「いらっしゃい、葉月、将君」
「やっほ~お姉ちゃん、隆兄。おめでとうね」
「おめでとうございます。文乃さん、隆さん」
「いやあ、ありがとう…挨拶はいいからとにかく上がって」
12月も半ばのある昼下がり、土井垣と葉月は、葉月の姉である文乃が9月に女の子を出産したので、遅ればせながら出産祝いの挨拶がてら、彼女と彼女の夫である隆、そして新しく生まれた赤ん坊の住むマンションへ遊びに来たのだ。文乃と隆は二人の祝いの言葉に照れ臭そうに、しかし心底幸せそうに言葉を返すと二人を部屋へ招き入れる。二人が部屋へ入ると、2LDKの一室が子供用に改造され、そこに布団に寝かされた赤ん坊が何やら動きながら様々な表情を見せていた。それを見て二人は微笑ましそうに顔を見合わせると、子供部屋に隣接された部屋に落ち着く。落ち着いた所で文乃が隆に声を掛けた。
「じゃあ隆君、悪いけどお茶用意してくれない?あたしは美月を見てるから」
「ああ、分かったよ。…じゃあ葉月ちゃんも将さんもゆっくりしてね。それから美月の可愛い顔もよ~く見て行ってよ」
「うん」
「はい」
そう言うと隆はキッチンへ消えていった。それを見送ると、葉月が呆れた様に口を開く。
「ホント隆兄親馬鹿だね~。まあ、うちのお父さん達も初孫誕生で大喜びだけどさ。それに、柊兄も大喜びなんでしょ?」
葉月の言葉に、文乃も苦笑して応える。
「そう。皆美月にメロメロよ~あたしがやきもち妬いちゃう位。柊もね、お祝い大量にくれただけじゃなくって『何かあったら俺に任せろ』って自分が父親になったみたいよ」
姉妹の忌憚無い会話に、土井垣も忌憚無い感想を述べる。
「でも、子供は可愛いものですし、自分の子や自分に関わる子なら尚更でしょう?文乃さんだって可愛くって仕方ないんじゃないですか?」
「え?…まあ、そうだけどね…」
土井垣の言葉に狼狽した様な様子を見せる文乃を見て、土井垣と葉月は微笑ましそうに顔を見合わせる。その様子にばつが悪くなったのか、文乃は話題を変える。
「あ…そうそう、あんた達、出産祝いありがとうね。でも授乳クッションとパンダのモビールなんて良く考え付いたものよね」
「ああ、俺は全然分からなかったんです。葉月が全部情報集めてきてくれて…」
「あたしも全然分かんなかったから、出産した友達とか、小児科やってるヒナに相談して色々教えてもらったの。でも良かった、喜んでもらえたみたいで。持つべきものは友達よね」
「でも授乳クッションはともかく、パンダのモビールって何か意味あるの?」
文乃の問いに、葉月は説明する様に応える。
「うん。ヒナに聞いたら、赤ん坊は黒とか白に良く反応するらしくって、おんなじ釣るおもちゃでも音出して回す奴だと今の住宅事情じゃ迷惑かもって勧めてくれたんだ。で、現物見たらパンダ可愛かったし」
「…つまり、弥生ちゃんの情報もあるけどあんたの趣味も入ってるんだ」
「…えへ」
ばつの悪そうな表情を見せる葉月に、文乃は呆れた様なからかう様な口調で言葉を掛ける。
「…全く、あんた達も他人の世話を考えてばっかりじゃなく、早く結婚して自分の子供産みなさい。いくら将君がチームの基盤をしっかりさせるまで結婚延期してるからって言っても、あんた達がいつ結婚するのかってうちの親も将君の家族もやきもきしてるじゃない」
「えっと…うん…」
「あ…はあ…」
文乃の言葉に二人は赤面して言葉を失う。その様子を見ていた文乃はふっと呆れた様な表情から微笑ましげな笑みに変わると更に言葉を続ける。
「…まあ、それだけお互いの事を考えてるって証拠なんだろうけどね。おばあちゃんがあんたの花嫁姿楽しみにしてるんだから、なるべく早めにね。将君のおじいさんだって同じ様なものでしょう?」
「あ…ええ…」
「まあ楽しみにしてるわ…っと、美月が泣き出したわ。あれだとミルクね。隆く~ん、冷凍した母乳出しておいて」
そう言うと文乃もキッチンへ去って行った。取り残された二人は何となく見つめあうと、照れ臭くなり目を逸らす。そうして居心地が悪い沈黙が続いていると、不意にそれを破るかの様に隆がお茶を持って部屋に戻って来て、二人に声を掛けた。
「ごめんね二人とも、ゴタゴタしちゃって。でもゆっくりお茶でも飲んでてよ…ほ~ら美月~、もうすぐお母さんがおっぱいを持ってくるから待っててね~」
隆はお茶を置くと寝かせていた赤ん坊を抱いて、あやしながら二人の所へ戻って来て二人に赤ん坊を見せながら更に赤ん坊へ声を掛けていく。
「ほ~ら美月、葉月お姉ちゃんと将お兄ちゃんだよ~優しそうなお兄ちゃんとお姉ちゃんだね~?」
そう言うと、赤ん坊は不意に泣き止み、笑った様な顔を見せる。それを見た葉月もあやす様な優しい口調で声を掛ける。
「あ~美月ちゃん、いいお顔ですね~。もうすぐお母さん来るからね~待ってようね~」
その言葉にまた赤ん坊は更に笑った様な表情を見せた。その様子に土井垣は感心しながら口を開く。
「葉月…いつも思うが、お前は子供をあやすのがうまいな」
土井垣の言葉に、葉月は恥ずかしそうに言葉を返す。
「ああ、うん…あたし、仕事で小児科手伝うこともあるし…それに高校の頃から部活でこういう事やってたから何となくはできるの」
葉月の言葉に、隆がふと思い出した様に口を開く。
「ああそうか、葉月ちゃんも演研だったっけ。そこでは児童班してたんだ」
「うん、そう」
「『えんけん』…?」
不可解な言葉が出てきたので思わず土井垣が問い掛ける。土井垣の問い掛けに、隆が説明する様に答える。
「ああ、将さんは知らなかったか。『演研』って言うのは『演芸研究会』の略でね。俺達の通ってた高校にあった部活なんだ。演劇部と違って人形劇から落語まで芸事なら何でもやって、それを使って部員で班を作って老人ホームとか保育園に慰問に行ったりってパワフルな活動をしてる事で有名でね。学校の名物でもあったね。その分芸の完成度には厳しいとこもあったらしいから、下手な運動部よりハードらしいけど」
「そうですか…で、葉月もその部に…?」
「うん。お姉ちゃんに学祭に連れて行ってもらってそこの公演見て一目惚れしてね。『絶対入るんだ!』って小学校の頃から決めて、勉強頑張って高校入って入部したの。で、あたしは児童班に入ってたんです」
「じゃあ隆さんが言ってた『葉月ちゃん『も』』って言うのは…?」
「ああ、柊司さんも演研だったんだよ。良くそれで俺や葉月ちゃん相手に練習してたんだ」
「でね、柊兄も児童班だったからあたしが入った時にはOBだったけど、色々教えてもらったんですよ」
「ほう…」
楽しげな葉月の口調に、土井垣は一抹の寂しさを覚える。色々葉月から話は聞いているが、こうした部活の話などはあまり聞いた事がない。自分の知らない葉月を見ている様で彼は寂しかった。それに、彼は隆や柊司に対してかすかな嫉妬も感じていた。彼らが彼女とは赤ん坊の頃からの付き合いだとは知っているのだが、それでも自分の知らない彼女を知っている二人には嫉妬を覚えてしまうのだ。そんな雰囲気をふと察したのか、隆が赤ん坊を土井垣の前に近付けて口を開く。
「ほ~ら美月、もうすぐ親戚になるんだから将おにいちゃんに挨拶しようね~」
赤ん坊は土井垣の顔を見ると、また笑顔の様な表情を見せる。その表情に土井垣は今しがた感じていた感情をふと忘れて心が和む。そうしていると文乃が哺乳瓶を持って来て隆から赤ん坊を引き取ると、赤ん坊の口に哺乳瓶を含ませる。力一杯ミルクを飲む赤ん坊を見て、土井垣は更に心が和んだ。文乃は赤ん坊に話しかけながらミルクを飲ませる。
「うん、良く飲むわね~美月。一杯飲んで大きくなるのよ~」
土井垣と葉月はその様子を微笑ましげに見ていたが、やがて葉月がふと問い掛ける。
「そういえばお姉ちゃん、『美月』って名前、やっぱり酒匂の作法に乗ったの?」
「そうよ、風雅じゃない。この子9月生まれでしょ?だから中秋の名月から『美月』。隆君もいいねって言ってくれたし」
「葉月、何だその『酒匂の作法』っていうのは」
また分からない言葉が出てきたので土井垣は問い掛ける。葉月はそれににっこり笑って答える。
「ええとですね…酒匂家…お母さんの実家なんですけど…には名付けにちょっとした決まり事があるんです。男の子は自由なんですけど、女の子は生まれた時の季節を織り込むっていうのが慣例になってて。だから春生まれのおばあちゃんは春日ですし、冬生まれのお母さんはちょっと凝った六花子って名前で。あたし達は生まれ月が名前にもいいからってそのままもじって付けたんです。…あたしだけは例外なんですけどね」
最後の寂しそうな葉月の言葉に、土井垣は彼女を慰めたくなる。何か言葉を掛けようとした時、文乃が呆れた様に口を開いた。
「何拗ねてんの。あんたの名前付けた時には親族会議開いたのよ」
「え?そうなの?」
文乃の言葉に葉月は驚いた様子を見せる。彼女は親族会議の話は初耳だった様だ。文乃は説明する様に続ける。
「あたしはもう6つに近かったから良く覚えてるわ。あんた8月末が予定日だったから『葉月』で9割がた決まってたのは確かなのよ。でもあんた早産だったからね。で、七夕に生まれたし、親戚から作法にのっとって織姫から取った『織絵』って付けたらどうかって話も上がったのよ。でもね、お父さんとお母さんが『その名前も素敵ですが、予定日通り生まれた様に丈夫に育って欲しいという願いを込めたいので例外でそのままにして下さい』って頼んだのよ。で、色々話し合って最終的に龍太郎おじいちゃんと達吉おじいちゃんが、『そんな願いがあるならそのままにした方がいいんじゃないか』って推してくれてね。それで親戚も納得して、晴れて葉月で落ち着いたって訳…そういう意味じゃ、あんたの名付けの由来って結構ドラマティックなのよ」
「そうだったんだ…」
幸せそうに顔を赤らめる葉月に、土井垣はある種の嬉しさを感じて彼女を労わる様に背中を叩くと口を開く。
「良かったな…お前は本当に幸せ者なんだな」
「…ん」
二人の様子を微笑ましそうに眺めていた文乃と隆は、赤ん坊に顔を移し、口々に言葉を掛ける。
「美月の従兄弟にはどんな名前が付くんだろうな~」
「ね~美月も早く従兄弟が欲しいよね~」
「…」
二人の言葉に、土井垣と葉月は顔を真っ赤にして絶句する。それを見た二人は微笑ましそうに笑うと、文乃が提案する様に口を開いた。
「ねえ、折角こんな話になったんだし、小さい時の話をお互いしない?」
「そうだね。俺も将さんの小さい時の事良く知らないから聞いてみたいな」
「あ…はあ、そうですか…」
「あたしも、将さんの小さい時の話聞きたいな~」
「そうか…じゃあ、俺から話すか」
そうして四人は赤ん坊をあやしながらそれぞれの小さい頃の話に移っていった。そうして時を過ごし、夕刻になり、土井垣と葉月は文乃一家の部屋を辞す。その後二人は葉月のマンションへ行って二人で夕食を作り食べた後、彼女のいれてくれたお茶を飲んでいた。
「美月ちゃん可愛かったし、お姉ちゃん達も幸せそうで良かったですね」
「…ああ」
「『息抜きしたいからいつでもいらっしゃい』って言ってたから、またお世話しがてら遊びに行きましょうね」
「…ああ、そうだな」
「…どうしたんですか?何だかボーっとしてますよ」
葉月が話しかけても土井垣は気のない返事を返すばかり。不思議に思った彼女が彼を覗き込むと、不意に彼は彼女の腕を引き寄せ、きつく抱き締めた。
「え?将さん、どうしたんですか?」
訳が分からず抱き締められるままになっている葉月に、土井垣は呟く様な口調で囁く。
「俺は…お前の事をまだ全然知らないんだな…」
「将さん…?」
「お前の高校の話や小さい頃の話を聞いていて、俺は隆さんや御館さんに嫉妬した。…もちろん、二人がお前とは赤ん坊の頃からの幼馴染だと頭では分かっているんだが、それでも俺の知らないお前を二人はたくさん知っているのが悔しいんだ…」
「…」
「俺は、もっとお前の事を知りたいんだ。…もっと…誰よりも」
葉月は土井垣の言葉に、しばらく抱き締められるままになっていたが、やがて身体を離し、ふわりとした笑顔を見せると口を開いた。
「だったら…今日一つ知ったじゃないですか。…あたしがもしかしたら『葉月』じゃなくって『織絵』って将さんに呼ばれてたかもしれないって事と、それでも葉月に落ち着いた理由を」
「そうか…そうだな」
「それに、あたしだって将さんの事知らない事で一杯なんですよ。あたしだって、将さんの事もっと知りたいのよ…あたしだって…誰よりも」
「葉月」
「だから…たくさん将さんの事教えて下さいね、まずは名前の由来からでも。あたしも教えますから…あたしの事をたくさん」
「…ああ」
二人はにっこりと微笑み合う。と、不意に葉月が悪戯っぽい表情になって口を開く。
「でもね、あたしは将さんにしか見せてないものもあるんですよ」
そう言うと葉月は悪戯っぽい表情から挑発的な笑みに変わって土井垣にキスをする。突然のキスに驚いて固まる土井垣に彼女は挑発的な笑みのまま彼の胸に身体を預けた。彼女の行動に、土井垣はしばらく驚いた表情を見せていたが、やがて満足そうにふっと笑うと彼女をまたきつく抱き締める。
「そうだな…これは俺にしか見せない表情だ」
「…ね?」
土井垣は彼女にキスを返すと、その耳元に囁く。
「…そうだ、子供の事だが…俺が待たせるから悪いんだが、俺達も子供を持つ幸せを早く持ちたいものだな」
「…そうね」
「その時には、どんな名前をつけようか」
「それは…その時のお楽しみにしましょ。でも、早くしてね。あんまり待たせるとあたし、待ちくたびれちゃうかもよ」
「そうか…それは困るな」
「でしょ?」
二人は意味ありげに微笑み合うと、更に深いキスを交わした。
「やっほ~お姉ちゃん、隆兄。おめでとうね」
「おめでとうございます。文乃さん、隆さん」
「いやあ、ありがとう…挨拶はいいからとにかく上がって」
12月も半ばのある昼下がり、土井垣と葉月は、葉月の姉である文乃が9月に女の子を出産したので、遅ればせながら出産祝いの挨拶がてら、彼女と彼女の夫である隆、そして新しく生まれた赤ん坊の住むマンションへ遊びに来たのだ。文乃と隆は二人の祝いの言葉に照れ臭そうに、しかし心底幸せそうに言葉を返すと二人を部屋へ招き入れる。二人が部屋へ入ると、2LDKの一室が子供用に改造され、そこに布団に寝かされた赤ん坊が何やら動きながら様々な表情を見せていた。それを見て二人は微笑ましそうに顔を見合わせると、子供部屋に隣接された部屋に落ち着く。落ち着いた所で文乃が隆に声を掛けた。
「じゃあ隆君、悪いけどお茶用意してくれない?あたしは美月を見てるから」
「ああ、分かったよ。…じゃあ葉月ちゃんも将さんもゆっくりしてね。それから美月の可愛い顔もよ~く見て行ってよ」
「うん」
「はい」
そう言うと隆はキッチンへ消えていった。それを見送ると、葉月が呆れた様に口を開く。
「ホント隆兄親馬鹿だね~。まあ、うちのお父さん達も初孫誕生で大喜びだけどさ。それに、柊兄も大喜びなんでしょ?」
葉月の言葉に、文乃も苦笑して応える。
「そう。皆美月にメロメロよ~あたしがやきもち妬いちゃう位。柊もね、お祝い大量にくれただけじゃなくって『何かあったら俺に任せろ』って自分が父親になったみたいよ」
姉妹の忌憚無い会話に、土井垣も忌憚無い感想を述べる。
「でも、子供は可愛いものですし、自分の子や自分に関わる子なら尚更でしょう?文乃さんだって可愛くって仕方ないんじゃないですか?」
「え?…まあ、そうだけどね…」
土井垣の言葉に狼狽した様な様子を見せる文乃を見て、土井垣と葉月は微笑ましそうに顔を見合わせる。その様子にばつが悪くなったのか、文乃は話題を変える。
「あ…そうそう、あんた達、出産祝いありがとうね。でも授乳クッションとパンダのモビールなんて良く考え付いたものよね」
「ああ、俺は全然分からなかったんです。葉月が全部情報集めてきてくれて…」
「あたしも全然分かんなかったから、出産した友達とか、小児科やってるヒナに相談して色々教えてもらったの。でも良かった、喜んでもらえたみたいで。持つべきものは友達よね」
「でも授乳クッションはともかく、パンダのモビールって何か意味あるの?」
文乃の問いに、葉月は説明する様に応える。
「うん。ヒナに聞いたら、赤ん坊は黒とか白に良く反応するらしくって、おんなじ釣るおもちゃでも音出して回す奴だと今の住宅事情じゃ迷惑かもって勧めてくれたんだ。で、現物見たらパンダ可愛かったし」
「…つまり、弥生ちゃんの情報もあるけどあんたの趣味も入ってるんだ」
「…えへ」
ばつの悪そうな表情を見せる葉月に、文乃は呆れた様なからかう様な口調で言葉を掛ける。
「…全く、あんた達も他人の世話を考えてばっかりじゃなく、早く結婚して自分の子供産みなさい。いくら将君がチームの基盤をしっかりさせるまで結婚延期してるからって言っても、あんた達がいつ結婚するのかってうちの親も将君の家族もやきもきしてるじゃない」
「えっと…うん…」
「あ…はあ…」
文乃の言葉に二人は赤面して言葉を失う。その様子を見ていた文乃はふっと呆れた様な表情から微笑ましげな笑みに変わると更に言葉を続ける。
「…まあ、それだけお互いの事を考えてるって証拠なんだろうけどね。おばあちゃんがあんたの花嫁姿楽しみにしてるんだから、なるべく早めにね。将君のおじいさんだって同じ様なものでしょう?」
「あ…ええ…」
「まあ楽しみにしてるわ…っと、美月が泣き出したわ。あれだとミルクね。隆く~ん、冷凍した母乳出しておいて」
そう言うと文乃もキッチンへ去って行った。取り残された二人は何となく見つめあうと、照れ臭くなり目を逸らす。そうして居心地が悪い沈黙が続いていると、不意にそれを破るかの様に隆がお茶を持って部屋に戻って来て、二人に声を掛けた。
「ごめんね二人とも、ゴタゴタしちゃって。でもゆっくりお茶でも飲んでてよ…ほ~ら美月~、もうすぐお母さんがおっぱいを持ってくるから待っててね~」
隆はお茶を置くと寝かせていた赤ん坊を抱いて、あやしながら二人の所へ戻って来て二人に赤ん坊を見せながら更に赤ん坊へ声を掛けていく。
「ほ~ら美月、葉月お姉ちゃんと将お兄ちゃんだよ~優しそうなお兄ちゃんとお姉ちゃんだね~?」
そう言うと、赤ん坊は不意に泣き止み、笑った様な顔を見せる。それを見た葉月もあやす様な優しい口調で声を掛ける。
「あ~美月ちゃん、いいお顔ですね~。もうすぐお母さん来るからね~待ってようね~」
その言葉にまた赤ん坊は更に笑った様な表情を見せた。その様子に土井垣は感心しながら口を開く。
「葉月…いつも思うが、お前は子供をあやすのがうまいな」
土井垣の言葉に、葉月は恥ずかしそうに言葉を返す。
「ああ、うん…あたし、仕事で小児科手伝うこともあるし…それに高校の頃から部活でこういう事やってたから何となくはできるの」
葉月の言葉に、隆がふと思い出した様に口を開く。
「ああそうか、葉月ちゃんも演研だったっけ。そこでは児童班してたんだ」
「うん、そう」
「『えんけん』…?」
不可解な言葉が出てきたので思わず土井垣が問い掛ける。土井垣の問い掛けに、隆が説明する様に答える。
「ああ、将さんは知らなかったか。『演研』って言うのは『演芸研究会』の略でね。俺達の通ってた高校にあった部活なんだ。演劇部と違って人形劇から落語まで芸事なら何でもやって、それを使って部員で班を作って老人ホームとか保育園に慰問に行ったりってパワフルな活動をしてる事で有名でね。学校の名物でもあったね。その分芸の完成度には厳しいとこもあったらしいから、下手な運動部よりハードらしいけど」
「そうですか…で、葉月もその部に…?」
「うん。お姉ちゃんに学祭に連れて行ってもらってそこの公演見て一目惚れしてね。『絶対入るんだ!』って小学校の頃から決めて、勉強頑張って高校入って入部したの。で、あたしは児童班に入ってたんです」
「じゃあ隆さんが言ってた『葉月ちゃん『も』』って言うのは…?」
「ああ、柊司さんも演研だったんだよ。良くそれで俺や葉月ちゃん相手に練習してたんだ」
「でね、柊兄も児童班だったからあたしが入った時にはOBだったけど、色々教えてもらったんですよ」
「ほう…」
楽しげな葉月の口調に、土井垣は一抹の寂しさを覚える。色々葉月から話は聞いているが、こうした部活の話などはあまり聞いた事がない。自分の知らない葉月を見ている様で彼は寂しかった。それに、彼は隆や柊司に対してかすかな嫉妬も感じていた。彼らが彼女とは赤ん坊の頃からの付き合いだとは知っているのだが、それでも自分の知らない彼女を知っている二人には嫉妬を覚えてしまうのだ。そんな雰囲気をふと察したのか、隆が赤ん坊を土井垣の前に近付けて口を開く。
「ほ~ら美月、もうすぐ親戚になるんだから将おにいちゃんに挨拶しようね~」
赤ん坊は土井垣の顔を見ると、また笑顔の様な表情を見せる。その表情に土井垣は今しがた感じていた感情をふと忘れて心が和む。そうしていると文乃が哺乳瓶を持って来て隆から赤ん坊を引き取ると、赤ん坊の口に哺乳瓶を含ませる。力一杯ミルクを飲む赤ん坊を見て、土井垣は更に心が和んだ。文乃は赤ん坊に話しかけながらミルクを飲ませる。
「うん、良く飲むわね~美月。一杯飲んで大きくなるのよ~」
土井垣と葉月はその様子を微笑ましげに見ていたが、やがて葉月がふと問い掛ける。
「そういえばお姉ちゃん、『美月』って名前、やっぱり酒匂の作法に乗ったの?」
「そうよ、風雅じゃない。この子9月生まれでしょ?だから中秋の名月から『美月』。隆君もいいねって言ってくれたし」
「葉月、何だその『酒匂の作法』っていうのは」
また分からない言葉が出てきたので土井垣は問い掛ける。葉月はそれににっこり笑って答える。
「ええとですね…酒匂家…お母さんの実家なんですけど…には名付けにちょっとした決まり事があるんです。男の子は自由なんですけど、女の子は生まれた時の季節を織り込むっていうのが慣例になってて。だから春生まれのおばあちゃんは春日ですし、冬生まれのお母さんはちょっと凝った六花子って名前で。あたし達は生まれ月が名前にもいいからってそのままもじって付けたんです。…あたしだけは例外なんですけどね」
最後の寂しそうな葉月の言葉に、土井垣は彼女を慰めたくなる。何か言葉を掛けようとした時、文乃が呆れた様に口を開いた。
「何拗ねてんの。あんたの名前付けた時には親族会議開いたのよ」
「え?そうなの?」
文乃の言葉に葉月は驚いた様子を見せる。彼女は親族会議の話は初耳だった様だ。文乃は説明する様に続ける。
「あたしはもう6つに近かったから良く覚えてるわ。あんた8月末が予定日だったから『葉月』で9割がた決まってたのは確かなのよ。でもあんた早産だったからね。で、七夕に生まれたし、親戚から作法にのっとって織姫から取った『織絵』って付けたらどうかって話も上がったのよ。でもね、お父さんとお母さんが『その名前も素敵ですが、予定日通り生まれた様に丈夫に育って欲しいという願いを込めたいので例外でそのままにして下さい』って頼んだのよ。で、色々話し合って最終的に龍太郎おじいちゃんと達吉おじいちゃんが、『そんな願いがあるならそのままにした方がいいんじゃないか』って推してくれてね。それで親戚も納得して、晴れて葉月で落ち着いたって訳…そういう意味じゃ、あんたの名付けの由来って結構ドラマティックなのよ」
「そうだったんだ…」
幸せそうに顔を赤らめる葉月に、土井垣はある種の嬉しさを感じて彼女を労わる様に背中を叩くと口を開く。
「良かったな…お前は本当に幸せ者なんだな」
「…ん」
二人の様子を微笑ましそうに眺めていた文乃と隆は、赤ん坊に顔を移し、口々に言葉を掛ける。
「美月の従兄弟にはどんな名前が付くんだろうな~」
「ね~美月も早く従兄弟が欲しいよね~」
「…」
二人の言葉に、土井垣と葉月は顔を真っ赤にして絶句する。それを見た二人は微笑ましそうに笑うと、文乃が提案する様に口を開いた。
「ねえ、折角こんな話になったんだし、小さい時の話をお互いしない?」
「そうだね。俺も将さんの小さい時の事良く知らないから聞いてみたいな」
「あ…はあ、そうですか…」
「あたしも、将さんの小さい時の話聞きたいな~」
「そうか…じゃあ、俺から話すか」
そうして四人は赤ん坊をあやしながらそれぞれの小さい頃の話に移っていった。そうして時を過ごし、夕刻になり、土井垣と葉月は文乃一家の部屋を辞す。その後二人は葉月のマンションへ行って二人で夕食を作り食べた後、彼女のいれてくれたお茶を飲んでいた。
「美月ちゃん可愛かったし、お姉ちゃん達も幸せそうで良かったですね」
「…ああ」
「『息抜きしたいからいつでもいらっしゃい』って言ってたから、またお世話しがてら遊びに行きましょうね」
「…ああ、そうだな」
「…どうしたんですか?何だかボーっとしてますよ」
葉月が話しかけても土井垣は気のない返事を返すばかり。不思議に思った彼女が彼を覗き込むと、不意に彼は彼女の腕を引き寄せ、きつく抱き締めた。
「え?将さん、どうしたんですか?」
訳が分からず抱き締められるままになっている葉月に、土井垣は呟く様な口調で囁く。
「俺は…お前の事をまだ全然知らないんだな…」
「将さん…?」
「お前の高校の話や小さい頃の話を聞いていて、俺は隆さんや御館さんに嫉妬した。…もちろん、二人がお前とは赤ん坊の頃からの幼馴染だと頭では分かっているんだが、それでも俺の知らないお前を二人はたくさん知っているのが悔しいんだ…」
「…」
「俺は、もっとお前の事を知りたいんだ。…もっと…誰よりも」
葉月は土井垣の言葉に、しばらく抱き締められるままになっていたが、やがて身体を離し、ふわりとした笑顔を見せると口を開いた。
「だったら…今日一つ知ったじゃないですか。…あたしがもしかしたら『葉月』じゃなくって『織絵』って将さんに呼ばれてたかもしれないって事と、それでも葉月に落ち着いた理由を」
「そうか…そうだな」
「それに、あたしだって将さんの事知らない事で一杯なんですよ。あたしだって、将さんの事もっと知りたいのよ…あたしだって…誰よりも」
「葉月」
「だから…たくさん将さんの事教えて下さいね、まずは名前の由来からでも。あたしも教えますから…あたしの事をたくさん」
「…ああ」
二人はにっこりと微笑み合う。と、不意に葉月が悪戯っぽい表情になって口を開く。
「でもね、あたしは将さんにしか見せてないものもあるんですよ」
そう言うと葉月は悪戯っぽい表情から挑発的な笑みに変わって土井垣にキスをする。突然のキスに驚いて固まる土井垣に彼女は挑発的な笑みのまま彼の胸に身体を預けた。彼女の行動に、土井垣はしばらく驚いた表情を見せていたが、やがて満足そうにふっと笑うと彼女をまたきつく抱き締める。
「そうだな…これは俺にしか見せない表情だ」
「…ね?」
土井垣は彼女にキスを返すと、その耳元に囁く。
「…そうだ、子供の事だが…俺が待たせるから悪いんだが、俺達も子供を持つ幸せを早く持ちたいものだな」
「…そうね」
「その時には、どんな名前をつけようか」
「それは…その時のお楽しみにしましょ。でも、早くしてね。あんまり待たせるとあたし、待ちくたびれちゃうかもよ」
「そうか…それは困るな」
「でしょ?」
二人は意味ありげに微笑み合うと、更に深いキスを交わした。