかがばれたらそれこそ保護者の間で問題になってしまう。小次郎先生がばつが悪くなり黙り込むと、不知火はとどめの様に声を上げる。
「こじろうせんせー、どいがきせんせーにあやまれ!」
「う…」
言葉がなくなっている小次郎先生が不憫に思え(こういう所で仏心を出してしまうから増長させてしまうのだが)、土井垣先生は言い聞かせる様に、不知火に言葉を掛ける。
「守、先生は大丈夫だからもう小次郎先生を許してあげよう…な?」
「…わかった。どいがきせんせいがそういうならゆるしてあげる」
「うん、いい子だ。じゃあ小次郎先生と一緒にいぬ組に戻るといい…仲直りの印だ。…いいな、小次郎先生」
うまくこの場を収めた上小次郎先生を遠ざけるきっかけができて一石二鳥とばかりに、土井垣は不知火には優しく、小次郎先生には有無を言わせぬ口調で言葉を掛ける。二人は渋っていたが、やがて小次郎先生は不知火の手を取っていぬ組の教室へ連れて行った。それを見送ると、土井垣先生は今日の健康診断でどんな騒動が起こるだろうという不安からため息をついた――
そうして11時ごろ、園の前の道路にレントゲン車が止まり、中から男女含めた3人の人間が園に入ってきて、事務所に挨拶に来る。応対したサチ子先生はほし組で園児達の相手をしていた土井垣を呼ぶ。土井垣が事務所の入り口に行くと、土井垣同様坊主頭だが、もう少し年かさのいった男性が代表して挨拶した。
「こんにちは、みなと病院です。本日はよろしくお願い致します」
「はい…よろしくお願い致します」
土井垣先生は対応しながらも、その視線は紅一点の女性に向けられていた。長い心なしか茶みがかった豊かな黒髪を一つにまとめ口紅と頬紅だけの薄化粧だが、それでも愛らしさが引き立っている女性。彼女の方も土井垣をちらちらと見ながら、緊張した表情を見せている。そう、彼女が土井垣先生の『落ち着かない原因』だったのだ。その女性は土井垣先生と目が合うと一瞬だけ顔を赤らめたが、すぐに愛嬌はあるがしっかりした性格が分かる笑顔に戻り、土井垣先生に問いかける。
「では、機材を運び込んで設営だけでもしてしまっていいですか?」
「ああはい、どうぞ。子ども達が怪我をしない様に気をつけて下さい」
「承知しております。では始めさせて頂きますね」
そう言うと三人はレントゲン車から機材を取り出し、持ってきた上履きに履き替えるとホールに荷物を運び込んで設営を始める。荷物を運んでいる時に、知りたがり屋の里中や三太郎や球道が、時々自分達の母親や叔父が来ると見かけて、何やら親達と話した後はほんの少しの間だけだが一緒に遊んでくれる女性を見つけ、『なにしてるの?きょうはおかあさんいないよ』と問いかける。女性はかがみ込んで目線を合わせ微笑みながら『今日はね、お母さん達の話を聞くんじゃなくって、先生達が元気かなっていうのを確かめに来たのよ』と答えた。その言葉に、三人は分かった様な分からない様な表情を見せて設営を眺め、興味から『おれもてつだう!』と言い出す。他の男性職員は困った様な表情を見せるが、女性は微笑みながらやんわりと『皆の気持ちは嬉しいけど、これはお姉さん達のお仕事だから、皆にお手伝いされたら怒られちゃうの。ごめんなさいね』とちゃんと皆の気持ちをくみながら、でも断るべき事は断る様に対応していた。やがて設営が終わり、また最初に挨拶した男性が事務所にいた土井垣先生に声を掛ける。
「では自分達は昼食を食べに行きますので、いつも通りホールのカギを閉めて下さい。採血の針や他の機材で子ども達が怪我をするといけませんから」
「あ…はい」
「よろしく…お願いします」
件の女性も遠慮がちに、しかし彼に心を向けているのは良く分かる雰囲気で言葉を続ける。その愛らしさに思わず見惚れそうになりながらも、土井垣は努めて内心を見せない様な笑みで返した。
「はい。…では健診開始の12時半には戻って来て下さいね」
「はい」
そう言うと三人は園を出て行く。それを見送りながら少し高鳴る胸を押さえ、土井垣はホールのカギを閉めた――
「あ~っ!ほーるのかぎがしまってるぞ!せんせー!どうしてしめるんだよ!」
知りたがりで行動家の球道と里中とそれに付き合った三太郎は皆が出て行ったのを確かめて、ホールは遊び道具が一杯で遊びがいがあるし、今日は何より何か荷物を運び込んでいたので何があるのかと探検しようとドアを調べたら、ドアがきっちり閉まっているのに気づいて、代表して球道が抗議の声を上げる。その言葉に部屋の番を兼ねて傍にいた土井垣は優しく、しかしきっぱりと言い聞かせる。
「今この中にはな、皆には危ないものが一杯置いてあるんだ。だから怪我しない様に閉めているんだよ」
「え~…」
それでも不満そうな態度を見せる球道に、土井垣先生はわざと脅かすために、半分は本当で半分は嘘のこんな言葉を三人に掛けた。
「球道も、里中も、三太郎も、注射してもらいたいか?そういう道具があるんだよ」
「ちゅうしゃなんかいやだい!」
「おれもちゅうしゃいらない!」
「おれもちゅうしゃしたくない!」
『注射』という言葉に、三人とも心底嫌そうな言葉を返す。実際の所は注射器もあるが大人用の採血道具で三人には使えないのだが…三人の態度に土井垣先生は『まだまだ子どもだな』と心を和ませながら、三人の頭を撫でて言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。
「じゃあ、お客さんが来ている間はホールに入らないって約束できるか?終わったらホールで遊んでいいから」
「…わかった」
「ちゅうしゃいやだからがまんする」
「それにな、多分だけどいつもみたいにあのお姉さんは、お仕事が終わったらちょっとだけなら皆と遊んでくれると思うぞ。先生から頼んでおくから、何をして欲しいか教室に戻って考えているといい」
「ほんと!?せんせー!」
「あのおねえちゃん、いっぱいあそびしってるからたのしいんだよな~!」
「わかった!じゃあきょうしつでまってる!」
そう三人は言うと教室の方向へ走って行った。それを見て心が和みながらも、自分が言った事ではあるが、園児達の対応はどうしたものかと頭を悩ませていた――
そうして12時。園児達はお弁当の時間だが、先生達は健康診断で食事をすると数値が変わってしまうという事で、健康診断が終わった順に食べる事になっているので、みんなの見守りに集中していた。そんな先生を心配する様に、里中が大好きな山田先生に問いかける。
「やまだせんせー、いつものおっきなおべんとう、たべないの?」
里中の心配がよく分かる言葉に、山田先生は優しい笑顔で里中の頭を撫でながら言葉を掛ける。
「今日はね、健康診断があるから終わったら食べる事になってるんだよ」
「けんこーしんだん?」
「う~ん…簡単に言うと、先生達が元気かなって言うのを調べるんだ。で、ご飯を食べちゃうと正しく調べられないから、終わってから食べるんだよ」
「あ~っ!いつもくるおねえちゃんがいってた!『せんせーたちがげんきかたしかめにきたのよ』って!だからごはんまだたべちゃだめなの?」
「そうだよ。終わったらちゃんと食べるから心配はいらないよ。それより智君は自分のお弁当を食べなさい」
「うん!」
そう言うと里中は今日も忙しい母が一生懸命作ってくれたお弁当を、目を輝かせながら食べ始める。それを山田先生は優しい目で見つめていた――
それと同時刻頃、健診スタッフが増加してもう一度幼稚園にやって来た。新しく来たスタッフも礼儀正しく挨拶すると、会場内で女性が申し送りをした後それぞれの持ち場に入り、入った所でまたリーダーらしき男性が土井垣先生に声を掛ける。
「では少し早いですが開始しますので…皆さんを呼んで下さい。大体3~4名位ずついらしていただけるとスムーズに健診が流れると思います」
「そうですか…じゃあ順番に来るように申し伝えますから」
そう言うと土井垣先生はそれぞれの組と事務所にいた園長先生とサチ子先生の所を回って健診開始を伝える。先生達は子ども達をお昼寝させながら、順番に健康診断をこなしていた。中に特殊な健康診断が入っていて順番が多少決まってしまい、またその計測でも時間がかかるので人が溜まる事もあったが、スタッフは皆慣れているせいか割合スムーズに進行していく。そうして大体全員済ませた位の所で、山田先生と小次郎先生と土井垣先生が健康診断に入る。小次郎先生は周りに人がいるので大人しくしていたが、何かと気付かれない程度に土井垣先生にちょっかいを出していた。女性だけは気づいていたが、その本心には気づいていない様で微笑ましげにそんな彼らを見つめている。土井垣は『彼女は本当のところを気づいていないからいいが、本当の事を知ったら…』と気が気ではない。そんなこんなで計測を済ませ、安全面から先に腱鞘炎と腰痛の検査をしていると、起き出して来たのか目をこすりながら不知火がホールに入って来た。
「どいがきせんせ~、なにやってるの…?」
寝ぼけ半分の不知火の言葉に、今のこのホールには危ないものが一杯あるので何とか教室に戻そうと優しく声を掛ける。
「今先生はお仕事中なんだ。守は教室に戻ってなさい」
「やだ。せんせーのところにいたい」
「…」
目が覚めたらしく強情に言い張る不知火に、土井垣先生は頭を抱えた。そんな様子を見ていた女性がにっこり微笑んで不知火に近づくと、視線を合わせやはり優しく言葉を掛ける。
「じゃあ、お姉さんと一緒に先生のお仕事見てようか?ちょっと一緒にできる事もあるし」
「ほんと?」
「ええ。その代わり、お姉さんの言う事をちゃんと聞いてくれるかな?」
「うん、わかった!」
「その…いいんですか?健診の邪魔になるんじゃ…」
気を遣った土井垣の言葉に女性はにっこり微笑んで応える。
「名簿からするとお三方が最後ですし、私が見ていれば大丈夫ですよ。気にせず健診を続けて下さい」
「はあ…」
「あ~っ!ずるいぞしらぬい!おれもいっしょにいる!」
「おれも~!」
「おれもいっしょにみたい!」
「お前ら…いつの間に…」
見ると、入口に里中と球道と三太郎が立っていた。『こいつらまで…』と頭を抱える土井垣先生を苦笑して見つめながら、今度は三人に視線を合わせ声を掛ける。
「じゃあお約束。お姉さんと一緒におとなしく見ている事。できるかな?」
「うん!」
「できるにきまってんだろ!」
「だいじょうぶ!まかせて!」
「うん、えらいね。じゃあお姉さんと一緒に見ていようか」
「わかった!」
そう言うと四人は健診を見学する。やがて腰痛健診の体操が入って来たところで、女性も受診票を持って、四人と目を合わせて微笑みながら言葉を紡ぐ。
「じゃあ、体操は皆もできるからお姉さんと先生と一緒にやってみようか」
「いいの?」
「ええ」
「宮田さん、あんまり勝手な事をしちゃ…」
「体操位だったら大丈夫ですよ。私がちゃんと見ていますし。伊達に保健師と保育士の資格は持っていませんって」
「…仕方ないな」
『宮田さん』と呼ばれたその女性は注意をしようとした男性をにっこり微笑んで宥めると、渋々ながら許した男性を確認して、今度は子ども達に目線を合わせて土井垣と子ども達に声を掛ける。
「じゃあ体操しましょう。みんなは先生のお隣に立って、お姉さんと同じ様に動いてね。土井垣さんも一緒に動いて、痛みや重みがあるか聞きますから答えて下さい」
「うん!」
「わかった!」
「がんばる!」
「まかせろよ!」
「あ…ああ」
そう言うと宮田は隣で山田に対して男性がやっている様に首や腰の運動を始め、一つ一つの動きの後に『痛みや重み、張りはありませんか?』と聞いていき、答えに沿って何やら受診票に書いていく。そうしてすべての動きが終わると土井垣には一礼し、子ども達にはまた目線を合わせて拍手をしながら口を開く。
「はい…これで終了です、お疲れ様でした。…みんなも良くできました」
「あったりまえじゃん!」
「こんなかんたんなたいそう、すぐできるぜ!」
「こんなたのしいこと、おねえちゃんとせんせ~、おしごとでやってるんだ~」
「あ、でもおねえちゃん、せんせーがげんきかみにきたんだよね。これでどうやってせんせーがげんきかわかるの?」
里中の問いに、宮田は少し考えるそぶりを見せた後、簡単に噛み砕いて説明する。
「う~ん…そうだ、智君。智君のお母さん、お仕事の後肩がこったから叩いてって智君に言わない?」
「うん、よくいってる。あとおじさんもたたいてっていうよ」
「そう…あのね、その肩がこったり、腰が痛くなったりするのが酷くなると、お仕事ができない位辛くなっちゃうの。智君のお母さんのお仕事だと多分あんまりないけど、先生達のお仕事は無理するとそう言う風になっちゃう事があるのよ。だからそうならない様に確かめて、疲れてるなっていうのが分かったらお医者さんからどうしたらいいか教えるの。そのための体操なのよ」
「ふ~ん…たいそうでわかるんだ~」
「他にもいろんな事を確かめて、全部合わせてで詳しい事は分かるんだけど、体操だけでも少しは分かるのよ。…ほら、あっちを見て。よく見ると少しは分かるでしょ?」
そう言うと宮田は男性が誘導して体操をしながら上体を動かす度に『痛ぇ…』と唸っている小次郎に彼らの視線を促してウィンクする。それを見た四人ははやし立てる。
「あ~こじろうせんせいよわむし~」
「どいがきせんせいはなんでもなくやってたぜ~」
「やまだせんせーもへーきだったのに~」
「こじろうせんせ~、げんきじゃないんだ~」
「…うるさい」
騒ぎ立てる四人に、小次郎先生はぶすっとした口調で返す。それを見て土井垣と宮田は苦笑しながら無意識にふと目を合わせて笑い合った事に気づいて、子ども達には気づかれない様にさっと目を逸らす。それを他の気づいたスタッフは微笑ましげに見つめ、その内の一人が声を掛けた。
「さあ宮田さん、先生が美形だからって独占してないでバトンタッチ。採血するから」
「あ…はい、平本さんお願いします。…では土井垣さん、次は採血でその後心電図です」
「あ…ああ、分かった」
その少し狼狽した二人の雰囲気に鋭く気づいた三太郎が二人に声を掛ける。
「あ~せんせいたち、なんかあやしい~」
「あやしいって…何が」
「もしかしてせんせいとおねえちゃんらぶらぶなの~?」
「…!…」
いつもの読めないにこにこ顔で一見無邪気な、しかし計算しつくされた更なる追及になる問いを掛ける三太郎に、土井垣と宮田は赤面して絶句する。
「あ~、せんせいまっかになったぜ~!?」
「おねえちゃんもおかおあか~い!」
「どいがきせんせ~!うそだよね!?」
三太郎の問いに乗って赤面している二人に球道と里中もはやしたて、不知火は心底落胆した口調で問いかける。二人はしばらく赤面して狼狽していたが、やがて先に態勢を立て直した宮田が四人にまた視線を合わせて頭を撫でながら、明るい口調で応える。
「…もう、皆おませさんなんだから。お姉さんと先生は、お仕事でよくお話するから仲良しだけど、皆が言う様なラブラブじゃないわ」
「…ほんと?」
「本当よ。みんながあんまり変な事言ったからびっくりしちゃった」
「そっか…ならいい」
「ちぇ~っ、つまんねえの」
「せんせいとおねえちゃんがらぶらぶだったらおもしろいのに~」
「…こら皆、お姉さんを困らせるな」
やっとの事で態勢を整え直した土井垣も四人に声を掛ける。実際は色々事情があるのだが、その事情が園児にばれると彼女の仕事にも支障が出てしまうのでたしなめる様に言葉を紡ぐ。その様子を見ていた採血のスタッフは土井垣が座ると採血の支度をしながら含んだ笑みを見せ、呟く様にさらりと言葉を掛ける。
「…職場内恋愛も大変ね。でも彼女は本当にいい娘だから、大切にしないとセンターの女性スタッフ、全員敵に回すわよ」
隣で先に採血を済ませて休んでいた小次郎先生も、からかう様に声を掛ける。
「ほんっと、色男は苦労するねぇ~」
「あ…はは…」
土井垣は愛想笑いをしてお茶を濁した。そうして採血を終えた後心電図と診察をしてもらい、診察で少し腰痛の兆候が出ていたので生活についての指導を医師からされると健康診断は終わり、スタッフが機材を片付けた後、事務室でサチ子先生の手でお茶が入れられ園長先生であるサチ子先生と山田先生の祖父と土井垣を交え、健診スタッフとの今回の健診の報告を兼ねた歓談が始まった。
「今回もお疲れ様でした」
「いえ、皆さんが協力して下さるのでこうした複雑な形式の健診にしてはスムーズに終わるので自分達もありがたいです」
「それにいつもこうして健診の最中や終わった後にお茶を頂いて、本当にごちそうさまです」
「いえ、うちも格安サービスの契約で、健康診断後だけでなく定期の保健指導や父母の育児相談まで受けて下さっているのですから、これくらいはお礼をしないと」
「いえ、このサービスができる様になったのはこのチームに配属が決まった時に志願した、こちらの宮田のおかげですから」
「いえ…私も保健指導の腕を鈍らせないために我儘でねじ込む様にして『一般事業所の出張健診後は私に保健指導をさせて下さい!』と頼んだ身ですし…そんな偉いものじゃありません」
「でも、結果的には事後指導があるおかげで医療機関へのルートが確立されて病気に罹る人間が減っているのだから、あなたはいい事をしているんだと思いますよ」
「…ありがとうございます」
土井垣の言葉に、宮田は顔を赤らめてお礼を言う。その心なしか甘い雰囲気を一同は楽しげに見つめた後、お茶とお茶菓子の園児のおやつと同じものであるにんじんケーキを平らげ、立ち上がってまた代表してリーダーの男性が挨拶をした。
「では自分達はこれで失礼します。結果は二週間前後に保健指導をしがてら宮田が届けますので、その辺りの細かい打ち合わせはまた後日という事で。それ以外で採血の後の腫れやしびれなど何か緊急の事がありましたら、院内の保健師チームに連絡お願いします」
「承知いたしました。で…あ…あの、毎回の事で申し訳ないのですが、子ども達が楽しみにしているので、その…宮田さんをまたしばらく…お借りできないでしょうか」
「…」
土井垣恒例の『お願い』に宮田はまた恥ずかしそうに顔を赤らめる。その様子に他のスタッフはまた楽しげににやりと笑うと、口々に言葉を畳み掛ける。
「もちろんです。そうだと思って宮田はここから直帰のシフトを組んでおりますから」
「彼女も、ここで子ども達と遊ぶのを楽しみにしているんですよ」
「そう言う事だから宮田さん、残ってまた皆と遊んであげなさい」
「あ…はあ…」
スタッフの優しい、でもどこかからかう様な口調の口々の言葉に、宮田は狼狽しながら頷く。そうして宮田を残したスタッフは帰っていき、宮田はサチ子先生と土井垣に連れられてお残りをしている園児が集まっているほし組へ行くと、気を取り直した様ににっこり微笑んで子ども達の集団へ入っていく。
「みんな、こんにちは。今日はお姉さんも仲間に入れてくれるかな?」
宮田の言葉に、残っていた里中や球道や三太郎や不知火や小次郎先生の兄弟のため一緒に帰る武蔵やチサ子、そして相手をしていた雲竜先生は口々に宮田を招き入れた。
「あ~おねえちゃん、きたんだ~!」
「なにしてあそぶ?」
「このごほんよんで!」
「やだ!おねえちゃんうたうまいから、うたうたってもらう!」
「だめ!ここでおにんぎょうあそび!」
「このかみしばいがいいよ!」
「よかよか、一緒にお世話頼むタイ!」
そうして皆に囲まれてそれぞれのリクエストを受けながらそれぞれが帰って行くまで宮田は皆の相手をして過ごし、小次郎先生と一緒に帰る武蔵とチサ子以外で最後に残った不知火にねだられて、彼を自分の膝の上に座らせて絵本を読み聞かせていた。そうして絵本を読み聞かせていると、眠たそうな声で不知火が宮田に声を掛ける。
「…ねえ…おねえちゃん」
「なあに?」
「どいがきせんせいのこと…すき?」
「…」
不知火のストレートな問いに、宮田は言葉を失う。言葉を失っている彼女に、彼は眠たそうだが、更に言葉を重ねる。
「いいよ…おれにえんりょしなくても…せんせいのこと…ほんとはすきなんでしょ?」
不知火の幼いながらに自分を気遣った言葉に、宮田は困った様に微笑みながらも、正直に答えを出す。
「そうね…守君が土井垣先生を大好きなのと同じみたいに…大好きよ」
「そっか…よかった。あのね、どいがきせんせいね…ほんとはおねえちゃんのことが…だいすきなんだよ…くやしいけど…おねえちゃんなら…どいがきせんせいあげてもいいや…だから、せんせいのこと…きらいにならないでね」
「…うん、約束するわ。お姉さんは先生の事嫌いにならないわよ。指切りしてもいいわ」
「じゃあ…ゆびきりする…」
そう言うと不知火と宮田は指切りをする。指切りが終わった所で彼の眼はとろんとしてきた。
「おね…ちゃ…やく…そ…」
その言葉を言い終わらないうちに、不知火は眠りの世界へ入って行った。自分の膝の上で寝息を立てる彼を微笑ましげに見つめながら、宮田は雲竜先生にタオルケットを持ってきてもらう様に頼んだ――
そうして全ての園児を送り出した後、土井垣先生と宮田は一緒に帰りがてら、駅の前の居酒屋でカウンターに並んで飲みがてらの食事をしていた。日本酒の杯を傾けながら、彼は申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「…悪いな、葉月。毎回毎回子どもの相手までさせてしまって」
土井垣の言葉に葉月――宮田の名前である――はウーロン茶を飲みながら、楽しそうに言葉を返す。
「いいのよ。ちゃんと残業代は払ってもらってるし、あたしは健診だけじゃなくって、子どもの相手も大好きなんだから。それに…」
「それに?」
「…将さんと公認で仕事中に一緒にいられるのも嬉しいし」
「…」
二人は顔を赤らめて俯く。そう、冗談抜きで二人は付き合っているのだ。しかもそもそもの馴れ初めは、彼女が新人の健診のスタッフとしてこの幼稚園に来た時に、その一生懸命さに土井垣が一目惚れして、その上の偶然で土井垣が行きつけにしている飲み屋に土井垣とも親交があり、その縁でこの幼稚園の健診の契約を取った営業のスタッフと一緒に彼女が良く飲みに来ていて顔を何度も合わせ、話していくうちにお互い恋におちたのがきっかけ。しかもいつの間にか(というより、デートをしている所を目撃したサチ子先生から園長先生と健診スタッフに話が流れ)付き合っている事が先生と健診スタッフ間では有名かつ公認になってしまい(唯一人小次郎先生だけは納得していないようだが)、彼女が保健師だけでなく保育士の資格も取った事により、園長先生と営業とで結託してからかい半分、真面目な仕事半分で健診後や定期の保健指導だけでなく、子どもの世話や保護者の発達相談の仕事を契約に組み込んだのだ。しかし、彼女も健診スタッフに入っていなければ小児科勤務を希望していた事もあり、土井垣の事は抜きにしてこの仕事にやりがいと楽しさを感じていた。そうした彼女の事も彼は分かっているので、彼女の仕事ぶりを見ているだけで自分にもやる気が湧いてくる気がしている。とはいえ、今日の園児達の態度を思い出して、土井垣は苦笑しながら言葉を紡いだ。
「しかし…最近の子供はませているよな」
「ホント、あたし達の子どもの頃もああだったかしら?」
「少なくとも俺は野球で頭が一杯だったぞ」
「あ、それ簡単に想像がつくわ」
「…冗談だと思わんのか」
「うん、素で想像がつくから冗談には聞こえないわね」
「…」
楽しそうに言葉を紡ぐ葉月に、土井垣はぶすっとした表情を見せる。それを見て彼女は微笑みながら、更に言葉を重ねる。
「…でもね、そうして野球も大切にして、子ども達も大切にする将さんだから…あたしは好きになったのよ」
「…そうか」
「そう」
「…ならいい」
「うふふ」
そうして幸せな気分で寄り添い合いながら酒を酌み交わしていると店の入口が開き、豪快な笑い声と、からかう様な、しかしどこか挑発的な声が二人に掛けられる。
「よかタイよかタイ!仲がいい事はよか事タイ!」
「二人だけでしけこむたぁ、いい根性してんじゃねぇか、土井垣。俺達も仲間に混ぜろ」
雲竜と小次郎は二人を挟む様にして座る。もちろん小次郎は土井垣の隣である。土井垣は『また厄介な奴らが来たな…』と思いながら、無愛想な態度で問いかける。
「雲竜…親方と食事をしなくていいのか」
「親方は今晩元力士仲間と飲み会タイ」
「…小次郎、お前も弟や妹を放り出してきていいのか」
「今日はお袋の仕事が早番だからな、後は任せてきた。それに…お前と飲みたいからな」
「…」
土井垣が内心頭を抱えながら葉月を見ると、二人に気を遣ってか酒やつまみの希望を聞いて頼んでいた。有り難くない乱入で、お互い忙しく中々時間が取れない二人のせっかくの久々のデートを邪魔されて、土井垣は不機嫌になったが、無下に追い返すと彼女が後で気にする。そして有り難くない乱入者のせいで二人の甘い雰囲気は吹っ飛び、そこから先は土井垣には心ならずも子ども達のやんちゃぶりに対する笑い話や愚痴へと、話題がシフトチェンジしていった。
――今日も一日不幸だった土井垣先生に合掌――