義経が道場に行く間、彼に連れられて武蔵坊の工房に来訪しそのまま時を過ごす事になった若菜は、武蔵坊の仕事を邪魔しない程度にその作業工程を興味深く見学しつつ時を過ごしていた。やがて昼食時になり、武蔵坊と彼女は彼の手による卵と彼が手づから摘んだ数種の野草の質素な雑炊を食べ、彼のお茶で一息つきながら和やかに会話を交わす。
「すいません神保さん、こんな粗末な食事で。僕は食事は作業に支障が出ない様に、いつもこうして済ませるもので…あなたが来ると分かっていたら、もう少しちゃんとした食事を用意できたのですが」
 武蔵坊の言葉に若菜は穏やかに微笑んで頭を振りながら言葉を返す。
「いいえ、お気になさらないで下さい。私自身こうした食事は好きですし、何より武蔵坊さんのいつもの作業の一面がこうした所で垣間見られて楽しんでいますから。父にいいお土産話ができそうです」
「そうですか」
「はい」
 そうしてしばらく穏やかな沈黙が訪れた後、武蔵坊がふと呟く様に口を開く。
「…不思議ですね」
「何がですか?」
 武蔵坊の言葉に問い返す若菜に、彼は言葉を探す様に一旦沈黙した後、静かに語り始める。
「いえ、いきなりで何だと思われるかもしれませんが…あいつはともかく、あなたの様な方があいつと本当の意味での恋に落ちて、こうして想いを貫き通そうとしているという事がです」
「武蔵坊さん、それはどういう意味ですか?差し障りがなければ聞かせて下さい」
「…」
 武蔵坊の言葉の意味が分からず問いかける若菜に、彼はもう一度迷う様に、もしくは言葉を捜す様にしばらく沈黙した後、また静かにぽつり、ぽつりと語り始める。
「あいつは…義経は、一見思慮深く冷静なだけに見えて、本当の所はどこか掴みどころがない事に、あなたなら気づいていると思います。そしてその思慮深さと掴みどころのなさに覆われてはいますが…内はとても激しい。まるで…炎の様に」
「…」
「その掴みどころのなさから時折垣間見える内なる炎に、僕も含めて…人はある意味魅せられ、振り回され、惑わされる。そう以前言ったらあいつに『それでは自分は人でない事になるだろう。自分を見誤るな』と言われてしまいましたがね。でも僕は時折思うのです。あいつは…いや、あいつの内なる炎はあいつが望むとも望まざるとも関わらず、人を惹き付け、離さない。そして僕を含め、そうして惹かれた人間がその内を知ろうとすればする程、あいつに囚われ、あいつを知るどころかその炎で焼き尽くされてしまう…僕はあいつの親友だというのに、同時にそんなあいつが恐ろしい…と、思う事があります」
「武蔵坊さん」
「そんなあいつに惑わされたのではなく、本当の意味で愛したのがあなたの様な方だった事が、僕は不思議に思うのです。それはあなたの様な方にはあいつは合わない、という意味ではなく、これほどに…あいつにふさわしい存在があいつの前に現れた…という意味でです」
「武蔵坊さん、それはどういう…?」
 彼の言葉の意味が分からず、若菜は更に問いかけ、武蔵坊はそれに対して更に静かに答える。
「…これは、僕の勝手な考えですが…あいつが炎なら、あなたはまるで海の様な方だと思うのです。全ての生の始まりであり、穏やかに全てのものを受け入れる…そしてそんな海での炎は、漁火や篝火となって人を導くものとなる。その海での炎の様に…そんなあなたに出会ってからのあいつは、上に行く人間としてどこかいい意味で変わって…何より、今までの様にその内なる炎で周りを惑わせる事もなくなってきました。ですから、上に行く人間として…そして人としてあいつが変わってきた理由があなたとの出会いとその想いであり、あなたがいるからこそ、あいつは人を惑わすことも減った…そう僕は思うのです」
「…」
 武蔵坊の言葉に、若菜はしばらく何かを考える様に沈黙していたが、やがて静かに口を開く。
「…そうでしょうか」
「神保さん?何か僕がおかしい事でも…」
 問い返す武蔵坊に、若菜はふっと微笑むと、静かに言葉を紡ぎ出す。
「…そうですね。じゃあ、ちょっとしたお話をしましょうか。武蔵坊さん、こんな事を今聞くのは不思議かと思いますが、私が住んでいる小田原…つまり相模の海に対するイメージはどんなものがありますか?」
 若菜の問いに不思議なものを感じながらも、武蔵坊はその問いに素直に答える。
「そうですね…黒潮が通る道のせいか、あなたに感じている様な穏やかなものではなく、どこか荒っぽく…激しい波が打ち寄せるイメージですね」
 武蔵坊の言葉に、若菜もにっこり微笑んで頷きながら言葉を紡いでいく。
「そうですね。小田原の…そしてその周辺の相模の海というと、荒波だというのが地元民含めて世間一般のイメージです。実際、漁師の仕事歌から来ている小田原の木遣歌の一つにも『わたしゃ小田原荒波育ち』というものがありますし、これは小田原より他の地域の神輿で歌われる甚句ですが同じ様に相模の海を唄ったもので、『わたしゃ茅ケ崎荒波育ち 波も荒けりゃ気も荒い』なんてものもあります…でも」
「でも?」
「小田原の海に関しては、これとは全く逆の意味の言葉も語り継がれています。…それは、『こゆるぎ』という言葉です」
「『こゆるぎ』…?」
 聞いた事がない言葉に武蔵坊は問いかける様な言葉を発し、若菜はそれを見て説明する様に言葉を続ける。
「古語で、言葉の由来に関してはまだ研究者の間でも正しい説が出ていません。ただし意味に関しては一部分かっています。『こゆるぎ』とは『こよろぎ』…海や波が静かにたゆたう様子を表した言葉です。不思議でしょう、同じ小田原の海なのに、そしてそんな様子は今では見られないと誰もが思っているのに…こうした全く違う言葉が今でも生き続けているのです」
「そうですか。…でも、それが今の話とどう…?」
 訳がわからず問いかける武蔵坊に、若菜は穏やかに、静かにその答えを口にしていく。
「武蔵坊さんは、先ほど私の事を海の様だと言いましたよね。その言葉の感じからすると、武蔵坊さんは私の事を穏やかで全てを包み込む…そうして光さんもそうして包み込んでいる人間だと思っているんじゃないですか?…でも、今言った通り、同じ場所の海でも正反対の言葉が成立する様に、全ては一方向だけでは捉えられないものですよ」
「じゃあ…あなたにも『荒波』の一面があると?」
「はい、武蔵坊さんの様に感じる人が多い様ですが、光さんはじめ、私の『荒波』の一面を知る人も確かにいます」
「そうですか…」
 武蔵坊は静かに頷く。それを見た若菜は全ての答えを出す様に静かに、しかし芯の強さが分かる口調で言葉を紡いでいく。
「そしてそれは炎にも言える事。…すべてを焼き尽くす激しくも恐ろしい面もあれば、篝火や漁火や松明となり暗き道を照らし道を示したり、この囲炉裏の様に、その熱で人を温めもします…それに武蔵坊さんが作る焼き物も…炎によって作られますよね。そうして炎も、人にそれとは気づかせずに、様々な形で人間に関わってきているものです」
「神保さん」
「こんな事を私が言うのは光さんとのお付き合いが私より長い武蔵坊さんには傲慢かもしれませんが…私は、光さんが武蔵坊さんが言った様に変わったとは思っていません。もし変わったというのなら…内に秘めていた他の面が周りにも分かる形で出てきた…それだけだと思います。それが正しいのかは分かりませんけれど」
「…」
 そう言って微笑む若菜の言葉に、武蔵坊は一瞬驚いた顔を見せたが、やがてふっと苦笑する様に笑うと言葉を紡ぐ。
「…参りました。今の言葉で、さすがの僕でもあいつに対しての捉え方はあなたには敵わない気がしました。でもあえて言います。僕の様に何とかあいつを一つの形として捉えようとせず、ただあいつをあいつとして受け入れられるあなただからこそ…あいつはあなたに惹かれて…本来のあいつでも人を導く存在としていられる様になったのだと僕は今の話でも感じました。あなたという海があるからこそ…その炎は炎のままに篝火となって」
「…」
「どうか…あいつを今のまま包んでください。あいつがあいつとしていられる様に」
「…」
 若菜は戸惑う様にしばらく沈黙していたが、やがて芯の強さが分かる微笑みと言葉を武蔵坊に返した。
「…はい」
「では、お茶も冷めてしまいましたし、いれ直しましょうか。そうしてもう一杯飲んだら午後の作業に移りましょう」
「はい、ありがとうございます」
 そうして二人はまた穏やかにお茶を飲み始めた。