一月も末に近い土曜日、義経は山での荒行を終え下山し短い休息を取った後、総師や武蔵坊を含む道場の皆や家族達に挨拶をした後、二月から箱根で行われる東京スーパースターズのキャンプに向けての準備を兼ねた短い休息の時間を過ごすために、彼の『家』に戻る。新幹線を乗り継いで夕刻家路を辿っていると、道々で近所の人間が口々に彼に声を掛けてきた。
「…おっ、義経じゃねぇか!山から帰って来たのけ?!」
「はい、ご無沙汰しています。おじさんもお元気そうで何よりです」
「今月一杯はここにいるだべ?その間また俺のヘボ碁の相手してくれや」
「はい、喜んで。いつも通りお邪魔する前に連絡をしますから」
「ああ。…っと、悪ぃな引き留めて。あの娘が帰りを待ちかねてるべ。早く帰ってやれや」
「…はい、失礼します」
「光、けえってきただな~…ああそうだ、これうちの畑で採れたねぎだ。持ってけ。こないだそっちの畑で採れた大根もらってたからな。お返しだ」
「ああ、そうだったんですか。ありがとうございます。なら遠慮なくもらいます」
「あらあら婿殿じゃない。お帰りなさい。少し痩せたみたいだけど、大丈夫?」
「はい、修行が終わった直後ですからこんな感じですが、大丈夫です」
「だったら、しっかり食べて早く身体を戻さないとね。明日の朝、地引網やるからそこで魚一杯持って行きなさい。町内の子達もあなた達と遊びたがってるから、若夫婦二人でいらっしゃいね」
「はい、もちろんです。家内と一緒に参加させてもらいますね」
 道々で住人が声を掛けてくるのは、自分が有名人だからではなく、彼らが自分を同じ町内の人間として親しんでいるから。そうしたここに住んでいる人達の気の良さと素朴な人懐っこさは、どこか自分の故郷である渋民に似ていて心地よい。そんな心地よさを感じつつ彼は更に歩を進め、町の中の古めだが手入れが行き届いてこざっぱりとした小さな借家に辿り着いた。東京からこの町に居を移すことになり、様々な事情を考えて新居を探していた時に、その話を聞いたこの借家の家主が『丁度この家を使っていた人が引っ越して管理する人が欲しかったからどうだろう』と声を掛けてくれて、彼も彼の『恋女房』もその気持ちの嬉しさと家自体も気に入ったのでその申し出を快く受けて決め、昨年の秋季キャンプ前に引っ越してきた。『彼女』の実家にも程近いし、何より慎ましやかな二人の…そして程なく増えるだろう『家族』の暮らしには十分過ぎる位の『城』。そんな事を思いながら家の中から聞こえてくる彼女が家事をしているのだろう音を聞きつつ改めて我が家を眺めると、物干し場となっている小さな庭に面した縁側には修行に出た時にはまだ葉のみだった水仙がよく手入れをされた形で凛として香り高く咲き誇り、またこの家ができる前からこの土地にあり、家主と代々の借主が大切に手入れをしてきた白梅が玄関の横で蕾を付け始めた枝を伸ばしていて、まるで彼の帰還を喜ぶ様に吹いてきた柔らかな風で包み込む様にその香りを広げた。『恋女房』がこうして自分の仕事の合間に家や環境を整え、自分が帰って来た時を思いつつ心を砕いて待っていてくれたのだと良く分かりそれが嬉しくて、そんな彼女の顔を早く見たいと呼び鈴を鳴らし引き戸を開けると、奥から返事の声と共に割烹着姿の『恋女房』が出てきて、その姿に笑顔を見せる彼を認めると、ほんの少しだけ驚いた後、やはり最高の笑顔でその彼を出迎えた。
「…お帰りなさい、お疲れ様。光さん」
「…ただいま、若菜さん」
「疲れているでしょう?早く入って落ち着いて」
「ああ、ありがとう。…ああそうだ、これを。帰って来る途中で剣持のおじさんが畑で採れたからってくれたんだ。台所に置いてもらえないか」
「あら、そうなの?じゃあもらうわね。後でお礼言わないと」
「そうだな」
 そうしてまた笑いあった後彼は居間にある炬燵に落ち着き、彼女はお茶をいれてお茶菓子と共に持ってくると自分も炬燵に入った。そうして二人でお茶を飲んで一息ついたところで、彼は改めて彼女に話し掛ける。
「一応帰ってすぐ電話はしたが…こうしてちゃんと顔を見て、元気そうだと改めて分かって良かった」
「光さんも。少し痩せたけど、それは少し前まで荒行をしていたから仕方ないわね。その代わりキャンプまでにちゃんと戻る様に腕を振るうから」
「ありがとう。まああなたも仕事があるし、あなたこそ食が細いんだから俺も一緒に腕を振るわせてもらうけれどな。ああそうだ、それで思い出した。湯川さんから聞いたんだが、明日地引網があるんだって?二人で来いと言われた」
「ああそうだったわ、忘れてた。光さんは初めてだし、楽しんで欲しいから明日は早起きしないとね」
「そうだな。後、引っ越してすぐキャンプや修行で家を空けっ放しだったから、遅い引っ越しや年始の挨拶を兼ねてあなたの家やおばあ様達にお土産を買ってきたんだ。明日一緒に挨拶に回ってもらえるかな」
「ええ、もちろん。それに皆も『帰ってきたら顔を出す様に言ってくれ』って言っていたし。それだけじゃなくて、康文おじ様がキャンプの合間でいいから読んで一緒に考察して欲しい資料がまた出たから、それを取りに来て欲しいそうよ」
「そうか」
「後、私も光さんが修行に出ている間に武蔵坊さんに頂いた引っ越し祝いのお礼を選びたいから小田原とか鴨宮に出かけたいの。それも付き合ってもらえる?」
「ああ、もちろんだが。武蔵坊はそんな事をしていたのか。…帰る前に俺が会った時には、そんな話はおくびにも出さなかったのに。一体あいつは何を送ってきたんだ?」
「…まだ気付かない?」
「え?」
 彼の言葉に、彼女はにっこり微笑んで言葉を返す。
「…今持っている物を良く見て」
「それはどういう…ああ、そういう事か…」
 彼は彼女の言葉で、自分と彼女が手にしている湯呑みが武蔵坊の作だと気付いた。彼の手の大きさや持つ時の癖に合わせ作られ、新しい物なのにずっと使っていたかの様にしっくり手に馴染んでいるこの湯呑みは、二人に向けた武蔵坊の祝福が良く分かる品。彼女もきっと自分の手にしている湯呑みに同じ感覚を覚えているだろう。そんな武蔵坊の粋な心遣いに彼はふっと微笑みを見せながら言葉を重ねる。
「…ありがたいな」
「そうね…それからね」
「どうした?」
 彼の微笑みに彼女はやはり微笑みを返しながらも不意に更に顔を赤らめ、恥ずかしそうに封筒を彼に差し出し言葉を重ねる。
「…こんなお祝いの言葉までもらったわ」
「そうなのか。ならきちんと礼をしな…おい、これは度が過ぎないか…?」
 彼女の態度の意味が分からず、その封筒の中の手紙を読んだ彼は、その文面で彼女の態度の意味が分かってこちらも赤面して絶句する。そこには『祝いとして二人のために湯呑みと茶碗を焼いたので贈ります。そして近い将来、これに新しく小さなものを加えて欲しいという依頼が来る事を楽しみにしています』とあったのだ。二人はその手紙を前に顔を赤らめ俯いたまましばらく互いに何も言えずにいたが、やがて先に気を取り直した彼が照れ隠しの咳払いの後、改めて口火を切った。
「…まあ、それはそれとして。その、ええと…今日の夕飯は何かな」
 彼の問いで彼女もやっと気を取り直し、言葉を返す。
「えっ?…ああ、ええ…あの、光さん、荒行でお正月のお祝いもできなかったでしょ?それに山から下りてきたばっかりで重いものにすると胃がびっくりするかしらって思ったのもあったから…お雑煮にしたわ。折角お餅が簡単にできるホームベーカリーも買って、できたてだし…あなたの家の味で」
「…そうか、ありがとう。だとしたら…前に話した俺の『要望』も聞いてくれたのかな」
「ええ、うちの隠し味のはば海苔も…ちゃんとあるわ」
「そうか」
「…はい」
「じゃあ、そろそろ時間だしできているなら食べたいな」
「大丈夫。用意はほとんどできているからすぐ用意するわね」
「お願いするよ。…ああ、そうだ。真っ先に言わなければいけない言葉を言っていなかった」
「何?」
 彼の言葉に笑顔で頷いて立ち上がり台所へ向かおうとした彼女を、彼は不意に何かを思い出した様に呼び止める。それに応じて振り返った彼女に、彼は今までで一番優しい笑顔を見せ、改めて言葉を紡いだ。
「明けましておめでとう。今年も…いや、これから末永く…よろしく」
「…はい。こちらこそ末永く…よろしくお願いします。…『あなた』」
 二人は互いに交わした『新年の挨拶』に改めて幸せを感じながら微笑み合った。