八月半ばの日曜日の夕刻、若菜は武蔵坊の工房で時を過ごしていた。武蔵坊からある『依頼』を受けていて、週末の休みと夏休みを合わせて長めの休暇が取れたのでその間義経と共に過ごすついでに足を延ばして義経の両親にも会いに行きがてらその『依頼』を済ませてしまおうと、渋る義経を宥めて土曜日から月曜日の午前中までとの約束で渋民に足を運んだのである。そうして土曜日は相変わらず義経の両親の大歓迎を受けながら料理の手ほどきを受け時を過ごし、日曜日の今日、午後から連絡を取って工房に足を運び、若菜は彩子のいれてくれたお茶を飲んで一息ついた後、『依頼』であった小田原鋳物の風鈴と領収書を武蔵坊に渡した。
「…はい、これが頼まれていた風鈴です。言われた通り造りと音色が違うものは大方買ってきました。まず…これが御殿風鈴、いわゆる武蔵坊さんが一番気になっていた砂張風鈴ですね。それからこの三つは真鍮風鈴で…これが鈴虫…これは松虫、少し鈴虫より音が高いです…それから一番スタンダードな釣鐘型の風鈴を…これで三連の物もあったんですが一応独立していた方がいいと思ってそれぞれ一つづつの物を買ってきました。それから形が珍しい小田原提灯を模った風鈴が砂張と真鍮両方あったので一緒に。…で、これが領収書です。確認お願いします」
「ありがとう…確かに。じゃあ代金を払いましょう。経費として落ちるかは分からないが、焼き物の参考になるとも思ったし、そうでなくてもこの風鈴は欲しくてね。足を運ぶ手間が省けました。助かった」
「いえ、私も地元の工芸品を喜んでもらえるのが嬉しいですから…ああ、ありがとうございます。確かに代金受け取りました…それから武蔵坊さん」
「何ですか?」
 問い返す武蔵坊に若菜は彼に渡したものと同じ包みを差し出して言葉を重ねる。
「これ…同じものを道場に買って来たんです。武蔵坊さんから総師様にお渡しして下さい」
「何だ、神保さん。あなたから総師にお渡しすればいいのに。総師もその方が喜びますよ。道場には僕が同道しますから」
「いえ、何らかの前置きがないのに女の私が道場に行く事はできませんから。お願いします」
 若菜の融通が利かないと言われそうな位生真面目な言葉に武蔵坊は微笑むと、頷いて包みを受け取った。
「…そういう事なら、そうしましょう。総師には僕からよい様に言っておきます」
「お願いします。…そうだ、彩子さん」
「何ですか?」
 工房で甲斐甲斐しく働いている彩子を若菜はにっこり笑って呼び寄せると、小さな包みを渡し『どうぞ、開けてみて』と声をかける。言われるままに彩子が包みを開けると、そこには小さな風鈴に箱根細工の短冊がついたストラップが入っていた。驚いて目を丸くする彩子に、若菜はにっこり微笑んで言葉を紡ぐ。
「お土産にいいかしらって。それも小さいけれど砂張風鈴なのよ。ただ使うにはうるさいかもしれないから、実用性はどうかしらとも思うけど」
 そう言って苦笑いする若菜に彩子はチリン、とストラップを鳴らして嬉しそうに笑うと言葉を返した。
「いえ、ありがとうございます。大きめのバッグにつければ音も丁度良くなるかも」
「そうかしら」
「とりあえず色々試してみます」
「そう」
 そう言って一同は笑う。そうして武蔵坊は買って来た風鈴の中から音色を確かめやはりこれが一番と御殿風鈴を選び軒先に吊り下げる。涼やかな風が吹く度、チリィンと言うよりむしろ仏具のおりんに近いリィィンという柔らかな音色を奏でる風鈴の音を聞きながら若菜達は話し、彩子が色々と話を聞きたいからと夕食まで出してくれて御馳走になり色々話を続けていたが、不意にその会話が途切れ、風鈴の音が響く。

――リィィン――

 その風鈴の音色を聞きながら、武蔵坊がぽつりと口を開く。
「…何とも、柔らかいですが…少し、寂しい音ですね」
「…そうですか?私はこの音に馴染んでしまっているのか、とても優しく聞こえるのですが」
「多分…僕が余計な『知識』を持ってしまっているからでしょうね」
「『余計な知識』?」
「何なの武蔵坊さんそれ?」

――リィィン――

 風鈴の音を背にしながら、武蔵坊はぽつり、ぽつりと言葉を零していく。
「神保さんは市役所勤務で芝居をしているから、もしかしたら知っているかもしれませんが…この御殿風鈴が黒澤明の『赤ひげ』に使われたという事は…?」
「はい、詳しくはないですが知っています。確かほおずき市のシーンで…設定の時代には合わないのにあえて風鈴を使った、しかも黒澤監督は『日本一の風鈴を持ってこい』と言ってこの砂張の御殿風鈴が選ばれて100個以上納品されたと…」
「じゃあそのシーンであえて風鈴を使った意味は…知っていますか?」
「ああ、街に確か貼ってあったのは覚えていますが…勉強不足で良くは知りません。それが理由なんですか?」
「ええ、というのも…」

――リィィィ.........ィン――

「…とても優しい音色だな。いい音色の中話もたけなわの様だが、もう夜遅いぞ。帰らないと」
 不意に大きく風鈴が鳴り響いたと同時に工房の扉が開き、中に声が掛けられた。そこに立っていた声の主は――
「光さん、どうしたの…?試合は…!?」
「今日はデーゲームだったろう。…明日はオフだし試合も早く終わったし、時間を見て何とか間に合うと分かったからその足でそのままこっちへ来たんだ。…あなたを迎えに来たくて」
「光さん…」
「ちなみに…ちゃんと勝った。結果も残した。だから…あなたは何の心配もいらない」
「…」
 若菜は驚きと嬉しさのあまり何も言えずに、それでも嬉しさからくる涙を目の奥に飲み込んでいる様子で義経を見詰めている。義経はそうした彼女の様子を見てまた優しく微笑むと、勝手知ったる他人の家とばかりに上り込み、若菜の手を取り連れ出して、そのまま武蔵坊に暇乞いの言葉を掛けた。
「じゃあ武蔵坊…唐突で悪いが、もう遅いから若菜さんは連れ帰らせてもらう。彩子さん、おじいさん、お邪魔しました」
「あ、ああ…暗いから気を付けて帰るんじゃぞ」
「またね、神保さん」
「ええ…またお邪魔します」
「…」
 武蔵坊は無言のまま暗い道を歩いていく二人を戸口で見送る。

――リィィィ.........ィン――

 寄り添う二人の影が消える刹那風鈴が大きくまた鳴り響くとともに、武蔵坊の目に二人の姿に山伏装束の男と和服に長い黒髪の女、それから学生服に学帽の青年と海老茶式部の少女の影がまるで幻の様にふっと重なっては消えて行く。その幻が見えた時、武蔵坊は二人にとってこの風鈴の音は映画とは真逆の意味を持っているのだと気づいた。映画『赤ひげ』での風鈴の役割。それは愛し合っていたのに別れざるを得なかったところから再会した男と女の間を過ぎ去った時への挽歌。つまり別れている間に過ぎ去った時は重なる事もないし戻す事もできない、そして二人は結ばれる事なく再び別れてから過ごしてきた二人のそれぞれの道――すなわち女は再婚した夫とその夫との間に授かった子供との日々、そして男は病んだ肺を抱えた死出の旅へと――別れ行くしかないという哀しみを表す音色だったのだ。しかし、この二人は違う。この二人も一度出会い別れ、再会した身だ。しかし彼らは再び別れる事なく結び合い、その過ぎ去った日々を受け入れ、違う形ではあるが取り戻し、少しづつ埋めているのだ。そんな二人にはこの挽歌の風鈴の音さえ優しく響くのだろう。そして武蔵坊はもう一つ分かった。彼らが出会って恋に落ちたのは運命――いや、言い過ぎかもしれないが輪廻の中の必然で、前の生でもそうして恋をして、次の生があるならまたそうして恋に落ちるのだろうと。そしてそれがどれほど苦しい想いでも、二人はその想いをどの生でも貫き通してきたのだろうし、これからも別の生があれば、躊躇わずそうするのだろうと――挽歌であると同時に祝福の音でもあった風鈴の音を耳にしながら、武蔵坊は静かに戸を閉めた。

――リィィ...............ィィィン――