――人が苦しみの底にいる時、その苦しみから救うために天使が現れる――

 幼い頃、そう言ったのは彼の父だった。確かそれは『神様は本当にいるのか』と自分が問いかけた時の答えだった気がする。
「その天使は、だれにでも来てくれるの?」
「ああ。でも見えるかどうかは分からない。まして、つかまえる事はもっと難しい」
「どうしたら見えるの?」
「希望の光を見る事を忘れない事だ」
「『きぼうの光を見る』…?」
 彼は不思議そうに尋ねる。父は続ける。
「この世界には二つの光がある。目で見える光と、目があっても見えるか分からない光がな」
「目で見えるか分からない光…?」
「そうだ。その光が希望の光だ。そして生きる者にとって本当に大事なのはこれだ…これさえ見えれば何があっても生きていける。そして救いの天使も見る事ができる」
「ふーん…」
 幼い彼には父親の言っている事が良く分からない。しかし父の話を聞いて一つだけ疑問がわいた。
「…ねえ、父さん」
「何だ」
「父さんはその天使をつかまえたことがあるの?」
 父は答えてくれたが、その表情には陰りが表れていた。
「ああ。…でもすぐに私の手からすり抜けてしまったがな…」
「…そう…」
 父は何かを回顧する様にその目をふと虚空に向けた。彼は父の今まで見せたことのない表情にとまどう。
「…父さん…?…」
「…あ…いや…何でもない」
 父は彼の眼差しに気付くといつもの表情に戻った。
「とにかく、生きる事を諦めたくないなら希望の光を見ようとする事だ」
 父はそう言って彼の頭をゆっくりと撫でた――

 神の話など滅多にしなかった、いや神の存在など信じてはいなかったろう父が何故あの時自分の問いに答えた上、あんな話をしたのかは今となっては分からない。しかしほんの少しだけ分かる事がある。きっとあの時の父は母を思い出していたのだろうという事。そして父にとっての『天使』は母だったのだろうという事。父の死後見付けた様々な物から彼はそう確信している。そして自分も父の言った事を心にとどめながら必死に生きた。しかしいつしか自分の生きる目標を見失い、自分にとっての『天使』を見付けるどころか希望の光を見る目さえ失ってしまった。長い時を経て今は目標を取り戻したが、それは天使が降りてきたからではない。なぜならば自分には希望の光は見えていないのだから――

「…ァ…レーラァ」
 ふと気が付くとジェイドが彼をのぞき込んでいた。
「ああ…ジェイドか」

――そうか、俺は夢を見ていたのか、遠い昔の、幼い頃の夢を――

 ブロッケンJr.は大きく伸びをする。それを見ていたジェイドは腰に手を当て、咎める様な口調で口を開く。
「『ジェイドか』じゃないですよ。こんな所で寝ていたら風邪をひきます」
「何を言っている。超人がこんな事で風邪をひいてたまるか」
「エルンストさんはレーラァがそう言うだろうからほっとけって言ってましたけどね、超人だって風邪くらいひきます。第一、僕に健康管理をしっかりしろって言ったのはレーラァでしょう」
「ああ、そうだったな」
自分の言った事を逆手に取られてブロッケンJr.は笑った。それを見てジェイドは呆れた様に溜め息をつく。
「…とにかく、寝るなら寝るでベッドに行くか、最低限毛布くらいかけて下さい」
「ああ、分かった。今度からそうしよう」
 ジェイドは師匠の約束にあまり期待をしていなかったが、一応その言葉に嘘がない事は分かったのでそれ以上咎めるのをやめ、話題を変えた。
「それよりレーラァ、食事の用意が出来ました。今日はルイーゼさんが作ってくれたんですよ」
「ほう、それは待たせてはいかんな」
「そうですよ。温かいうちに食べましょう。それにマノンがお腹をすかせて待ちくたびれてますから」
「そうか。それなら尚更早く行ってやらなくては」
「お願いします」
 そう言って部屋から出て行こうとするジェイドの背中にブロッケンJr.はふと羽根が見えた気がした。ブロッケンJr.は一瞬ハッとしたが、その顔はすぐに柔らかな笑みに変わる。
「そうか…」
「レーラァ…?」
 師匠のつぶやきが耳に入り、ジェイドは振り向く。
「いや…何でもない」
「…?…」
 ジェイドは小首をかしげたが、師匠が『何でもない』と言うなら何でもないのだろうと思い直すと『早く行きましょう』と言って踵を返し、部屋から出て行った。ブロッケンJr.はそれを見送りながら内心苦笑する。
「…何だ、俺もいつの間にか天使をつかまえていたんだな」

――希望の光を見る目を失ったと思っていたが、本当は失っていなかったという事か…――

「何もかも捨てていたと思っていたが、俺は意外に生きる事に貪欲なのかもしれないな…」
 ジェイドの『どうしたんですか』という声が聞こえる。ブロッケンJr.は『今行く』と答えると、待っているジェイドの元へと歩いて行った。