3月の暖かな日差しの中、土井垣と葉月は町を歩いていた。町は卒業式シーズンという事もあって、学生達で賑わっている。その風景を楽しげに眺めながら葉月は口を開く。
「う~ん、ちょっとしんみりする気持ちもあるけど、卒業っていいですね~。新しい所へ行く通過点を過ぎるっていうちょっと特別な気分になれて」
「ふむ…俺の場合そのまま明訓に残ったから卒業といってもピンと来なかったが、確かにそう考えると、俺にとっても明訓野球部の監督に専念し始めたという事で、特別だったと言えるか…」
「将さん、今更過ぎですよ」
「…悪かったな」
「ふふ」
 悪戯っぽい口調と笑顔で言葉を掛ける葉月に土井垣は無愛想な表情で返す。それを見て彼女は表情を悪戯っぽい笑みから優しい微笑みに変える。その微笑みを見た時、土井垣は不意に卒業式の時にあったある出来事を思い出した――

「土井垣さ~ん!卒業おめでとうございます!…これ、私からの花束です。受け取って下さい」
 卒業式が終わり、クラスの仲間との打ち上げに行こうとしていた土井垣に女生徒が声を掛ける。ある時は握手、ある時は寄せ書き、またある時は記念のプレゼントとこれで何人目だろうと思って頭の中で数え…数えるのを止めた。女生徒が差し出して来た花束を土井垣は苦笑しながら受け取る。
「ああ…ありがとう」
「それで…その…」
「何だ?」
 ためらう様に言葉を濁している女生徒に土井垣が問い掛けると、女生徒は決心した様に頷き、口を開く。
「土井垣さん、あの…その第二ボタン、私に下さい!」
「…」
 これはこの女生徒だけでなく、他の卒業生、在校生問わず土井垣に話しかけてきた女生徒全員が出した言葉。土井垣はふっと溜息をつくと、申し訳なさそうにその全員に出した答えを口にする。
「いや…申し訳ないんだが、これは…その、もうあげる人間が決まっているんだ」
「えっ…?」
 意外な言葉に、女生徒は驚きと落胆の表情を見せる。この反応も全員が見せたもの。土井垣はその表情を見て、断った事をある理由から申し訳ないと思いつつも、正直に言葉を紡いでいく。
「君の気持ちは嬉しいんだが…俺には…その、一方的にだが…心に決めた人がいるんだ。だから、この第二ボタンは…その人にあげるつもりなんだ」
「じゃあ…その人がもらってくれるかは分からないんじゃないですか。だったら私に…」
「いや…もらってもらえるかが分からなくても、その人を裏切る事は俺にはできない…だから…すまん」
「そうですか…じゃあ、いいです。…土井垣さん…さようなら」
 女生徒はくるりと土井垣に背を向けるとパタパタと走り去っていった。少し泣いていた様な気もする。土井垣は女性を泣かせた事に少し後ろめたさがあったが、彼女に言った事は覆せない事実なので、どうしようもない。土井垣はまた溜息をついた――

「…おい、土井垣。ボタンをもらいに来た女生徒を全員『決まった人がいる』って蹴散らしたって本当かよ」
 卒業式後の帰り道の喫茶店で、打ち上げを何人かの男子生徒としていた土井垣は、そのうちの一人に『今日の行状』について問い掛けられる。土井垣は『どうしてこういう情報は流れるのが早いんだ』と呆れながらも、静かに答える。
「…ああ、本当だ」
「それにしちゃ、第二ボタンまだくっついてるじゃねぇか。いくら女に興味がないからって、嘘つくなら、もうちょっと気が効いたものにしろよ。断られた女子連中、泣いてたぜ?」
 呆れた様に言葉を紡ぐ他の男子に、土井垣は口を開く。
「嘘じゃない。…本当に…あげようと思っている人がいるんだ…ただ」
「ただ?」
「彼女は…どこにいるか分からないんだ」
『へ?』
 あまりに素っ頓狂な土井垣の言葉に、面々も素っ頓狂な声を出す。やがて一人がまた口を開く。
「何だよその『どこにいるか分からない』ってのは」
 男子生徒の更なる追求の言葉に、土井垣も更に応える。
「彼女には偶然出会って…そのまま居場所を聞かずに別れてしまったんだ。…それらしい人の情報は確かに持ってはいるが…それも不確かだ。だから…渡したくても渡せないんだ」
「…」
「お前…何だよその下手な青春ドラマか少女マンガみたいな話は」
「でも事実だ」
「まったく…居場所くらい聞いておけよ。そんなに気になった女子ならよ」
「そうだな…でも」
「でも?」
「縁があれば…きっと、また会える…何年経っても。だから…その時に渡すんだ」
 そう言ってふっと笑う土井垣に、面々は呆れ半分、微笑ましさ半分の口調で言葉を畳み掛けていく。
「お前…」
「いくらなんでもロマンチスト過ぎ」
「あ~もう胸焼けしそうな位甘い話だよな…ってな訳でそんな話聞かされたギャラとしてここの料金お前持ちな」
「ちょ…それはないだろう。俺はこれから明訓の監督としてやっていくから、金が稼げないんだぞ」
「ご愁傷様。もてない俺達にそういう話を聞かせる方が悪い」
「そうそう」
「~!」
 爆笑する面々の中、土井垣だけは自分の秘密を晒されただけでなく、飲食代を払わされて散々だった。しかし、そんな散々な思いの中でもこの第二ボタンの『彼女』への甘やかな想いは変わらず、いつか必ず会える、いや、会ってみせる――そんな不思議な確信を彼は胸に秘めていた――

 そして彼は第二ボタンを机の引き出しの中へ大切にしまった。いつか出会えるはずの『彼女』を思いながら――それから10年近く経ち、あの時の確信通り、自分はもう一度『彼女』に出会った。始めのうちはそのほのかな想いも、『彼女』の事も忘れていたが、『彼女』に出会って時を過ごすうちに、彼は段々と思い出した。あの時の確信も、『彼女』に対するほのかで甘やかな胸の痛みも――それは、特殊な片恋故に卒業で区切る事ができなかった、しかし大切な想い。そんな思いを込めて土井垣は『彼女』を見詰める。『彼女』――葉月は彼の心を受け取って微笑みを返す。彼もそれを見てふっと笑うと、口を開く。
「葉月、お前に…贈りたいものがあるんだ…俺にもお前にももう…無用の長物だが…もらってくれるか?」
 土井垣の言葉に、葉月は話の流れから彼の言葉の意味を察し、最高の微笑みを見せて応える。
「…はい」
「…ありがとう」
 二人は微笑み合うと、葉月がまた柔らかな微笑みを見せながら言葉を紡ぐ。
「将さんは無用の長物って言ったけど、無用の長物なんかじゃないわ…あたし…将さんと付き合ってから…本当はずっと…欲しかったって思ってたの…『あの時』の事を思い出してからは尚更…ちゃんとした出会いで、あんな事位で忘れたりしなければ良かったのにって…でも…過去を掘り返すのは怖かったし…そうじゃなくても駄目って思ってたから…」
 柔らかな微笑みから少し寂しげな微笑みに変わった葉月の頭を撫でながら、土井垣は言葉を紡ぐ。
「いいんだ。俺も…忘れていたが…あの時から、お前に贈りたかったんだ…だから、お前がそう思ってくれていて嬉しい」
「本当?」
「ああ」
「…ありがとう。…これって、十年越しの卒業式になるのかしら」
「…そうだな」
「ふふ」
「じゃあ…俺の家に行くか。引き出しにまだあるはずだ」
「そうね…行きましょう?それであたしも言うの…『ずっとあなたが好きでした』って」
「今言ったら意味がないだろう」
「そうね」
 口では呆れた様な言葉を紡ぎながらも、土井垣は葉月を抱き寄せる。彼女はそんな彼に笑いかけながら身体を寄せる。そうして二人は寄り添いあいながら、町を歩いていった。