――彼女は気が付くと知らない場所にいた。何もない、誰もいない場所。出口を探して彼女は走り出す。するとその先に二人の男がいた。二人とも見知った顔。二人は一触即発の様相を見せている。そしてその周りにはその二人を飲み込もうとしている大きな闇…。二人はその闇に全く気付かない。彼女は必死で二人の側に行こうとするが、体の力が抜けてしまい動けなくなってしまう。そのまま二人は闇に飲み込まれ、残ったのは虚ろな目をした二人の骸…――
    
    「…!」
     飛び起きた彼女が見たものは月光の差し込む自分の部屋。彼女―八神紫野はほっと胸を撫で下ろしたが、その生々しさに身震いした。
    「夢で良かった…でも何て不吉…っ…!」
     眩暈と共に彼女の口から一筋赤いものが流れる。彼女はそれを手で拭い取った。
      
      ――そう…夢と同じ…草薙と八神の対立も、オロチの脅威も、そして兄様の暴走も…この身体ではどうする事もできない。…私には何もできない…!――
      
     彼女は先刻血を拭った手を胸に押さえ付ける。
      
      ――昔のような身体なら、何かできるかもしれないのに…――
      
       そう思い唇を噛む彼女の傍らにその姿を見詰める四つの目があった――
    
    「なぁ、朝メシまだできねぇのかぁ?」
    「うるさい!黙って待ってろ!」
     朝から騒々しいマンションの一室。どなられて唇を尖らしているのは草薙京、そして不機嫌な顔で遅い朝食を作っているのはこの部屋の主人、八神庵である。
    「しょーがねーじゃんかぁ。俺、腹へってんだもん」
    「何が『腹へってんだもん』だ!貴様という奴はいつもいつもいつもいつも勝手に他人の部屋に泊まるは飯は食うわで…」
    「だってオフクロが法事に行っちまっていねーから家に居てもつまんねーしさあ、それに俺、飯作れねーもん」
    「…貴様は『留守番』と言う言葉を知らんのか?」
    「でーじょぶでーじょぶ、カギはかけて来たから」
    「…」
     庵は小さく溜め息をついた。こんな男でも格闘の技量は一流でその筋では有名というのはタチが悪い。そしてこんな奴に対抗意識を燃やしてしまう自分が情けないと思う。その上惚れてしまった事を自覚してしまった日には自決したくなる。
    「いい加減料理くらい覚えろ。自活できないと困るぞ」
    「別に俺は困る事ねぇんだけど。ここに来りゃいいだけだし」
    「貴様が困らんでも俺が困る。貴様のせいで家のエンゲル係数がどれだけ高くなっているか…」
    「何だ?その『エンゲル係数』って」
    「…高校を出る気ならそれ位覚えろ。とにかく料理はできて損はないぞ」
    「じゃ、庵が教えてくれよ。俺、庵の作るメシの味が一番好きなんだ」
    「な…」
     京の言葉に庵は思わず赤面した。こういう無邪気な所が京の良い所なのだが、その無邪気さが庵をとまどわせる。
    「な?いいだろ、今度教えろ…ん?」
     玄関のインタホンの音。
    「誰だろ、こんな朝早くに…」
    「十時ならそれ程早くもなかろう。京、ちょっと行って来てくれ」
     赤面した自分を見られたくないので庵は言った。
    「えーっ!?なんで俺が…」
    「横で騒がれると手元が狂う。それとも貴様が作るか?」
    「…行かせて頂きます…」
     まったく、俺様はお客様だぜなどとぶつぶつ言いながら京は玄関に出た。
    「へーい、どちら様…」
     そこに立っていたのは子猫を抱いた小さな女の子。腰まである黒い髪に切れ長の目。ワンピースを着たその姿はいかにも愛らしく、あまりにもここの住人に似過ぎていた。
    「あら…?」
    「あぁお嬢ちゃん、ちょっと待っててねぇ」
     そう言って踵を返すと京はバタバタとキッチンへ戻った。
    「ああ京、誰だったんだ」
     朝食を作り終え、一息付いていた庵を京は鋭く睨め付ける。
    「い〜お〜り〜、いつの間にガキなんざ作ってたんだぁ〜?」
    「は?何のことだ」
    「とぼけんじゃねぇ!お前に似たちっちゃい女の子が来てるんだ!」
     そう言うや否や庵の襟首を京は思い切り締め上げた。
    「誰の子だ?庵、吐け、吐け〜!」
    「ちょっと待て、きょ、苦し…」
    
      
かぷっ。   
                 ざっくり。
      
    「ってーっ!!」
     鋭い痛みが京の手に走る。先刻の子猫達が京を襲った(!?)のだ。
    「このバカ猫ぉ!!何しやがる!」
    「おやめなさい千草、蘇芳!」
     京が焼き猫を作ろうとしたその時、女の子の声。京は思わず手を止める。
    「もうしわけございません、おけがはありませんか?」
    「あんなに痛かったんだ、怪我してて当たり前…あれ?」
     京は自分の手を見ると首を捻った。
    「怪我…してねーや…」
    「どうやらこいつらはお前が俺を締め上げたから止めに入っただけの様だな」
     庵が言うと二匹は『そうだよ』とばかりに鳴いた。
    「でもいけませんよ、おきゃくさまにあんなことをしたら。すみませんでした、京にーさま。さ、あやまりなさい千草、蘇芳」
    『にゃあ(ごめんなさい)』
     二匹はそう鳴くと京の足元に擦り寄った。
    「いや、いいんだけどよ…って、あぁ!?」
     そこにいるのは先刻の女の子。京は今まで全く気付いていなかったのだ。
    「この娘が何でここにいるんだよ!庵ぃ、お前も何で入れてんだ!」
    「玄関を開けっ放しにしていたのはお前だぞ、京。それに貴様の反応も見ていて面白かったんでな」
    「うるせぇ!第一この娘は誰なんだよ!ほら、こんなに似てるじゃねーか!」
    京はそう言うとその女の子を抱き上げ庵の目の前に突き付ける。しかし庵はあっさりと答えた。
    「知らん」
    「知らん…ってお前なぁ…」
    「しかし猫の方は妹の猫だ。ここまで懐いているのなら大方紫野の知り合いだろう。あいつは近所の子供達と仲がいいからな」
    「えっ…そうなのか?」
    「あの…」
    「そっか、脅かしてごめんな、お嬢ちゃん」
    「それで、何か様かな?」
     庵が腰を下ろして女の子に尋ねる。いつになく優しい声だった。
    「げーっ!気色悪ぃの。庵じゃねーみてぇ」
    「やかましい!…ああ、あいつは無視していいから。紫野に何か…」
    「ちがいます…わたしです…にーさま、京にーさま、おひさしゅうございます」
     口調は幼いが挨拶の仕方はしっかりしている。しかもこの話し方には二人とも覚えが有る。有り過ぎる。
    「『お久しゅうございます』って…」
    「『私』…『兄様』…まさか…紫野なのか?」
    「はい…」
    「何があったんだ!」
    「どーしたんだよ、こんなにちんまくなっちまって!」
    「わからないのです…あさおきたらこうなっていて…」
     二人が驚くのも無理はない。彼らが知っている紫野は十七歳の少女である。確かに幼く見えることもあるが、少なくとも幼児ではなかった。
    「夢…ではないな…」
    「ほんとかよ…おい…」
    
    「はい、はい…分かりました、父さん。それでは後で…」
     ガチャン!荒々しい音を立てて庵が受話器を置く。
    「何だって?親父さん」
     ソファに座った京が尋ねる。膝には先程の猫。どうやらすっかり気に入られてしまったらしい。
    「全く話にならん。『可愛いからいいんじゃないか』だと」
    「はぁ?…このままだったらどうする気なんだよ、親父さん達」
    「それも言ったが『また育て直すさ』と来た。我が親ながら頭が痛い…」
    「…八神の親って変な奴だな」
    「その『変な奴』の片方は少なくとも貴様の血筋だが」
    「そうでした…」
    「もうしわけありません、ごめいわくをおかけして」
     本当に申し訳なさそうに紫野が言った。
    「過ぎたことは仕方ない…が、お前…黙って出てきたな」
    「はい…」
    「心配していたぞ。…まあ、あの様子では分からんでもないがな」
     電話での会話を思い出したのか、苦々しく庵が言う。
    「わかりますか?」
    「ああ。着せ替え人形がわりにでもされかかったか?」
    「はい…」
    「まったく、年相応に落ち着かんのかあの二人は…」
    「ま、親御さんの気持ちも分からなくもねぇな。こんなに可愛いんだもん」
    『にゃう!』
    「いっその事親父さんの言う通り育て直しちまうってのも悪く…」
     ゴンッ!笑っている京の後頭部を庵が殴る。
    「少しは真面目に考えんか!」
    「ってぇなぁ…そうホイホイ頭殴んなよ!馬鹿になったらどーすんだ!!」
    「貴様の場合もうすでに充分すぎる程馬鹿だから大丈夫だ」
    「そーだな…って、てめぇなぁ!」
     二人はそこでふと紫野の方を見る。いつもなら真っ先に止める彼女が俯いたまま何も言わないのだ。京の膝にいた二匹も心配そうに紫野に寄り添う。
    「…ごめんな、無責任なこと言っちまって」
    「いいえ、わたしこそにーさまたちにごめいわくをかけてばかり…」
    「そんな事は気にするな。それより元に戻る方法を考えなければな…」
    「でも、こうなった原因が分かんなきゃどうしようもないぜ。叔父さんも当てになんねぇし、うちの親父もいねぇし…ま、いてもいなくても同じだろうけどよ」
    「打つ手無し…か…」
    「ゆめを…見たのです…」
     考え込む庵を見て紫野がゆっくりと話し始める。
    「夢…?」
    「どんな夢だったんだ?」
    「にーさまたちがおおきなやみにとりこまれて…しんでしまうゆめ…」
    「…そりゃ、縁起悪ぃ夢だな」
    「にーさまたちがオロチとたたかっていらっしゃるのはぞんじております…それに、わたしたちのいえどうしのたいりつもなくなってはおりません…げんに、にーさまたちも…」
    「紫野…それは…」
    「でも、わたしにはなにもできなくて、なにかをしようとしてもからだがついてきてくれなくて…そんなじぶんがなさけなくて…ちいさいころのようにもうすこしげんきだったらなにかできるかもしれないのにとおもったのです…」
    「…」
     二人とも無言である。紫野は続けた。
    「たしかにいまはからだはだいじょうぶのようですわ…でも、からだがちいさいころにもどっても、どうしようもありません…けっきょくわたしはいつもまわりにごめいわくをかけてばかり…!」
     すすり泣いている紫野を二人は見詰めていたが、京が少し考えるそぶりを見せると明るい顔で口を開く。
    「なーに言ってんだよ。紫野ちゃんは迷惑なんてなんにもかけてないぜ」
    「そんな…なぐさめなど…」
    「なぐさめなんかじゃねぇよ。だって俺達紫野ちゃんがいるから好き勝手できるんだし。な、庵」
    「ああ」
     京の言葉に庵も同意する。
    「知ってるぜ俺。時々紫野ちゃんが家のオフクロの相手してくれてんの」
    「あの両親を抑えてくれているだけでも俺は助かっているしな」
    「…」
    「とにかく、紫野ちゃんは紫野ちゃんらしくしてればいいんだよ」
    そう言って京は紫野の頭をがしがしと撫でた。紫野はぼんやりとした顔でしばらく二人を見詰めていたが、またポロポロと涙をこぼし始める。
    「なっ…どうしたんだよ紫野ちゃん」
    「すみません…なんだかうれしくて…」
     彼女の言う通りその顔は先程の暗い影は失せ、明るい光があらわれていた。そんな紫野を庵は抱き上げると頭を撫でる。
    「わかったわかった、だから泣くんじゃない紫野」
    「はい…」
     紫野は手の甲で涙を拭き、笑顔を見せる。二匹の猫が彼女に擦り寄る。彼女はその二匹を抱きかかえた。
    「ごめんなさいね千草、蘇芳。あなたたちもしんぱいしていたのでしょう?」
    『にゃあ』
    『にー』
     『何でもないよ』という感じで二匹は鳴く。それを見た庵はポンと紫野の頭を叩いた。
    「さあ、気は進まないが家に帰るか」
    「はい」
    「えっ?庵、家に帰るのか?俺も連れてけよ」
    「貴様は自分の家に帰れ」
    「えーっ?いいじゃねぇか」
     言い争う二人を紫野はしばらく見ていたが、微笑みながら二人の間に入るとその手と自分の手をつないだ。
    「なっ…」
    「何してんだよ、紫野ちゃん」
    「わたし、いちどこうしてみたかったのです。せっかくですからこうしてかえりましょう、にーさま」
     二人とも照れ臭いと思ったが、にこにこと微笑む紫野にはかなわない。
    「…まあ、仕方ないか」
    「さあ!庵ん家まで行くか!」
     三人は手をつないだまま庵の家までの道のりを歩いていった。紫野の表情は今までにない程幸せそうで、京と庵は照れ臭いと思いながらも、いつもは寂しそうな表情ばかりの紫野がこういう表情をするのが少し嬉しいとも思い、たまにはこういうのも悪くないといった風情で歩いていた。
    
    「庵〜、よく帰ってきてくれたなぁ。紫野もちゃんと帰ってきてえらいえらい」
    「はい、とーさま。だまってでていってしまってもうしわけありませんでした」
    「いいのよ、紫野。庵、おかえりなさい。…あら、京さんも。よく紫野を連れて帰ってきてくれたわね。ありがとう。兄さま達はお元気?」
    「あ…どうも、こんにちは」
     三人が家に帰ると庵の両親である薫と桐子が出迎えてくれた。二人とも随分とお気楽である。庵はそんな二人に内心頭を抱えながら口を開いた。
    「…父さん、母さん、紫野を元に戻す方法を何か考えてくれましたか」
    「いいや、考えてないぞ」
    「父さん!」
     庵は思わず声を荒げるが、薫はあくまでお気楽である。
    「いいじゃないか、実害はないんだし。なあ、桐子」
    「ええ、また育て直せばいいことですし、それより紫野、箪笥を探していたらかわいい着物が出てきたの。着てみましょうか」
    「…」
     庵は溜め息をついた。京もこの二人のお気楽さに思わず呆れてしまう。紫野に至っては『またか…』という風情で付いてきた二匹の猫の頭をなでていた。
    「まあとにかく家に入ろう。そうだ京君、今日は泊まっていくかい?」
    「えっ…いいんですか?」
    「かまわないよ、確か今日は義兄さんも義姉さんもいないだろう?」
    「はい…、でも何で知ってるんですか?」
    「いや、義姉さんから電話があってね。留守中の君の世話を頼まれたんだ」
    「はぁ…そうですか…」
     母親の先見の明に感服しながらも、『もうちょっと自分の年齢を考えてくれてもなぁ…』と思う京。思わず和んでしまった空気に庵の鋭い声が響く。
    「父さんも京も和んでないで紫野のことを考えて下さい!」
    「いやぁすまんすまん、でも意外と自然に元に戻るんじゃないか?」
    「戻らなかったらどうするんですか!」
    「そうしたらさっき言った通りまた育て直すさ。いくら考えてもこうなったら仕方がないしな。紫野のことはまたゆっくり考えることにして、とにかく今日はみんなでにぎやかにいこう!」
    「…」
     本当に自分はこの二人の子なんだろうか…庵は額を押さえて溜め息をついた。
    
     結局その日は京も含んで宴会となってしまい、夜遅くまで騒いだ後、家族はそれぞれの寝室に引き取り、京は庵の寝室に一緒に寝ることになった。
    「まったく…我が親ながら何とかならないのか…」
    「でも、そう言うお前も結構飲んでたじゃねーか」
    「…あれはヤケ酒だ。好きで飲んでいた訳じゃない」
    「へぇ…でもまあ今日はしょうがないさ。明日になればきっと叔父さん達も考えてくれるだろーよ」
    「そうだといいがな…」
     なまじ両親の性格を知っているので複雑な表情の庵。
    「とりあえず今日は寝よーぜ。…おっと、俺その前にトイレ行ってくるわ」
    「そうか。場所は分かるな」
    「おー。勝手知ったる他人の家ってな」
     そう言うと京は用意された布団から抜け出ると部屋を出ていった。用を足して部屋へ戻ろうとすると途中の部屋の襖から光が漏れているのに気が付いた。不思議に思ってそっとその部屋を覗いてみると、そこは紫野の部屋であった。紫野はもう眠っていて、その両脇には着物を着た小さな子供の姿が二人…光はその二人から出ているのだ。
    「おい…何だよ…」
     京は物音を立てない様に急いで部屋へ戻るともう寝ている庵を叩き起こす。
    「おい!庵!起きろよ!」
    「…何だ、京」
     寝入りばなを起こされて不機嫌そうな庵に、京はたたみかけた。
    「バカ、寝てる場合じゃねーよ!紫野ちゃんが大変なんだ!」
    「何っ!?紫野がどうしたんだ?」
     大事な妹が大変だと聞き、庵はすっかり目を覚ました。京は続ける。
    「何か紫野ちゃんの横にガキがいて、そのガキが光ってて、…ああもう、とにかく来いよ!」
     そう言うと京は庵の手を引っ張って紫野の部屋まで連れて行った。部屋の中の様子を見て庵も驚く。
    「…何なんだ、あれは」
    「な?分かっただろ?」
    「ああ…しかし、どうするか…」
     京は少し考える素振りを見せて口を開く。
    「…踏み込もうぜ」
    「しかし、紫野に何かあったらどうするんだ」
    「でもこのままほっといても紫野ちゃんに何かあるかもしれねぇじゃねぇか」
     京の言葉に庵は少し考えると、うなずいた。
    「…そうだな…よし」
    「…行くぜ」
     二人は顔を見合わせてうなずくと、勢い良く部屋へ入って行く。
    「誰だ!」
     庵の言葉にそこにいた二人の子供はビクッとして二人の方を見る。そして困った様に二人で顔を見合わせた。
    「どうしよう…」
    「見付かっちゃった…」
     困っている二人に京が声を掛ける。
    「お前ら、一体誰なんだ?どこから入ってきたんだ?」
     京の言葉に、二人はまた困った様に顔を見合わせたが、やがて決心した様にうなずくと、髪の短い方の子供が口を開いた。
    「驚かしてすみません…信じてもらえないかもしれませんが、僕は蘇芳で、あっちにいるのが千草です」
     そう言って蘇芳と名乗った子供と千草と紹介されたおかっぱ頭の子供は頭を下げた。
    「蘇芳、千草…聞いたことがあるよなぁ…」
    「そうだな、どこでだ…まさか…!紫野の飼っている…あいつらか?」
    「はい…」
     庵の言葉に二人はうなずいた。京が不服そうに声を上げる。
    「おい、待てよ。あいつら猫だろ?何で猫が人間に…」
    「静かにしてください。紫野様が目をさまします」
     千草が京に声を掛ける。ふくれながらも京は声を小さくした。
    「…とにかく、猫が人間になれるわけないだろ」
     京の言葉に蘇芳は口を開く。
    「僕たちは本来は式神…ここにいらっしゃる紫野様…アマテラス様を守るために姿を変えて紫野様の側にいるんです」
    「はぁ!?」
    「紫野がアマテラス…?どういうことだ」
     開いた口がふさがらないといった感じの京と、何とか平静を保ち、詳しいことを聞こうとする庵。蘇芳は続けた。
    「アマテラス様は自然の一部ではなくなってしまった人間を嘆いて身を隠し、永い眠りについていたんです。でも、あなた方の先祖が封印したオロチ八傑衆の魂を解放してしまったでしょう、その時の力の波動がアマテラス様の眠りを覚ましたんです」
    「そして、しばらくは八傑衆の様子を見守っていたのですが、今度は八傑衆が長の封印を解こうとしているのを知って、長と八傑衆を今度こそ鎮めるために紫野様の身体にご自分の魂を封じ込めたのです」
     意外な事実を語る二人に驚く京と庵。
    「オロチを鎮める…?どういう事だ?」
    「それに…何で紫野の身体なんだ」
     庵の問いに今度は千草が先に口を開いた。
    「アマテラス様が太陽の恵みと豊穣を司る存在なら、オロチは元々は水の恵みを司り、人々に戒めを与えるという、表裏一体の存在…。お互いが存在することによって能力の均衡が保たれていたのです。しかしオロチはアマテラス様が身を隠した事によって能力の均衡を失い、暴走を始めてしまいました。その時は何とか三神器の一族…つまりあなた方の遠い先祖たちがアマテラス様を見付け出して力を借り、アマテラス様の弟スサノオ様がオロチをとりあえず封印したのです。でも、アマテラス様もオロチを鎮めるだけの能力は出せず、オロチは暴走をしたままでした」
    「そして、仕方なくオロチは封印をされ続け、アマテラス様も欲にまみれた人々のために能力を出すことができないことを嘆いてまた身を隠し、今度はそのまま眠りに就いてしまったんです。八傑衆の封印が解かれた時に目覚めはしたものの、当時も欲にまみれた戦乱の世…やはり能力を出すことができず、能力を発揮できる程の身体もなく、目覚めても八傑衆の暴走は止まらなかったし、鎮めることができなかったんです。でも、紫野様は力のある巫女であるとともにやっと現れたアマテラス様の依代…もしかすると能力を発揮することができるかもしれない…そうアマテラス様は思って紫野様の身体にご自分の魂を封じ込めたんです」
     二人の説明に呆然となる京と庵。暫くの沈黙の後、やっとのことで庵が口を開く。
    「それで…紫野は自分がアマテラスを宿している事を知っているのか…?」
     千草は首を振って答える。
    「いいえ、紫野様はまだご自分がアマテラス様の魂を宿していらっしゃる事に気付いておりません。しかし無意識に能力を使ってしまっていらっしゃるので、お身体に負担がかかっていらっしゃるのです」
     今度は京が不満そうに口を開く。
    「じゃあ、お前らが教えりゃいいじゃねーか。そうすれば紫野ちゃんは丈夫になれるんだろ」
       今度は蘇芳が首を振る。
    「いいえ…たとえ教えてもご自分で気付かない限りアマテラス様の能力は意識的に扱う事はできません。ですから、紫野様がアマテラス様として目覚めるまで能力を使い過ぎて亡くなったり、暴走したオロチの手に掛かる事がない様に僕達が側にいて護っているんです」
     その言葉に庵が顔色を変えた。
    「だとすると…このままでは紫野は死ぬ可能性もあるのか…!?」
     蘇芳に詰め寄る庵を千草が止める。
    「大丈夫です。私達が紫野様の不完全な部分を補っておりますから…それに紫野様はアマテラス様として目覚めかけております」
    「えっ…?どうして分かるんだ?」
     京が尋ねると千草は続けた。
    「あなたが野試合で八傑衆…しかも四天王の一人に負けた時に紫野様があなたを助けましたよね」
    「え?…ああ…そんな事もあったっけ…」
    「その時に紫野様は追い詰められてとはいえ意識的にアマテラス様の能力を使いました。アマテラス様はその時から紫野様の意識に近いところにいらっしゃいます。あとは紫野様がそれに気付くのを待つだけです」
    「ふうん…」
    「そうか…ならいいが…」
     分かった様な分からない様な表情の京と、安心しながらも複雑な表情の庵。また暫く沈黙が続く。と、京が思い出した様に口を開いた。
    「…そうだ、お前らここで何してたんだ?…まさか、紫野ちゃんをちんまくしたのはお前らなんじゃ…」
     まくしたてる京に二人はあわてて首を振る。
    「いいえ、違います。紫野様が小さくなられた訳は確かに私達の能力ですけど…私たちが意識的にやった訳ではないのです。昨日の夜、紫野様が『昔に戻りたい』と強く思われた時、いきなり私たちの能力が暴走して…」
    「だから、僕達も元に戻さなければと思って色々やっていたんですけど…」
    「それをこいつが見たという訳だ」
    「はい」
     二人の言葉に京と庵は頭を抱えた。
    「こいつらにも元に戻せねぇとなると…」
    「どうしたらいいんだ…」
     その時、急に部屋が明るくなる。驚いた四人が振り返ると、紫野の体から金色の炎が立ち上っていた。四人が見守っていると、紫野が目を開け起き上がる。
    「…お前達、久しいの」
     紫野が口を開いた。しかし、話し方がまったく違う。それどころか表情や醸し出す雰囲気もいつもと違っていた。何より、千草と蘇芳の正体を知っている口振りである。
    「おい…」
    「まさか…」
     京と庵は顔を見合わせた。千草と蘇芳は慌てて膝を付く。
    「アマテラス様!」
     紫野は微笑んでそれを止める。
    「よいよい、その様に畏まらずとも…おや、そこにいるのは草薙京と八神庵じゃな」
    「あんたが…アマテラス?」
     京が尋ねると紫野は微笑んでうなずく。
    「そうじゃ。今はこの娘の身体に宿っておるがの。…すまぬな、八神庵。妹の身体を借りてしもうて」
    「いや…しかし何故俺の名前を?」
     庵が尋ねると紫野(に宿ったアマテラス)は続けた。
    「身体を借りておる故、この娘の意識と同調しておるのじゃ。そうせぬとこの娘の精神を壊してしまうからの。意識を辿れば名前位分かる」
    「へえ…便利なもんだな」
    「それで…アマテラス様、どうしてまたご自分からお姿を…?」
     蘇芳が尋ねると、アマテラスは申し訳なさそうに答える。
    「いや…この娘をお前達が元に戻そうとしておるのを娘を通して見ての。…すまぬ、娘をこの様な姿にしたのは我じゃ」
     意外な発言に一同は驚く。暫く四人は唖然としていたが、我に返った京が口火を切って尋ねる。
    「『我じゃ』って…何でまた紫野ちゃんをちんまくしちまったんだよ?あんたにメリットがあるとは思えねぇけどな」
    「すまないが、俺もそう思う」
     庵も京の言葉に同意した。
    「お二人とも、アマテラス様に対して失礼ですよ!」
     京と庵の言葉に千草が慌てて注意する。それを見たアマテラスは(紫野を通してだが)微笑んでそれを止める。
    「よいよい、畏まられるよりもむしろ普段の通り話されたほうが我も気が楽じゃ。…さて、草薙京。そなたの申す事はもっともじゃ。しかし、この娘が『昔に戻りたい』と余りに強く願うたのでの、不憫に思えて、つい願いをかなえてしもうた。今の状態では我の能力を使うとこの娘に負担がかかる故、この者達の能力を借りての」
    「じゃあ、昨日の僕たちの能力の暴走は…」
    「そうじゃ、我がやった」
     アマテラスの言葉に、京と庵は溜め息をつく。
    「何だかなぁ…」
    「人騒がせな…」
    「すまぬ。しかし、無力感に苛まれるこの娘が余りに不憫での。早く我の存在に気付いてくれると良いのじゃが…」
     困った様に言うアマテラスに京が抗議する。
    「でも、そりゃあんたの勝手だろ。紫野ちゃんにとってはあんたの存在は邪魔なだけかも知れねぇぜ」
    「草薙様、それはアマテラス様に対してひどすぎます」
    「よい千草、…確かにそうかも知れぬ」
    「…まぁ、今日の紫野ちゃんの様子からすると、これで役に立てるって泣いて喜ぶと思うけどな」
     言ってからさすがに悪いと思ったのか一応フォローを入れる京。
    「それで…紫野は元に戻れるのか?」
    庵の問いにアマテラス(=紫野)は微笑んで答える。
    「そなた達の言葉で今は娘もありのままで良いと思うておる。我がこの様にした意味ももうないのじゃ。我が責任を持って元に戻そう」
     そう言うとアマテラス(=紫野)は暝黙する。と同時に紫野の体からまたもや金色の炎が上がる。その炎は更に輝きを増し、光の様にまぶしくなった。余りのまぶしさに京と庵は目を閉じる。そして炎が消え、二人が再び目を開けた時、紫野は元の姿に戻っていた。
    「これで…良いな」
       アマテラス(=紫野)は微笑んだ。
    「…すげぇ…」
       京は感嘆の声を上げる。
    「やはり…紫野はこの姿でないとな」
       庵も安心した表情を見せた。
    「…娘の願いだったとはいえ、申し訳ない事をした。すまぬの」
    「もういいさ、結局元に戻ったんだし。なぁ、庵」
    「ああ」
     アマテラスの言葉に、京と庵は笑って答える。アマテラスは思い出した様に続けた。
    「…おうそうじゃ、今度は我の能力を使うた故、娘の身体に負担がかかる。一日は寝込むやもしれぬぞ」
    「そうか、分かった」
    「一日位はしょーがねーな」
    「ところで…僕達やアマテラス様の事をお二人に話してしまいましたけど…どう致しましょう」
     蘇芳の言葉にアマテラスは少し考えると京と庵に問い掛ける。
    「そうであったな…我らの記憶は消す方が良いのであろうが…そなた達はどうしたいかの」
       アマテラスの問いに京と庵は考える素振りを見せ、暫くして京が口を開いた。
    「…仮に今のことをそのまま紫野ちゃんに話したとしたら、あんたの存在を自覚できない事で悩むと思うな、俺」
     庵も京に続けて口を開く。
    「俺もそう思う。俺は紫野の悩む姿は見たくない。…しかし、存在が分かれば身体の負担が減るかもしれない事を考えると、記憶を消されるのも一概にいいとは言えんし…」
    「ふむ…難しい所じゃな」
     アマテラスも二人の言葉に同意する。二人はまた考え込み、暫く沈黙が続く。と、京が何かを思い付いた様に声を上げる。
    「…そうだ!」
    「どうした」
     庵が尋ねると、京は続けた。
    「今思い付いたんだけどよ…いっそのこと『夢』って形で覚えておく事はできねぇかな」
    「無論出来るが…何故じゃ?」
     アマテラスの問いに京は続けた。
    「夢なら話しても紫野ちゃんが悩む事はねぇし、紫野ちゃんがあんたの存在に気付くきっかけになるかもしれねぇと思ってさ」
    「ほう、それはいい考えだ。…何故それだけの頭が学業に生きんのかな、貴様は」
    「うるせー、余計なお世話だ」
    「これこれ、内輪もめはやめぬか…八神庵、そなたはそれで良いか」
     アマテラスの問いに、庵もうなずく。
    「ああ、こいつにしてはいい考えだと思うし、俺もそれでいい」
    「『こいつにしては』は余計だよ」
    「内輪もめはやめぬかと言うに…しかしそれならば、我らの事は夢として記憶にとどめておくことにするかの。…では、ゆくぞ」
     そう言うとアマテラス(=紫野)はもう一度瞑黙する。同時に紫野・千草・蘇芳の体から金色の炎が上がり、まただんだん光の様にまぶしくなる。京と庵が目をつぶると同時に、二人の意識が遠のいていく。
    「…我らの事は全て夢じゃ…しかし記憶には鮮やかにとどまるであろう…」
     遠のいていく意識の中で二人の耳に言葉が響き、二人は意識を失った―
    
    「…ん?…うーん…」
     京は大きく伸びをした。もう朝になっている。ふと周りを見回すと自分は布団ではなく畳の上でザコ寝していて、隣には同様の様子で庵が転がっていた。しかも自分達がいるのは庵の部屋ではなく紫野の部屋だったのだ。
    「げっ…何で俺達ここにいるんだ?…あっ!」
     良く見ると、布団で寝息をたてている紫野の姿が元に戻っている。京は庵を叩き起こした。
    「…おい、庵、起きろよ!」
    「…なんだ、もう朝か」
    「のんきな事言ってんじゃねぇよ!なんか知らねぇけど、紫野ちゃんが元に戻ってるんだ!」
    「何?」
     庵は飛び起きると、傍らで寝息をたてている紫野を見つめる。
    「…本当だな、良かった…しかし、何故俺達が紫野の部屋にいるんだ」
    「さぁ?…酔っ払ったかな…そういや、なんっか変な夢を見たんだよな」
    「俺もだ。この猫が人間になったり、紫野がアマテラスとかいう存在だったり…」
    「えっ、お前もか?俺もそんな夢だったぜ」
    「ふむ…二人で同じ夢を見るとはな…偶然もあるものだ」
     二人で話し込んでいると、紫野が目を覚まして起き上がった。
    「…あ…兄様、京兄様、おはようございます」
    「ああ」
    「おはよう、紫野ちゃん」
    「…心配して付いていて下さったのですか?…申し訳ありません」
     紫野の言葉に二人は実際は何故自分達がここにいるのか分からないので慌てる。
    「えっ?…あ、まあな…それより紫野ちゃん、よく自分を見てみな」
    「はい?」
     京に言われて紫野は自分の姿を見る。途端に顔がほころんだ。
    「元に…戻っておりますわ…!」
    「良かったな、紫野」
     庵が紫野の頭を撫でる。と、紫野が庵に倒れかかった。
    「どうした!?紫野」
    「申し訳ありません…少し眩暈がして…」
    「そりゃいけねぇや。すぐ叔母さんを呼んでくるから、紫野ちゃんは寝てろよ。な?」
    「…はい…では失礼して…」
     そう言うと紫野は布団に横になる。京と庵は立ち上がって部屋を出て行くと桐子と薫を呼んで来た。
    「…な?自然に元に戻ったろ?」
    「父さん…それは結果論です」
     相変わらずお気楽な薫に庵がさりげなくきつい一言を言う。
    「庵、親子喧嘩は後にしなさい。今は紫野の様子を見なくてはね…まあ、熱があるわ。紫野、薬を飲んでとりあえず今日は寝ていらっしゃい」
    「紫野も色々あって疲れたんだろう。…しかし元に戻って良かった…いや、もう少し小さいままでいても良かったかな?」
    「父さん!またそんな呑気な事を…!」
    「まあまあ二人とも、紫野ちゃんは熱があるんだから横で騒いだら悪いぜ」
     珍しくもっともな事を言う京に、庵は思わず言葉を失う。
    「う…まあ、そうだな。すまん、紫野」
    「いいえ、かまいませんわ。むしろ、家族が久し振りに一緒なのだと思えて嬉しいです」
     紫野は微笑んで答えた。
    「では、薬を持って来ますから…紫野、おとなしく寝ていらっしゃい」
    「私も店の準備があるから…悪いが庵、京君、紫野を見ててくれ」
    「ああ」
    「分かりました、叔父さん」
     二人はそう言うと出て行った。後には三人が残される。
    「大丈夫か?紫野」
    「はい、大丈夫です。申し訳ありません、ご迷惑をお掛けして…」
    「いいんだよ、紫野ちゃんは気を遣わなくて。そうやって気を遣い過ぎるから具合が悪くなるのかもしれねぇぜ」
    「はい…」
     暫く沈黙が続いた後、紫野が口を開く。
    「そういえば…私、また夢を見ましたの」
     その言葉に二人は驚いて顔を見合わせた。
    「えっ…?」
    「どういう夢だ?」
     二人の問いに紫野は熱で潤んだ目で二人を見詰めると微笑んで答える。
    「…アマテラスと名乗る女性が私の事を呼ぶのです…『早く気が付け、お前の中に自分はいるのだ、気が付けば自分はお前に力が貸せる』…と。随分と都合の良い夢ですわね」
     紫野の話に二人は自分達が見た『夢』を考えて、呆然となる。
    「…紫野ちゃん、それ結構正夢かも知れねぇぜ」
    「まさか…どうしてそう申せますの」
     京の言葉に紫野はくすりと笑う。京は複雑な表情で続けた。
    「…いや、俺達も見たんだ、変な夢」
    「まあ、どの様な夢ですの」
    「紫野ちゃんの飼ってる猫が人間になってるんだ。で、その猫は紫野ちゃんがアマテラスだって言うんだ。それに、紫野ちゃんからアマテラスが実際出てくるし…」
    「まあ…」
    「俺も全く同じ夢を見ている。これはもしかしたら何か意味があるかも知れんな」
    「…でも、それは夢でしょう?実際はそうは参りませんもの。きっと偶然ですわ」
     紫野は複雑な表情をしている二人に寂しそうに言った。二人は少し考えていたが、その内に京が明るく口を開く。
    「紫野ちゃんの言う通り偶然かもしれねぇけど、でもやっぱり俺はこの夢に意味があると思うな。庵はどうだ?」
    「俺も偶然とは思えんな。全員アマテラスに関連しているという所が偶然にしてはおかしい」
     庵も京の意見に同意した。
    「もしかすると、本当に紫野ちゃんがアマテラスかもしれねぇな。そうでなくても、意外に紫野ちゃんがオロチに対する最終兵器だったりとかさ」
     冗談めかして言う京に紫野は微笑んで応える。
    「本当にそうならば嬉しいですわ。…やっと皆様のお役に立てるのですから…」
    「…まあ、今日は深く考えず寝ろ。その話はまた後にしよう」
    「はい」
     そんな三人の様子をいつの間に部屋に入ってきたのか二匹の猫が楽しそうに見詰めていた。真実を知るのはこの二匹のみ。
      
      
――そして、真実は全て夢の中に――